八.関係


(今日もユンジェと再会できなかった)


 ティエンは日没を眺めていた。

 あの岩穴から発って、早二日。ティエンは未だユンジェの足跡を辿れずにいる。


 すでに平熱となった体温は、調子を取り戻しつつあったが、心は荒れ狂っていた。

 あの子と出逢って一年。二日も離れ離れになったことなどなかった。セイウのところに連れ去られた時ですら半日。


 ゆえに、いま過ごす時間がとても遅く感じられる。はやく朝になれと願う一方で、一日でも早く子どもに会いたい。ティエンの胸は、そればかり占めていた。


 野宿場所を決め、準備を始めても、その思いは留まることを知らない。

 不安で仕方がなかった。ユンジェなら大丈夫。あの子は賢く逞しい。

 そう思う反面、あの子は寂しがり屋で寒がりだ。夜は寒さに負けて、ぶるぶると震えているやもしれない。


 また、つよい孤独感に苛まれる。

 ティエンは今、ひとりぼっちだ。

 周りに己の肩書きを必要とする者はいても、己を必要としてくれる者はいない。人のぬくもりが、とても恋しい。


「ティエンさま」


 背後から声を掛けられ、得体の知れない恐怖感に襲われた。短剣を抜いて、振り返る。


「お、俺ですけど」


 そこには軽く両手を挙げたハオの姿。引きつり笑いを浮かべ、たき火に当たるよう促してくる。


 夜の森は冷える。

 体調を崩さないためにも、火に当たっておけ、と言いたいのだろう。相手がユンジェなら素直に受け入れられるが、ハオは謀反兵。募る不信感は拭うことができない。


「放っておいてくれ」


 震える声を抑え、ティエンは短剣を鞘に戻す。


 すると。ハオが目を泳がせ、人差し指を回しながら、話題を振ってきた。珍しい。大抵、一言投げれば、それに従うというのに。


「くそがっ……ユンジェがいない今、貴方様にできることは、天降あまりノ泉を目指すことだけじゃありません。ああ、ほら、もしも再会して怪我をしていたらどうします?」


 冷たく視線を投げると、「あれですあれ。あれですよ」と、彼は必死に言葉を選び、こう主張した。


「手当てっ! ティエンさまは俺に手当のやり方や、薬草の知識を教えてほしいと仰ったじゃありませんか。あいつは、逃げ回って疲れているやもしれません。傷を作っていたら、兄のティエンさまが癒して差し上げないと。備えあればうれいなしと言いますし」


 懸命に訴えるハオは、自分の持っている薬草で、塗り薬を作ろうと誘ってくる。

 たき火に当たりながら、それの作り方を懇切丁寧に教える。彼は努めて笑顔で、そう笑顔で伝えきた。


 あまりに似合わない笑顔だな、と思ったが、それは口に出さず、ティエンは思案を巡らせる。


 彼の言う通り、塗り薬はあって損がないだろう。その時は使わずとも、旅路で使う時が来るやもしれない。あの子はよく傷を作る。ティエンとしても癒してやりたかった。


「ハオ」


「はっ、はい」


「私は何を準備すればいい?」


「……え」


 見事にハオが固まる。ティエン自ら、準備を申し出ると思わなかったのだろう。


「落ちこぼれの王族が準備の手伝いをしては迷惑か?」


「いえ、そんなことは! えっと、それなら湯を沸かしてもらえると助かります。薬草を一度、湯にくぐらせますので。それと、使う道具は煮沸消毒をするので、湯に入れてもらえると嬉しいですね」


「湯だな、分かった」


 ハオの脇をすり抜け、たき火へ向かう。

 背後を一瞥すると、彼の笑みが崩れ、「クソガキ。俺だけじゃつれぇよ」と、ひどく疲れた顔で肩を落としていた。

 たぶん、ティエンよりも、向こうで太極刀の手入れをしているカグムよりも、疲労していると思われる。



 正直、ハオの申し出は有り難かった。

 作業を始めると、それに没頭できるので、余計なことを考えずに済む。それこそ、己の命を狙ったカグムと会話することもない。ティエンにとって、少なからず心休まる時間であった。


(本当は、カグムに……聞きたいことがあるんだがな)


 いや、考えるだけ無駄だろう。

 あの男がどのような想いを持とうが、もうティエンには関係のない話だ。きっと、そう、いや、本当にそうなのだろうか。いまのティエンには何も分からない。



 夜が更け、そろそろ眠りに就くべきか、と考え始めた頃。たき火を囲む茂みが、ゆらゆらと微かに揺れ、馬の蹄の音が聞こえた。


「賊か?」


 ティエンに薬草のすりつぶし方を教えていたハオが、ぎゅっと眉を寄せる。見張り役のカグムが構えを取り、彼に指示を出した。


 その間、ティエンは茂みから遠ざかる。

 悔しいが、三人の中で一番弱いのは自分だ。ユンジェも言っていた。弱い人間ができることは、強い人間の足を引っ張らないよう行動を起こすことだと。


 ここ一帯は賊が多い。だから誰もが賊だと思っていた。


「おっ。たき火が見えたと思って来てみたら、面白れぇことになったな」


 誰も予想していなかった。


「ま、まさか……貴方は」


「うそだろ。冗談きついぜ」


 いや、誰が想像しようか。


「よお、愚図。何年ぶりだ? いや、麟ノ国第三王子ピンイン。呪われし王子さまよぉ」


「りゃ、リャンテ……兄上」


 揺れる茂みの向こうから、平民の格好をした第一王子リャンテが現れるなんぞ、誰が想像できるのだ。


 緊迫した空気に包まれる中、とうの本人は能天気に馬から降りると、近くの木の幹に手綱を結び、足軽にたき火へ向かう。

 それも、寒い寒い、安い衣は風通しが良い、なんぞと手をさすりながら。


 カグムもハオも、各々愛用の剣に手を添えているというのに、輩の周りに近衛兵らしき人間なんぞいないというのに、リャンテは素知らぬ顔で火の前で腰を下ろした。

 腰に差している青龍刀を地面に寝かせ、片膝を立てる始末。まるで危機感がない。


(何をっ、この人は何を考えているんだ)


 たき火越しに向かい合うティエンは、己の喉が急激に渇いていくのが分かった。


 圧倒的に有利な状況下にいるのは此方の方なのに、なぜだろう、リャンテの空気に気圧されている。いまなら短剣を抜き、不意打ちも可能だろうに、それすら恐ろしく思えた。


(この人は王族でありながら、武人としても名高い。気を抜いたら、確実に食われる)


 息を詰めて相手の出方を窺っていると、「今日は何もしねえよ」と、リャンテが不敵に笑う。


「久しぶりに会ったんだ。可愛い愚弟に武器を向ける気にはなれねぇな」


 どの口が言うか。ティエンは心中で毒づいた。


「まあ、座れよ。せっかくの再会なんだ。ゆっくり話そうじゃねえか」


 リャンテは己の隣を指さし、自分に座れと命じてくる。愚図にその勇気があればな、と付け加えて。


 それは明らかに挑発であった。

 玩具を手にした子どものような顔で、ティエンの様子を観察するあたり、本当に性格の悪い男と言える。


 ティエンはいつも、この男を恐れていた。第二王子セイウも恐ろしかったが、第一王子リャンテの気まぐれな横暴さが嫌で堪らなかった。

 己がピンインのままであれば、申し出に恐怖し、逃げていたことだろう。


 しかし。今の自分は第三王子ピンインではない。農民ティエンだ。顔色ばかり窺っていた頃の自分ではない。


 ティエンは握っていたこぶしをゆっくりと解き。早足で移動する。


「お待ちください、ティエンさま。危険です!」


 カグムの止める声を無視し、冷笑してくるリャンテの右隣に腰を下ろす。


 彼を前に片膝を立て、これで満足か、と口荒く聞くと、取り巻きのカグムとハオの顔がこわばった。知ったことではなかった。

 これに必要以上の怯えを見せれば最後、どう甚振られるか分かったものではない。


 輩はティエンと向かい合い、その態度に噴き出した。


「ちっと見ねぇ間に、ずいぶんと気が大きくなったな。一々俺にびくついていたピンインはどこへいった」


「それは一年前に死んだ。今はティエン。しがない農民だ」


「はっ。お前が農民ねぇ。ま、俺も今はしがねぇ平民だから人のことは言えねーか」


 ああ、農民といえば。リャンテが含み笑いを零す。


「三日前。きたねぇ農民のガキに会ったぜ。青州兵に追われているようだった」


 ユンジェのことか。

 ティエンは昂る感情を抑え、努めて平常心になる。そうでなければ、あれこれ口から言葉がほとばしりそうだった。冷静を欠けば、この男の思うつぼである。


「そのガキは随分と賢い奴だった。俺の身分を『王族』と知っていながら、なお、この身なりだけで平民でないことを説いたんだからな。この俺を唸らせるなんざ、大したガキだ」


 それだけではない。あれは青州兵に追われた際、危険も顧みず、川へ飛び込んだ。まるで、誰かを守るため、兵を遠ざけるために。溺れかけながら、子どもは川を泳いだ。


「兄上。なぜ、その話を私に?」


 ティエンは奥歯を噛み締めた。蓋している激情が、いまにも溢れかえりそうだった。ああ、容易に想像ができる。あの子ならやりかねな判断だ。


「くくっ。その姿があまりにも健気だったもんだからな。ちと、矢で射てやった。綺麗だったぜ、ガキの血が川面に広がる光景は」


 目の前が真っ赤になった。それこそ、たき火の炎よりも、体内をめぐる血よりも。


「ティエンさま! おやめ下さいませっ。貴殿の敵う相手ではございません!」


 腰を上げ、鞘から短剣を抜くも、駆け寄って来たカグムによって止められる。


 彼は必死に、落ち着くよう訴えた。けれど、ティエンの心には届かない。

 それどころか、怒り狂いそうだった。この男ならば、まこと矢で射かねない。であれば、ユンジェは怪我を負っているのではないだろうか。


「おのれっ、よくもユンジェを。リャンテっ、よくも」


 ティエンの怒りを前に、リャンテは大声で笑う。


「ぷははっ。愚図、本当に良い目をするようになったな。いいねぇ。好きだぜ、俺は。怯えられた目を向けられるより、戦意のある目を向けられる方が血も滾る」


 そうでなくては面白くない。彼は口端を舐める。


「安心しろ。あれはちゃんと生きている。俺が懐剣のガキを殺すわけねーだろ? セイウにも怒られちまうぜ。よくも私の美しい懐剣に疵をつけましたね、なんて言って毒を盛られちまう」


 リャンテはユンジェを懐剣の子どもだと見抜き、わざとティエンを試したようだ。だから、この男は性格が悪い。


 なにより、性格の悪さが出ているのが、『殺していない』の発言だ。

 確かに輩は懐剣のユンジェを殺していないだろう。それのせいで、ユンジェと主従関係にあるセイウと戦になる可能性もある。


 また、ユンジェが己の懐剣を抜くやもしれないと考え、そう易々と命を取るようなことはしないだろう。


 けれども、この男。『傷付けていない』とは一言も言っていない。

 思ったそばから、あれに向かって矢は飛ばした、と怒りを煽ってくる。ああ、この男、どうしてくれようか。


(落ち着けっ。ユンジェを信じろ。兄上の言葉に惑わされるな。あの子の力は、誰より私が知っているはずだ)


 押さえつけてくるカグムの手を払い、荒々しく短刀を鞘に収めると、肚の読めない輩に目的を尋ねた。


 第一王子リャンテが平民の格好をし、こんなところをうろつくなんぞ、よほどの理由があってのこと。


 ここ、東の青州は第二王子セイウが任されている土地なのだ。

 いくらリャンテが麟ノ国第一王子であろうと、自分と不仲である第二王子が任されている土地を好き勝手歩き回ることは、争いの種を撒くようなもの。


 戦好きのリャンテであれば、それも可能性にあるやもしれないが、リャンテの母がそれを許さないだろう。下手すれば、父王の目に留まり、一族の顔に泥を塗ることになりかねない。


 また立場上、この男はクンル王側の人間。血眼になって、己の首を求める父王を知っているはずである。こちらの油断を誘い、隙を見て首を刎ねるつもりだろうか。


 すると。リャンテは刺激がほしいのだ、と返事した。訳が分からない。この男、何を言い出すのだ。


「少し前、俺はセイウの下を訪れた。あいつに、これを見せるために」


 懐から竹簡を取り出し、リャンテがそれをティエンに投げ渡す。

 読んでみろ、と命じてくるので、訝しげな気持ちを抱きながら、それを紐解き、中身に目を通す。息を呑んでしまった。


 そこには、麟ノ国第二王子セイウの動きを監視と、麒麟の使いの調査が事細かく記されているではないか。

 国印からして、これは本物の勅令ちょくれい。信じられない気持ちで満たされる。まさか、これをセイウに見せたのか。だとしたら、密告ではないか。


「どういうことだ。貴方とセイウ兄上は、王位継承権を争っていたはず。勅令を密告するなど、父に背くも同然。重罪なのは貴方も知っているはずだ」


 あろうことか、今度はそれを簒奪さんだつの罪で追われている、ティエンに告げ口している。正気の沙汰とは思えない。


(しかも。これには麒麟の使いを見つけ次第、王都へ連れて行くよう記されている。クンル王自らは、ユンジェを欲するようになったか)


 竹簡を乱雑にたき火に放った。

 それを面白そうに眺めながら、リャンテは言う。クンル王は老いた。あれは息子らにすこぶる怯えた、老狸のようだ、と。


「昔はどんな相手にも、策で化かし、力でねじ伏せていたっつーのに。その面影は薄れた。貴様とセイウの懐剣に使いが宿った知らせを聞き、親父は馬鹿みてぇに恐れを抱いている」


 つまらない親父になったものだ。月日の残酷さを痛感する。


「まっ。麒麟が使いを寄越すということは、近々一つの時代に終焉を迎えるということだからな。息子らに首を討たれるんじゃねーか、なんて杞憂してやがるんだろうぜ」


 無論、己の懐剣にもいずれ、使いが宿ることだろう。

 王位継承権を持つ血を分けた兄弟が、各々使いを手にしたのだ。同じ王位継承権を持つリャンテとて、その日は近いことだろう。

 反面、他の王族は抜くことができないはずだ。断言できる。


「あくまで俺の憶測だが、麒麟は正式な王位継承権を持つ、王族にしか使いを寄越さない。なぜなら、それらの中に次の時代、黎明期を作る王が誕生すると睨んでいるからだ」


 その証拠に麟ノ国第一王子リャンテ。第二王子セイウ。そして第三王子ピンインが、ここ青州の地に集っている。

 数年に一度しか顔を合わせない王子達が、星に導かれるように、同じ大地に立っている。偶然にしては出来すぎている、とリャンテ。


 もしや、自分達は導かれているやもしれない。黎明皇を導く、麒麟の使いに。それを考えるだけで、ぞくぞくすると、彼は赤い舌で口端を舐めた。


「ピンイン、俺はよぉ。先の見えた戦なんざ興味ねーんだよ。手前の勝ちが見えておいて、戦に出ても欠伸が出ちまう。退屈だ。刺激が足りねぇ」


 やはり戦とは、己が勝つか死ぬかのぎりぎりを味わい、屈強な輩を力でねじ伏せることに意義がある。


 戦場は好きだ。四方八方から聞こえる悲鳴、剣の交わる音、火薬の爆ぜる音、たいへん心地が良い。命乞いする人間を見下すだけで心躍る。拷問も楽しい。リャンテの生きがいは戦場に詰まっているとすら思える。


 しかし、欲深いリャンテは、物足りなさを感じていた。もっとのめり込む戦がしたくて仕方がない。


 そんな時、麒麟の使いが現れた。それをめぐって腹違いの弟らが衝突し、戦をしたと耳にしたリャンテは居ても立っても居られなくなった。


 黎明皇れいめいおうになりたい、という欲より、それをめぐって真剣に争いたい。使いをめぐるともなれば、しのぎを削る戦ができるはずだ。


 リャンテが経験もしたことがない、予想だにしない戦が出てくるやもしれない。心臓が高鳴るほど興奮した。


「宮殿に引き篭もってばかりの、あのセイウが欲を全面に出し、麒麟の使いに関しては戦も厭わないと断言している。何が何でも、使いを手放すつもりはなさそうだった。国に一つしかねえ麒麟の使いを、我が物にしたくて堪らねぇんだろう」


 それをリャンテが奪うとなれば、セイウは全兵力を注いでも死守するはずだ。想像するだけで血が滾る。


「ピンイン。貴様も、さっきの態度で麒麟の使いが、貴様にとってどういう存在か、ある程度想像がついた。何が何でも手放すつもりはなさそうだな」


 当たり前だ。黎明皇なんぞ一抹も興味もないティエンだが、あの子どもは己にとって、たった一人の家族。手放すわけがない。


 鋭い睨みを飛ばすティエンに、「その顔を絶望させてぇな」と、彼は歪んだ感情を見せた。


「俺が好きな表情は、力負けした時に見せる、人間の絶望した顔なんだよ。取られたくねぇなら、全力で死守してみせろよ」


 挑発に乗るな。

 また頭に血がのぼり、短剣を抜いたところで、負けは見えている。

 己の手腕など、高が知れている。弱い人間の自分は、頭や口で勝たなければ。考えろ、これの挑発に乗らず言い負かす方法を。


「なるほど。リャンテ兄上、貴方が私に告げ口する真の目的は、クンル王の力を分散し、各々火種を撒くため。戦だけのためなら、こんなまどろっこしいことはしない。したたかな人だ」


 クンル王の配下にいる第一王子と第二王子が、水面下で密告すれば、必然的に指を差し合えなくなる。

 それどころか、時機がくるまで手を組むはずだ。リャンテは勅令の件で、セイウは麒麟の使いの件で、王に下手な告げ口はできない。


 結果、一つになっていた王の力は自然と分散されるだろう。


 また、謀反兵と共にいるティエンに告げ口することで、それ伝いに謀反を目論む天士ホウレイの耳に入る可能性がある。

 力の分散を好機と思わない馬鹿はいない。ホウレイは仕掛けるはずだ。


 ティエンは暴君の中に垣間見える、したたかな策に眉を寄せた。


「戦狂いに見せかけ、しかと王座は狙っているんだな」


「くくっ。こりゃあ面白れぇ。よく言いあてやがったな。賢くなってるじゃねえかピンイン。王座? 狙うだろ。俺は誰かに指図されるなんざ、ごめんなんだ。それが親父であろうがお袋であろうがな」


「――リャンテさまっ!」


 向こうの茂みから、近衛兵のソウハが馬に乗って現れる。リャンテを探し回っていたのだろう。その顔は焦燥感にまみれていた。


 単独行動は控えてほしい、と進言する彼は、ティエンらの姿を見るや驚愕。第三王子ピンインがいると分かるや九鈎刀きゅうこうとうを抜いて、馬から飛び降りる。


 逸早く反応したのは、カグムであった。彼はティエンの身を伏せさせ、振り下ろされる九鈎刀きゅうこうとうを太極刀で受け止める。


「その身のこなし、タダものじゃないな」


「貴様っ、ピンインに手ぇ出してみろ。心臓に風穴を開けてやる」


 その声には、まぎれもなく怒りと殺意がまじっていた。ティエンは呆けてしまう。顔を上げれば、あの頃、よく目にしていた彼の横顔がそこにはあった。


 ソウハはカグムの太極刀を一瞥し、確信を得たように、ふうんと鼻を鳴らす。

 そして、力の限り太極刀を弾き、持ち前の九鈎刀きゅうこうとうをティエンへ向けて薙いだ。命を奪うための、容赦ない一太刀であった。餌食になれば、首から血しぶきが上がっていたことだろう。


 しかし、カグムがそれを許さない。


「二度目の忠告はないと思え」


 躊躇いなく、九鈎刀きゅうこうとうの軌道を左腕で変えると、渾身の一太刀を返す。彼の念頭に斬られる恐怖など無いように思えた。


 まるで、ユンジェが懐剣を抜き、ティエンを守る時のような、凄まじい気魄きはくを感じた。鬼のようにも、化生のようにも見えた。


「やはり貴様は、噂に聞く元王族近衛兵カグムだな」


 後ろへ飛躍したソウハは、九鈎刀きゅうこうとうに付着した血を振り飛ばすと、憮然とカグムを見据える。


「勇猛な心で主君に背を向け、一時期は悪名高き王子を討ったことで英雄とまで称えられた男が、まさか、また同じ主君を守る犬に成り下がっているとはな」


「英雄なんざ、二度と口にするんじゃねえ。胸糞悪い。あれのどこが英雄だ。六年も守っていた主君を逆心し、刃を向け、谷から突き落とした。それだけの姿を英雄だと呼ぶなら、俺は英雄そのものを否定してやる」


 それはカグムらしくない、けれど、カグムらしい憤った姿であった。


 ティエンはその姿に懐かしさを覚える。

 昔はよくあの姿を見ていたものだ。体が弱かったティエンは病で床に臥せていた。


 その度、呪われし王子の死を周りから望まれ、陰口を叩かれた。誰もが死を求めた。

 なのに、彼はそれを耳する度に怒ってくれたものだ。ティエンの分まで怒れ、物に当たり散らし、よく部屋を荒らされた。ああ、懐かしい。


(カグム、本当のお前はどれなんだろうな)


 ティエンと六年間、友として過ごした、あれがまことの姿なのか。

 それとも、ティエンに刃を向け、谷から突き落としたあれこそが、まことの姿なのか。

 はたまた、今のように己を守り、輩に敵意と怒りを抱く姿こそ、まこと、なのか。


 ユンジェの言葉を借りるのならば、考えれば考えるほど、分からなくなる、だ。

 きっと、ティエンひとりでは、いつまでも答えは出ないのだろう。答えを知っている者に聞かなければ永遠に、この答えは謎のままだ。


「おいおい。貴様ら、楽しそうなことしてるんじゃねえぞ。俺も参戦したくなるだろうが」


 ゆるりと腰を上げたリャンテが、愛刀を帯に差して、不敵に口元を緩める。その眼には、揺るぎない闘志が燃えていた。根っからの戦好きなのだろう。


 とはいえ、時と場合は選ぶようで、彼はソウハに武器を収めるよう命じた。

 今は第三王子ピンインの首を討ち取るところではない。あくまで、此方の目的は懐剣の使いだ。


 そのために将軍グンヘイと面会も果たした。これから先は、懐剣の使いの足取りを追いつつ、どう最高の場面で兄弟らと衝突し合うか、そこが大切だとリャンテ。


 すると。あきれ顔のソウハは九鈎刀きゅうこうとうを鞘に収めると、平坦な声で進言した。


「ならば、少しは焦られて下さい。単独行動ばかりされて……第二王子、第三王子が懐剣の使いを手にし、第一王子のみ未だ手に入れていない。すでに値踏み好きな王族は、貴殿の価値を下げております」


「言わせておいけばいい。どうせ、老いぼれどもの戯言だ」


「危機感をお持ちください。幾ら第一王子といえど、使いがいるのといないとでは、王位継承権を得る差が出てきます。ああ、なぜ、あの時、子どもを見送ったのか。なんのために、青州へ赴いたと思うのですか」


「また始まった。ソウハ、貴様は本当に口煩いな」


「口煩くもなります。我々はすでに二度もリーミンを見逃しているのですよ。一度目はあっ、お待ち下さい。まだお話は終わっていませんよ」


 お小言を漏らすソウハを差し置き、リャンテは馬の下へ向かってしまう。


 その間、ティエンらは動くことができなかった。隙を見て背中を斬る気持ちにすらなれない。否、相手の隙が見えないのだ。少しでも剣を抜き、その身を斬ろうとすれば、きっと返り討ちに遭う。


 と、馬に乗ったリャンテが手綱を引きながら、ティエンにこのようなことを言う。


「愚図。麒麟の使いは、所有者の人格が大きく影響する。一説によれば、国に望む姿とも云われているそうだ。農民と名乗る貴様は、あれをどんな姿にするんだろうな。どうも、貴様は使いと誤った在り方をしているようだが」


 好戦的な眼を向け、輩は馬の腹を蹴って、嵐のように去って行く。いずれ、黎明皇の座をめぐり、剣を交えよう――そんな、けったいな言葉を置き土産にして。


 闇夜に消えるリャンテの背を、いつまでも見送るティエンは美しい顔を崩すこともなく、冷たい言葉で返事する。


「どんな姿? あの男は何を言っている。ユンジェの姿を決めるのは、ユンジェ自身だ。所有者の私ではない。あの子は物ではない」


 そう。これこそが、ティエンがユンジェに望むこと。国に望む姿なんぞティエンの知ったことではない。

 ユンジェは国のものではない。あの子自身のものなのだ。どうして、王族の者は口々にあの子を物扱いにするのか。ユンジェの意思を誰も尊重しないのか。


(私とユンジェの関係は、王族どもから見れば誤りなのかもしれない。しかし、主従となり物扱いする関係が、正しい関係ならばあれば、私は誤ったままで良い。不愉快だ)


 あの子は辛抱強いから、子どもの分までティエンが腹を掻いておくことにする。きっと、ユンジェに言えば、「怒っても仕方がないさ」と、言って笑うだろうから。


 ティエンは草深い森から目を放すと、早足で太極刀を収めるカグムの腕を掴み、強引にたき火の前に座らせる。なんだよ、と文句を投げられるが、ティエンは構わず彼の左腕を隅々まで確認した。


(手の甲が斬れている。軌道を変えた時か)


 ばかな男だ。呪われた王子のために傷を作るなんて。


 ティエンはハオに傷の深さを診てもらい、縫うべきかどうかを尋ねる。必要であれば、針を煮沸消毒するつもりであった。

 彼から必要ない、と診断が下ると、ティエンは自身の手で治療をしたいと申し出る。二人からすこぶる驚かれた上、カグムから傷を酷くされそうだ、と嫌味を投げられ、遠慮されてしまった。


 普段であれば、食い下がっているところだが、ティエンはカグムから目を放し、ハオに頼み込む。どうしても自分の手でやってみたかった。


 願いが通ると、ティエンは塗り薬と包帯の扱い方を習い、手本を見せてもらいながら、カグムの手当てをする。


 とりわけ包帯の巻き方に苦戦したものの、初めてにしては上出来であった。

 ハオにも悪くはないと言われたので、離宮にいた頃よりも手先の器用さは上がっているようだ。これもユンジェのおかげだろう。


「一体、肚の内に何を隠しているのでしょうかね。まさか、ティエンさまから手当てを施してもらうなんて」


 明日は雨やもしれない。カグムの煽りに、ティエンは微苦笑する。毒を吐く気にもなれない。


「あの頃も、こうやってお前に手当てをしてやれば良かったな。昔の私はなんでもかんでも、お前にしてもらうだけの男だったから」


 もしかすると、それが友の負担になっていたのかもしれない。


 ティエンは自問自答を口にし、包帯と塗り薬を仕舞うためにカグムから離れる。

 すかさず彼の手が伸び、ティエンの腕を掴んだ。振り返ると、やけに此方をきつく見つめてくる、かつての友の顔がそこにはあった。


「お前らしくねえぞ。ピンイン」


 強まる握力を感じながら、ティエンは軽くカグムの額を人差し指で押した。


「それはお前もだ。カグム。身を挺してまで守るほど、私の価値は高くない。お前は呪われた王子のために、傷なんて作らなくて良いんだ」


 カグムはもう、ピンイン王子の近衛兵ではない。天士ホウレイの兵なのだ。主君がかわったのだから、カグムはもう少し、身の振り方を考えた方が良い。


 たとえ、王族を玄州へ送ることが任務だとしても、先ほどの守り方は傷ひとつ負わせない戦い方であった。


 任務を負った兵のやり方だとは思えない。ティエンが怪我をしようが、骨を折ろうが、カグムは忠実に任務だけこなせば良い話なのに。


「カグム、お前は麒麟の使いのユンジェと違う。あまり、愚かな行動は取らない方が身のためだ」


 彼のティエンに対する思いは、ティエンと生きる誓いを立て合ったユンジェと違う。


 それを知っているからこそ、ティエンはしかと忠告した。もう、自分のために怪我をしてくれるな、と。


 でなければ、ばかな自分はきっと勘違いしてしまう。

 傷付きたくないのに、どこかで期待を寄せてしまう。ああ、何も言わないカグムのことを考えると、本当に疲れてしまうものだ。いつまでも答えが出ないのだから。


「愚かなのはお前だろう。任務で勝手に連れ回しているのは、俺達の方なんだ。怪我を負ったとしても、お前は心中で幸運だと思っておけば良いのに」


 強がりの反論を右から左に聞き流し、ティエンは今度こそカグムから離れる。

 彼はティエンに何か言って欲しいようだが、それには乗ってやらない。

 向こうだってティエンに何も言わないのだ。だったらティエンも今の気持ちをこれ以上、出すつもりはない。絶対に出してやるものか。


(私とカグムの、今の関係に名前をつけるとしたら、何なんだろうな)


 くだらない意地を噛みしめながら、炎々と燃え続けるたき火を見つめ続ける。悩まなければいけないことは山のようにあるのに、ユンジェやリャンテのことがあるのに、愚かにも頭の中はカグムのことでいっぱいとなっていた。

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