第2話 天才少女と僕

 僕はその人を常に先生と呼んでいた。しかしここではよそよそしい呼称で書くだけで本名は打ち明けない。これはその方が僕にとって自然だからというよりも、世間を憚る遠慮である。僕はその人の記憶を呼び起すごとに、とっさに「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。だが、今となっては、最もよそよそしい呼称しか使う気になれない。・・・などと、夏目漱石の「こころ」を組み替えた文章をノートに書くと、僕は溜息をついた。僕は、今となっては、「先生」-その神父-をドイツ語で「エス」と呼んでいるのだ。


 僕は、神学部の建物で、窓の向こうを眺めていた。今日もまた、雪だ。何が、-THE END- だよ。僕の日記は、続きを求めていた。僕の指は、曇った窓に、文にならない文字列を書いていた。やっぱり、僕は、あの子が好きだ。


 研究室に鍵をかけると、僕は迷わず、左折し、坂道を転げ落ちた。僕は立ち上がるふりをして、また転んだ。そこからも転げ落ちると、僕は第7病院の夜間通用口の入り口で、いい感じに雪だるまになっていた。


「あはっ♪ 雪だるま? つんつん♪」

「君は?」

「天才少女です。よろしくね! 雪だるま君は?」

「神学部の学生だ。こちらこそ、よろしくな。えーと、それで、・・・。」


 僕は、この前の僕よりも、心の準備ができているはずだった。だが、なぜだろう、この前よりも心が動揺してて、なぜかうまい具合に会話が浮かんでこない。


「私から言わせてもらいます。再開の約束もせずに、黙って神学部の方向に戻る男、それって最低です。」

「いや、君のためを思うと、僕は去ったほうがいいかなって。」

「男はいつも勝手です。そして、あなたは最低です。」

「いや、つまりそれは・・・」

「つまり、また会いたかったんでしょ? 本当は、私に。」


 静かに、雪が降っていた。今夜は、クリスマス・・・か。ふと、僕は、空を見上げる。


「あ、ああ・・・」

「第7病院の窓から神学部のほうを見てたら、あなた、ず~っと死んだような顔をして、”好きだ”って文字を書きまくってたの、窓に、指で。うっすらと見えてたからね?」

「え?」

「もちろん、冗談よ。見えるわけない距離ですよ。でも私には分かります。」

「天才だからか?」

「女の子だからです。」


 ふと舞い降りた静寂が、見つめあう二人を祝福する。


「・・・・・・。じゃあ、ちょっと一緒に歩きましょうか。」

「あ、ああ。ちょっとだけな。」

「デートですね。」

「ああ。もちろん、そうだ。でも、きょうは、連れていきたいところがあるんだ。」

「へぇー。」

「ここに、階段があるだろ? この階段を上がると、そこは神学部だ。」

「じゃあ、神学部にレッツゴーですね!」

「転ばないようにな。ほら、しっかり僕の手を握って!」

「・・・・・・。はい。」


 二人は神学部への階段をいっしょに上がった。そして神学部棟に入った。


「意外と、神学部って感じじゃないわね? あ、いや、だってほら、この掲示板のサークルの名前とか、すごく普通に見えるの。」

「人間らしさや生活感があっていいだろ? これこそ、神学部が神学部たる所以だ。」

「へぇー。ところで、ゲームみたいに、地下にダンジョンがあったりするのかしら?」

「無い。・・・あ、でも、本屋ならあるよ? もうとっくに閉店時間だけどね。」

「って、もしかして、それ。病院の横にある”よろず堂本屋”だったりしないですか!?」


 僕は、不意に、自分がこれから言う言葉が、おかしくなって、それが僕の顔に出ているのを知っていた。


「ほう、やはり知ってるのか。神学部の地下だから病院の横になるね。」

「エレベーターのほうが早かったんじゃない?」

「もちろん、エレベーターのほうが早い。」

「じゃあなんで、階段で遠回り・・・あ。」

「正解。」

「もうっ、いじわる~。」


 いじらしい子だ。

 

 この神学部の建物の中にも、自動販売機がある。二人は自動販売機の前で、立ち止まった。


「ココア、今度こそ本当に半分っこしましょうか。」

「今度は二本買うお金があるんだ。」

「じゃあ、間接・・・しないの?」

「ああ。」

「バカ! 2回会っただけの女の子に直接キスしたら、本気で嫌われるわよ?」


 この子にとって、“間接”の否定は“直接”を意味するのであろうか?


「ああ・・・。でも、君とは昨日初めて会ったような気がしないんだ。懐かしさを感じる。」

「分からないですね。でも不思議と、私もそう感じるの。これって運命?」

「天才! 2回会っただけの男の子だって運命とか言われると、本気で勘違いしたくなるだろ。」

「へへ。」


 二人は、どちらに向かうわけでもなく、廊下を行ったり来たりして、小説にありそうな会話を続ける。


「・・・それと、君。“分からないけど、感じる”って今言ったよね?」

「な、なによ?」

「天才でも分からないことってあるの?」

「分からないことだらけです。天才といっても普通の人と紙一重の違いですから。」

「それと、感じる心。やっぱりあるんだね。」

「あ。ああーー!?」


 してやったり。僕は自分の財布を取り出した。


「きょうは、僕の勝ち。それとね、この掲示板の下に募金箱があるんだ。でね、こうして50円玉入れると、オルゴールが聴けるんだ。」


 チャリーンと、硬貨が入る音。オルゴールの曲は、”エリーゼのために”だ。


「わわ! 私この曲、大好きなの♪」


 半分過ぎたあたりで、不意に、音が弱まる。まるで蝋燭の火が消えかけるかのように。


「はい、もう50円だ。今度は、君が50円玉を入れてごらん。」


 すると今度は、”エリーゼのために”は、しっかりと最後まで鳴ってくれた。

二人だけのために。


「くちゅん」

「ブレス・ユー。おいおい、風邪か? そうだ、さっきの自動販売機でホットココア買ってくるよ。でもね、不思議だろ? なぜか財布には、1本分買うお金しかないんだよね。」


-つづく-

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