6-焼身自殺

焼身自殺-1

「――っ、ごほッ、」


 車内に充満する刺激臭が乾いた喉と鼻腔に流れ込んで、男は絞り出すように咳き込んだ。

 口元に手を当ててから、一層強くなった臭いに手が濡れていることを思い出す。手だけではない、自分の首から下が最早殆ど隙間なく同じような状態なのも思い出して、男は運転席の背もたれに背を預けた。

 背部から、水溜りを踏みつけた靴で歩いたときに似た音がした。同時に、素肌に冷えた水の感触。

 座席自体も、そして足元も、男の体同様に液体を吸って濡れていた。

 どれほどの量を車内と自分の体に浴びせたのか、正直なところ男自身正確には把握していない。そんなことを考える為に割く思考力はとっくになかったし、最後の工程さえ終わらせてしまえば後は何もかも些細なことだ。

 ガラス越しに曇った空を見上げて、薄っすら白く濁る息を吐く。そして息を吸う。――冬の臭いだ。冷えた空気が鼻の奥を冷やす匂い。暖をとる為に、ホースを使って移し換える燃料の臭い。北国で育った男にとっては慣れたものであり、こんな状況でも僅かばかりの懐かしささえ覚えるものだった。

 ああでも、あそこは十一月でもこれ以上に寒かったな。薄っすらどころかはっきりと白く濁るくらいに冷えて、道路も凍って、そろそろ雪が降ってもおかしくない、むしろ降らないことが不思議なくらいに寒かった。

 それに比べたら、ここはまだまだ暖かい。見知らぬ土地だが、雪国や北国の類ではないことだけは感覚で分かった。

 淡い郷愁を振り払うように、男は首を振る。

 そうだ、ここは自分が知らないどこかの地域だし、ここの地元民からしたら自分は怪しい見知らぬ車に乗る男だ。昔の思い出に浸る時間があるなら、早々に全て終わらせるべきだ。いくら人通りのない山道の近くにある全く車の影のない駐車スペースとはいえ、いつ他の車や誰かが通りがかるか分からない。

 男は意を決したように唇を噛み締めて、今更ながらに震え出す手で上着のポケットを探る。

 手で包んで取り出したのは、四つ折りに畳まれた小さな厚紙だった。紙片の角が、滲み始めた液体で色を変えている。男は紙と紙が重なる隙間に指を差し込み、そのまま片手だけで開こうとして、止めた。開く為に動きかけた指が一瞬だけ、ひくりと動く。

 中身を見てしまったら、紙の内容を認識するより早く外に逃げて民家に走ってしまいそうだった。

 静かに歯噛みして、先程手を突っ込んだほうとは反対のポケットに空いた手を入れる。

 掴んだ安っぽい百円ライターの中身は、もう殆どなかった。

 ――手も何もかも濡れているのでは火の点けようがない、どう引火するか分からない、という逃げ腰の考えが脳裏を掠める。瞬間的にちらついただけのそれが、瞬き程度の時間の後には何より大きな、もう後には退けない強迫じみた失望の重さに絡め取られて消えていく。 

 いっそ、こうして無駄にゆっくりと事を進めている間に、運よくあるいは運悪く通りがかった誰かが目敏く車を見つけて寄ってきてはくれないか。そんな思いが頭をもたげてきそうで、男は部品が軋みそうな程に強くライターを握り締めた。

 進めなかったし、進みようがない。かと言ってもう戻れないし、戻りようがない。ならば放棄する以外に、膠着した今を変える手立てはない。

 だから、男はライターに指をかけて、震えを抑え込むようにスイッチを強く押し込んだ。

 呆気ない程軽い音を立てて点いた火が真っ先に辿ったのは、無意識に火が当たる位置にかざしていた紙の端か、自らの手か、それとも違うものか。

 その答えを知ることも叶わぬ男が最期に感じられたのは、車内に撒かれた多量の灯油の臭いと、この期に及んでまだ消え切らなかった郷愁の二つだけだった。

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