第5話

 いつの間に寝入ってしまっていたんだろう。ふと気付いて瞼を上げた。

「ああ、アリーシャ。目が醒めたのね、どうなの? 具合はまだ良くならない?」

「お母様……、」

 目の前に居る母の姿を不思議に感じる。

 アリーシャはぼんやりとした頭で考えようとしたが巧く思考が回らなかった。


「それにしても、公爵様もなんてお人がお悪いのかしら。こんな寂しい場所へお連れにならなくても良かったのではありませんの? ねぇ、あなた。」

 母は立腹している様子だった。細い蝋燭の灯が揺らめいて、暗い室内を仄かに照らしている。

「そう言うな。公爵閣下のことだ、我らには見えぬだけで厳重な見張りが付けられていよう。そういうお方だと、先持って言ってあるだろう。」

 父は警戒を解いてはいない様子で、母のそばに立ったまま、しきりと周囲へ厳しい視線を投げかけていた。

 アリーシャも周囲を見た。公爵の姿はどこにも無かった。


 ゲスト用の寝室だったのか自身はベッドへ横たえられ、暖かな布団にくるまれている。柔らかく、軽く、ふわふわの掛布団は羽毛だろう。お日様のいい匂いがした。

 暗い室内はよくよく見れば清潔で、掃除が行き届いた空間だ。絨毯が敷かれており、サイドテーブルには香炉が置かれて、薄く煙をたなびかせていた。甘く、何かの花の香りがした。高い位置に窓がある。大きな丸い月が覗き、樹の影に赤い実がなっている。中庭に面した一室だとこの時に気付いた。


 あれは夢だったのかと、思いかけて、思い止まる。抱かれていた腕の感触が、まだ身体に残っていた。

 力強い腕と、冷血に見えて常人よりも高い体温、一定にリズムを刻む心臓の音。何かの香水の香りが濃厚な血の匂いに混じっていた。上等の衣装生地は肌触りがとても心地良かった。

 どこまでが夢だったのか、ぽっかりと口を開けた扉の向こう側が闇だったことは覚えている。

 そこからの記憶はまるで思い出せなかった。

 父の声が聞こえる。公爵の声より幾分甲高い領域があって、頭のてっぺんにつきんと響く。未だ不服げな母に、お説教をしているようだった。


「ご自身が関わっていると周囲に見せるのは宜しくなかろうと、配慮をしてくださったからこそではないか。もし、閣下がこの子を傍に置いている姿を誰かに見られたらどうなる、いよいよもってこの子を危険に晒すだけではないか。」


 父の叱責に、母は項垂れて己の浅慮を恥じ入っている様子だった。確かにその通りなのかも知れない。さほど優れた器量でもない娘が公爵の傍に控えていれば、外観以外の点を疑われることは必至だった。

「でも、あなた、」

 それでも心情として割り切れない思いもある。母、フォンティーヌは口元を尖らせて、拗ねたような表情を浮かべてアリーシャにちらりと視線を寄越した。

 可愛い母だと思う。くすりと笑みを向けて、アリーシャは母に視線を返した。


「目立たぬように、派閥の末席として名を連ねる事がもっとも安全であろうと、公爵閣下の提案をお前も聞いたはずだろう。目立つ行為は厳禁なのだ、これは当のヴェルトーク公爵閣下ご本人からの提案だぞ。これほどに気を遣っていただいて、騙している事が申し訳ないくらいだ。」

 父、エストローフ男爵はかぶりを振って、口の中でもう一度、申し訳ないと呟いた。


「アリーシャ、先ほど公爵閣下にお会いした時にお聞きしたが、中庭で倒れていたそうだが大丈夫なのか? 何があった? うずくまるほど気分が悪かったなら、誰でも良いからすぐに助けを求めるべきだったのに。ああ、わたし達がお前を見失ったことがそもそもか。悪かったよ、アリーシャ、心細かったろう?」

 父が、ようやく娘の傍へひざまずき、その髪をやさしく撫でつけた。

「ううん、大丈夫よ。お父様。ちょっと、お庭で休もうと思って離れただけなの。黙って離れたりしてごめんなさい、噴水の傍で座り込んでいたら公爵様に見咎められて……ドレスが、その、汚れてしまうって。」

 巧く誤魔化せただろうかと、小首を捻りながら、慣れない嘘を懸命に考えた。


 髪を撫でる仕草が、消えていた記憶の一部を思い出させていた。夢の中のように朧で、どこかしら現実味がなくフワフワとした記憶だ。公爵の言葉が甦ってくる。

「アリーシャ、わたしはここで君と出会った経緯を他人には知られたくないのだ。君は知らなくて良い事に気付いてしまったようだが、その事を人に話さないと誓うならば、わたしは君の力になろう。君も、人には知られたくない事情を抱えているようだ、お互いに秘密を共有する者同士、我々は巧くやれるだろう。」

 濃厚な血の匂いは、きっとこのお方の立場を悪くしてしまう事なのだと、少女は勘付いた。同時に、自身の命が今現在において脅かされている事にも気付いた。口封じに殺されてしまいかねない。

 自然に顔が強張っていき、小さく頷きを返すだけで精一杯となると、公爵の口元が笑みの形に歪んだ。

 なぜか、間近で見たはずの彼の人の顔は、ぼんやりとして思い出せなかった。


「何も話さぬこと。何も探らぬこと。それだけが条件だ。わたしの領地の東の外れにラーサという街がある。寂れた炭坑の小さな街だ。そこに、わたしと同じ名を持つ男が居る。何か困ったことが起きたなら、ギルドを介し、その男を頼るがいい。手配をしておこう。」

 大きな手が、存外に優しい仕草でアリーシャの髪を撫でつけた。続けて胸元にあった柔らかな羽毛の掛け布団を引き上げて、少女の喉元まですっぽりと覆い被せた。ふわりとお日様の香りが鼻孔をくすぐり、急に眠くなった。


「……アリーシャ、」呼ばれて、はっと我に返る。「どうしたの、アリーシャ? まだ気分が悪いのではないの? 無理は無しにしてちょうだい、お母様は胸が潰れてしまいそうよ?」

 娘の手をそっと両手で包み込み、母は心配げに覗き込んでいた。

「大丈夫よ、お母様。わたし、そんなにか弱くはないわ。」

 母を安心させる為、また嘘を吐いた。

 力が抜けきってしまったかのように、身体は重く、根が生えたように起き上がることは困難だと感じている。


「お父様、公爵様はどんなお話をされたの? わたしの事、何か仰ってらしたの?」

「ああ、お前と会っておられた事で話はとんとんと進んだのだよ。何も問題はない、公爵閣下の庇護を受けているとなれば、我が家のような弱小貴族など諸侯は相手にせんだろう。」

 父はようやく安心が出来たというように、ほぅとため息を零した。


 娘の、過分に過ぎた力が嗅ぎつけられない限りは、これで安泰のはずだった。ひっそりと息を殺し、一次審査の間に何もしなければ、誰にも気付かれることなく選別から弾かれて終わるだろう。そう思っていた。

 公爵の護る羊諦宮、黒の宮殿に招かれるまでもなく王宮とは縁が切れると信じていた。一次審査に勝ち残った者だけが集められ、その後の一年を共に過ごす、そんな場所とは無縁に済むと。


 アリーシャはぼんやりと過去を思い返していた。

 ホットミルクの暖かな湯気が優しく漂って、男たちのはしゃぐ声でざわついていて、酒場はヤニ臭いけれど居心地は良かった。隣にそっと視線を移せば、公爵と似た背格好の男が安い酒で不機嫌に酔っている。しかめっ面で何かをずっと考えているようだった。よく似てはいるけれど、違う人だと考える。いかにも上流の貴族という出で立ちの公爵のような人には、こんな薄汚れた場所は似合わないだろうと思った。

 自分のような娘に、こんな大それた力があることも似合わない事だと続けて考えた。


 ひと口、ミルクを吸い込んだ。ほんのりと甘く、濃厚で、喉の奥を通っていくごとに冷えた身体に温もりを与えてくれるようだった。かすかに喉を焼くこの刺激は、ラム酒だろうか。酒臭い場の中では匂いまではよく解からなかった。


 カウンターの中から、再びマスターが声をかけた。

「お嬢ちゃん、命を狙われてるって言ってたが、そいつは確かなのかい? 単なる思い過ごしってわけじゃないなら、そう思うだけの理由もあるだろう? そいつを聞かない限りは、こう言っちゃなんだが、信用しきれないと思うぜ。このアレンでなくても、誰が聞いても。」


 ずぶ濡れの少女は小さく頭を振り、苦渋の表情を浮かべる。なぜ命を狙われるようになったのか、理由があるなら聞きたいくらいなのはアリーシャの方だ。高い魔力をもって生まれたにせよ、それだけが理由で自身の存在自体が誰かの脅威になっているとは考えにくかった。命を狙われるほどの大それた力だとは思えない。貴族同士の勢力争い、それに巻き込まれたものかとも考えた。弱小貴族の娘といえど女王候補となれば発言力が増す。まして、大きな魔力を持つ娘となれば政争の道具としての価値がいや増す為に、狙われることは承知していた。味方に付かぬならと考えたとしても不思議ではなく。

 けれど、いきなり問答無用に暗殺に掛かっている事が、どうしても納得いかなかった。


「解かりません。女王候補というだけなら、わたしなど天地がひっくり返っても最終選考まで残ることなどありませんから、それが理由という事はないと思うんです。」

 アリーシャの返答を受けた時のマスターの顔は納得の表情を浮かべていた。少しだけ傷付いたけれど、すぐに気持ちを切り替える。歴代の女王陛下は皆、名にし負う美女だ。帝国中から集められた素質ある少女の中で、もっとも相応しい者が選び出される。普通程度の容姿では太刀打ちできないような美少女ばかりが選考には残されていく事くらいはアリーシャも知っていた。


「わたしなど、せいぜい一次選考を通ればいいくらいのものです。その、魔力についても、それだけを理由に選考を勝ち抜けるものではないと聞きますし……、」

「そうだな。何より女王選考は容姿が第一だろう。お嬢ちゃんも悪くはないが、なんせ候補の娘ってのは質が違う。振るい付きたくなるような美女は山ほど居るからなぁ。」

 カウンターの中でマスターが、もっともな事だと頷いた。アリーシャの心についた少しの傷には気が付いていないようだった。


 選考で勝ち残るのは、なにより容姿の優れた娘だ。それらの見目麗しい娘を差し置くだけの理由など、備わった魔力の高さのみでは考えにくかった。父や母はひどく恐れている様子にも見えたが、魔力の高さはさて置いても、まずは容姿で完全に劣るアリーシャが選考を勝ち抜いていけるはずなどないと思われた。狙われる理由には、心当たりがない。


「けれど、命を狙われている事は確かです。王宮へ向かう旅程のうちにも、何度となく殺されかけました。食事には毒が盛られていて、家を出てから先は何も食べられなくなりました。わたしが生きている事が、誰かにとっては不都合なのだと思います。」

「だが、それじゃあ、女王選考が終わった後も安心出来ないって事じゃないか。いったい誰に、どんなメリットがあるって言うんだ?」

「解かりません。ですから、アレンさんを頼ってここへ来たんです。とにかく期日までに王都へ辿り着かねばなりません、失格になってしまいますから。後のことは……それからまた考えようかと、」


 実のところ、公爵の差し金ではないかと疑ったこともあった。何か拙い場面を目撃してしまったらしいと自覚した日から、その疑いも消すことは出来なくなっていた。約束があったにせよ、信じ切れるほどにアリーシャはお人良しでも子供でもない。晩餐会の翌日、改めて正式に二人だけで話した時の事を思い出していた。


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