第5話 点灯手

▲初手 暗い部屋



 肩より少しだけ長く伸びた髪を、無遠慮な手が撫でる。


神永かみながさん。髪、伸びたね」


 パソコンのディスプレイから目を離さないまま頭を傾けて、玉城たまきさんの長い指から逃れた。


「無精しているだけです」

「そうなの? 俺は長い方が好きだけど」

「そのうち切ります」


 視線を一度も向けなかったのに、私とパソコンの間に勝手に割り込んで、無理矢理視界に入ってくる。


「もうそろそろいいんじゃない? 彼氏、出て行ったきり帰って来ないんでしょ?」


 否定も肯定もできず、強制的に合わされた目をただ見つめるしかない。


「一年も待ったんだしさ。いつまでも過去に囚われてないで、新しい恋をしてもいい頃だと思うよ」


 一年という時間は、やっぱり『も』と言われるほど長いのだろうか。私の恋はもう過去なのだろうか。


「全部、私が決めますから」


 目を逸らさないまま言い切ったら、玉城さんがふっと笑った。


「じゃあ、俺に決めてね」


 そう言ってもう一度私の髪に触れてから、やっと帰ってくれた。


 玉城さんが変なことを言うものだから、結局進まなくなってしまった仕事を放り出して自宅に帰る。

 エレベーターのない四階建てアパートの四階。四階程度だとエレベーターの設置義務がないのか、それとも単に古いせいなのか、とにかくひたすら階段を上る。私の職場から近くて、しかも将棋会館まで乗り換えなしで行ける好条件なのに家賃が安いのだから、このくらいは仕方ない。


「ただいま」


 返事がないのも、部屋が真っ暗なのも、もうずっと同じ。ずっと同じなのに、ずっと慣れない。

 毎日通りから部屋を見上げて「今日こそ電気がついているんじゃないか」と期待しては裏切られ、部屋が真っ暗でも「『ただいま』って声をかければ、返事があるんじゃないか」と期待して裏切られ、返事がなくても「寝ているのかもしれない」という期待をして、それも電気をつけた瞬間に砕かれた。

 朝慌てて倒してしまったコスメボックスの中身がそのまま散らばっていて、溜息をつきながらボンボンと適当に戻していると、妹の朝陽あさひから電話がかかってきた。


『もしもし、お姉ちゃん? 元気?』

「うん、元気だよ」

『今年のゴールデンウィークは帰って来られそう?』

「うーん、まだわからない」

『お姉ちゃん、もうずっと帰って来てないよ。電話だって全然くれないしさ』

「うん、ごめん」


 適当な相槌を打ちながらカーテンを閉めようとして、一度目の前の通りに視線を落とした。街灯の灯りに浮かぶのは、人ひとりいないアスファルト。


千沙乃ちさのーーーっ! 千ー沙ー乃ーーっ!』


 あの通りから何度呼ばれたことだろう。私が顔を出すまで呼び続けるものだから、たびたびご近所からクレームを受けたっけ。真夜中にあんな大声出されたら、迷惑がられるのも無理はない。

 だけど、私はそのクレームを一度も元輝もとてるに伝えなかった。ひとりで戦って、ひとりで苦しんでいた元輝が、唯一感情を爆発させるのが、あの呼び声だったからだ。




△2手 消えた光



 一年前の三月。私の彼・前郷まえごう元輝は姿を消した。

 本人から聞いたわけじゃないけど、理由はわかっている。プロ棋士になれなかったからだ。

 元輝は将棋のプロ棋士を目指していた。将棋でプロになるためには奨励会という養成機関に入り、四段に昇段しなければならない。規定に則って昇段して三段になると、最後は三段リーグと呼ばれる地獄のリーグ戦。そこで半年で18局戦って、上位二名だけが四段プロデビューできる。つまり、年間でプロになれるのは四人だけ。

 中学一年で奨励会入りした元輝は、躓きながらも昇段して三段にまでなった。

 三段になれれば天才と言う人もいる世界だけど、四段に上がれなければただのアマチュアだ。駒の動かし方もわからない素人も、天才である三段も、プロでなければ同じ位置。

 そして年齢制限の二十六歳までにプロになれなければ、強制的に退会させられる。

 元輝にとって、去年の三月は瀬戸際の戦いだった。三段リーグでは一日に二局指すのだけど、最終日に二勝できれば本当にわずかながら昇段の可能性を残していた。


『行ってきます』

『行ってらっしゃい』


 余裕なんてないはずなのに、あの朝元輝は口角をわずかに上げてこの部屋を出ていった。階段を降りる重い足取りをドア越しに聞いて、私は窓へと駆け寄る。通りに立ち、日差しに目を細めながら私に向かって軽く手を上げたあの姿が、元輝を見た最後だった。

 あの日、やらなければならない家事さえ手につかず、私はこの部屋でひたすら元輝の帰りを待っていた。

 元輝は二勝すると大喜びして、私への連絡も忘れて飲みに行ってしまう。そして真夜中に酔っ払って、窓の外から大声で呼ぶのだ。


『千沙乃ーーっ! 千ー沙ー乃ーーっ! 勝ったよーーっ!』


 その声をずっとひとりで待っていた。もしかしたら今日は少しだけ違うかもしれない。


『千沙乃ーーっ! 四段になったー! プロになったー!』


 そんな声が聞けるかもしれない。なかなか帰って来ないのは、嬉しくて酔い過ぎて、どこかで寝ているのだろうか。お祝いが盛り上がって帰してもらえないのかもしれない。

 悪い方に向かいそうな思考を、妄想することで必死にプラスにしようとあがき続けた。

 だけど本当はわかっていた。電話が繋がらない理由も、帰ってこない理由も、決してお祝いなんかじゃないって。

 眠れないまま夜を明かして、翌朝はひどい顔にファンデーションを塗りたくり、朝食もとらずに出勤した。けれど、あの日私の記憶はほとんどない。

 何度も電話をかけながらの帰り道、暗がりのゴミ捨て場に将棋盤と駒箱があることに気づいた。いつも願いを込めるようにきちんと置かれていた将棋盤は、見たことない角度に倒されて雑に投げ捨てられていた。


『明日はゴミの日じゃないし。大体、指定の袋に入れないと持って行ってくれないよ』


 重い脚付きの盤を四階まで運び上げ、クローゼットの下段に置くと、すっと馴染んだ。やっぱりこの盤の居場所はここだ。労うように表面を撫でると、漆で引かれた線のポコポコとした感触がする。

 元輝は負けたんだな。

 ようやくそれだけがはっきりと理解できた。元輝は負けて、プロにはなれなかったのだ。三段リーグは指し分け以上(10勝以上)で残留できるけれど、それも叶わなかったのだ。

 涙は出なかった。本人がいなくて、私が泣いていいものなのか、そうするべきことなのか、よくわからなくて。実感は一年経った今でも湧いていない。


 元輝が姿を消した翌日から、兄弟弟子や棋士仲間、また師匠からもたびたび連絡があった。どうやら彼は知人宅を転々としているらしい。そして果ては、ほとんどない貯金を全部持って海外を放浪しに行ったそうだ。

 勝つと大喜びする元輝だけど、負けたからって私にぶつけるようなことはなく、ただ「ごめん」とひとりになりたがった。今回もそうなのだろう。

 私のところに帰って来ないことを悲しいとは思わない。彼の抱える絶望を、私が軽くしてあげることはできないから。今はひとりでもがくしかないことだった。きっと元輝は、見たこともない広い世界で必死にもがいて、人生に明かりを灯す一手を探しているのだろう。私をひとり置き去りにしても、それは彼の私への愛情とは全然別の話だ。

 泣いているだろうか、という心配はしない。むしろちゃんと泣けているだろうか、と心配だった。そして、泣き切れるだろうか、と。


『この前歓迎会があって、一応二次会の最後までお付き合いしたんだよ』

「うん」


 朝陽の声が耳をすり抜ける。雨と春埃によってできた茶色いラインが、涙の筋のように窓ガラスを幾重にも汚していた。内側から指でこすっても、当然きれいにはならない。


『それで帰ったら、おじちゃんがメチャクチャ不機嫌なの! でも断れないでしょ? 新入社員なんだからさ!』

「うん」


 奨励会は誰でも入れるところじゃない。大人を手玉に取るような天才小学生や神童が全国から百人受験したとして、合格者は三十人以下。そして三段に上がれるのはわずか四人程度。四段になれるのは二人ほどという割合。三段にまでなれた元輝は確かに天才だったのだ。

 将棋指導のアルバイトや記録係の仕事で微々たる収入はあったものの、友人から「ヒモみたいな彼氏」と揶揄されるほど頼りないものだった。けれど毎日毎日、十時間以上将棋盤とパソコンに向かってひたすら勉強する姿を見て、その必死さに触れると、「バイトの時間増やしたら?」なんてとても言えない。「どこかに連れて行って欲しい」という気持ちも浮かんで来ない。

 盤に向かう姿は年々重く厳しいものになっていき、誕生日さえ祝わなくなった。一緒に住んでいても一緒の時間を過ごすことも減った。

 人生すべてをなげうって十年以上。その重みは増えても、叶う見込みが増えることはない。

 この地獄は、果てまで行き切る以外終われないとわかっていた。


 それでも、どんなに集中している時でも、私が「おやすみ」と言うと、必ずパソコンから顔を上げて「おやすみ」と笑顔を向けてくれた。深夜に寝る時、私を起こさないようにそーっとベッドに入ってくるくせに、ふわっと触れる程度に私の手を握り、指を絡めて眠る。表現はわずかだけれど、元輝の愛情は確かに感じていた。

 元輝が退会した後、「勝敗に一喜一憂するからダメだったのだ」という人もいた。実際、勝っても負けても気持ちを切り替えるのは重要なのだろう。

 だけど、元輝がプロになれなかったのは、そんなことではないと思う。きっと何かが絶対的に足りなかったのだ。プロになれるかなれないかは、紙一重の運のようなものであると同時に、どうにもならないほどかけ離れたものであると思う。

 元輝よりほんの数手先まで読める人がいる。元輝が直感で捨てた手の中に妙手がある。絶対に越えられない“紙一重”が世の中にはあるのだ。

 そうでなければ、あんなに努力してきた人がプロになれないわけがない。あれだけの努力を“運”なんていうもので否定されたくない。だったらいっそ「お前には絶対に無理だった」と言ってあげられたら。

 残された私は、昨日までと同じように出勤し、仕事をした。休日は溜まった家事やお買い物をして、友達と出かけたり、同僚と飲みに行ったり、これまでと何も変わらない毎日を過ごしている。仕事で失敗して落ち込む日も、友達と大笑いする日もある。元輝がいてもいなくても、そんな日々は変わらない。

 自宅に帰って部屋が暗いと、今日も帰ってないんだな、と思うだけ。それから、髪の毛を切れなくなっただけ。



▲3手 灯りに佇む人



 玉城さんにはああ言ったけど、まだ当分切るつもりはない。元輝は私の髪が好きで、よく「いい髪だよね」と耳の下で切り揃えられ、くるんと内巻きになった髪をそのラインに沿ってツルンと撫でた。ことあるごとに撫でるから、私はその子どもっぽい髪型を変えられなくて、マメに美容院に通っていた。

 髪が伸びたのは、元輝がいなくなって髪型をキープする必要がなくなったから。それから、元輝の手の名残が消えてしまうようで、切れなかったから。

 外は暗く、窓ガラスは鏡のようになって疲れた私の姿を映している。髪は、今朝しっかりブローしたのに、ところどころ跳ねていた。

 こうしているうちに、いつかこの窓からあの通りに届くくらい長くなるかもしれない。

 そう考えながらまた視線を落とすと、街灯の灯りから外れたところに人影が見えた。


『それでおじちゃんが━━━━━』

「ごめん、朝陽! かけ直す!」


 コンタクトを入れていても視力の悪い私には、顔なんて確認できない。それなのに、考えるより早く携帯を放り投げ、部屋を飛び出していた。

 自分の足の遅さがもどかしい。ガツガツと大きく響くヒールの音は近所迷惑だけど、今は構っていられなかった。例えエレベーターがあっても、どっちにしろのんびり待っている余裕はなかったと思う。

 外に飛び出すと、だいぶ鋭さのなくなった夜風が、髪の毛を散らした。家々には電気が灯っているけれど、遮光カーテンが多いせいなのか通りまで漏れて来ない。目指す人影は幻ではなく、街灯が作り出す円の外側に確かに立っていた。フラフラの脚でまろびながら、衝突するように掴みかかり、胸ぐらを締め上げる。

 何も言葉が出て来ない。はあはあと切れる息だけが通りに響いている。言いたいことも、言うべきこともたくさんあるのだろう。けれど今はどれも無意味だった。逃がさないように、責めるように、すがるように、服を握りしめた手だけに力がこもる。

 そんな私を見下ろして、元輝は目を細めた。


「千沙乃。髪、伸びたね」


 元輝のわずかに震える手が、髪のラインをツルンと撫でた。

 その瞬間、見開いたままの私の目からボタッと涙が落ちた。

 ボタリ、ボタリ。

 胸が詰まって出てこない言葉の代わりに涙が溢れる。元輝は私を引き寄せて強く抱き締めてくれたけれど、それでも掴んだ服は離せなかった。

 この一年は穏やかすぎるほどに穏やかだった。「同棲していた彼氏が失踪した」ってことも、飲み会の席の笑い話にさえしてきた。けれど、それは決して凪いでいたわけではなかったのだ。心が堅く固まっていただけだった。元輝が戻ってきてようやく私の心は動き出した。

 ずっとずっと泣きたかった。元輝がプロになれなかったことが悲しくて。何もできない自分が悔しくて。一言の連絡もなく消えたことが腹立たしくて。それでもどこかで元気にしていることに安心して。

 だけど泣くことさえできないほど、本当は寂しかった。

 今は自分が怒っているのか喜んでいるのかさえわからないまま、涙だけが落ちる。たったひとつわかることは、もう悲しくも寂しくもないということ。


 ようやく呼吸ができるようになった私は、それでも服を離せなくて、元輝は安心させるように私の手を強く握ったままアパートの階段を上った。古くて暗い階段に元輝はしっくり馴染んでいて、また、この部屋に元輝がいることも、あまりに自然だった。まるで一年の月日はなかったかのような錯覚に陥るけれど、元輝の日に焼けた肌と少し伸びた髪が現実を教えてくれている。


「そんなに見られると恥ずかしいよ」


 慣れた仕草で戸棚を開け、コーヒーを淹れてくれる元輝から、目が離せなかった。少しでも油断したら、その隙にいなくなるんじゃないかって。


「心配したよね?」


 諦めたように口にした元輝に、一瞬頷いて、すぐに首を強く横に振った。


「梨田さんとか、有坂君とか、あと師匠も、時々連絡くれたから」


『東南アジア方面に行ったみたい』

『どういうわけかブラジルにいるそうです』

『ちょっと顔出して帰ったけど、元気そうだったよ』


 そばにいなくても、ちゃんと元気に生きている。それがわかっていたから普通に生活していられた。心配だったのは、これからどう生きていくのか、将棋とどいういう距離を取るのか、そっちの方だったから。


「千沙乃にはひどいことしたのに、待っててくれたんだね」


 待ってた……そういう自覚はなかった。毎日「今日帰ってくるかもしれない」そういう期待をし続けていたら、結果的に一年経っていただけ。


「帰ってくると思ってたから」


 元輝はわずかに目を見開いた。


「泣き切れたら、絶対帰ってくると思ってた」


 元輝の苦しみは、私にはわかってあげられない。あの奨励会を退会した日、そのまま帰ってきていたら、かける言葉はなかった。私では元輝を救うことはできない。


 元輝に光を与えてきたのはいつも将棋で、勝つこと以外に彼を救う方法はない。そして、その機会はもう永遠に訪れないのだ。


 それでも帰ってくると思ってた。それを疑ったことはない。


「だって元輝は私が好きだもん」


 駒を持つときとは違う不器用なあの手のぬくもりが、指先にも、髪の毛一本一本にも残っていた。


「だけど、思ったよりずっと遅かったから」


 腫れた目の奥から新たな涙が溢れ出す。お互い一口も飲んでいないコーヒーをテーブルに置いて、元輝は再び私を抱き締めた。


「ごめん」

「寂しかった」

「ごめん」

「私が他の人と付き合ってたら、どうするつもりだったのよ!」

「ごめん。それは……大丈夫だって思ってた」

「なんで?」

「だって、千沙乃は俺が好きでしょう?」


 跳ね返ってきた言葉に不満を露わにすると、楽しそうに手が髪を滑る。


「あとね、実はたまーに様子見に来てた。この窓を見上げて、まだ千沙乃がここに住んでるって確認してた」


 笑う元輝の目には、それでもまだ挫折の残滓が色濃く残っている。これは生涯彼が背負っていくものだ。消えることのない痛みを、ずっと感じながら生きていくのだ。


「将棋から離れようと思って、どうせなら世界の果てに行きたいと思ったんだ。それで日本と真裏にあるブラジルに行ったんだけど」


 元輝はおかしそうにクツクツと笑う。


「通りに座ってたおじいちゃんたちがね、将棋指してたんだ」


 ブラジルには日系移民が多いから、将棋を指せる人も多いらしい。


「ルールなんてメチャクチャなの。桂馬は横にも跳ねるし、平気で二歩(同じ筋、つまり縦のラインに歩を二枚打つこと。反則)とかするし。でもね、楽しかった」


 将棋を『楽しかった』なんて元輝の口から聞いたことがあっただろうか。ずっと狭い世界だけで生きてきた元輝に、広い世界は新たな光を見せてくれたらしい。


「俺、指導棋士(初段以上の奨励会退会者が申請できる資格)取って、将棋教える。それから連盟の仕事が決まったんだ。来月から販売部で働く」


 頷くこともできずにただただ聞いている私の左手を、元輝が強く握る。


「この一年、俺から自由になるチャンスだったのに」


 言葉とは裏腹に自信たっぷりな笑顔を封じ込めるように、ちゅっと一瞬口付ける。


「自由なんていらないの」


 私はここに閉じこめられていたわけじゃない。自分の意志でここにいた。だけど、他の選択肢なんて奪って欲しい。あなただけを待つ私でいい。

 貴重品をしまっている引き出しから白い小箱を取り出して元輝の前に置いた。


「帰ってきたら渡そうと思ってたの」


 元輝がいなくなった日の翌日買ってきた箱には、一対の指輪が収まっている。私の考えた最善手。それを確認して、元輝は驚いた。


「無職の人間にプロポーズするつもりだったの?」


 元輝がどんなにひどい顔をして帰って来ても、私は笑顔で迎えようと思っていた。どうせ何も言えないなら、思い切り的外れなことを言ってやろうって。それなのに作った笑顔はみるみる崩れ、半分以上涙声になってしまう。


「将棋が元輝を受け入れなくても、私が受け入れる。だから……もう、どこにも行かないで」


 ポタポタ涙を落とし続ける私をじっと見たあと、元輝は大きな方の指輪を自分の左手薬指にはめた。そしてもうひとつを私の左手薬指に通す。


「いや、これからも色んなところに行く。だから千沙乃も一緒に行こう。これまで行けなかった分も」

「お金ないくせに」

「頑張って盤駒いっぱい売りつける」

「販売部って歩合制なの?」

「違うけど、意気込み?」


 その笑顔はまだ弱々しいけれど、確かに本物の笑顔だった。

 元輝は夢に挑戦して負けた。だけど、挑戦した者でなければ負けることすらできない。

 何も持たない私には、そんなあなたがとても眩しい。




△4手 明るい未来



 あれからすぐに切った私の髪を、元輝は楽しそうに撫でる。


「やっぱりこれ好き」


 今朝は遅刻寸前なのに何度も何度も。


「さすがにもう行くから!」


 そう言うと、「じゃあこれで最後」とひときわゆっくりと髪を撫でた。神経がないはずの髪の毛は、敏感にそのぬくもりに染まっていく。私はちゃんと「行ってきます」と言えていただろうか。

 急いで階段を降りると、切ったばかりの髪が揺れて首筋をくすぐる。それはまだ元輝に触れられているような錯覚を起こさせて、暗い階段でひとり赤くなった。

 通りに出て見上げる窓は大きく開かれていて、そこから元輝が見下ろして手を振っている。


「千沙乃ー! 行ってらっしゃーい!」


 以前よりもっと将棋会館に通うことになるから、当分引っ越しはしないだろう。私はこれからもこのアパートの四階に戻ってくる。


「行ってきまーす!」


 だけど私を迎えてくれるのは、暗い影を背負って尚、光に溢れた明るい未来だ。






 fin.




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