第五章 千光 4




 シュチャクの意識が最初に捕らえたものはユレの横顔だった。首から下はまだ石だが、それも徐々に元に戻ってきているようだ。よく見れば自分も同じ状況だった。すぐ側からハウオウの声が聞こえていた。


「ユレ! おお、体が元に戻っていく! うまくいったのだな!」


 ユレがこちらを見て微笑む。どうやら現実の世界は今、朝のようだ。朝日に輝く彼女の笑顔が美しかった。


 やがて完全に石化は解け二人は元の体を取り戻した。


「ユレ、どうなったのだ? 向こうでサイシ様には会えたのか?」


「ええ。そうだ、父さん、これを」


 ユレは懐に入っていた袋を父に差し出した。無事に現実の世界に持って来られたようだ。


「これは?」


「サイシ様から預かってきた『落ちる者の死』よ。『待たせてすまぬ』って」


「こ、これが……。我らの悲願……」


 震える手でハウオウは袋を受け取った。


「それでサイシ様はどうなったのだ?」


「ええっと、サイシ様は……、あっ!」


 その時ユレが突然指を差し叫んだ。シュチャクとハウオウもその方向に目をやった。風が吹いていた。その風に吹かれた石像たちがまるで灰のように崩れて散っていく。朝日を受けたその灰は風に舞いキラキラと輝いた。あれほどあった石像たちはあっという間に風に乗って舞い上がりどこかに消えてしまった。三人はそれを呆然と見守った。


「……何か途轍もないことがあったようだな、向こうで」


「うん。でも何から話せばいいのか……」


 そう言ってユレは困惑の表情を浮かべた。見兼ねたシュチャクが「では僕が代わりに説明を」と言って向こうで起きたことを順序立ててハウオウに説明した。


 複雑な話だったが何とかハウオウは理解してくれたようだった。


「……なるほど、そんなことがあったか。ではサイシ様も石化した人間たちも皆、次の生に向かって旅立ったのだな」


「はい、いつの日か、また会おうと」


「……そうか。それでは我ら『落ちる者』も続くとしよう」


 そう言うとハウオウは突如手にしていた袋の紐を解き始めた。


「お父さん、いったい何を?」


「こうするのだ!」


 そう叫ぶとハウオウは口の開いた袋を空下に向かって放り投げた。すると袋から出た黒い光のようなものが瞬く間に空を包み込んだ。一瞬、空が暗くなったが、すぐに何もなかったかのように辺りはまた青空に戻っていた。


「ハウオウさん!? 良いんですか? 死ぬんですよ? 落ちる者の皆さんの意見を聞いてみてからでも良かったんじゃ?」


 シュチャクがそう言うと彼は穏やかな口調で諭すようにこう返した。


「これでいいのだよ。ツーレ様もずっとそう願われていた。我々も同じだ。生きる者が死ぬのは本来当然のこと。これまで死ななかった我らの方がおかしかったのだからな」


 シュチャクは正直ちょっと勿体無いと思ってしまった。それは死ぬのが当たり前の身だからなのだろう。結局のところ人はどこまでも無い物ねだりなのだ。


「そうですか、わかりました。それでこれからハウオウさんはどうするんですか?」


「私は落ちる者の国に戻る。混乱を抑えなければならない。これまで死ねなかった年寄りたちが皆一斉に亡くなっただろうからな。おそらくはツーレ様も……」


 ハウオウはこれまで仕えた女王を想い出しているようで涙を堪えるようにぎゅっと眼を瞑った。しかし次に目を開いた時、そこにあったのは悲しみを心の奥に仕舞った決意に満ちた男の顔だった。


「落ち込んでなどいられぬ。これから忙しくなるだろう。もうおまえたちに会いに来ることもないかもしれんな」


「そんな、父さん、わたし……」


「ふふ、飛べない娘を空に連れて行くわけにもいかんからな。おまえはこの地上で彼と生きていけ」


 そう言って笑ったハウオウはシュチャクの肩に手を置いた。


「先祖代々、迷惑を掛けたな、語りの一族。。全ての落ちる者に代わりに侘びと礼を言おう。それと……、くれぐれも娘を頼むぞ、シュチャクよ」


 シュチャクが「はい!」と力強く頷いたのを見てハウオウは満足そうに笑い、それから断崖に向かって歩き出した。二人はじっとその姿を見守った。世界の端でくるりと彼は振り向いた。「お父さん!」とユレが叫んだ。


「元気でな。またいつかどこかで会おう、二人とも!」


 そのまま彼はふわっと浮かび、翼を羽ばたかせると手を振りながら空下に消えていった。彼の姿が見えなくなるとまた静寂が訪れ、シュチャクとユレは二人だけになった。


「……みんな、行っちゃったね」


「うん。でもまた会えるさ」


 そう言ったシュチャクの横顔をふとユレは見つめた。そして彼女はあることに気付いた。


「……それにしてもさ、額に唇がないシュチャクの顔って……、ぷっ!」


「えっ、何?」


「なんか変だよ。すごく違和感がある。ふふっ」


「ひどいなあ。口が一つなのが普通だろう? 今まで二つあったことの方がおかしかったんだ」


「ふふ、そうだよね。何か今までおかしなことばかりだったね。……きゃっ?」


 突然のことにユレが悲鳴を上げた。ふいにシュチャクが彼女を抱き締めたのだ。その手にはあの語りの一族の服が握られていた。


「この服、きっとユレに似合うよ」


「ありがとう。でも、他の言葉がいいな。もっと直接的なやつ」


「ええと、その、あの……」


「シュチャクの口下手は口が一つになっても変わらないんだね」


「そんなことないよ! よし、いくぞ! ユレ、僕とけっこ……」


「おまえら!」


 良いところだったのに突然何者かが後ろから声を掛けてきた。驚いて二人は振り返った。どこかで見た老人。偏屈そうな顔に見覚えがあった。二人は同時に思い出した。ハウオウが放り投げたあの老人だった。


「お爺さん! 無事だったんですね。良かった」


「勝手に殺すな。こう見えてわしは頑丈なんじゃ。まあ、あれから今まで随分長いこと気絶していたようだがの。まったく腹が減ったわい。ひどい目に遭っ……、な、なんじゃ、これは! 石像はどうしたのじゃ!」


 眼を飛び出さんばかりに老人は驚いていた。


「灰になって空に消えましたよ」


「消えた? そ、そんな、永遠は? 石化は永遠ではなかったというのか?」


 老人はがくっと膝を落とした。


「間違った永遠など、もうこの世界にはいらないんですよ。お爺さんも前を見て歩いてください」


「前だと? わしゃ、こんな年寄りだぞ。今更、そんなこと言われても……」


 老人は空を見上げたまま絶句した。これまでの人生を思い返しているようにも見えた。おそらくこの老人にも自分の知らない様々な苦労があったのだろう。シュチャクはそう思った。


「では、僕たちはこれで」


 相当ショックだったのか、シュチャクが声を掛けても彼は依然呆然とただ空だけをじっと見つめていた。


「それではまたいつかどこかでお会いしましょう」


 なぜかその言葉にぴくっと老人は反応を示した。彼は光を取り戻した眼でシュチャクを怪訝そうに見上げた。


「またいつか、だと? おまえらこの村を出て行くんだろう? もう二度と会うことなんてあるものか」


「いえ、いつになるか、どこになるかはわかりませんが、きっと会えますよ。生まれ変わって」


「生まれ変わってだと? そんな、途方も無い話を……」


「僕は信じています。諦めるよりはずっといい」


「諦めるよりは?」


「ええ、そうですよ。じゃあ、さようなら、お爺さん。お元気で」


 シュチャクとユレは手を振りながらその場を後にした。老人はじっと動かずただ二人の方を見つめ続けていた。その姿はまるで彼自身が望んでいた、あの石像のようだった。


「あのお爺さん大丈夫かな?」


 やがて老人の姿が見えなくなるとユレはそう呟いた。


「大丈夫だよ、きっと。意外とすぐ立ち直るかもよ」


「そうだといいね」


 そう言って笑ったユレをシュチャクは本当に愛おしく思った。心地良い風が二人の背中を優しく押してくれていた。


「……ユレ」


「何?」


「これからも僕と一緒に旅をしてくれるかい?」


「うん、もちろん」


「本当に?」


「飽きるまではね」


 二人は笑った。


 二人の本当の旅がやっと今始まった。




 この世界に降り注いだ(   )たち、つまり功と坂成はシュチャクやユレの物語を傍観しながら会話を重ね彼らの物語を通じて少しずつ自分の存在を取り戻していった。世界と重なり合うわけではないが、決して外にいるというわけでもない、そんな奇妙な存在になった彼らの目の前で「物語る道の果ては」の物語は今ひとつの終わりを向かえようとしていた。


 この後のエピローグがどうなるのか、この作品を読んだ功はもちろん知っていた。


 彼は坂成と一緒にそれを見守った。




 時間は止めようもなく流れていく。


 シュチャクたちの冒険の時代から数千年という時が過ぎた未来。


 道を歩く一人の少年がいた。


 その名はシュチャク。英雄である先祖と同じ名を付けられた彼こそ語りの一族の最後の末裔だった。


 彼は母が亡くなってから、この五年間、一人でずっと旅を続けていた。そしてそのうち二年間は人にすら会っていなかった。二年前に通過した村の村長は「この先にはもう人が住んでいないぞ」と言っていたのだが、シュチャクはその話を信じなかった。行き止まりになったわけでもなく道はずっと続いて見えていたからだ。


 村長が止めるのも聞かず村を出発して早二年、本当に人が居ないことを頑固なシュチャクもさすがに認めざるを得なくなっていた。それでも彼は木の実や山草を摘んだりし自給自足の生活を送りながら旅を続けていた。


 それは語りの一族としての意地があったからだ。一度通った所には戻らず前に前に旅を続け女神を追う、それが使命の一つなのだから。しかし語る相手が居ないということは語りの一族のもう一つの使命である物語りが出来ないということでもあった。


 シュチャクは悩んだ。


 一人で孤独に進むべきか、語りの一族の掟を破ってでも人が居た場所まで戻るべきか。


 そして結論を出した。


 「今日、誰にも会わなければ戻ろう」と。


 朝が過ぎ、昼を越え、辺りは夕焼けに染まりつつあった。やはり誰もいない。シュチャクは歩みを止めた。今から戻っても人のいる所まで二年は掛かるわけだ。それでも今帰らねばいつか一人で野垂れ死ぬことになるかもしれない。


 決めた、振り返ろう、そう思った瞬間だった。赤く染まった道の先に何かが見えた。小さな点だったそれは少しずつ大きくなっている気がした。


 まさか……、人影!?


 シュチャクはじっと眼を凝らした。そして確信した。間違いない、人だ! どうやら向こうもこちらに気づいたようで速度が上がった気がした。どんどんその姿は大きくなる。女性のようだ。まだ若い、自分と同じくらいの歳の娘に思えた。どんどん距離は縮まり二人は無言のままで握手出来そうな距離まで近付いた。


「ひ、人だ……。人がいた……」


 思わずシュチャクがそう呟くと彼女はくすっと笑った。


「そうよ、人よ。何だと思ったの?」


「あっ、いや、ごめん。実は僕、この二年ぐらい人間に会ってなかったんだ。一人旅をしているんだけど二年前を最後に村が全然なくて。まさか、ここで人に会えるなんて思わなかったから」


「えっ、嘘! 私と一緒だわ。私も二年前に父が死んでから一人で旅をしてきたの」


「へえ! 驚いた。そんな変わった人が僕の他にもいるなんてね」


「それはこっちのセリフよ」


 二人はそう言って笑い合った。


「ところで君はどうして旅をしてるの?」


「私の先祖はその昔、創世の女神様に付き従いずっと旅をしていたのよ。それがある時『ここからは私一人で行くから道を戻って行き、後を追ってくる他の人間にそのことを伝えるように』という使命を授かったの。それから私の一族は何世代にも渡り、昔とは逆の方向に旅を続けているってわけ」


「何だって? 女神様? 僕たちの一族は女神様を追って旅を続けてきたんだ」


「ええ! それじゃあ、まさか、ひょっとしてあなたが女神様の言葉を伝える相手なの?」


 二人は呆然と顔を見合わせた。互いの旅の目的、生きる上で重要な柱となっていた部分がそれぞれ突然呆気無く終わりを向かえた瞬間だった。


「わたしたち、ひょっとして、もう旅なんてする必要ないの? ここで終わり?」


「そうなのかも知れないね。女神様がそう言ったのなら」


 シュチャクは思った。本当に終わりなのか? 確かに女神様の言葉は重い。しかしそれだけで先祖代々続けてきた旅を止めて良いものなのか。いや、自分はどうなんだ? 本当に終わりにしたいのか?


 自分の意志、それは……。


「……でも僕はもっと知らない世界を見たいな。あのさ、君はこの先から来たんだろ? 人はたくさん住んでいるのかい?」


「ええ。私がまだ小さかった頃には普通に村があったわ」


「それなら僕は行くよ。追って来なくていいと言われても女神様を追い掛ける。世界の果てが見たいんだ。僕の代じゃ無理かもしれないけど先祖から託された使命を次に繋げたい」


「そうか。そうだよね。ここで止まっていても仕方ないよね」


「あ、あのさ、君はどうするの? ええと、良かったら一緒に行かない?」


「えっ、私も? 戻れってこと?」


「いや、戻るんじゃないよ。君の使命は僕に出会うことだったんだろ? これは新しいスタートなんだ。君にとっても僕にとっても」


 そう言ってからシュチャクは急に我に帰り真っ赤に顔を染めた。それがまるで結婚の申し込みであることに気付いたからだった。


「新しい出発か。うん、そうだね。目的もなく一人で旅するよりいいかもね。わかったわ、あなたに付いていく。大したことは出来ないけど話し相手くらいにはなれるもの」


「ありがとう。でも話なら僕の方が詳しいよ。僕の一族は『語りの一族』と言ってね。先祖代々、村々の昔話を集めながら旅をしてきたんだ。話の種には困らないよ」


 そう言ったところでシュチャクはふと思った。


 まさか、語りの一族が昔話を集めてきたのはこの日のため?


 まさか、そんなことがあるわけはない。話が出来過ぎだ。


「そうだ、興奮して忘れてた。自己紹介がまだだったね。僕はシュチャクだ。君の名前は?」


「私はユレよ」


 二人の本当の旅は今ようやく始まった。




                 ~ fin ~




 物語が終わった。




 生まれ変わったシュチャクとユレが再び出会い、果てしない旅が続いていくという「物語る旅の果ては」のエピローグ。


 なぜ美花は選考会でこの物語を推したのか?


 そこに答えがある気がして功はそれをずっと考えていた。そして最後まで物語を見届けた今、彼はひとつの結論に達した。それを彼女に確認しなければならなかった。


(美花、聞いてくれ! 上竹が死んだんだ!)


 功はこの世界、つまり美花に向かって叫んだ。


 その途端、目の前に見えていたシュチャク、ユレ、風景は一瞬にして消え失せ、代わりに現れた闇の中に功と坂成は人の姿を取り戻した。


 二人をスポットライトのような光が照らし出していた。


 そこにポタポタと滴が落ちてきた。


 美花の涙が雨となって二人に降り注ぎ始めたのだ。


 それはやがて豪雨と言えるほど激しさを増した。叩き付ける雨に功は黙って耐えた。まるで彼女の悲しみを受け止めるかのように。それがどのぐらいの時間続いただろう。ようやく雨があがると功はまた彼女に呼び掛けた。


「美花! 君はここでずっと女神となってシュチャクやユレとその子孫たちを見守って生きていくつもりだったんだろ? 君は上竹との関係に疲れて現実から逃げたんだ。架空のキャラクターだとわかっていてシュチャクたちに自分の恋愛の理想を託したんだね?」


 世界は何も答えなかった。


「でもやっぱりそれはおかしいよ。現実世界の君はベッドの上でたくさんの機械に繋がれ昏睡状態になっているだけなんだ。確かにここには余計な悩みも胸が張り裂ける様な悲しみもないのかも知れない。でもそこから逃げていたら幸せが何かさえわからなくなる。そうじゃないか、美花?」


 何も返事はなかった。するとそれまで功の隣で話を聞いていた坂成が突然口を開いた。


「美花さん、すいませんでした。上竹さんが死んだのは俺のせいです。賞を取れない俺があなたたち選考委員を逆恨みしてこんなことを起こしてしまったんだ。でもとても後悔しています。どんなに謝っても許してはもらえないだろうけど向こうの世界に帰ったら罪を償うつもりです。だからお願いです。あなたも功さんと一緒に帰ってください」


 泣きそうな顔で頭を下げる坂成を功はじっと見つめた。


 改心した彼が美花に許しを請うている。美花が彼を許してくれれば俺たちは現実世界に帰れるだろう。上竹という犠牲はあったが俺たちの物語はそれでハッピーエンドを向かえられるかもしれない。


 だけど……。


 功はもう確信していた。それでも正直に言えばそれを認めたくなかった。しかし認めなければ先には進めないと思った。ふうっと自然に溜息が出た。彼は悲しげな表情を浮かべ何も見えない暗闇の空を見上げた。


「……美花、いい加減にしろ。もう偽りの茶番劇は止めないか? もう俺はわかっているんだよ。今、隣にいるこの坂成は君が創り出した幻なんだろう?」


 姿は見えなかったが美花の驚きは空気の振動となって功に伝わってきた。図星だったようだ。


「さっきから何かおかしいと感じていたんだ。シュチャクとユレの物語を傍観しながら俺は坂成と会話をしていた。おれの説得にこいつは耳を傾けてくれた。嬉しかったよ。でもさっき朋美の世界で会った時の坂成は逆恨みの塊みたいな奴でとても更生できるような性格に思えなかった。あまりにも違和感があった。おとぎ話の中ならそれでもいい。悪い奴は主人公の説得に応じて改心しました。めでたし、めでたし。でも俺たちは現実だ。ここが夢の世界だとしても俺たちは生きている現実の存在なんだ。悪人がコロッと改心するなんてご都合主義は現実では起こりえない。人の考え方は長い経験で培われるもの。マンガやアニメのように簡単には変わらない。こいつは偽物だ。本物はもう消滅させたのか?」


 返事はなかった。


「坂成泰三は自我こそ強かったが、ンダッヴァによって連れて来られる意識の世界で自分の望む世界を自由自在に作れるほどの創造力を持ち合わせてはいなかった。だからこそ他の人間の世界に入り込むことで存在を保っていたんだろう。いくら自我が強くてもその存在を裏付けてくれる世界がなければ居ないのと同じ、つまり『無』となってしまうからね。そして彼は美花の世界に入ることを躊躇っていた。なぜなら美花が自分以上の自我を持ち、なおかつ創造力も持ち合わせていることを知っていたからだ。いち登場人物ではなく自我を持ったまま世界と融合した美花はそこに入ってくる別の自我を自衛のために敵視する。それを予想していたんだろうね」


 美花は依然として無言だったが功は話を続けた。


「そこで俺は考えてみた。ではこの意識の世界において自我とは何なのか? ンダッヴァを吸い込んだ人間はそれまでの自分の記憶を失い、自ら創り出した世界の中で心の底から別の人物に成り切ってしまう。それを防ぎ自我を保つ唯一の方法、それは『ここがンダッヴァの力で連れて来られる幻の世界だと認識出来ている状態の記憶』を強く持ったまま意識を失うことだ」


 僅かだが空気が震えた。それは美花の動揺を表していた。


「例えば俺は最初『マンドレイク村おこし騒乱記』の世界に入った時はすっかり岡澤功としての記憶を失っていた。でも自分を強く保つイメージを持ったまま再度ここに来た俺はこうして自我を保っていられる。逆を言えば『ンダッヴァの存在を知らない者はこの世界で自我を保つことは出来ない』ということになる。坂成は俺たちにンダッヴァを吸わせた張本人だ。もちろんここがどういう世界か来る前から知っていた。では、美花、君はなぜ自我を保っていられる? それは知っていたからだ。君はあの会議室で坂成が取り出したンダッヴァの存在、効果をあの時すでに知っていたんだろう? 違うか?」


 その問いにも彼女は答えなかったが、いつの間にか功の隣の坂成の姿が最初からいなかったかのように跡形もなく消えていた。それが答えだった。


「他にもおかしなところがある。坂成は本好社の社員と飲み屋で知り合いになり社屋に潜り込んだ。ではその社員がその飲み屋に来ることをなぜ坂成は知っていたのか? ここに来る前に調べてもらってわかったことがあるんだ。その社員は以前、君の担当をしていたことがあったね? それと、もう一つ、なぜ坂成は会議室の場所まで迷わず来られたんだろう? 小さな出版社といっても社屋はそれなりに広い。うろうろしていれば不審に思われすぐに見つかっていただろう。でも彼はトイレで女装し社員を撒いてから迷うこと無く短時間で会議室に乱入した。誰かに前もって社屋内部の説明を受けていたとしか思えない」


「……もう、やめて」


 それは功がこの世界に来て初めて聞いた美花の声だった。今にも消え入りそうなその声に功は胸が締め付けられたが、ぐっと我慢して話を続けた。


「坂成は留学経験があり、その時に『ンダッヴァ』を手に入れた。それが警察の見解らしい。しかし美花、君も子供の時に親の仕事の関係で海外に居たことがあるんだろ? 君の書く小説が南米のマジックリアリズムの影響を受けていることは君自身も認めていることだ。それから坂成は訓練によってこの世界の中で自由に動けるようになったと言っていたけど、美花、君のやっていることは坂成以上のことじゃないか? 自我を保ったまま世界を創り出し、その中で起きることさえ完璧にコントロールしている。『物語る道の果ては』の世界観から外れるはずの『偽の坂成』という存在さえ創造して見せた。ンダッヴァを何度も使い、その世界を体験し精通した人間にしか出来ないことなんじゃないか? つまり全ては君が計画したことなんだろう?」


「……やっぱり岡澤先輩はすごいですね」


 ぽつりと世界が呟いた。


「先輩の言うとおりです。クレームの手紙を送ってきた坂成に接触してンダッヴァを渡し今回の計画を実行させたのは私です。坂成は自己嫌悪と責任転嫁の両極端な考えを併せ持ったところがある使い易い人間だった。喜んで計画に乗ってくれました。でも彼は暴走しやり過ぎた。私が消しても良いと言ったのは上竹だけ。師匠や朋美さんを襲わせるつもりはなかったのに。だからここに逃げこんできた彼を消したんです。想像力に乏しく自分の世界が創れない彼は他人の世界の中でしか存在を保てなかった。だから世界と一つになっている私が拒否すれば簡単に消えてしまう。でも私がやったことを先輩に知られたくなかった。だから偽の彼を創ったんです」


「……なあ、美花。そんなに上竹を恨んでいたのか?」


「ええ。だって彼は私から女性の幸せの全てを奪い去ったから。そのショックのせいで私はもっと大事にしている『小説を書くこと』さえ失いかけました」


 彼女の言った「女性の幸せの全て」に込められた重い意味を功は知っていた。


「……ごめん」


「謝らないでください! なぜ岡澤先輩が謝るんですか?」


「君が一番辛い時に俺は君から逃げたから。でもそれは間違いだった。なあ、一緒に帰ろう。やっぱりここは君のいるところじゃない。都合のいい名シーンだけのダイジェストの中で生きることに意味なんてないんじゃないか? だって物語なら省略されるような何気ない部分にこそ本当の人間らしさがあるんだから。君が現実を歩くのに疲れたって言うなら僕も隣を歩いて手を貸すから」


「もう駄目なんです。私も坂成と同じ、現実全てを逆恨みした狂犬病の負け犬なんです。私なんてほっといて先輩だけでも……」


「嫌だ! だって俺は君を……」


「言わないでください! 先輩」


「なぜだ? 俺はずっと卑怯者だった。だから決意してここまで来たんだ。人の顔色ばかり窺ってきたせいで伝えられなかった本当の気持ちを君に伝えたい」


「それを聞いたら私は耐えられない。私がどんな女かわかった上でそれを言うんですか? そんなの耐えられるわけがない。私が、いえ『世界』が崩壊してしまう! 何が起こるか私にもわからないわ!」


「それでもいい。ここは、こんな世界は間違っている。帰らなくちゃいけないんだよ、俺たちは。ずっと君を見てきた。君の強い部分も弱い部分も知っているつもりだよ。その全てを知っているからこその感情なんだ。ずっと好きだった。君を愛している」


 功がそう言った瞬間、世界の暗闇を切り裂くように光が射した。「やめて!」という美花の叫び声が聞こえたが彼は構わず続けた。


「君は罪を犯した。それは償わなくちゃならない。でも俺は君を待っているよ。物語を書き、物語を読み、物語を選び、物語に選ばれながら。だって俺たちは小説家じゃないか。たくさんの物語を創るのが使命だ。一つの世界になんて閉じ籠ってちゃいけないんだ!」


 光が次々に差し込んだ。千の光が心の暗闇を消し去っていくようだった。眼を開けていられないほどの光の中、功の手に何かの感触があった。薄く目を開く。それは掌だった。光の中に浮かぶその手を功はぎゅっと握り締めた。もう絶対に離さない。光がそこに集まり出す。手首の先の体がみるみる形を成していく。やがてそれは美花の姿になった。


「連れて帰ってくれるの? だって私は……」


 涙を浮かべる彼女を功はぎゅっと抱きしめた。


「何も言うな。帰ることから始めるんだ。一歩を踏み出せば道は続くんだから」


「……うん」


 二人の目の前にはいつの間にか一枚のドアがあった。二人は一緒にそれを開いた。その先に帰るべき世界が見えた。相浦、朋美、伊佐、待っていてくれる者の顔が見えた。


 功と美花はしっかりと手を握り合い、二人で次の道への一歩を踏み出した。



                 


                 (了)





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センコウセンコウ 蟹井克巳 @kaniikatsumi

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