焼身自殺-3

「それじゃ、飲み終わったら出ようか。俺は仕事もあるし、彰良君もまだ見てない所はあるだろうしね。今日こそ何もないといいんだけど――あ、ゆっくりでいいから」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「うん、久しぶりだし味わって飲みなよ。あと俺、ちょっと歯磨いてくる」


 何の前触れなく、今思い出したかのようにツツウラが席を立つ。洗面所に向かう背中を見送って、彰良は再び缶に口をつけた。

 もう肉も臓器もないのだから一気に飲んでしまっても問題はないのだろうが、それでも久々の摂取だ。一息で飲み干してしまうのは勿体無い以前に少々不安だった。ツツウラの言葉に甘えて、舌を湿らす程度のコーヒーを舐める。

 何もないといい、誰も死ななきゃいい。それは彰良も同じ思いだ。ただ根底にある感情は真逆で、彼は人が命を絶つことに何の感傷も抱かない。自分も見知らぬ他人の身の上を真摯に嘆くような人間性は持ち合わせていないが、訳が違う。

 初仕事からずっと胸の奥に息づく、限りなく不快感に近い違和感を再認識して、彰良は缶を持っていない手で頭を掻いた。

 夜が明ける前、暗い歩道をウイと歩いていたときに彼女から言われた言葉を思い出す。『気が合わないことは別に、相手そのものが嫌いなわけではない』――なら、これも、ただ人外の存在である彼と人間である自分の差異という一つの事実に過ぎない。

 ツツウラが見る世界は運が良ければ百年と少しを生きられるだけの人間が見る世界とは違う。同時に、自分達が見て知る世界を彼が本当の意味で知るとことはない。それは埋めようのない溝で、曲げようのない事実だった。

 扉と壁の向こうから聞こえる水音が、蛇口を捻る音で打ち切られる。遠ざかっていた足音がまた次第に近づいてきて、彰良は肩越しに振り返った。


「ただいま、やっぱり何か食べた後は歯磨きしないと落ち着かないねー。俺達は肉体持ってるわけじゃないからしなくても特に影響ないけど、こればっかりは心の問題っていうか」

「ツツウラさん」

「ん? 何?」


 小気味よく語られる台詞を遮って、彰良は彼の名を呼んだ。

 気を悪くした様子もなく、ツツウラが首を傾げる。ついでに顔も洗ってきたらしく、揺れた黒い髪の毛先は僅かに濡れていた。

 数分前まで自分が座っていた椅子に座り直したツツウラに、彰良は冷たいコーヒーを一口飲み干してから目を向けた。


「ツツウラさんは、人間が自分で死んでいくのってどう思いますか」


 思えば、これを問うたのは初めてだった。死後の世界と彼等の存在については訊いても、彼自身の見解を聞いたことはなかった。

 今ここで問われるとは思っていなかったのか、ツツウラが僅かに瞠目する。それから微かに目を伏せて、眉を潜めて、いつもと変わらぬ黒いスーツに包まれた細い腕を組む。


「え……えぇー……うーん、どう思うって言われても……」


 ううん、と長く唸って、ツツウラの首が俯くように深く下がる。


「……多分、前にも言ったと思うけど、よく分からないんだよな。何で死にたくなるのかとか、何でそれを自分の意思で実行出来るのかとか。俺達からしたら、魂の自死は仕事が増えるから迷惑でしかない……けど、ニンゲンはそうじゃない」


 習っていない問題を提示された子供のように、途方に暮れた顔でツツウラは目を泳がせた。


「ウイ君はその辺俺よりも知ってるから色々言ってくれるんだけどね。今の世界はニンゲンが自分から死を選んでいくような時代なんだって、そうは言うんだけど……でも、苦しい状況で更に苦しい選択をするのも、俺にはよく分からないままで……」


 自嘲めいた苦笑を漏らしたツツウラが、そこでちらりと彰良を見た。丁度傾けていた缶コーヒー越しにその表情を見て、彰良は大分軽くなった缶から口を離す。

 きっとこれが、現段階での彼の答えだった。どう思う以前に、思う為の知識も実感もないから分からないまま。それは別に悪ではない。

 だから彰良は、まだ缶に残っていた久々のコーヒーを全て飲み干してから小さく頷いた。


「すいません、いきなり変なこと訊いて。……ありがとうございます」

「……俺の方こそごめんね、今は、こんな答えしか出せなくて」


 互いに謝罪の言葉を言い合って、一度は絡んだ視線がまた逸れる。

 少しでもツツウラの主観を知りたくて投げた問いが、逆に理解し得ない境界線を明確に表してしまったようだった。以前、分からないと純粋に呟いていたのだから、その裏に何があるわけでもないことくらい知っている筈だったのに。

 自分が重く変えた気まずい空気から逃げるように、彰良は空になった缶を片手に室内を見回した。


「あ、飲み終わった? 捨ててくるよ」


 彰良とは対照的にもうすっかり普段通りの面持ちに戻ったツツウラが、彰良の手から中身を失った缶をそっと攫っていった。

 壁と家具の間に、つい先程丸めたレジ袋が捨てられたものよりは少し大きなゴミ箱が挟まっていた。そこに缶が落とされて、中身のない金属同士がぶつかる空虚な金属音が幾つも重なる。恐らく、楽しい晩酌の残骸でも溜まってきたのだろう。そろそろ捨てに行かなきゃなあ、とツツウラが呟いた。

 特に汚れてもいない手を払いながら、ツツウラが彰良に向き直る。


「出られそうかな? お腹痛くなったりとかしてない?」

「……今の所は、何ともないです」


 緑のエプロン越しに腹に触れる。体を失った今となっては異物に等しいが、今の所不快感はなかった。意識すると逆に本当に痛んできそうで、彰良はすぐ手を離す。


「よかったよかった。……このまま何ともないといいね、色々と。本当に」

「……そう、ですね」


 未だに今までの態度を作り切れず、彰良は浮かない顔のまま歯切れ悪く答える。

 心なしか、話をする前よりも重くなったような腰を上げる。捲れたエプロンの裾を直して、彰良はツツウラの後ろについた。


「俺は彰良君のおかげで助かってるしさ。彰良君の為にも、誰も来ないのが一番いいんだけどな――」


 僅かばかり項垂れたツツウラが頭を掻いて、曖昧に語尾を濁らせる。

 それ以上何も言わずに扉の取っ手を捻る黒い背に、彰良は何となく、彼が続けようとしてすぐ自らの中で留めた言葉が何か分かる気がした。

 喉奥で押し殺した彼の持論は、今まで何度も言外に滲ませ或いは直接的に語られた、最早今更な四文字だと、容易に想像できたから。

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