arson

めぞうなぎ

arson

 飛んで火に入る夏の虫、と言う。

 飛んでいたから火中に飛び込むのか、虫だから火中に飛び込むのかは知らない。一つ確かに言えることは、その先に栗はないということだ。俺は儚さに抱くような憧れは、焦がれる焦がされる気持ちは持ち合わせて生まれてこなかった。臍の緒が教えてくれたのは、焦がす喜びだった。

 俺には定住の地もなければ、知り得る限りの親族もいなかった。元々俺の親がまともな親戚付き合いをしていなかったせいもあるが、一番大きな、直接的な原因は俺が焼き殺してしまったからだろう。

 俺には『マッチ一本火事の元』という得体の知れない霊が憑いているらしかった。らしかった、と不確定なことしか言えないのは、ある寂れた駅前で易者をしていた小汚い老人からこの事について聞いたのだが、彼の発音が不明瞭だったからだ。ともかく、まともに聞き取れた限りで確言するならば、「お前さんには放火犯の才能がある」とのことだった。

 まだ二桁にもならない、年端のいかない子供だった俺は、家に帰ると手当たり次第火気にまつわるものをいじくり回した。コンロ、ストーブ、線香、チャッカマン、ロウソク、ライター、料理用油、自家用車のガソリン、虫眼鏡。そしてマッチ。この中で、マッチだけは俺にとって特別だった。燃えろ、と思えば直ちに発火し、数秒の内に捩れた燃え滓になった。仏間から何本か失敬して、家のガレージで、近所の空き地で、河原の草むらで試した。一度も失敗しなかった。魔法のようだった。だが、誰かの目の前で披露するにはリスキーに過ぎた。小学校の理科の実験で、マッチ一箱を全て灰にしてこのおかしな力を見せびらかしてみた時、疎むような目を向けられた。その時は笑って誤魔化したが、人というのは超常的な出来事に遭遇した時、咄嗟に拒否反応を起こしてしまうもののようだ。それからしばらくは、俺はこのことを忘れようと努めた。

 ある日俺が帰宅すると、家の中から上擦ったいくつかの声が聞こえた。外から居間の窓ガラスを覗き込むと、父親と母親と、俺の知らない女の人が一堂に会していた。暫時聞き耳を立てていると、どうやら父親が外に女を作っていることが露見したようだった。大の大人三人が、みっともなく感情を剥き出しにして言い争っていた。その光景を目の当たりにした俺の中から、何かが抜け落ちる感覚がしたのを今でも覚えている。それは愛への盲目的な信頼とか、両親への盲目的な愛情とか、そういうものだったのかもしれない。こっそり屋内へ忍び込んだ俺は、気配を殺して居間以外の全ての部屋の窓を閉め、鍵を下した。病気で伏せっている祖父の部屋は、身体に障るからという理由でいつでも窓は施錠されていた。俺とマッチが出会った仏間の戸棚から、買い溜めてあるマッチの大箱をあるだけ取り出した。祖父の物忘れは年を追うごとに酷くなる一方で、新しい箱がいくつあっても、外出のたびに予備を買ってきてしまうのだった。畳の上にありったけのマッチを開けた俺は、襖を後ろ手に閉めながら、燃えろ、と願った。綺麗じゃない父も、綺麗じゃない母も、両親の小競り合いの種になっていた死期の近い祖父も、皆燃えてしまえ、と思った。玄関を出た俺は、首から下げていた鍵で最後の扉を閉めた。

 川の流れを見たくなったので河川敷に行って時間を潰していると、遠くから甲高いサイレンの音が聞こえた。

 夕闇が視界を遮る頃に来た道を辿ると、ほぼ全焼した俺の家が見えた。消防車や救急車やその他諸々がごった返していた。結果として、父も母も重度の火傷を負ったせいでそれほど間を経ず他界した。朦朧とした二人から大人たちがどうにか聞き出した話によると、居間の窓は鍵が開いていたにもかかわらず、煙に気付いて逃げ出そうとした方向は玄関口だったそうだ。緊急時にも普段通りの道筋を辿ろうとしてしまうのだから、習慣というのは怖い。煙に意識をやられ、築材の下敷きになり、救助が遅れたそうだ。女はすばしこく這い出して軽度の火傷で済んで生き延びたが、顔面に一生残る傷跡をつけていた。冬だから、よく燃えただろう。祖父は骨の一部しか発見されなかった。

 その後は、遠い遠い縁も所縁も薄い親戚の間を腫物扱いされて(火傷だしな)たらい回しの憂き目に遭ったり自治体保護のお世話になったりと口が憚る時分を過ごしたが、どうにか高校を卒業してどこの馬の骨とも知れない三流大学に学費免除で寄生し大卒の学位だけ貰っておいた。それからは、親の保険金をゆっくり食い潰しながらずっとぶらぶらしている。南に行くこともあった。船旅で長い時間をかけて海外に行くこともあった。実家の焼け跡に新しく居を構えた家族の団欒を見に行ったこともあった。

 その間、俺は『マッチ一本火事の元』との付き合い方を模索していた。金にならないことは初めから分かっていた。今時マッチでは映えるものも映えない。だから、むしゃくしゃした時のストレス発散方法としてお世話になっていた。嫌いな同級生のカバンをグラウンドの真ん中で燃やしてみたり、帰途の民家の犬小屋を燃やしてみたり、コンビニ店頭のゴミ箱を燃やしてみたり。いつでも俺のポケットにはマッチが入っていた。時々お縄になりそうな瞬間もあったけれど、その時はまた別のものを燃やして有耶無耶にした。小さな炎より大きな炎、彼岸の火事より此岸の火事だ。

 大学で煙草を覚えた。ちょっと昔なら有用極まりなかっただろう力も、ライターや電子煙草の時世には紫煙の向こうで霞んでいる。それでも、自宅でくゆらす時には必ず小さな火事を起こすのが癖だった。ライターを忘れてマッチで火を点けた時には、若いのに渋いね、なんて喫煙所でおじさんに言われたものだ。渋い俺は、喫煙所横の観葉植物を燃やして帰った。

 まだ昼過ぎだった。太陽は高い。商店街を歩く俺の脇で、絶え間なく人並みが流れていく。紳士服店。ファッションショップ。ラーメン屋。ハンバーガーチェーン。居酒屋。書店。なんて燃えやすそうなものが溢れているのだろう。燃料を使って燃えるものが作られている。燃えるものが燃えるものを着て、燃えるものを食べ、燃えるものを出す。おかしなサイクルだ。この辺り一帯が一息に燃えれば、さぞかし爽快な眺めだろう。俺は、炎の色が、魚肉ソーセージのフィルムみたいな色が好きだった。

 一服したくなって、道端のシャッターが下りた店先に逸れる。人混みの中で吸うと、決まって一人くらいは文句を言ってくるものだが、大体は誰にでもいいから何かしらについてつっかかりたいだけで、ひとしきり私情をぶちまけた後は勝手にすっきりした顔をして立ち去っていく。唇に咥えたまま懐をまさぐりライターを探すものの、生憎オイルがほとんど残っていない状態で使い物にならなかった。ではマッチ、と思って小さな箱を取り出すと、いつもは鳴るカラカラという軽い音が聞こえなかった。中をあらためると案の定、マッチの方も新しく補充するのを忘れていたらしく、燐で擦れた底面しか目に入らなかった。万策尽きた俺は視線を周囲に走らせ、同類を探す。時間が悪いのか、火を分けてくれそうな目ぼしい人物はいなかった。わざわざ通行人に呼び掛けて訴えかけるほどの事でもないだろう。眉を顰められるだけだ。人差し指と親指で煙草をつまみ、戯れに太陽に翳してみる。大きな棒付きキャンディーのように見えただけだった。もう片方の手で弄んでいたマッチ箱に目を遣る。キセルのラベルの横に、俺には長らく縁のなかった荒い面がある。あることを閃いて、煙草の先とその面を対峙させる。可憐な火花は咲くだろうか。

 二つが行き違った。

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arson めぞうなぎ @mezounagi

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