第22話守りたかった人

 十六夜湖に着くなり僕は転がるように車から出て、辺りを見回した。河野ちゃんの姿を必死になって探す。


「河野ちゃん! 河野ちゃん、居るなら返事してくれ! 河野ちゃん!」

 周りの人々がこちらを奇異な目で見てくる。そんなの関係あるか。今は河野ちゃんが大事なんだ。

 僕は湖を見る。夕日は沈み、暗くて人の顔がよく見えない。乗っている人は少ないから、その内の誰かかもしれないけど――


「すみません、この子見ませんでしたか?」

 梅田先生がスマホを片手にまばらになっている人々に訊ねる。しかしあんまり芳しくないみたいだった。

 僕は不意に思いついた。貸しボート屋の人なら知っているかもしれない。もしもボートを借りていたとしたら、それはそれで最悪のことだけど、可能性としては低くない。


「すみません、この子見ませんでしたか?」

 僕は貸しボート屋のおじさんに近づいて訊ねた。するとおじさんは困った顔をした。

「ちょっと、そんなところに車を――」

「後でどかします! この子が死にそうなんです! 殺されそうなんです!」

 多分僕の顔は必死の形相だったに違いない。おじさんは少し怯みながらもスマホを見てくれた。


「うん? ああ、その子ならついさっきボートを借りていったよ。確かお父さんも一緒で――」

「本当ですか!?」

 僕は梅田先生を呼んだ。

「梅田先生! ボートに乗ってますよ! こっち来てください!」


 梅田先生は走って僕たちのほうへやってくる。

 その間、僕はボートを貸してほしいと言った。

「良いけど、その子が死にそうだとか殺されそうだとか、一体どうして――」

「話している時間がないんです! お金は後で払いますから! お願いします!」

 貸しボート屋さんは事情が分からないなりに急いでボートの準備をしてくれた。

 梅田先生はスマホで誰かと通話している。多分警察の人だろう。


「さあ、準備ができたぞ。俺も一緒に乗って漕いでやるから」

「――っ! ありがとうございます!」

 おじさんは四人乗りのボートに乗り込んだ。僕も梅田先生も一緒に乗った。

 おじさんは当たり前だけど慣れていて、速いスピードで湖を渡っていく。

 僕と梅田先生は湖を必死で見回した。どこかに居ると信じて、死ぬ思いで探した。

 探して探して探した。


 そして――

「聡くん! あそこ見て!」

 僕は指差す方向を見た。

 そこには――河野ちゃんが居た。

 学生服を着ていて、表情が前髪で見れないけど、それでも河野ちゃんだった。

 僕の守りたい人だった。


「河野ちゃん! 良かった!」

 ここからはかなり距離があるけど、間に合った。そう思えた。

 だけど、よく目を凝らして見ると、傍らには父親が居た。

 父親はボートの上で立ち上がっている。

 そして何事か喚き散らしている。


「何をする気なの? あの人は――」

 梅田先生が怪訝な表情で見つめる。


 すると、父親は上着からナイフを取り出した。

 まさか河野ちゃんを殺すつもりか?

 そう思うとかあっと血が熱くなる。

 しかしそんなことはしなかった。


 父親は意味不明の叫びを発しながら、自分の片手首をナイフで切った。


「はあ!? あいつ何しているんだ!?」

 おじさんの驚きの声。僕も梅田先生も同じ気持ちだった。


 そしてそのまま、もう一方の手首を切って、それから河野ちゃんに何か言った。

 河野ちゃんは頷いた。

 父親は満足そうな顔をして、そのままボートから身を乗り出し――飛び込んだ。


「きゃああああ!!」

 梅田先生の悲鳴が十六夜湖に響き渡る。

 おじさんも僕も呆然として動けない。

 何がしたいんだ、あの父親は?

 疑問で頭が一杯になってしまう。

 だけど人が死んだというのに、僕は逆に安心を感じていた。これで河野ちゃんに危害を及ぼす人間は居なくなった。


 河野ちゃんには悪いけど、死んで当然の人間だった。生きていても害のある人間だった。

 だから――これで良かったんだ。

 僕はおじさんにボートで近づくように言おうとした。そのとき――


「ちょっと! 静ちゃん、何をする気なの!? やめなさいよ!」

 梅田先生の悲痛に満ちた声でハッとして、河野ちゃんのボートを見た。

 河野ちゃんはナイフを持っていた。


「な、何をするんだ! そんなもの捨ててよ! やめるんだ!」

 まさか、死ぬつもりなのか? 父親と一緒のところへ行くつもりなのか?

「やめろ! そんなの馬鹿げている! こっちに来るんだ河野ちゃん!」

 僕は河野ちゃんに向けて大声で言ったけど、河野ちゃんは何も言わなかった。

 何も言わなかった。


 河野ちゃんはナイフを使って、前髪を切った。顔を隠していた前髪を、切ってしまった。

 露わになる整った顔。綺麗な顔。

 そして僕と目が合う。

 河野ちゃんは悲しく微笑んだ。


 僕は、いや僕たちはここで会話をした。会話といっても口ではなく言葉ではなく、目と目で会話した。もっと言うなら、心と心で会話したんだ。


 ごめんね。こんなことになって。


 謝らなくていい。だからこっちに来て!


 それはできないよ。だって、お父さんの頼みだもん。


 頼みなんて、聞く必要ないよ!


 そうはいかないの。あのお父さんが泣きながら頼んできたの。一緒に死のうって。


 それを受け入れるつもりなのか? 生きたいと思わないのか?


 生きたかった。田中くんと一緒に生きたかった。だけど無理なの。


 どうして、なんだよ。どうして一緒に死ななければいけないんだよ!


 だって、私が死ななかったら、お父さん、一人ぼっちで死んじゃうじゃない。


 ――っ! そんなのは、間違っている!


 だから、さようなら。


もう一度言おう。

 河野ちゃんと僕は目と目で会話した。いや正確に言えば心と心で会話した。

 心と心が触れ合ったんだ。


 最後に河野ちゃんは何かを呟いた。

 三文字の言葉だってことしか、分からなかった。

 河野ちゃんは、自分の喉に、ナイフを突きたてた。


「う、うううう、うわああああああ!!」

 僕の口から出たのは絶叫。声にならない叫びだった。

 あともう少しで近づいたのに、間に合わなかった。

 河野ちゃんの身体はゆっくりと倒れて、湖の中へと吸い込まれていく。

 何か重りを付けていたのだろう。そのまま沈んでいく。


「聡くん! 駄目よ!」

 身体を押さえ込まれてしまった。無意識だったけど、河野ちゃんを助けようと湖に飛び込もうとしていたのだった。


「離してください! 河野ちゃんが、河野ちゃんが――」

「あなたかなづちじゃない! 一緒に死ぬ気なの!?」

「助けられないくらいなら、一緒に死んでもいい! だから――」

 僕の頬をぱあんと叩く梅田先生。

「馬鹿なこと言わないで! それにもう、間に合わないわよ……」

 僕は現実を見たくなかった。知りたくもなかった。


 僕の大切な人。

 僕が守ると決めた人。

 そんな人が死んでしまった。

 その事実に僕は耐え切れなかった。


「聡くん? 聡くん!?」

 僕はあまりの出来事に意識が朦朧として。

 もうどうでもよくなって、意識を手放した。

 パトカーのサイレンの音が聞こえた気がした。




 気がつくと、僕は車の中に居た。後部座席だった。車は停止している。

 どうしてここに居るんだろう?

 記憶を辿ってみる。

 最悪な記憶が甦った。


「――っ! 河野ちゃん!」

「河野静なら、死んだよ」

 僕は声のする隣を見た。

 そこには友人のあきらくんが居た。窓の外を見ていた。


「あきらくん? どうしてここに?」

 あきらくんは鬱陶しそうに「梅田先生に呼ばれたんだよ」と言った。

「ちなみに吉野も居るぜ。もっとも取り乱して、今は梅田先生のところに居るけどな」

「そっか。やっぱり、そうなんだね」

 僕はあきらくんに何か言おうとして、何も言えなかった。言えることなんて何もないからだ。


「河野静はまだ見つかっていない。だけど、もう死んじまったことに変わりない。だって沈んでから、もう四十五分が経ったからな」


「…………」

 僕は黙っていた。

 それから沈黙が続いた。居心地の悪い沈黙だった。

「河野静のことは残念だったな」

 あきらくんは同情するような口調ではなく、ただ事実だけを口にしている感じだった。


「お前が責任を感じる必要はないぜ」

 気遣うようにあきらくんは言う。

「梅田先生から話は聞いたけど、河野静は自分から死を選んだんだろう? 自殺したんだ。お前が殺したんじゃない」


「……分かっているよ。だけど、助けられなかった」

 僕はようやく言葉が出るようになった。

「あともう少しだったんだ。あともう少しで助けられたんだ。それが、悲しくて仕方がないんだ」

「それも責任を感じることねえよ」

 あきらくんは淡々と言う。

「人の死に責任を持つときは、自分が殺してしまったときぐらいだ。それ以外に責任なんて持たなくていい」

「じゃあなんで――」


 僕は頭を抱えて、呟いた。


「じゃあなんで、こんなにも最悪な気持ちなんだ?」


 いっそ泣けば良かった。泣いてしまえば気持ちが楽になれると思った。

 だけど泣けなかった。泣くことができなかった。こんなにも悲しいのに。こんなにも苦しいのに。泣くことさえできない。


 僕は本当に冷たい人間なんだなあと思ってしまう。

「僕は最低だ。女の子一人守れない、最低な人間だ……」

 あきらくんは「そんなことないと思うけどな」と否定した。


「少なくても河野静はお前に守られて幸せだったと思うぜ」

「じゃあ、なんで死んじゃったんだよ……」

 それが一番悲しい。


 死を選んでしまった河野ちゃんに僕は何をしてあげられたんだろうか。

「いや、絶対幸せだったんだ」

 あきらくんはきっぱりと言った。


「だって、お前が居なかったら、とっくの昔に自殺してたぜ河野静は」

 そんな雰囲気は初めて会ったときに感じていた。

 今から思うと、あの不思議な印象は死相だったのかもしれなかった。


「お前はお前しかできないことを精一杯やったと思う。それは俺が保証する。だって、河野静はお前に対して懐いていたらしいじゃないか」

 あきらくんは梅田先生から話を聞いていたみたいだった。

「めんどくさがり屋。無気力な人間。情熱を持たない人種。それがお前だったはずなのに、一人の女の子に対してはめんどくさがらずに気力的に、情熱を持って接していた。お前は変わったよ」

 あきらくんは優しく言ってくれた。

 そのおかげでほんの少しだけど気持ちが楽になれた気持ちがした。


「ごめん。外の空気を吸ってくるよ」

「……大丈夫か?」

「うん。大丈夫。僕は死んだりしないよ」

 そう言い残して、僕は車の外に出た。


 空は星たちが輝いていた。とても綺麗だった。

 不意に河野ちゃんは花火を見て、涙を流したのを思い出す。

 あれは自分が汚れているから、綺麗なものを見ると涙が出てしまうのだろうと今なら分かった。

 汚れてなんていないよって言ってあげれば良かったのかなと思ってしまった。


 前を見ると吉野さんと梅田先生がこちらに歩いてくる。

 二人とも、泣いている。

 僕は二人に声をかけようとして、言葉が出て来なかった。

 何かを言えば、胸が張り裂けそうだったから。

 僕の姿を見て二人は安堵の表情を見せた。


 心配かけてごめん。

 後で二人にそう言おうと思った。

 こうして、僕の友達で守りたかった人、河野静は死んでしまった。いなくなってしまった。


 遺体は数時間後に発見された。

 その遺体は何故か痛みに顔が歪むのではなく。

 静かに笑みをたたえていたらしい。

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