第一章 潜行 帰蛙(きあ)1




 フロアは「道」を見つめていた。いつも以上に静かな夜で空には落ちてきそうなほど大きな満月が出ていた。彼は身震いせずにはいられなかった。月光に照らし出されるその道は人間たちに「ケンドウ」と呼ばれているらしいが、彼らにとっては便利なものであろうと、フロアにとってそこは忌まわしい殺戮の地でしかなかった。記憶に全くない父、憧れだった兄、彼の大事な家族は二人ともそこで死んだのだ。


「フロアよ! まだ向こうに行こうなどと考えておるのか? 止めておけ、犬死するだけだ」


 フロアは振り返ることもしなかった。声でわかる。長老だ。


「犬死って、インダ様、俺たちは蛙ですよ?」


「また減らず口を。止めても無駄なのか? 危険を承知でそれでも行きたいと申すのか?」


「行くさ。今日が駄目なら明日。明日が駄目なら明後日。それが駄目ならいつかきっと」


「向こうに行って何になる? わしはおまえの父も兄も止めたんじゃぞ? それなのに……」


「俺たちの先祖が暮らしていたというあの場所が俺を呼んでいるんだよ」


「先祖か。わしでさえ生まれていないほど遠い昔の話だぞ? そんなお伽話を信じているのか?」


「信じているさ。あそこに帰るのが俺たちの先祖代々続く夢なんだから」


 フロアはある水田に住んでいた。産まれた時からそこにいる彼にとってそこは充分広い世界であったが、一つ年上の兄イハードは事あるごとに「世界の本当の広さ」について熱く語った。


 兄の声が蘇る。


 その日も彼はフロアに一族の歴史について熱弁を振るっていた。




「俺たちの先祖はあの道『ケンドウ』の向こう側からやってきたんだ。あそこはここよりずっとずっと広い田んぼなんだぜ? 水も餌もたくさんある楽園なんだ」


「俺たち蛙の視力じゃ遠くてよく見えないじゃないか。何でわかるのさ?」


「伝承ってやつだよ。いつかきっとあそこに帰る。それが俺たちの使命なんだ」


「何でさ? わざわざ出てきた場所に帰る必要なんか無いじゃないか」


「お前と俺の、父さんの父さんの父さんの……、とにかく数え切れないほど昔のご先祖様は仕方なく泣く泣くあそこを離れたんだ。いつか帰ることを心に誓って」


「仕方なく? 追い出されたってことかい?」


「ああ。よくある権力争いに巻き込まれたらしいよ。それにお前は知らないだろうがここは昔もっとずっと広い田んぼだったんだ。南に立ち塞がる道は昔から同じだけど他の場所、この水田を囲むように存在する周りの渇いた畑や人間の住宅地はその当時まだ無かったんだ。見渡す限り全部が水の楽園だったのさ」


「へえ、信じられないな。それも伝承かい?」


「うん。それが今は人間の都合でどんどん田んぼが減らされちまってこの有様だ。御先祖様たちも嘆いているだろうな。自分たちが信じて移民したこの場所が元いた所よりも住み難い場所になってしまったんだから。だからこそ俺たちはこの道を越えて向こうに帰らなくちゃならないんだよ」


「でもさ、御先祖様たちはどうやってあの道を渡ったんだろう? ほら、『あいつら』をどうやって避けたんだ?」


「馬鹿だなあ、御先祖様が道を渡ったのは気が遠くなるほど昔の話だぜ? その頃はまだ『あいつら』はいなかったんだよ。だからこそ楽に渡れたんだ」


 フロアとイハードが言う「あいつら」とは「ジドウシャ」という物のことであった。過去にもこの道を渡ろうとした勇敢な蛙たちが何人かいたのだが、その全てが仲間たちの目の前で忌まわしい「ジドウシャ」から潰されたのだ。内蔵が飛び出し、やがて干涸らびてペラペラの単なる皮になっていった彼らの姿は同族たちに強烈なトラウマを植え付けてしまっていた。そのため最近では滅多に道を渡ろうなどという挑戦者は現れなかった。


「おまえはまだ卵だったから覚えていないだろうけどな。俺たちの親父もあいつらに潰されてしまったんだ。俺はそれを実際この眼で見ていた」


「えっ、兄貴の目の前で?」


「ああ。あの時お袋は間違って『ノウヤク』って毒の濃い所を飲んじまって床に臥せっていたんだ。俺もまだ後ろ足が出たばかりで小さかった。もちろんみんなは親父を止めたよ。病気の妻と小さな子供、まだ生まれてすらいない赤ん坊たちを捨ててまで命を粗末にするようなもんだからな。それでも親父は一人で行ったんだ」


「なんでそこまでして……」


「夢を捨て切れなかったからだろうな。俺たちアマガエルの寿命なんて長くても十年だ。親父はもう八歳だった。今しかないって思っていたんだろうな。田んぼに水が入った日の夜、満月の光を浴びながら親父は道を渡り始めた。人間たちが活動を控える夜だ。きっと『ジドウシャ』だって来やしない。親父だけじゃなく反対していた仲間たちさえそう思っていたんだ。ところが親父が道の半分まで行ったところでエンジン音という奴が聞こえてきた。みんな『急げ』の大合唱だった。誰ももう『戻れ』とは言わなかったな。一跳ね、二跳ね、親父は頑張った。でもでかい『あいつ』が轟音と共に現れて次の瞬間親父の姿はどこにも無かったんだ。おそらくあの黒くて円い足に持って行かれちまったんだな」




 結局それから数年後イハードはフロアの目の前で父親と全く同じ死に方をした。静かな夜に挑戦を開始した彼は突然現れた赤い『それ』にその身を裂かれたのだ。まるで彼がこの道を渡るのをどこかで見張っていたような、そんな現れ方だった。


 蛙たちは信じていた。きっと人間は自分たちのことが憎いのだ。交代しながら寝ずの番をしてどこからか自分たちの行動を見張っているに違いない。馬鹿げた考えではあったがそう思わずにはいられなかった。


「長老、俺は父さんや兄貴みたいなやり方はしないよ。きっと別の方法を見つけてみせる。人間たちの妨害をすり抜けていつかきっとケンドウの向こうにある一族の故郷に行ってやる」


「何か考えがあるとでも? あの悪魔のような『ジドウシャ』たちの眼を盗めるというのか?」


「ああ、ひとつ思い付いたことがあるんだ。夢みたいな計画だけどね」


 フロアは突拍子も無いことを考えていた。それは不可能にも思えるアイデアだったが、それでも彼は父と兄から引き継いでいる夢を諦める気にはなれなかった。





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