第二章 潜降 オモイデアゲイン2




 日曜日に会社の後輩が遊びに来る。


 私が言ったその一言に博子は文字通り眼を丸くした。確かに結婚して十数年経つが一度も無かったことではある。しかしそんなに驚かれるとは思わなかった。少し心外だった。三秒ほど間を開けてようやく彼女は「わかりました」とだけ答えた。何をどうわかったのかはあえて聞かなかった。


 当日の朝、私はそわそわしていた。おかしい、昨日まではこんな緊張感など無かったはずだ。「これじゃあ、まるで友達が初めて家に遊びに来る小学生だな」と苦笑しながら時計を見るともう約束の時間だった。


 その時どこかでタイミングを計っていたかのように玄関のチャイムが鳴った。私は一瞬どきりとしたが平静を装いながら玄関に向かいドアを開けた。


 最初に眼に飛び込んできたのは大きな髑髏が入った二人お揃いの黒いTシャツだった。


「おはようございまーす、広川さん」


 ハーモニーを奏でた声の主は品田佑と杉川メイだ。二人を見ながら私はどうしてこうなったのだろうと心の中で首を傾げていた。成り行き上、私は彼らに助けを求めるようになったわけだが、どちらかというと野次馬根性を発揮したこのカップルが勝手に首を突っ込んできたというべきなのかもしれない。会社の休み時間という短時間では埒があかないといって今日の約束を強引に結んだのは彼らの方からだった。


「お邪魔します。うわあ、お洒落な家っすね。本当に広川さん家すか?」


「馬鹿ねえ、どう見ても奥さんの趣味に決まってんじゃん」


 好き勝手言いながら上がり込んできた二人を私はリビングに案内した。ところが先程までいたはずの博子がいつの間にかいなかった。「おやっ?」とは思ったが取り敢えず二人にソファに座ってもらった。お茶でも出そうと振り返った所にちょうど博子が立っていた。手にしている盆にはコーヒーとケーキが載っていて彼女は何も言わず私の脇を通り過ぎた。


「いつも主人がお世話になっています。ゆっくりしていってくださいね」


 博子がそう言うと品田君たちは私には見せたことがないほど緊張した顔で会釈をした。


「あの、あなた、私、ちょっと用事があるんですけど、もういいですか?」


「えっ、ああ、うん、もういいよ」


 博子は再び品田君たちに軽く礼をしてリビングを出て行った。


「上品で綺麗な奥さんじゃないっすか。広川さん、見掛けによらずなかなかやるんっすね」


「広川さん、『もういいよ』じゃないでしょ! そこは『ありがとう』じゃないですかぁ、もう!」


 コーヒーを啜りながら言いたい放題する彼らを無視して私はゲーム機のセッティングに取り掛かった。私にはよくわからなかったが、あの「クリエーション」というゲーム制作ツールは携帯型ゲーム機と据え置き型ゲーム機で共通の運営サイトを持っているためソフトがあればどちらからでもログインしてプレイすることが出来るという仕様らしい。要するに今までは会社に持っていった携帯機の小さな画面でやっていたゲームを家庭用のゲーム機を使ってテレビの大きな画面でやろうというわけだ。


 品田君にも手伝ってもらいながらようやく「オモイデアゲイン」のタイトル画面がテレビに表示された。早速始めようとした時、少し怒った口調で杉川さんが「待った」を掛けた。


「あ、すとっぷぅー! 広川さん、奥様にまだこれのこと言ってないんですよね?」


「う、うん、なんか、ちょっと言いそびれちゃってね」


「でも亡くなった息子さんの作ったゲームなんでしょ? 言わなきゃ駄目じゃないですか」


 確かに正論だった。彼女だって博人の作っていたゲームならば見たいに決まっている。それがわかっているのに私はなぜか彼女にこのことを打ち明けられずにいた。


「失礼を承知で言いますけど離婚を言い出した奥さんに意地悪する気なんじゃないですか? 気持ちはわかりますけど、それはちょっとひどいと思います」


 いつもはどちらかというとほわっとした雰囲気の彼女が厳しい表情をしていた。


 私は二人に事情を話してしまったことを後悔した。離婚だとかそんなひどく個人的で恥ずかしい話をペラペラ話すなんて今までの私なら考えられなかったことだ。魔が差したとしか思えない。


 意地悪とかそんなつもりじゃない、そう反論したかったが痛い所を突かれた気になったのも事実だった。はっきりと考えてやった行動ではなかったがそんな気持ちがどこかにあったのかもしれない。否定はできなかった。なんて小さい男だ。別れたいと思われたのはその所為なのか。


「メイちゃん、それはちょっと言い過ぎっしょ。気にしないで下さいね、広川さん。イタコ体質っていうか、こいつ、すぐ他の女に共感して勝手に怒り出すんですよ。俺もよく意味のわからないことで怒られちゃって全くいい迷惑っす」


「えっ、ひどーい! たすくん、そんなこと思ってたんだ。いつも頷いて話聞いてくれるくせにぃ!」


 品川君は慌てて「ち、違うよぉ」と弁明を始めた。どうも雰囲気がおかしくなってきた。私のせいで二人まで別れたなんて事になったら最悪だ。私は慌てて話題を戻した。


「と、取り敢えずゲームを始めないか? まだ博人がこのゲームを遺した意味がわからないんだ。もしあいつの遺言みたいなものがわかったら妻にはちゃんと話すつもりだから」


「遺言かぁ。あの、博人君って昔から体が弱かったんですか? 中学生が遺言考えるなんて……」


 三ヶ月前からうちの会社に派遣されてきている杉川さんはその辺の詳しい事情を知らなかった。


「博人君は生まれ付き心臓の病気で赤ちゃんの時から何回も手術したんすよね?」


 私の代わりに品田君が答えてくれた。私は黙って頷いた。


 確かに博人は心臓の病を抱えていた。小学校に上がるまでの間に三度の手術を受けている。しかし小学生になると次第に体力も付き、主治医の先生からは軽い運動も許可され順調に成長していたはずだった。時折検査を受けに行かなくてはならないものの病気など克服できた、私も妻も、そしておそらく本人でさえも、そう思っていたはずだ。


 ところが昨年、彼は急に体調を崩した。検査だけだと思っていた入院が一ヶ月、さらに数ヶ月と伸び、その後の治療のかい無く病状は悪化していった。一進一退を繰り返した彼は年末、ついに限界を迎えてしまった。苦しまず眠るように逝ったのがせめてもの救いだった。


「本当にこのゲームが遺言だとしたら私は父親失格だな。十四歳の息子にそんな心配をさせていたなんて。密かに覚悟して悩んでいた息子の相談にすら乗れなかったんだから」


「自分を責めちゃ駄目っすよ。とにかくやってみましょう」


 確かにここで反省していても何も解決はしない。


 私は品田君に促され、昨日会社でやった続きからゲームを再開した。


 慣れないゲームプレイではあったが、私は品田君たちの助けを借りながらこのゲームがどういう趣旨の話なのか少しずつ掴み掛けてきていた。現在の進行状況は、というと一つ目の依頼を解決して次の依頼を探しているところだった。


 私が操作する主人公ゲンは相方である意思を持つフランス人形のフランと共に怪物が現れるようになった街へ飛び出した。最初左に行った時は何も見つけられなかったが右に行ってみたら道路を彷徨いているキャラクターがいた。モンスターかもしれない。私は恐る恐るそれに話し掛けた。




「パパ、ママ、どこ行ったの? うわーん」


 泣いていたのはもちろん幼子、ではなく大学生くらいの青年だった。


「どうしたの? お兄さん、迷子なの? 泣いちゃ駄目だよ、大人でしょ?」


「パパ、ママ、喧嘩しないで、僕を一人にしないでよ。うえーん」


「泣いているばかりじゃわからないよ。事情を話して」


 そうゲンが聞いても青年は泣きじゃくるばかりで埒があかなかった。


「ああ、こりゃ駄目だわ。この人、子供の時の記憶しか残っていないのよ。このままだと寂しさに心を侵食されて遅かれ早かれ怪物になっちゃうわね」


 フランは掌を上に向け「お手上げ」のポーズをした。しかしこのまま放っておくことも出来ず、泣き続ける彼からどうにか「翔」という名前を聞き出した二人は仕方なく彼を連れて行くことにした。


 やがて彼を連れて他の人間を探していたゲンの前に怪物が現れた。フランから話は聞いていたものの実際には初めて会うモンスターだ。真っ黒な女性のシルエット、その全身にはびっしりと妙な物がぶら下がっていた。それは無数の鍵だった。


「うおおおおおおん! ルゥゥッスヴァァーンシテロォォ!」


 意味不明な叫び声を上げる怪物。それを見た翔は異常に怯えていた。


「あっ、ひょっとしたら……、わかったわ! やっぱりこいつ、翔のお母さんよ。全身の鍵は翔に子供のころ寂しい思いをさせたという彼女の罪悪感が変化したものなのよ。彼はいわゆる鍵っ子だったのね。愛情がねじ曲って翔に異常な執着を持っているみたい。気をつけて!」


「ど、どうしたらいいの、フラン? 僕、武器も何も持ってないよ」


「思い出して、ゲン、あなたの大切な温かい思い出を。それを私が武器に変えてあげる」


「思い出せって急にそんなこと言われても何を?」


 唸り声を上げる翔ママ。焦る中でゲンは一つの記憶を思い出した。


 まだ母が生きていた時フランを見せながら話してくれた昔話。街のアンティークショップでフランを見かけた母が祖父と祖母に泣きながらねだって買ってもらったという話を聞いたことがあった。


 ゲンの持つその思い出はふわっと光になって空中に浮かび上がった。フランがそれにキスをすると光はたちまち剣に変わった。襲い掛かる翔ママをゲンはその剣で思いっ切り斬りつけた。ところが金属音と共に剣は弾かれた。全身を覆う鍵が鎧の役割をしているのだ。フランの「狙って!」という声がした。


 ……見えた!


 唯一鍵が付いていない場所。それは翔が小さかった頃に繋いでいた彼女の左手だった。そこをゲンは斬りつけた。すると彼女の叫び声と共にその傷から黒い煙のようなものが抜け出た。ゲンの持つ剣がそれを吸い取っていく。全ての煙が無くなり役目を終えた剣がぱっと消えると彼女は普通の人間の女性の姿に戻っていた。


「……あら、私はいったい? あっ、翔、無事だったの!」


 翔ママは彼をぎゅっと抱き締めた。その瞬間、翔の表情が変わった。


「……か、母さん? 無事で良かった、母さん!」


 翔は正気を取り戻したのだった。





「……ちょっと、広川さん! もしもし、聞こえてますか?」


「えっ……、あっ、品田君? 私はいったい何を?」


「それはこっちのセリフっすよ。ゲーム始めたばかりなのに広川さんの方がフリーズしちゃうんすから」


 どうやら私はいつのまにか回想の世界に耽ってぼうっとしてしまっていたらしい。


「ああ、すまん。『これまでのあらすじ』という奴を思い返していたんだよ」


「正気に戻った翔を仲間に加えて次のイベントを探すってところでセーブしたんじゃなかったでしたっけ? いや、それにしても博人君のシナリオ、よく出来てますよね」


「ありがとう」


 品田君に褒められ私は自分のことのように嬉しかった。


 少し誇らしげな気持ちになりながら息子が創ったゲームのキャラを動かしているうちに私は思った。


 ゲームをやっていると大小様々な幾つもの「選択」を迫られるものだ。それは人生にも通じるものがある。


 いつか来たるべき本当の「選択」のためにも私は博人の遺志を早く知らなければならなかった。




 翔を仲間に加えたゲンたちは他にも無事な人がいないか街を探索していたが、ある公園の中でベンチに座る女性を見つけた。翔と同じくらいの年齢だろうか。目が虚ろに見えた。


「お姉さん、どうしたの? ここで何してるの? この辺りは怪物だらけなんだ。危ないよ」


「……彼を待っているの。ここにいればきっと迎えに来てくれるの」


「でも、お姉さん、街には怖い怪物がいっぱい居るんだ。ここにもいつ現れるか、わからな……」


「離れて、ゲン!」


 話の途中だったのに突然フランがそう叫んだ。いきなり服を引っ張られてゲンは尻餅を着いてしまった。


「いったーい。あ、危ないじゃないか、フラン」


「ゲン、その人の足をよく見てみなさい。もうこの人は怪物になりかけているのよ!」


 フランが指差した先を見るとそこには木の根に変化している女性の足があった。


「思い出のこの場所から離れたくないという気持ちが彼女の足を根に変えてしまったのね。まだ人としての心が残っているみたいだけど完全に怪物になるのも時間の問題ね」


「そんな! 何とかならないの? フラン」


「そうねえ。完全に怪物へ変わる前に彼女の負の感情を何とか出来ればもしかしたら……」


「それなら『彼』って奴をここに連れてくればいいんじゃないのか?」


 そう言ったのは翔だった。


「馬鹿ねえ。その彼がどこにいるかわからないから困っているのよ」


「俺は馬鹿じゃねえよ! ねえねえ、彼女、彼氏ってどこにいるのさ?」


 彼女は困ったような顔をしただけで何も答えなかった。


「居場所がわかっていたらこんな場所に執着するわけないでしょ? ばーか」


「お、おまえ、なんて口の悪い人形だ。子供のくせに生意気だぞ」


「あら、私、見た目は子供でも百五十歳なのよ。アンティークだから」


「うわあ、超ばばあじゃん」


「し、失礼ね! あんた、やっぱり子供のままで泣いていた時の方が可愛かったわ」


 言い争う二人を苦笑いを浮かべながら見守っていたゲンは目の端に何かが映った事に気付いた。公園の入口に人の影が見えたような気がしたのだ。改めてよく見ると確かに電柱に隠れるようにしてこちらを覗き込んでいる男の人の姿があった。


「あっ、入り口に誰かいるよ!」


 みんなが振り返った。人影は慌てたようにダッシュで逃げ出した。


「よしのり!」


 女性が叫んだ。彼女は男を追おうと手を目一杯伸ばしていたが土にしっかり根を張っている足は全く動かなかった。


「あいつが『彼』なんだわ! 追うわよ、ゲン、翔!」


 フランが号令を掛け、一斉に三人は駈け出した。


 公園を出た三人は男の背中を必死に追った。するとさすがに大学生の翔は足が速く、ゲンとフランを置いてぐんぐん男との差を縮めていった。「捕まえた!」の声と共に後ろから翔がタックルすると二人はそのままばったりと地面に倒れた。


「ハアハア……。やっと捕まえたぜ。手こずらせやがって」


「は、離せ! 化物が来ちまうだろ! 俺はまだ死にたくねえよ!」


「こ、こら、おまえ、おとなしくしろよ!」


 倒れたまま揉み合う二人。そこにゲンとフランがやっと追い付いてきた。男は怯えた眼で三人を見回した。


「なんなんだよ、おまえら? 怪物がいるんだって! 知らないのか!」


「怪物って、まさか、彼女のことを言っているんじゃないでしょうね?」


「そ、そうだよ! 俺は隣町に住んでいるんだ。別れたばかりの彼女が気になってこの街に来てみたら様子がおかしいじゃないか? 怪物が彷徨いているし、まともな人間もいなくなっている。彼女が危ないと思って探していたんだ。あそこはよくデートした公園だから。だけど覗いてみたらあいつ自身があんな化け物に……」


「彼女があんな姿になったのはあなたのせいなのよ。あなたの力が必要なの」


「お、俺にどうしろって言うんだよ? あんな怪物……、ん、おまえ、……人形?」


 ようやくフランの姿を理解した男の顔色が見る見る青く変わっていった。


「こ、こいつも化物だぁー!」


「し、失礼ね! ああ、もう、うるさい! 男が細かいことでごちゃごちゃ言わないの! 来な!」


 そう言ったフランは男のジーパンの裾をがっちり掴んだ。そしてそのまますごい力で男を引きずっていった。彼は悲鳴を上げながら自分よりずっと小さいフランにズリズリ連れて行かれた。


「……フランは怒らせない方がいいね。翔兄ちゃん」


「ああ、そうだな。なんて乱暴な奴だ。あれでもマドモアゼルなのかねえ」


 呆れながら二人が後を追うと公園のベンチの前ですでに話が始まっていた。


「よしのり、会いたかった。私、あなたと出会ったこの場所でずっと待っていたの」


「あ、アサミ……。確かに俺たちはここで出会った。でも、別れたのもここだろう?」


「別れた? 出会ったのよ、私たち。前の彼氏に振られてこのベンチで泣いていた私にあなたが声を掛けてくれたんじゃないの。私、嬉しかった」


「アサミ、覚えてないのか? あれからもう三年経っているんだ。俺たち、この前ここで別れちゃったじゃないか。あの頃にはもう戻れない、君が言ったセリフだぞ?」


「私が、別れた? 私から、ワ、ワタシカリャアアアアッー!」


 突然の叫び声。それと共にアサミの体が変化した。足だけだった木の部分が全身に広がっていき、腕は枝に変わり髪は蔦に変わっていった。


 身も心も怪物になろうとしている元恋人を目の前にして、よしのりは諦めたように呆然と力なく地面にへたり込んでいた。


「よしのりさん、逃げて! フラン、また武器を!」


 ゲンがそう叫んでも、よしのりは動かなかった。見かねた翔が「ちっ、仕方ねえな!」と怒鳴りながら彼を抱え上げた。 


「ゲン、その前に言っておかなくちゃならないことがあるの」


「えっ、何だよ、フラン、こんな時に。後じゃ駄目なの?」


「ねえ、ゲン、私があなたのお母さんと出会った時の話、覚えている?」


「はあ、何それ? そんな話、聞いたことないし知らないよ。母さんは僕が物心付く前に死んだんだし」


「やっぱり! よく聞いてね、ゲン。あなたは話を聞いたことがないんじゃなくて話の記憶を失ってしまったのよ。あなたは小さい頃お母さんから私との出会いの話を聞かされた。それはあなたにとって唯一のお母さんとの大事な思い出だった。でもその記憶を翔ママとの戦いで武器に変えてしまったから失ってしまったの。あなたは今それを無くしたことすら認識できなくなっているの」


「意味が分からないよ。記憶がない? じゃあ、僕はどうなるっていうの?」


「このまま良い思い出を武器に変え続ければ、あなたは他の住民のように悲しい思い出の塊になってしまう。最悪、あなた自身が怪物になるってことよ」


「僕も怪物に?」


 ゲンは躊躇した。考えてもみないことだった。しかし考える時間はなかった。


「ミンナアー、ダキシメテ、ハナスモンカァー」


 枝が伸びる。蔦が伸びる。公園中がアサミの張り巡らせた触手で覆われようとしていた。


「フラン、話は後だ。それでも今はやるしかない。行くよ!」


「いいのね? わかったわ」


 ゲンは思い出していた。


 いま履いているスニーカー。学校で流行っていたもので父が誕生日に買ってくれたものだった。


 あの時の喜び、それが光に変わり、ふわりと浮かび上がった。それは槍に変わった。狙うべき場所はすぐわかった。すでに樹皮となった彼女の顔、赤く光るその眼の下に見える一粒の涙のマーク。彼との別れの際に流した涙の象徴なのだろう。


 ゲンは襲い掛かる蔦を器用に交わしてそこに槍を突き立てた。悲鳴と共に黒い煙が吹き出した。槍がそれを吸い取っていく。煙が止まり、それを見届けたように槍が消えた時には彼女は元の人間の姿に戻っていた。


 倒れた彼女の元によしのりが駆け寄った。抱き抱えた彼女に彼は「ごめん、やり直そう」と声を掛けた。目を開いた彼女は涙を浮かべ笑って頷いた。


「良かったね、お兄さん、お姉さん」


 そう笑顔で二人を祝福しながらもゲンは内心言い様のない不安に襲われていた。




「なんかわくわくしてきて良いシナリオっすね。うわあ、泣けるっす」


 そう言った品田君は本当に少し涙ぐんでいるように見えた。


「でもこれ本当に博人君の創ったシナリオなんですか? クリエーションってネットで仲間を募って分担作業できるんでしょ? 誰か他の人にシナリオ頼んだんじゃないのかな?」


 杉川さんの疑問はもっともだ。しかし私にはある確信が生まれつつあった。


「いや、たぶん、本当にこれは博人自身が作った物語だよ」


「えっ、広川さん、何かわかったんすか? 博人君のメッセージ」


「うん、『ひょっとしたら』と思うことがあるんだ。でも決め付けるのはまだ早いと思う。もう少しゲームを進めてみればはっきりするだろうからその時に言うよ」


「えー、もったいぶるんですかぁ。いいじゃないですか。教えてくださいよ」


 私は何も言わず苦笑いを浮かべた。


 もったいぶったわけじゃない。それを認めてしまうことが自分でも怖かったのだ。


 博人が病気の身でありながら、そんなことで悩んでいたのだということを。





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