有為転変-4

「じゃあもう、本題に入りましょうか」

「それがいいんじゃない?」


 彰良自身、そちらの方が都合がいい。起きてこの方、二人が何をしていて自分がどうなったのかという疑問は一切解決していない。せいぜいウイの名を知って、ツツウラ以外の社員であると認識できたくらいだ。


「彰良君、同じことを訊いて申し訳ないけど、昨日の……日付だと今日の午前零時くらいのこと、覚えてる?」

「……いえ、……その時間だと俺寝てましたし」


 だから、彰良は素直に首を横に振った。

 第一、その時間は眠っている。何かあったのなら物音で起きる気もするが、それもない状態では何があったのかなど知る由もなかった。


「何か、あったんですか」

「……彰良君にね」

「……俺に?」


 自らを指差して、彰良はウイの言葉を反芻する。隣でツツウラが身を硬くしたのが気配で分かった。

 目だけを動かして様子を窺うと、一瞬だけ互いの視線が交わった。彰良の視線を受けて殊更身を強張らせたツツウラが、まるで度が過ぎたイタズラを咎められた子供のように沈んだ表情で顔を背ける。

 いつになく殊勝な態度は、恐らく彰良がこの数日間彼と行動を共にしてから初めて見るものだった。只事ではないと、その挙動が何よりも如実に語っている。

 この場に輪廻と魂の転生を管理する人間よりも上の管理者達が二人いる。そして二人とも、至極真面目に深刻そうに佇んでいる。ということは、自分の身に相当重大な何かが起こったのだろう。

 反応を待っているのか、続きを語ろうとしないウイに目を戻す。


「……何が何だか、何も分からないんですけど」

「そりゃそうだよね」


 つい数日前に言った記憶のある意思表示だった。そしてウイの反応も、つい数日前のツツウラのものとよく似ていた。


「突然だけど、彰良君」

「……? はい」

「自分が死んだ瞬間のこと、今思い出せる?」

「っ、おい! いきなりそれはないだろ!」


 質問の答えにも説明にもなっていない申し出に彰良が驚くよりも早く、ツツウラが椅子から腰を浮かした。

 ある意味では彰良自身よりも憤った様子で吐き捨てたツツウラに、今度はウイが首を振る。


「手伝えって言ったのは誰ですか……それにこうなった以上、どう説明したって避けられませんよ」

「そりゃ俺だけど、だからっていきなり思い出させることないだろ!?」

「遅いか早いかの違いです。……彰良君、どう?」

「え……あぁ」


 憤慨を隠そうともしないツツウラとウイの短い口論を眺めていた所で話を振られて、彰良は間抜けた声を出した。

 自分が死んだ瞬間。つまり、人生を捨てた瞬間を、生きることを諦めた瞬間の記憶を思い出せるか。ウイが問うているのはそういうことだ。彰良はあー、と何の意味も持たない母音を漏らして目を閉じる。

 死んだのは、十一月二十三日。時間帯はまだ正午まで少しの間がある午前中。確かツツウラが話してくれた内容によると、十時半過ぎだ。そして死因は飛び降り自殺。決行場所は近所にあった高層マンション。自らが選び取った自死の情報を掻き集めて、彰良は一つ一つを手繰り寄せる。

 十一月二十三日、朝、着信音、胃の不快感、男の声、暗がりで光る携帯の画面、肌を撫でる寒風、高層マンション、鍵のかかっていない屋上の扉、錆び付いて穴の開いた金属製のフェンス、乗り越える自分の体、背後からけたたましく鳴り続く着信音、遠い地面、それが徐々にと言うには余りに早すぎる速度で近づいて、最後。最期を迎えた自分の砕けた脳がもう認識する筈のない音の幻聴――

 思考がそこに行き着いた瞬間、起きがけにぶつけた痛みなどとは比べようもない程の激痛が頭部で爆ぜた。

 閉じられた視界が真っ赤に染まる錯覚と文字通り頭が割れるような痛みに、彰良は息を詰める。悲鳴を上げようとしたのか呻こうとしたのか、兎に角何らかの形で出されようとした声と呼気が喉奥で潰れる。激痛に紛れて頭部と首筋を汗の滴が伝っていくような感触を覚えて、それがまた更に痛覚を強めていく。

 大丈夫か、と身を案じる声がやけに遠い。大丈夫、しっかりして、落ち着いて、と断片化された言葉が幾つか続いて、それさえ途切れて更に体感では数分経った頃、彰良はようやく弱く息を吐き出した。

 まだ頭はひどい風邪をひいたときの頭痛のように揺れていたが、あの瞬間ほどではない。きつく閉じていた瞼を開く。

 フローリングの床と、ついでに自分の胴を抱えるように回された黒いスーツの袖がそれぞれ視界を半分ずつ占領していた。どうやら、堪らず体を折っていたらしい。腕で支えられていなかったら、今頃また床に転がっていただろう。

 彰良は重い頭を持ち上げて、倒れ込む前に阻止してくれたツツウラを見上げる。


「……大丈夫?」

「…………何とか……」


 久方振りに絞り出したような自分の声は、お世辞にも何とか大丈夫と言えるようなものではなかった。

 しかしそれ以外に言える言葉が見つからなくて、彰良はツツウラの腕に体重を預けたままの体を起こすことも出来ずに額に触れる。汗も涙も滲みようのないと分かってはいても、生前の感覚と行動をなぞるのが止められない。

 額の感触で、自分の手が酷く震えていることに気が付いた。みっともない程、あるいはわざとらしい程にガタガタと震える手を見下ろして、握り締める。


「……出てはいるけど、薄れるのは早いですね」

「昨日はこうじゃなかったんだけどな……いや、暗くて分からなかっただけか」

「これなら、早く対処すれば問題ないと思いますよ」


 頭上でツツウラとウイが話す声。ウイが屈んだのが視界の端に見えた。

 彼女の細い手が床に触れて、床面を撫でて、その指先を汚す黒い何かを指同士を擦り合わせる。何をしているのかと思考の片隅で思いながら細い呼吸を繰り返す彰良の眼前で、視界を遮っていたツツウラの腕が少しだけずれた。

 フローリングの床の上、木目の上に、黒い何かが飛び散っていた。小さな飛沫は既に薄れるように消えかかっていたが、グラスの水を零した程度に大きなものはまだその場に残っている。

 視覚で判断できる質感としては、少々の高さから垂れ落ちた血痕。その黒い染みは、上には身を傾がせた自分の頭があったのだろうと思われる箇所にあった。


「……ツツウラさん、これって」


 彰良は大分震えが止まった手で、床を汚す黒色の液体じみた染みを指差した。

 まだ社員同士で話し合っているツツウラが、そしてウイが一瞬言葉を失ったように静まる。


「……彰良君、見えてるの?」

「……やっぱり、俺には見えちゃいけないもんなんですか」

「見えちゃいけないってことはないけど、いや、見えない筈なんだけど、ってことは見えちゃいけないのかな……」

「……本当ならニンゲンには見える筈がないものだけど、ただそれだけだから。大丈夫」


 訊き返したツツウラの後半の言葉は最早独り言だった。続きをウイが引き継いで、驚愕を滲ませながらも答える。

 人間には見える筈のないもの。そういえば昨日、似たようなことをツツウラに言われた気がする。自殺者は自分達の目には黒く見えるのだ、と。なら、これは。自殺者である自分の体から湧き出したものではないのか。

 あの頭皮と首を這うように垂れ落ちる何かの感触は、錯覚ではなかったらしい。


「大丈夫だよ。もう止まってるし、見えるなら見えるで別に平気だからね」

「……ありがとう、ございます」


 励ましなのか慰めなのか、穏やかに語りかけてくれるウイに力なく礼を言う。

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