ギターから歌声が聴こえる

御手紙 葉

ギターから歌声が聴こえる

 初日の出を見に来たのは、たぶんもう十年振りぐらいになるんじゃないかと思う。それも、僕と彼女しか知らない、隠れた丘の上でのことだ。まるで世界が朽ち果てて、新しい生命が息を吹き返したような、そんな神秘的な瞬間だった。

 僕らは確かにその丘の上にいて、燃えつくような日の出の光を額に熱く受け止め、微かな感慨と余韻を感じながら、そっと指を絡ませている。彼女の指は現実味がないくらいとても冷たくて、握り締めてしまえばすぐに消え失せてしまいそうな、そんな儚さを持っていた。

 でも、間違いなく彼女はここにいる。僕はその冷たい弦の感触を掌に感じて、白い息を吐きながら、心の中で彼女の温もりを探していた。そしてそれは、繋がれた指と指の触れ合った部分から、涙が零れ落ちるように体に循環し、回っていくのだ。

 僕らの音楽が、命の鼓動と共にこの星を巡るように。

「こうして日の出を見に来たのも、本当に久しぶりだよな」

 僕が感慨深くそうつぶやくと、彼女はふっとこちらに振り返って笑い、「そうね」と短い言葉を零した。どこか疲れたような、でも微かに光を見出したような、期待を感じさせる声だった。

 僕らは確かに大変な目に遭ったけれど、こうしてそれを乗り越えてしまえば、すぐに現実は結果として戻ってくる。僕はただ自分のできることを信じて突き進み、誰かの笑顔を花開かせることに尽くすべきなのだ。

 彼女は僕の顔をしばらくじっと眺めていたけれど、ふっと笑って再び初日の出へと視線を向けた。心なしか、日の出を見ている彼女の瞳は輝いているように見えた。それは太陽の光ではなく、彼女の心から放たれる魂の輝きだった。

 僕はそれを目にして、一体、自分は彼女の為に何ができるんだろう、と思った。ギターを握って歌うことしかできない僕が、心から彼女の為にできること。それはやっぱり、歌うことだけなのだ。

「ねえ、私達が出会った瞬間って、いつだったか覚えてる?」

 突然そんな言葉を零す彼女に、僕は少し躊躇って視線を彷徨わせたけれど、「委員会で一緒になったことじゃないかな」と記憶を辿りながら言った。

「これが、違うんだな」

 彼女は僕の手の甲を指で弾きながら、日の出を見つめて楽しそうに語り出した。

「私がさ、公園で泣いていた時に、大丈夫? って声を掛けてくれたの。学校は休みで、たぶんお互い部活動の帰りだったんじゃないかと思う。私はその時テニス部で、レギュラーを外れて泣いていた。すると君がやって来て、ふと私を見つめて立ち止まった後に、自分が今開けようとしていた缶コーヒーを差し出してくれたの。そして、飲む? って一言……それだけ言って缶コーヒーを渡すと、そのままどこかに行っちゃったわ」

 僕はそのことを必死に記憶を辿って思い出そうとしたけれど、意識の奥底から明確な答えは返ってこなかった。

「そんなことあったっけ? 確かにそんな出来事があったような気もするけど」

「なんかね、そのやり取り、十秒くらいだったんだけど、私は君の顔覚えてて、君はもうそんなこと忘れてて、委員会で隣の席になった時に初めて私はこの人だって気付いたんだ。だから、それから、密かに君のこと窺ってた」

 僕はそこで視線を落とし、しばらく考えていたけれど、やはりそれには身の覚えがなかった。もしかしたら、別人かもしれない。でも、もしかしたら僕かもしれなかった。それはわからないのだ。広い海の底に沈んだ貝殻を、二度と取り戻せないように、記憶の欠片は星の軌道に乗って、遠くへ運ばれてしまった。

「それからお互い大学に入学して、そこで再会したわよね。君は音楽一筋で、大学なんか本当は行きたくなかったって言ってたけど、実際不安だったんでしょ。私はテニスから離れて、大学でやりたいこと探してた。そして、君が音楽を私に勧めてきて、一緒にユニットを作った。それからずっと今まで一緒にやって来たけど、君はある時こう言ったわよね」

 音楽を志す仲間としてじゃなく、お互いを知る同志として。

 僕と一緒にいてくれないか、と。

「君の言葉の意味はわからなかったけど、私も君と一緒にいるのが本当に楽しかったから、ずっと一緒に音楽で走ってきたよね。でも、私が病気で倒れた時、君はそれでも音楽に向かって走り続けた。私の星が軌道から外れて宇宙を漂っていても、君は私を引っ張って、星の軌道に戻してくれた。それはね――君がどんなに私の為に何もしてやれなかったと思ってても、私にとっては本当の救いだったんだよ」

 彼女は僕の指を握る手に力を篭め、ぎゅっとそれを胸まで運んだ。すると、彼女の鼓動が僕の掌に届く。ドクン、ドクン、とそれは脈打ち、日の出の爛々と輝く瞳に移り、命を通い出す。それはきっと、生命の萌芽と、僕の音楽の脈打つ鼓動が、溶け合った瞬間なのだ。

「だからね、私をこれからも引っ張っていって欲しいの。君は夢を手にした。そして、私も君といれば、夢を共有できる。お互いを知る同志として、一緒にいるって決めた人だから、私はいつまでも君の音楽をこの胸に感じているよ。だから、笑っていて」

 そうして彼女はふわりと桜色の唇を開き、その実をぽつりと零し始めた。その歌声はギターの旋律に乗ってまるで日の出に瞬く炎が揺らめくように、僕の瞳の内で輝き出す。それは太陽の軌道に乗った彼女が描く、お日様の歌声なのだ。

「君が泣くときは きっと そこに音楽が通っていると 信じている

 君が笑うとき そこにきっと 私の血が通っていると 信じている

 まさに太陽が煌めく軌跡の中に 君がいる

 そして 私は君の中に音楽の鼓動を見つけることができる」

 それは彼女の心から零れてきた歌の一つだった。まるで星の軌道に乗った彼女が、太陽の輝きを桜色の唇から零したように、それはふわりふわりと宙に舞い、桃色の吹雪を霞ませる。日の出と桜が溶け合った瞬間、僕らは地球の上のとある丘にいて、そして魂を通わせることができる。

 確かに、彼女はここにいる。僕の指先に触れている。

 それは彼女が、僕を忘れずにこうしてギターの音色を届けてくれるからだ。

 僕はギターの弦に指を走らせ、彼女の歌声にアルペジオを乗せていく。それは二つの星の軌道が絡み合う瞬間の、一年の始めに起こった奇跡だった。

 奇跡は軌跡の中に、そして、僕は彼女の音楽の中にいる。

 そして勿論、彼女であっても、同じことなのだ。

「君が迷うとき きっとそこに 光の道筋がある

 君が歩き出したとき ふわりと 太陽の輝きが走る

 まさに太陽が煌めく軌跡の中に 君がいる

 そして 私は君の中に音楽の鼓動を見つけることができる

 この日の出を見ながら 私は思う」

 彼女はゆっくりと長い髪を舞わせながら、心から吹っ切れたように笑っている。そこから零れ落ちる桜色の吐息も、歌声に満ちている。そして、僕はギターを弾いている。彼女が僕と出会ったという、あの公園の丘に来て、ギターを弾いている。

 それはきっと日の出を見ながら思う、この世の奇跡なのだ。

 そして、彼女が僕の心にすっと入り込んだ、暖かな元日の奇跡なのだ。

 もうこの世にいない彼女が、汗と血の匂いがするギターに魂を吹き込んで、僕を支えてくれている。僕はギターをぎゅっと握ったまま、彼女の歌声を心の中で感じて、ギターをかき鳴らす。それは荒々しく、そしてひっそりと情熱的に。

 丘の上のベンチには、僕の姿しかない。周囲に広がる草木の芳香も、山の隙間から昇ってくる日の出の光に掻き消されて、どこか曖昧だった。そして、僕は彼女がいないこの年の始めに誓いを立てる。

 僕は彼女と共にいて、お互いを知る同志として、ギターを握る。

 そして、幾千もの人々に歌声を届けよう。

 涙の熱さを頬に感じたその時には、その丘に待ち人がやって来て、僕のすぐ傍らに立った。僕の視線の先にある日の出を同じように見つめながら、「落ち着いたか?」と聞いてくる。

「もうそろそろ出発しないと、元旦のライブに間に合わないぞ。スタッフが待ってる。行くぞ、龍人」

 僕はすっと振り向き、その黒いスーツの男を見つめながら、微かに笑った。そして、アコースティックギターをギターケースに入れると、ふわりとそれを担いだ。その待ち人に続き、サングラスを掛けて歩き出す。

 まだ見ぬ光の先に未来を見つけるように、僕は無数の星の軌道へと向かって、今、旅に出る。

 ふわりと桜色の吐息を指先のギターケースに感じながら。


 了

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