第41話 届くのは声

 今日は夏が来たような気温になった。

 この北国でも、6月は梅雨のように長雨が続き、空気はむせるほどの湿度に満ちている。

 街路樹の幹には、緑色の苔が生える有様だ。


 お母さんは毎日ぐったりした様子でうめいていた。


「もういや……。お母さんが子供の頃は、こんなむしむししたことなかったのにー」


 ただでさえ暑さが大嫌いなお母さんは、蒸すのが本当に辛そうだ。


「でも、あまり冷たいもの食べすぎない方がいいよ。テレビでそう言ってたし」


 お母さんがあまりにも夏に耐性がないので、テレビなんかで夏バテに関する話題が出てると、つい見てしまうのだ。

 冷たい物ばかり食べていると、よけいに体が疲れてしまうのだとか。


「今日は……ゴーヤでいいかしら」

「別にいいよ。私、ゴーヤの苦み平気だし」


 夏バテに効くからと、お母さんは近頃三日に一度はゴーヤを料理に出している。

 お父さんは泣きそうな顔をして食べているけど、私はわりと平気だし、あの苦みで頭がしゃっきりする気がするので嫌いじゃない。


「いってらっしゃーい」


 リビングのソファで、ぐでっているお母さんに見送られ、私は外へ出た。


「うわっ、むしむししすぎ」


 私も暑さが好きな方じゃない。この湿度の高さが辛いのは、私もだ。お母さんほどじゃないけど。


 私は早足で、数分の距離にある地下鉄へと移動した。

 階段を下っても、まだ多少は暑い。

 それでも夜の涼しい空気が保存されているみたいに、少しだけひんやりとしているのでありがたい。


 地下鉄に乗って向かう先は、学校の近くだ。

 今日は土曜日だけど、アルバイトの日。

 学校の近くにある喫茶店「オルクス」へ行くのだ。


 アルバイト自体はとても面白いし、お客が少ないおかげで宿題もできるのでとてもありがたい。

 代償がこう、鬼に感情を摘まみぐいされることだけど……まぁそれも仕方ないとは思える程度だ。

 なにより余計な感情だけ食べてもらうと、無駄に怒ったりせず、冷静な気持ちに切り替えやすいので、物は使いようじゃないかと思いつつあるところだ。


「でも、暑い日はキツイなぁ」


 通うのが、これほど億劫になる日はいままでなかった。

 でもお店に行けば涼しいのだ。

 しかも店主の記石透哉きいし とうやさんが、アイスティーまで出してくれる。

 鬼の要求を満たしているお礼なのだと言うけど、暑い日にはとてもありがたい。


 それに記石さんを眺めることも、私の楽しみではある。

 茶色がかった髪の、雨に濡れた白い百合みたいな印象がある彼は、ずっと年上の男性なのに綺麗で。

 見ているだけで心が豊かになる気がするのだ。


 早く行かなければ。

 そう思いながら地下鉄を出たところで――。


「一ノ瀬さん?」


 呼ばれた瞬間――。


 私の意識に空白が生まれた。



「え?」


 気づくと、私は学校のグラウンドに立ち尽くしていた。

 目の前では、体育系の部の人達が練習をしている。

 サッカーをしている中には、槙野君の姿も遠くに見えたのだけど。


「え? なんで私、ここにいるんだろ」


 全くわからない。

 呆然としていると、スマホの着信音が鳴った。


「あっ……!」


 見れば、記石さんからの電話だ。

 慌てて出る。


「あの、すみません一ノ瀬です!」

「ああよかった。何度か鳴らしても出なかったから、心配していたんだ」

「え?」


 ふとスマホの画面を見れば、表示されている日時が、記憶よりも一時間後のものになっている。


「あの、すみません! よくわからないんですけど遅刻してしまって! 今すぐ行きますので!」

「急がなくていいから、気を付けて。来たら事情を聞かせてくれればいいから」

「はい、ありがとうございます!」


 優しい記石さんの言葉に感謝しつつ、私は喫茶店へ向かって走り出した。


 学校からはそう離れていないので、走って五分ほどでどうにか到着する。

 扉を開けて、お客さんがいないことを確認したうえで、カウンターの中にいた記石さんに謝った。


「申し訳ありません! こんな大遅刻してしまって!」

「無事で良かった」


 記石さんの方は、優しく微笑んでくれる。


「事故にでもあったかと思って、心配していたんだ。走って来たなら暑かっただろう? いつもの奥の席に座って、今お茶を出してあげるから」

「いえその、水で……水で大丈夫です! こんな遅刻女にお茶なんてもったいないことです!」


 私はもう、どう詫びたらいいかわからないまま、そんなことを言う。

 が、記石さんは笑った。


「落ち着いて話をするためにも、お茶はとてもいいからね。ちょうどお客もいないから、僕も一緒に飲みながら話を聞くつもりなんだ」

「は、はいわかりました!」


 店主がそう言うのに、強硬に反対するのも違うだろうと、私はうなずくしかない。

 大人しく席につくことにした。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る