第5話 取引

「マントです。学園に所属する人間は、生徒・教師を問わずマントを支給されていて、それを頭からすっぽりと被ると、虎に見つからなくなる効果があるんです」

『ほう。被ると虎から認識されなくなるマント。そんなものがあるのか』


「ほ」と「う」の間を伸ばすような言い方。演技ではなく、心から感心しているのだと分かる。


『マントの効果を打ち破る方法さえ掴むことができれば、必至になって獲物を追い求めることも、空腹に喘ぐこともなくなる。そうだな?』

「そうなります」

『では、その方法を私に教えてくれ』

「それは――無理です。だって、僕はマントの仕組みを知らないから」

『知らないはずがない。なぜならば貴様は、女子生徒の屍骸を認識している』

「えっ……」

『言うなれば、女子生徒の屍骸はマントに覆われている状態なのだ。従って、私がマントを被った人間を見つけられないように、人間たちは女子生徒を認識できない。だが、貴様は認識できている。貴様はなぜ、他の人間とは異なり、女子生徒の屍骸を認識できているんだ? 貴様と女子生徒の間にあって、他の人間と女子生徒の間にないもの、それは何だ?』


 問われた瞬間、ミチルの脳裏に忽然と浮かんだ一字がある。


 恋。


 そうだ、僕は高坂さんに恋していた。置き忘れたマントを持って来てくれた一件を機に彼女に関心を寄せるようになったのは、彼女の行動が不可解で、その謎を解き明かしたかったからではない。危険を顧みずに僕を助けてくれた彼女に恋をしたからだ。


 冷たいものが二筋、頬を伝う。


 そうか。僕は高坂さんに恋をしていた。でも、高坂さんは死んでしまった。殺されてしまった。高坂さんに恋をしている。その事実に、恋している張本人である僕が気がつく前に。高坂さんともっと話をしたかったな。昼食だって一緒に食べたかった。僕は高坂さんのことを知らない。全く知らないと言ってしまってもいいかもしれない。それなのに、死んでしまった。知る前に殺されてしまった。今では腐って、崩れて、生前の姿を留めていない。こんなことだったら、目に焼きつけておくんだった。もっと話をしておくんだった。昼食を一緒に食べておくんだった。ああ、もっと早く行動に移っていたら! まさかクラスメイトが死ぬとは思わない。殺されるなんて思いもしない。でも、死んでしまった。最早生き返ることはない。喋ることも、昼食を共にすることもできない。永遠にできない。高坂さんは死んでしまった! 僕が恋していた人は!


『で、私の問いに対する答えは?』


 涙は止まってこそいないものの、勢いはピークを過ぎたというタイミングで、虎が返答を促した。分かっているよ、という風に頷き、手の甲で頬を拭う。勢いが弱まっていたため、拭うことで流出を食い止められるのではと思ったが、案に相違して涙は止まらない。目的の達成を断念し、答える。


「恋だよ。僕はその女子生徒に、高坂さんに恋をしていた。……いや、今も恋をしている」

『恋、か……。そうか、私は人間に恋をすればいいのか。恋をすれば、その人間を食べられる。マントに隠れていたとしても、見つけ出せる。……なるほど』


 ミチルの顔をまじまじと見つめ、虎は口角を吊り上げる。


『貴様、まさか、マントを被ってはいないよな?』

「被っていないよ。マントは教室に置いてきたから」

『そうか。つまり、私は貴様に恋をしていないということか。……それは残念だ』


 虎がおもむろに腰を上げたかと思うと、ミチルに歩み寄った。目の前まで来て、再び座る。顔をミチルの顔に近づける。


『取引だ』


 生温かい息が顔にかかり、ミチルは双眸を見開く。


『私は人間を思う存分食べたい。思う存分食べるために、人間に恋をしたい。人間に恋をするためには、まずは恋について知らなければならない。死んだ生徒に恋をしていた――いや、今も恋しているのだから、貴様は恋がいかなるものなのかを把握しているのだろう? だったら教えてくれ。それと引き換えに――』

「引き換えに?」

『貴様が恋をしている女を殺した犯人を捜し出し、かたきを討つのを手伝ってやる。私は強いし、人間ほどではないが知恵は働くし、何より人間たちから恐れられている。何かと役に立つと思うのだが、どうだ?』


 虎が人間に恋をする。それがどのような惨劇を生むかは、考えてみるまでもなく分かっていた。

 それでもミチルは頷いた。


『では、早速教えてくれ。恋の全てではなく、一端を。仮に貴様が私に恋をしているとすれば、貴様は私に対して何をする?』


 涙は既に涸れていた。ミチルは大きく両手を広げ、虎を抱き締めた。終わりと始まりを告げるチャイムが鳴り始めた。

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虎の徘徊、彼女の死体 阿波野治 @aaaaaaaa

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