7-4 真夜中の死闘②

 驚愕と、恐れ。

 それ以外に、今の再牙の心境を正しく定義する言葉はない。


 異次元からの運動量を引き寄せて肉体を強化したバジュラの膂力は、計り知れないレベルまで到達している。

 本気を出さなければ、同様の攻撃をしても防がれてしまうのは明白だ。

 再牙は、ぐっと全身に力を込め直した。無意識のうちに、予断を許さぬ面構えになる。


「驚いたかしら?」


 不敵な笑みを浮かべつつ、バジュラは静かに自慢の長髪を掻き上げて言った。


「ジェネレーターの能力は五つの観点から細分化され、価値化される。破壊強度、効果範囲、発動時間、応用性、そして螺旋進化……私の場合、螺旋進化は最高値のA級判定を受けている。私の能力が、あの頃から更なる進化を遂げていても不思議じゃない」


 言い終えると同時、バジュラの周辺に再び、異相空間のあなが一つ二つと現出した。


「アヴァロ。確か貴方の螺旋進化判定は、最低のE級判定。土壇場で能力が進化する可能性は極めてゼロに近い。つまりこの勝負……更なる高みに上り詰めた、私の勝利ということ!」


 意気揚々と叫ぶと同時、バジュラは深く腰を落とした。

 足元が衝撃で陥没するのも構わず、信じられない速度で再牙目掛けて突進を敢行。


「なっーーっ!?」


 てっきり、異相空間の攻撃が来るものと思っていた。

 予想が外れ、動揺が瞬時に筋肉へ伝わり、回避動作がわずかに遅れる。

 それを逃さぬバジュラではなかった。

 再牙の懐近くまで急速に接近すると、彼女は鋭く呼気を吐き出し、右腕を鞭のように振るった。


 再牙は咄嗟に両腕を十字に重ね合わせ、辛うじてバジュラの痛烈極まる拳打を凌いだ。

 だが、バジュラが纏う運動量の力はあまりにも凄まじかった。

 受けきれなかった衝撃の余波が、腰と脚部に伝わり、膝が笑う。


 またもや生じた隙を今度こそは逃さないとばかりに、槍のごとき勢いで、バジュラが豪速の蹴りを見舞った。

 直撃。再牙の顔面に、激しい痛みが広がった。

 額が割れて血が噴き出し、よろけ気味になるが持ちこたえ、慌てて視界を確認する。

 しかし、すでにバジュラの姿は眼前から消えていた。


「(まさか――)」


 ぞっと、おぞましいものを肌で感じ取った、その刹那。

 再牙は背後を振り向くことなく、反射的にその場に屈み込んだ。と同時に、彼の頭上すれすれの位置で、強烈な空気摩擦が直線軌道を描いて奔った。

 見なくとも再牙には分かった。攻撃の正体が、バジュラの正拳突きであることくらい。

 いくら能力で肉体を強化しているとは言え、直撃を喰らっていたら、深刻なダメージを被っていたに違いない。

 そう自覚してしまうほどの爆裂めいた一撃をやり過ごした直後。


――ッ!」


 獣の如き咆哮が、喉奥から迸る。

 再牙が屈んだ姿勢のまま、両手を素早く地面につけ、倒立ぎみの姿勢から左足を思い切り蹴り上げたのだ。

 バジュラの姿は目視できていない。それでも、彼女が自分のすぐ背後にいるのが、彼にははっきりと感覚できた。

 極限まで鋭敏化された彼の皮膚が、空気の流れと大気の温度を介して、標的の位置を完璧に掴んでいた。


「ぐっーー!」


 バジュラは、蹴撃を避けきれなかった。

 鳩尾に、再牙の左足先が深くめり込む。

 口から、血の泡が噴き出した。

 肋骨の何本かがイカれ、肺がダメージを負った。


 しかし、バジュラは昏倒することなく、逆にその瞳から禍々しいほどの白光を溢れさせた。

 意識せずとも禍々しい忌避感を相手に抱かせる程の、殺意を込めた能力の波動。


 その決定的な予感を受けて、再牙の判断は一瞬のうちに下された。

 俊敏に地面を蹴り、怪鳥のごとく宙へ飛んでみせると、わずかに前後して地面が複雑に波立ち、酷い歪みが生じた。

 その歪みから、瞬きもしないうちに大小さまざまの異相空間が現出し、爆速で上方へ伸長。

 全てを破壊して薙ぎ散らしていく破壊光線の一撃を、再牙は上体を反らすことで辛うじて躱した。


 だが、これで終わりではない。

 間を置かずして異相空間がぼうと輝き、またもや虹色の破壊光線が幾条にも放たれた。

 軌道上にある壁や柱が、ごばっ、という異物音と共に跡形もなく消失していく。

 圧倒的だった。生半可な力で応じてはならぬ、それは魔性の力であった。


 触れれば死が待ち受ける光線の嵐の中、再牙は全ての筋肉を総動員して回避に徹した。

 感覚を月光に輝く白刃めいて悽愴に研ぎ澄まし、壁を蹴り、宙を舞い、柱から柱へ――足場が削られ行く前に別の足場へと跳躍する。


 異相空間は地面のみならず、宙空にも、更には再牙の頭上にも出現して、縦横無尽の光線を放った。

 頭上から、足許から、左右から、前後から。

 ほぼ全方位三百六十度より絶えず襲い来る虹色の死光線を、再牙はほとんど紙一重のところで躱し続ける。

 まさに、入神の域と呼ぶに相応しい体捌き。


 再牙のたゆまぬ回避作戦が実を結んだのか。

 ふっと、全ての異相空間がぼやけ、立ち消えた。

 見ると、先ほどまで余裕の笑みを見せていたバジュラの額に大粒の汗が滲み、その表情に苦悶の色が浮かんでいる。

 さしもの彼女も、これだけ多くの異相空間を長時間保持し続けるのには、心気を大きく消耗するようだった。


 再牙の双眸に青白い火花が散った。

 自身と相手との正確な距離を目測で瞬時に導き出し、絶対の好機を逃さんとする気迫が感じられた。

 もう二度と巡ってこないかもしれない好機を、死に物狂いで奪いにかかる。


 再牙は空中で身を翻すと壁に両足をつけ、とんでもない脚力で蹴った。

 体内の赤血球。その酸素含有量を引き上げ、骨密度を高め、血流速度を向上させ、鋼の肉体をより強靭とす。

 肉体そのものが一つの砲弾となり、打ち破るべき障壁を眼下に見据えて急速に突撃する。


 しかし――そこで、バジュラが再牙に向けて咆哮を鳴らした。

 己の限界を乗り越えんとする叫びだった。


 バジュラが、右手を勢いよく再牙へ向けて突き出す。

 手のやや前方に、異相空間が一つ揺らめいて現れた。


「私の……覚悟を舐めるな……ッ!」


 まるで夜叉めいた迫力があった。

 その麗しき髪からも、均整のとれた体躯からも、恨み節を語る吐息からも。

 バジュラの全身という全身から、どす黒い風圧が発散。

 鬼気迫る魔女の精神力が、能力の限界を超えた瞬間であった。


 それでも、再牙は止まらない。

 このまま直進すれば、まず間違いなく、異相空間に呑まれてしまうのは明らかだ。

 だと言うのに、彼の瞳には死の恐怖に苛まれる者特有の怯えは一切なかった。

 むしろ、生き残るための最善手を積もうとする、覚悟の相がある。

 

「死ねッ! アヴァロッ!」


 処刑の号令と同時、異相空間が虹色の光を放つ。

 極大の死光線が再牙目掛けて超速で発射された。


 再牙の肉体が、今になって減速することは許されない。

 避けることは、どう考えても不可能のように思えた。


 いや、違う。

 再牙にはもとより、光線を避ける気など更々無かった。

 逆の行動に出ようとしていた。

 すなわち、受け止めようとしたのだ。


 ギリギリまで死の光線が迫ったところで、再牙は空中で素早くコートを脱ぎ去り、闘牛士のようにそれを構えた。

 黄色いコート――オルガンチノ。

 いつも一緒にいてくれた火門涼子の形見。

 それこそが、再牙がこの場で切るべきカードだった。


「なにッ!?」


 バジュラが、信じられないといった表情を浮かべた。

 あらゆる物体を分解する異相空間の破壊光線を、オルガンチノが散らしていた・・・・・・

 まるで、サンダーの火花が防火布で散らされるように。

 オルガンチノの生地が、虹色に輝く異相空間の光線を遮断し、完全に無力化しているのだ。


 オルガンチノは、そのポケットが異相空間と繋がっている。

 異相空間の影響に呑まれず空間の形状を保ち、一か所に留めようとする力が働いているのだ。

 それはつまり、バジュラのジェネレーター能力が秘める、エントロピー増大の効果を打ち消す能力があることになる。


 検証したことはない。失敗する可能性は十分にあった。

 だが、やる価値は十分にあった。

 重要なのは、最悪の手札を捨てて最良の手札を揃えることだった。


 オルガンチノの特性に勝負の流れを賭けた再牙の勝利だった。

 逆転の刃が、静かに振り上げられた瞬間であった。


 大きく目を見開き、あり得ない事態に焦るバジュラの眼前を轟と風圧が襲った。

 ひとたまりもない衝撃と共に床が完全に陥没した。

 一個の砲弾と化した再牙の足が、地面を踏み抜いたのだ。


 バランスを失って、地下二階部分にあたる空間へ落下していくバジュラ。

 周囲は暗黒で、空気は冷え、更なる地の獄へ落ちていく。

 掴める物もなく、放り棄てられた人形のような状態の彼女の左脇腹を、鋭い何かが貫いた。

 熱い衝撃。血が噴き出す。

 たまらず声を上げるが、それすらも暗闇に消えていく。


 攻撃の主は再牙。バジュラの脇腹を抉った衝撃の正体は、彼の鋭い貫手であった。

 再牙は攻撃の手を緩めることなく、壁から壁へ飛翔しながらバジュラの全身に乱打を浴びせ続けた。


 腕や脚の骨を何か所か、確実に打ち砕いた感覚を手に覚える。

 それでも恐るべきことに、バジュラが気を失うといった失態を見せる事はなかった。

 絶対にこの殺し合いを制するのだという矜持が、彼女に気絶することを、敗北を許さなかった。


 荒れ狂う拳の連撃を喰らわせ続ける再牙。

 バジュラが地面に激突する寸前、巧みに彼女の右足を掴む。

 躊躇することなく、遠投の要領でバジュラの体を壁へ投げつける。

 重い衝撃が暗闇を盛大に揺らし、闇の中で舞い上がった粉塵が、わずかに差し込む月光を浴びて蒼白く照らされた。


 再牙が地面へ着地。

 粉塵のカーテンの向こう側から、バジュラが起き上がってくる気配はない。

 ただ、何とも耐え難い不気味なまでの静寂が、地下空間を支配していた。


「……何が起こった……」


 再牙がバジュラを投げ飛ばした先を見つめ、呟いた。

 傍から見れば、明らかに再牙の方が優勢に戦闘を進めている。

 しかし、彼の顔からは血の気が失せていた。

 寒気立っているようにも見える。


 不意に、鼻先を異臭がついた。

 紛れもない血の匂い。

 それが己の体から出たものだと、再牙は認めた。

 理解したくはなかったが、認めざるを得なかった。


 痛覚のレベルを能力で制限しているため、痛みはカットされている。

 それでも、右腕を襲う違和感は拭いきれない。

 再牙は現実を受け止めようと、しっかりと己の右腕を見た。

 そこに本来あったはずの腕は完璧に潰れ――オルガンチノの袖を伝って、夥しいほどの鮮血が地面に降り注いでいた。


「だから、言ったでしょう?」


 闇の中。崩れた壁の向こうで邪なる声が反響し、妖気が立ち上がった。

 ぞわりと、悪寒が再牙の背筋を撫でた。


「私の螺旋進化は、A級判定だって」


 陶然と微笑みを浮かべ、闇の中から染み出すようにバジュラが現れた。

 体のあちこちから血を流しながらも、死闘に興じるだけの余力は残っているのが、その獰悪に満ちた眼光からはっきりと感じられた。


 戦慄――再牙の視線がバジュラの右足へ吸い込まれる。

 見ると、そこに明らかな変異が生じていた。

 虹色に輝いているのだ。あの異相空間と同じ輝きを、バジュラの右足が放ち続けている。

 暗黒の夜空にあって、力強く存在を主張する一等星の如く。


「投げられる瞬間に、右足の一部を異相空間と接続させたのか……」


 呻くようにして漏れたその言葉に、バジュラの恐るべき能力新化の痕跡が見て取れた。


「貴方も、中々のものね」


 バジュラが、見下すような視線を再牙の潰れた右腕へと送った。

 もう、使い物にならないのは一目瞭然。

 しかしそれでも、手首からの出血は既に止まっている。

 咄嗟の判断で下した筋量操作で、血管を圧迫しているのだ。


「それにしても、妙な服を持っているのね。異相空間の攻撃を無力化するなんて」


 その台詞には驚きよりも、呆れ気味のニュアンスが込められていた。

 いくら強い武器を持っていもこちらの優勢は揺るがないという意思が、ありありと感じられた。


 バジュラが、ゆったりとした動きで右手を翻す。

 フィナーレへ突入せんと、彼女の周囲に異相空間が幾つも現出した。


 再牙は後ずさり、ついに壁を背にする格好になってしまう。

 右腕を破壊されたショックはそれなりに大きかったが、直ぐに頭を切り替える。

 雑念は一切なかった。どうやって次の手を打つべきかだけを、必死になって導き出そうとする。

 それを思考し続けることが、命の刻を伸ばす最善の手法であると、本能が理解していた。


 最善に近い手は、すぐに脳裡に浮かんだ。

 自身と相手の戦力差を感覚で見極め、一撃を与えるのだ。

 防御に徹しては敗北が近づくばかりだ。


 命の削り合いにおいて、まず重要なのは攻めへの道筋を創ること。

 こちらが相手を圧倒しうるだけの戦闘状況を生み出せれば、勝機は近づく。

 それが定石とされている。


 しかし、その定石通りに事を運ぼうとしているのは、当然ながらバジュラも同じであった。


 異相空間が瞬き、死光線が直線の軌道を描いて発射されたのと、再牙が地面を蹴って上方へ飛翔したのは、ほぼ同時であった。

 虹の嵐が地下を蹂躙する中、再牙は神経の全てを尖らせた。自身が、薄く硬い刃になるような感覚に陥る。

 あらゆる脅威の切先を肌で知覚し、更にその次の脅威を予測し、己の動きを己の意志で完璧にコントロールし続けた。


 繰り広げられる暴威のトポロジカル。

 壁を、柱を、あらゆる障害を灰塵へ帰す破壊光線。

 それが描く幾何学模様を掻い潜りながら、死が間近に迫る最中にあって、再牙の視線は未だに一歩もその場から動こうとしないバジュラへと向けられていた。


 破壊光線が描く文様は一見して複雑だが、それを構築しているのは全て直線的な軌道のみだ。

 実に単純明快な攻撃であり、見切るのに目はもはや必要なかった。

 ただ、経験と能力に任せれば事足りた。


 再牙が少しずつ余裕を取り戻している姿を見て、バジュラは激しく憎しみを募らせていった。

 癇癪を起したように左足を踏み鳴らすと、運動量が爆裂をかまし、室内全域にとてつもない震動が奔った。

 衝撃で、巨大な柱の一本が根元から崩れ去る。

 柱が倒壊する位置は丁度、再牙が次に跳ぶべき軌道と殆ど被っていた。


 破壊しろ――本能が、再牙の脳裡に強く囁きかけてきた。

 その囁きに脳よりも体が最初に反応した。


 再牙は飛翔しながら素早く左手でマクシミリアンを構え、倒れ込んでくる柱に向けて砲撃を行った。

 爆炎と破片が舞い散った。

 再牙は前者には目もくれず、後者の存在にのみ意識を傾けた。


 もう一方の柱へ滑り込むように身を隠しながら、バジュラははっきりとそれを見た。

 再牙の足が、十センチにも満たない柱の破片を踏んでいるのを。


 筋量操作と骨密度操作により、自身の体重を数瞬、スポンジと同等の重さにまで減少させ、次の一瞬で元通りに体重を戻して破片を踏み抜いて次の破片へ飛び移る。

 その際には想像しがたい負荷が再牙の全身を突き刺すかのように駆け巡るが、その痛みすらも、彼は痛覚のレヴェルを下げることで耐え抜いていた。


 バジュラが何事かを大声で叫び散らしながら、両手を天へ向けて掲げる。

 またもや出現した異相空間が、再牙の姿を捉えて疾駆。

 轟と音が爆ぜて、死光線がラピッド・ファイアの如く発射されるが、その悉くを、オルガンチノが弾いていく。


 防がれるのも構わずに、死の連撃光線を浴びせ続けるバジュラ。

 破片を踏み抜いて移動しながら、それをオルガンチノで弾く再牙。


 執拗な矛と盾の争いの中、両者の視界が段々と灰色に曇っていく。

 壁という壁が戦闘の衝撃でもろくも崩れ去り、もはや部屋とは呼べない、ただの空き地も同然の状態と化していく。

 吹き飛ぶ大量の破片と轟音が辺りに立ち込め、再牙の視界は完全に不良となった。


 争いは既に、肉体の強さは元より精神の頑強さを競うデス・ゲームの域へ到達していた。


 少なくとも再牙にバジュラは殺す気は全くなかったが、バジュラ自身は相手に手心を加える気はまるでなかった。

 当然だ。これはバジュラにしてみれば、己の正義を証明し、自身の過去へ決着をつけて幸せを勝ち取る、血を伴う儀式なのだから。

 彼女の精神に根付いているのは、純然とした殺意だけだ。

 その殺意さえ感知できれば、視界の悪い場所であろうと、彼女の居場所は容易に割り出せると再牙は考えた。その筈であったのだ。


 先ほどまでの争いが嘘だったかのように、水を打ったかのような静寂に包まれる。

 ひとまず地面へ着地した再牙は、マクシミリアンを左手に持ったまま、暗黒の粒子が立ち込める周囲へ視線を配った。


 粉塵の密度が低下し、視界が晴れることを待っているのか。

 それとも、それ以外の別の何かを考えているのか。

 再牙は感覚を研ぎ澄ませてバジュラの出方を伺う。


 死光線による攻撃がないところを察するに、体力が奪われるのをを防ぐためか、異相空間は全て閉ざしたものと思われる。

 しかし、それ以外の動きはまるで読めなかった。気配すらもだ。

 聴覚、触覚、視覚を鋭敏化させているというのに、感じるのは風の音と、魂の芯まで凍えてしまいそうな夜風の冷たさだけだった。


 それが突如として轟音と共に打ち壊された刹那、猛烈な違和感を再牙の耳が捉えた。

 強化された聴覚が爆裂した轟音の影にもう一つ、他とは違う別の音を感じ取った。

 それが明確な悪意の込められた足音であると分かったのと同時、彼の耳元に生暖かい吐息がかかった。


「ようやく、捕まえたわ」


 おぞましいほどの、バジュラの声。


 振り返ろうと身を捻る再牙だったが、左手首に強烈な圧迫感を覚えた。

 突如として彼の視界が反転し、猛烈な勢いで地面へと叩きつけられる。

 マクシミリアンが手を離れて宙を舞い、地面へ叩き落された。


 とんでもない衝撃であった。

 肉体を能力で強化していなければ、この時点で既に彼の肉体から魂は離れてしまっていたであろう。


 ようやく捕まえた――まさにその言葉通りであった。

 バジュラの細く、しかし運動量の付与により強化された右腕が、がっしりと再牙の左手首を掴んでいた。これを手に入れたかったのだとばかりに。


 バジュラは、あの粉塵の霧の中にあって自身の胸部に異相空間を出現させていた。

 つまり一時的に心臓を別次元へと飛ばし、自らを仮死状態へ追い込んでいたのだ。


 再牙の五感が完璧に知覚できるのは鼓動を打つ生命のみ。

 一時的にとはいえ、死の床に伏した人間の気配を探ることは不可能。

 能力の虚を寸分の狂いもなく突かれた、愕然とする戦法であった。


「ぐっ……おぉぁ……!」


 再牙の左手首を掴むバジュラの右手に、ぎりぎりと力が入る。

 彼女の右腕が稲妻の如く闇を撫でれば、面白いように再牙の体が宙を舞い、再び地面に叩きつけられた。


 休む暇も与えないとばかりに、三度バジュラが右腕を振り薙ぐ。

 今度は崩れた柱の一角に、再牙の顔面が叩きつけられた。


 もはやこれは、人体を使ったヌンチャク演武であった。

 逃げようにも逃げられず、反撃しようにも反撃できず。

 ただ再牙は、バジュラの為すがままに身を預けるしかなかった。


 地面に頭から激突し、足を柱にぶつけられ、壁に背中を強く打ち付けられる。

 内側から膨れ上がる灼熱が、細胞の一つ一つを焦がしていく感覚。

 いつ終わるともしれぬ徹底的な肉体への攻撃が、再牙の命を削り取っていく。


 骨密度と筋量を最大限にまで向上させて猛攻を凌ぐも、物事に限界はつきものだ。

 圧倒的破壊の嵐に晒され続ければ、流血も滂沱ぼうだの如く起こるもの。

 オルガンチノはぼろ雑巾のように破れてしまうばかりか、左足も右足も、皿が粉々に破壊され、肉を突き破って骨が露出する有様であった。

 左腕だけが辛うじて原型を留めてはいたが、それもいつ潰されるか分かったものではない。


 だが、それは攻撃を加えている側のバジュラも同じであった。

 彼女の右腕もまた、付与し続けた運動量の負荷に人工強化された肉体が耐え切れず、ねじれた棒切れのようになってしまっている。

 それでも彼女は攻撃を止めない。


 バジュラは、どこか歪な笑顔を浮かべるばかりであった。

 それは、心からの笑顔であった。


 これだったのだ――赤黒い血をおびただしく流し、今やただの人形と化した再牙の哀れな姿を目で追いながら、彼女は歓喜に打ち震えた。

 正しさと幸せを無意識のうちで天秤にかけ、そのどちらもが心のうちで均衡を保っていた。


 これを待っていたのだ。

 未来を照らす光。それが映し出す影が、今、目の前にぶら下がっているとバジュラは直感した。

 逃すわけにはいかなかった。

 歩むべき道がすぐその先に開けているのを、確信した笑みであった。


 バジュラの心の叫びが、そのまま歓喜の喜びとなった。

 呪われた過去に立ち向かい、今やそれを克服しかけている自分の姿に、彼女の心は艶やかに歪み続けた。

 自身の右手と再牙の左手首。もはやその境界は曖昧で、互いが互いの一部になったかのような錯覚すら覚え、何とも例えがたい快楽の波が全身を激しく貫いた。

 魂の悦楽は彼女の肉体にまで影響を及ぼし、両足の間から生暖かい液体がちろちろと流れ出るのもそのままに、彼女は息を荒げて死の演武を続けた。


 絶望的なまでに繰り返されたその演武も、十数分経過としたところでようやく終了した。

 バジュラは、もはやただの枯木となった右腕に最後の力を込めて、地面に倒れ伏した再牙の頭を無理やり掴み上げた。


 今の再牙は酷く醜い有様であった。

 十人が十人とも思わず目を反らすであろう、凄絶な姿。

 頭皮の一部が剥がれ、左目が半分飛び出し、両足は立つのもままならないほどに砕けている。

 破壊の残り香が彼の全身を包み、なおも見えない衝撃に蹂躙されているかのようである。


「哀れね……本当に哀れよ……そして美しい、アヴァロ」


 バジュラは目を細め、生気を無くした再牙の顔に唇を近づけると、頬に刻まれた傷痕を流れる赤い滴をぺろりと舐め、飲み込んだ。


「貴方って意外と、可愛い顔してるのね。その醜い傷も、こうしてみると凄くチャーミングよ。安心しなさい。昔のよしみで、お墓だけはつくってあげるから――」


 死の宣告を終えそうな時だった。

 謳うように語っていたバジュラの言葉が、異音と共に遮られた。


 瞬間、彼女の目の前に広がる闇が白熱し、開かれたはずの未来への道が、無情にも閉ざされる音がした。

 打ち払ったはずの忌むべき過去が、紅く燃え、猛然と襲い掛かってくる。

 耐えがたい恐怖が、したたかに彼女の全身を撃ち抜いた。


 驚愕と、絶望と、後悔と――あらゆる感情が心を揺さぶる中、バジュラは視線を己の腹へと向けた。

 信じられないという表情と共に、彼女の双眸は確かに映し出していた。

 自身の腹に食い込む左拳の存在を。

 それを認めた拍子に、何かがせりあがってくる。

 こらえ切れず、バジュラは猛烈に吐いた。

 黄色く濁った吐瀉物が、腹を貫いた再牙の腕にかかり地面へと落ちる。


「勝手に……死んだことにしてんじゃねぇぞ」


 ぎらりと、眼光が一つ――再牙の魂が、激しく明滅。

 身を焦がす苦境に身を晒され続けて打つ手がなくなっても、それでも彼は、生きる事を諦めない。

 真なる人間の精神の輝きが、そこにあった。


 肉体強化の能力が、時間切れによる強制解除を迎えるまで、あと十分。

 再牙の双眸に灯が宿る。

 砕け散りかけた意志に活を込めるかのように彼は吠えた。魂からの叫びだ。

 ここにきて初めての咆哮であった。


 両足から血が噴き出すのも構わずに、彼は立ち上がる。

 その野獣の如き鋭利な視線が、茫然と立ち尽くすバジュラの姿を捉えた。


 再牙はバジュラの腹部から血まみれになった左腕を引き抜くと、腰を急旋回させて風を巻き込み、爆速の如き勢いで腕を振るった。

 バジュラも応じるが、何を思ったか、既に使い物にならぬ右拳で、再牙の必死の一撃を受け止めようとしまっていた。


 明らかなミスだ。判断を誤った要因は、既に闘いは決したものとして心の帯を緩めた彼女の怠慢だけにあるのではなかった。

 再牙が振るった腕は、手首から先が吹き飛んで本来の役割は機能しないであろう右のかいなだった。その事実に、バジュラは激しく動揺してしまっていた。


 なぜ、あえて右腕で――バジュラの脳裏に沸いた疑問に、応える声はない。


 再牙の潰された右腕に猛烈な筋力が甦る。

 風を切って奔るその攻撃を、バジュラの右腕は防ぎきれなかった。

 至近距離でマグナムを撃ち込まれたかのような絶なる一撃が、バジュラの右拳をぐしゃぐしゃに破壊する。


 痛みに耐えかね、猛烈な叫びを上げるバジュラ。

 視界が暗転しかねないほどの激痛に意識を奪われかけた刹那、彼女の体の芯をまたもや耐えがたい衝撃が襲った。


 再牙の渾身の蹴りが、彼女の股間を撃ち抜いていた。

 反撃に転じる事も出来ないバジュラを、なおも再牙の牙が襲う。

 左拳の正拳突き。それは見事にバジュラの正中線を捉え、この闘いにおいて一番の打突を与え込むことに成功した。


 獰猛なインパルスの牙が、バジュラの体の中心に勢いよく噛み付いた。

 想像を絶する波動が全身を襲い、反対側の壁に強く背中を打ち付けられるバジュラ。

 そのままずるずると、力なく地面に尻もちをつく。


「終わりだ、バジュラ」


 よろめく足取りで、彼女に近づく再牙。

 まだその瞳は蒼く燃え輝いているが、声の調子には嘗ての同胞を労わる想いが込められていた。


「もう、諦めろ」


「黙れ……ッ!」


 朦朧とする意識の中、バジュラが起き上がる様子を見せる。

 なんという執念。なんという覚悟か。

 肉体強化の能力としては最高峰に位置する再牙の渾身の攻撃を数発喰らいながらも、肉体が千々に千切れそうな激痛に全身を嬲られながらも、命ある限り彼女は闘うつもりでいた。


「それを決めるのは、アンタじゃない……ッ!」


 残った左手で、宙を撫でるかのような仕草を見せようとする。

 往生際悪く、またもや異相空間を呼び出そうとしているのは明らかだ。


 しかしながら――どうしたことか動かない。

 腕どころではない。

 指一本すら動かせない。

 体が負った深刻なダメージのせいでもあるが、もっと大きな原因があった。


「体……動かねぇんだろ。なんでだか分かるか?」


 再牙はバジュラからやや離れたところまで来ると、歩くのももう限界だとばかりにぺたりと腰を下ろして、彼女の全身を襲っている奇妙な現象の正体を明かした。


「お前さっき、俺の血を舐めただろ。それのせいだ」


「な……に……?」


「お前も知っての通り、俺の能力は肉体と五感の強化だ。こと肉体に限っていえば、俺は細胞の一つ一つに至るまで強化することができる。言い換えれば、俺は自分の肉体そのものを俺の意識下に置いているってことだ。肉体……骨や血も、全てだ。それは俺の肉体を離れた後も、一定時間は俺の支配下にあり続ける。意味が分かるか」


「まさか……血を介して……」


「そうだ。俺は、お前が舐めとった俺の血を介してお前の肉体を支配している。効果時間は……およそ半日ってところだろう。部隊にいた頃は黙っていた、俺の切り札だ。知らなくて当然だ」


「この展開を……読んでいたの……?」


 呻くようなバジュラの問いかけに、再牙は静かに首を振った。


「たまたまだ」


 そこから、互いに黙り込む。

 時間にしてほんの数秒に過ぎなかったが、再牙にとっては、永い永い、終わりどころの分からない静けさだった。


「あなた、本気じゃなかったでしょう?」


 バジュラが呟くように言った。

「どうして分かった」とは、言わなかった。

 ため息混じりに、バジュラがまた、口を開いた。


「なんで、私を殺さないのよ」


「……俺は、もう誰も殺したくない。殺されるのも嫌だ。我儘だと思うだろうが、もう、人殺しはごめんだ」


「……それ、本気で言ってる?」


「ああ」


「だとしたら、アヴァロ、あなた、この後私をどうする気でいるの?」


「俺は、別にどうもしねぇよ。機関の奴らにお前を引き渡して、そこで終わりだ。あとは、あいつらが決める事だ……幻滅したか?」


「何が?」


「俺が、あいつらと組んだこと」


「…………ふふっ」


 くすりと、バジュラが笑みを溢した。

 先ほどまで見せていた圧倒的悪意に満ちた顔は、そこには無かった。

 悪童が悪戯を閃いた時のような、少し相手を困らせてやろうという響きがあった。


 だが、あくまでそれは表面上の話だ。裏にはバジュラの後戻りできぬ必死の覚悟があった。

 勝負には負けても勝利だけは掴もうとする姿勢。

 このまま過去を克服できずに終わるのなら、自身の正義が貫けずに終わるのなら、別の方法へ身を委ねるだけだという壮絶な想い。 


 己の根源を縛る見えない鎖を自分自身の手で断ち切ろうと、バジュラの瞳に最後の光が灯った。


 力を軽く入れるだけで、体内に巣食った再牙の血が即座に抵抗反応を示す。

 痺れが神経のあちこちに伝わる。全身が痙攣するかのように震えるが、必死になってバジュラは左手を動かそうともがいた。


「無駄だ、止めておけ」


 バジュラの動きを気配で察知した再牙が警告を送る。

 彼の視線は明後日の方向へ向けられ、バジュラの姿は完全に視界の外にあった。


 一々、目視で確認する必要が無かったからだ。

 彼の血が彼女の行動をロックしている以上、どう頑張っても抗えないことは誰が見ても明らかだった。


 しかし、それでもバジュラは諦めない。

 歯を食いしばり、喉奥から唸るような声を上げた。

 罠にかかった獣が、必死にそれを振り解くような姿に似ていた。


 自分を地の底へ引きずり込もとする何者かを突き飛ばし、正義と幸福のどちらも手に入れる。

 それもまた、まごうことなき人のあるべき姿であった。


 蜂がすぐ耳元で舞うような音が、再牙の鼓膜を振るわせた。

 はっとして振り向いた時、再牙は刮目した。


 バジュラの直ぐ真上に、虹色に輝くそれが、大きく展開している。


「私の勝ちよ。再牙」


 そう告げて、バジュラは会心の笑みを浮かべ、続いて何かを囁いた。

 苦楽を共にした仲間へ向けた最後の呟きは、別れの言葉でも、恨みの言葉でもない、全く別の意味合いが込められた言葉だった。

 

 どん、と激しい衝撃が大気を揺らして、バジュラの体に大きな穴が開けられた。

 止めを刺した虹色に輝く異相空間は、死光線の残渣を残して幻のように消え去った。


 残されたのは、胸の中心から零れ出る赤い命と、虚を突かれてただ茫然とする再牙の姿。


 それだけだった。

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