第4話 溺れてしまえ




 ━━━━━プルルルルル、


 コール三回以内に電話を取るのは社会人の基本。なのに、私は躊躇った。だって……ねぇ。


 ━━━━━プルル、


 二回目のコールが鳴った瞬間、隣から伸びた手が受話器を持ち上げる。


「━━━━━鳴海なるみでございますか?」


 中根なかね君がちらりと横目で私を見たけれど、すぐに視線を外して付箋に手を伸ばす。


「申し訳ございません。鳴海は体調不良でお休みをいただいておりまして。お急ぎでなければ本人から折り返させますが━━━━━」


『スコール事務 神永かみなが様 折り返し連絡』


 無言で私のデスクにペタリと張り付けられ、


「本当に申し訳ございません。━━━━━はい、ありがとうございます。失礼いたします」


 同時に電話も終了した。受話器を戻した彼と目が合った瞬間、軽く手を合わせる。


(ごめん。ありがと)

「いや、いいけど。明日は声出るの?」


 なんだか喉の調子がおかしいと思ったのは昨日の夜。うがい薬でうがいして、風邪薬も飲んで寝たのに、起きたら全身が痺れたように痛かった。


(なんとかする!)


 本当になんとかできるものなら、昨日のうちになんとかしていたけれど。決意を新たにレモンのど飴をふたつ口に入れてみせた。


「無理しないで帰って、病院行った方がいいよ。インフルエンザも流行ってるしさ」

(わかってる。これ終わったら帰るから)


 コクコク頷いただけで頭がぐわんぐわんする。本当に、早く帰ろう。

 少しボーッとした頭で、急ぎの設計書をチェックしていたのだけど、違和感を覚えて電卓を取り出した。一から計算し直してみると、やっぱり合わない。

 ……もしかして、ここのプール、測量し直したの忘れてない?

 無理して出勤した頑張りが水の泡となり、風邪のせいではない痛みに頭を抱えていると、視界の端に紙コップがコトリと置かれた。


「鳴海さん、あんまり根詰めたらダメだよ」


 さわやかな笑顔と共にコンビニのカフェラテプレミアムリッチを差し入れてくれたのは、女子社員支持率ナンバーワンの国松くにまつさん。


(あー、ありがとうございますぅぅぅ)


 不満顔をしたのに、ペコリと頭を下げたせいで見えなかったらしく、国松さんのさわやか笑顔には傷ひとつない。根詰めてるのはいったい誰のせいなのか。素敵な笑顔とコンビニコーヒーで忘れる私ではない。


「リラックス、リラックス」


 恨みを込めた笑顔は当然伝わらず、国松さんは断りもなく私の肩に触れて去っていく。


(あ、行っちゃった……)


 白い歯が撒き散らした輝きに呆然としていたら、隣から伸びた手がカフェラテをさらった。


「カフェインはやめておいた方がいいよ」


 ティッシュを一枚差し出すと、中根君は口元についたミルクの泡をぬぐう。


「国松さんの設計書でしょ? 何したの? あの人」


 中根君のクリアだけどのんびりした声に、藁をも掴む勢いですがる。


(そう!そうなの!)


 泣きそうな顔でバンバン叩いた書類をチラ見して、中根君も天を仰いだ。


「あー、それは作り直しだな。今日中には無理じゃない?」

(……行ってくる)


 レモン臭いため息を吐いて、のっそりと立ち上がったら、イスが悲しげにギシッと音を立てた。

 廊下の先をキリリと隙のない背中が行く。追いかける私の身体は今朝よりさらに重くなっていた。


「く▼*$#@!」


 呼びかけた声はカッスカスにかすれて届かない。思った以上のひどい声に自分でも動揺した。こんなのでよく仕事してたな、と思い返すと、今日は中根君としか話をしていなかったことに気づいた。


(ここのデータに抜けがあって……)


 指さしただけでうんうん、と頷く。


「わかった。確認して差し替えておく。前のデータもくれる?」


(えーっと、ホチキス、ホチキス)


 書類を留めようとしてカスカスと間抜けな音をさせただけで、隣の席から替え針の箱がスーッと滑ってくる。

 中根君はそんな感じだった。今日だけじゃない。これまで、いつも、ずっと。



「く▼*$#ーー@!」


 私の声は空気に溶けてはじけるばかり。無理に張り上げたら喉がヒリついて、ゲッホゲッホと咳が出た。

 仕方なく走って、国松さんの「もしかしてオーダー?」っていうスーツの袖に皺を作る勢いで握る。ちょっと嫌な顔をした国松さんは、私を見るとさわやかな笑顔を作り、それでもやんわり手をふりほどいた。


「鳴海さん、どうしたの?」


 空気を求めて荒い呼吸を繰り返すばかりの私を見て、国松さんは朗らかに勘違いする。


「ああ、いいんだよ、お礼なんて。大したものじゃないから」

(いえ! 違うんです! 設計書の数字が!)


 必死に首を振ると、国松さんはまたしても許可なく、私の頭にポンポンッと手をやった。


「ははは。顔、真っ赤! あ、もしかしてランチ?」

(いやいや、違います! 今はこれを!)


 と差し出した設計書にも目をくれず、国松さんは申し訳なさそうな表情を作る。


「でもごめんね。俺、婚約したからそういうの無理なんだ」


 知ってます。専務のお嬢様でしたっけ。そんなことはどうでもよくて!


(違うんです! これをーーーっ!!)

「本当にごめんね。じゃあ、また」


 私の必死の叫びも、国松さんのさわやか極まる笑顔に跳ね返されて空しく廊下に消えた。


(いやー! 待ってー! 行かないでー!!)


 心はまだ必死に追いかけているのに、身体の方はそんな元気はない。紙にでも書いてもう一度届けるしかない、とガックリ肩を落とした私の手から、設計書がスルリと引き抜かれた。


「国松さん、すみません」


 やわらかく響くクリアな声は中根君のもの。国松さんの磨き抜かれた革靴も、その声ですぐに動きを止めた。


「手違いで設計書の情報が古かったみたいで、作り直していただけないでしょうか。ここのプール、測量し直したはずなんですよね」


 中根君を見下ろす国松さんは笑顔だけど、視線はとても険しい。それでも中根君は、やわらかな態度を変えず頭を下げた。


「作り直し?」

「すみませんがよろしくお願いします」


 そもそもミスしたのは国松さんで、確認不足も作業が遅かったのも私の責任。中根君は全然関係ないのに、ひたすら丁重に頭を下げている。


「謝るのは簡単だけどね。こっちは忙しいんだから困るな」


 何が女子社員支持率ナンバーワンなのか。誰が調べたか知らないけれど、鳴海調べでは元々低かった支持率が、たった今深海の底まで落ちましたっ!


「もっと早く言ってくれ。明日中には仕上げておく」

「それ、急ぎなのでできたら今日中にお願いします」

「無理言うな。早くて明日の午前中」

「わかりました」


 今私が持っているこのボールペンが短剣だったなら、迷わず国松さんの心の臓をひと突きにして、遺体は支持率と同じ位置まで沈めてやったのに!!

 書類をもぎとるように奪った国松さんは、ドスドスと足音をさせて去っていく。私は悔しさで口の中に残っていたレモンのど飴をガリガリ噛み砕いたのに、中根君は小さな溜息ひとつでそれを見送った。


「仕事なくなったし、帰ったら? 熱上がってるでしょ。顔赤いよ」


 理不尽に責められたのに、不機嫌さの欠片もない。中根君はいつも変わらない。あまり感情の浮き沈みがなくてゆったりしている。仕事をしていれば色々ミスやトラブルはあるわけで、私なんてその度に「ギャー!」とか「ワー!」とか騒いでるんだけど、中根君は「あー、困ったね」って穏やかなまま。そんな彼を見ているとこっちも気持ちが落ち着いて、何とかなるような気がするのだ。


「業者さんには俺から連絡しておく。多分、半日くらいなら待ってくれるでしょ」


 私の代わりにこれからまた謝罪するっていうのに、のんきに「うーーーん」と伸びをしながら廊下を戻っていく。こんな風に中根君はあっさり解決してくれることも多くて、私が半泣きでチマチマ電卓を叩いて直していたデータを、「はい、これ」って、飴一個渡す感覚で仕上げてくれたりもした。


「インフルエンザって三十八度以上熱出るんだっけ? 今年の流行ってどんなのだったかなあ?」


 鳴海調べの支持率を根こそぎ持って行ったきり、手放さない人。熱はますます上がっていく。


「紅茶を一日一杯飲むとインフルエンザ予防になるらしいよ。でもミルク入れるとダメなんだって。本当かな」


 私から溢れ出た大波が中根君を飲み込めばいいのに。私の想いはきれいな泡になって消えたりしない。赤いろうそく……なんて持ってないから、ありったけの赤ペンでも並べて呪いに呪って、中根君を溺れさせてやりたい。それで二度と地上に戻れなくして、鯛やヒラメや中根君と舞い踊って、末永く暮らしたいなー。


(好き)


 声の限りに叫びたくても元々出ないので、空気を揺らす吐息だけで言った。そのはずだった。


「うん、わかってるから」


 返事があって驚いた。立ち止まった私を置いて、そのまま歩き去ろうとするから、「ショッピングモールで買ったよね」というスーツの袖をムギュウッと掴んで引き留める。じーっと見上げてみた表情は、いつもと変わらない凪いだ顔。

 わかってない。君は全然わかってないよ、中根君。

 熱でボーッとした頭は制御機能が働かず、ここが会社であることとか、仕事中であることとか、二人同時に体調崩したら仕事回らないってこととか、そういう大人としての常識がぶっ飛んだ。


(ちょっと顔貸してよ)


 ネイビーブルーのネクタイを軽く引っ張ると、思いのほか素直にかがんでくれる。体調悪いのにつま先立ちなんかしたものだから、すぐにバランスを崩したけど、いつの間にかしっかり中根君の腕に支えられていた。

 どこがプレミアムリッチなのかはわからないけれど、中根君の唇は確かにカフェラテの味がした。カフェインはやめておけと言われても、やめるつもりなんてない。コーヒーの苦味とレモンの酸味の相性の悪ささえ、しっかり味わった。

 少し離れてうっとり見上げる私に、中根君は揺らがない声で言う。


「やっぱりもう帰った方がいいよ。口の中、すごく熱い」

(わかってるよ!)


 この大波をサラーッと流すなんて、一体どんなサーフィン上級者? いや、もういっそワカメだ。ワカメって糖分ほとんどないもんね。むしろ塩漬けにされるもんね。帰って韓国風激辛ワカメスープでも飲んで、ふて寝してやる!

 不満を隠さず身を翻すと、中根君も同じペースで隣をゆったり歩く。


「仕事終わったら行くから」


 返事の代わりに片手を上げて応じた。


(はいはい、了解)

「早く風邪治して、さっきのやつ音声付きでもう一回言って」

(はいはい、了解)

「来週バレンタインだけどさ、ビターとかお酒入りはやめてね。普通に甘いのがいい」

(はいはい、了解)

「……あとでちゃんと薬飲むから、やっぱりもう一回」

(はいはいいいいっ!?)


 上げた手を掴まれた。鼻風邪ではないのに、一瞬軽く唇が触れただけで、息なんてできなくなった。

 中根君、ここが会社であることとか、仕事中であることとか、二人同時に体調崩したら仕事回らないってこととか、そういう大人としての常識、わかってる?

 熱はどんどん上がっていくし、頭はさらにボーッとしていく。体の力も抜けて、心拍数上がり過ぎて心臓も止まりそう。

 ワカメって心筋梗塞を防ぐって、この前テレビで言ってたのにーーっ!!

 間近で見上げる中根君の唇には、私のリップがしっかりとついている。ポケットからティッシュを取り出して一枚差し出すと、中根君はチラッと見ただけでそれは受け取らず、ペロリと唇を舐めてしまった。


「続きはさすがに風邪が治ってからね」

(……はいはい、了解)


 ……もう仕方ない。溺れているのは、私の方なんだから。






 fin.






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る