大人の対応


「今日はお祝いを申し上げに来たのです。班先生。標津郡太守拝命、まことにおめでとうございます」


「えっ」


陵荘は炉辺ろばた胡座こざするやそう切り出した碧嘉を、驚嘆のまなざしで見つめた。


初耳である。


碧嘉がそれを受けて不思議そうに見つめ返した。


「何を驚く。私と租曹殿(陵敬)の話は聞いていたんだろう」


「そこまでは聞こえなかった。まことか、それは」


「ご本人に直接お伺いすればいいだろう」


碧嘉は苦笑して平手で班諒を示した。班諒は二人のやりとりが可笑おかしいのか口元がゆるんでいる。


「先生。太守の拝命、まことですか。」


陵荘が改めて尋ねると、炉を挟んで対面に座る班諒が首から下げていたものを襟からひっぱり出した。


「あっ」


印綬である。熊が彫ってあった。


「実をいうと、これはもう少し早く私の手にわたるはずだったんだ。大体いまから五年前に突然都から公車がきてね。私は朝廷へ招聘しょうへいされたわけだが、その時は応じなかった。」


班諒は再び印綬を襟に隠した。


「だが固辞もしなかった。次の太守の任期には必ず召喚に応じて拝命すると使者に言い聞かせて、私はそれまで見聞を広めるために巡遊の旅をしていたというわけさ。思ったよりも時間を取られはしたがね。」


「それで、ずっとお伺いしようかと思っていたのですが、どこをどのように旅をしていたのですか。想定以上に長引いた理由は」


碧嘉がせきを切ったように質問し始めた。そうとう興味があったらしい。体が前のめりになっている。


「全国は一通り回ったよ。根州はもちろんだが、せんこうしょうじつじょうそうりゅうくうかい、それに司隷しれい。全ての州と郡は一通り見て回ったかな」


「それは、すごい」


碧嘉は感嘆を禁じ得ない。陵荘も信じられないという顔をした。


「もともと、地方はすべて回る予定ではなかったんだが気が変わってね。ここまで時間がかかってしまった。私財もほぼすべて旅費で消えてしまったよ」


ははは、と班諒は笑った。


――なるほど、屋敷がこのありさまなのも、このためか


陵荘はようやく得心がいった。どうりで新築だった邸宅を管理する余裕がなかったわけである。


ただ、文字通り家を傾けてまでそのような過酷な旅をする理由が、陵荘にはわからない。標津一群を治めるだけなのだから、旅をするにしても根州、網州、釧州あたりだけではだめだったのだろうか。


陵荘は少し気になったが、班諒の家人が濁酒と酒器を携えてきたので、すぐにどうでもよくなった。陵荘はとにかく、体を温めたかったのである。


「つもる話はあるだろう。私も十分にある。ただその前に酒を入れようじゃないか。下戸はいるかな」


「わたしも徐史も、頼もしいほどです」


「それは楽しみだ」


そういって班諒は二人に酒器を持つように促すと、立ち歩いて個別に注いで回った。さすがに二人も、頭が下がる。


そして再び胡座すると、班諒は自分の椀に酒を注いだ。


「なにか食べ物を用意しようと思ったが、そのための火がまだ用意できていない。仕方ないからとりあえずやろうか」


「「いただきます」」


そういうと陵荘と碧嘉は椀いっぱいに注がれた濁酒をほぼ、一気に飲み干した。二人の性癖ではない。そうするのが作法だった。


好ましい甘味とこうじが口内に充満した。酒精の香りが鼻孔をで抜けるのが心地よい。


陵荘はそれをいくらか舌で弄んだのち飲み下した。冷えた腹が燗酒びんしゅの温かさを吸収していく様子は、なんとも喜ばしい。


「うまいですね、これは」


碧嘉が椀を目の高さまで持ち上げ、見つめながら息をついた。


「ははそうか。わかるか、うまさが」


碧嘉が首をふって感想を伝えると、班諒の目はしぜんともう一人の陵荘へ向いた。


――いい酒だな


と、陵荘も思うが、違和感があった。


 濁酒は母子里全域の一般家庭でも醸造される大衆的な酒で、根州ではもっぱら網州の米を使用しているが、この濁酒にはいつも陵荘の嗜むそれの癖がない上に、格別にうまかった。


「産地は上州ですか」


班諒は目を丸くした。丸くした後、腿をたたいて大笑いし始めた。


「いや、陵少年は通だな。惜しい。実に惜しいがそれは空州産だ。それも極めて上州寄りの北郡だよ。たまげた。酒の飲みすぎは控えないといかんぞ。徐史よ」


陵荘は赤面を隠すためにもう一度、空だった掌中しょうちゅうの椀を故意にあおった。その様子をしり目に見て笑声をこらえている碧嘉には気づかなかった。








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