九.呉越同舟


 将軍カンエイの名は、離宮にいたティエンでも耳にしたことがある。

 十瑞将軍のひとりで、齢二十にして将軍にのし上がった若き男。戦の局面では負け知らず、天賦の才を持つ男。


 とりわけ戦術を立て、敵を追い込むことに長けていると聞いた。


 その男が父王の命を受け、南の紅州に兵を率いてきた。天士ホウレイの息の掛かった人間を討伐するために。

 クンル王は呪われた息子を討つよりも先に、己を脅かす人間達に力を入れたようだ。よほど謀反が怖いのだろう。


 知らせによると、将軍カンエイの天幕はティエン達が辿った道の途中にあるという。

 兵の数は三十と、さほど多くはないようだが、こちらの人数は怪我人合わせて六人。勝ち目など蟻の隙間もない。


(これで紅州に王族の三兵が揃ったことになる。厄介な)


 ティエンは人差し指をかじり、土の上に広げた地図をじっと見つめる。

 カグムに今後の行き先を尋ねると、南の紅州と西の白州を繋ぐ関所だと答える。なるほど、北の玄州へ向かう道を、西の白州に定めたのか。


 しかし。


「あまり得策とは言えないな。西の白州は、第一王子リャンテ兄上が任されているところ。血の気の多い兄上は武に力を注いでいる。ゆえに白州は、とりわけ武に優れた土地となっている。それは誰より兵に身を置いていたお前達が知っているだろう? なぜ。猛者の多い、白州を選んだ」


 軟弱な王子から、このような意見が出るとは思わなかったのだろう。みな急変したティエンの態度についていけないようだ。今まで農民として振る舞ってきたのだから、仕方のない反応だろう。


 だが、いまは非常事態。素でいかせてもらう。


 ただひとり、カグムだけが動じることなく、ティエンの疑問に返事した。


「リャンテさまの配下にいる兵達は、忠誠心が厚い者と、逆心を抱く者の二つに分かれております。武に力を入れ、国を守ろうとする心は評価すべきところですが、兵の扱いに温度差があり、それに耐えられず逃げ出す者も少なくございません」


 けれども、脱走兵の殆どは捕まり、見せしめとして公衆の面前で縛り首となる。

 恐怖した兵達は半ば強制的に忠誠心を植え付けられ、理不尽な環境下でも受け入れざるを得なくなる。


 無論、それでは兵達の反発が目に見えている。そこで力のある兵には多大な恩情を与え、贅沢な優越を持たせるそうだ。

 それにより、逆心を持つ者が少なくなる。これが白州の兵の実情だとカグムは低く唸った。


 ひどい話だ。嫌悪する兵の話とは言え、これにはティエンも哀れみの心を持ってしまう。


「白州の兵は二極化しているということか。一方は王族の配下だが、もう一方は天士ホウレイの配下。つまりお前達の仲間、ということだな?」


「ええ。東の青州より手数が多いので、そちらの道を選びました。勿論、王都がある黄州の道は自滅ですので、選択肢にはございません」


「その者達が【謀反狩り】に遭っている可能性は?」


「正直、その可能性を否定はできません。しかしながら、青州の関所よりは遥かに通りやすい。白州に懸けようと思った次第です」


 カグムの話にひとつ相づちを打つ。


「将軍カンエイは、私達の足取りを『掴』んでいるのではなく、ある程度、先を見越して『読』んでいるやもしんな」


 将軍カンエイが、第三王子ピンインの足取りを掴んでいるのかは定かではないが、散らばった紅州の謀反兵の行動なら、ある程度予測が立てられる。

 将軍とはいえ、相手も兵に身を置く者。各州の兵事情も耳に入れていることだろう。


 ティエンが将軍カンエイならば、散った者達がどこかで仲間と合流することを考える。単独で動くより、少しでも数がいた方が選択の幅も広がる。なにより、心身ともに安定する。


 おおよそではあるが、将軍カンエイは目途をつけたのではないだろうか。

 紅州の間諜達が、他の州に応援を求めると。そして、それは手数の多く、関所を抜けやすい白州に集まるのではないかと。


 将軍カンエイは知将と呼ばれた男。頭は切れるはずだ。無駄な労力は抑え、いかに敵を追い込むかを考えているのでは。


「頭が切れるということは、よく周りを見ているということ。将軍カンエイは、私達の野宿後を辿って来ているのだろう」


 いくら注意を払っても、たき火の後は簡単に消せない。散らしたところで、燃えかすは残る。

 また好き好んで野宿する人間など、そうはいない。何かしら事情があると考える。追い込んでみる価値はあると、カンエイは判断したのだろう。


 するとハオが控えめに進言した。


「野宿の場所など、的確に見つけられるでしょうか。我々は身の隠しやすい場所を選んでいたと思いますが」


「だからこそ見つけられた、と私は思う。相手側に立てば、追われる者達がどのような場所を好むか、手に取るように分かるだろう。いくら追われても、私達は人間だ。少しでも快適な場所を探す」


 それらに目星をつければ、場所も特定できるのではないか、とティエンは意見を述べた。条件を突き詰めていくと、自然と探す場所も狭まる。


「野宿の場所を結んでいけば、おおよその行き先も見出せる。そして野宿する人間の正体も察することができる。私がカンエイであれば、目途が立ち次第、挟み撃ちにしでもしたいところだ」


 呆けた顔でハオが頷いた。感心しているらしい。


(将軍カンエイは私達が白州に行きたいことを、既に読んでいる。ならば)


 ティエンは後ろを一瞥する。

 そこには荒呼吸を繰り返し、うわ言を漏らすユンジェの姿。時折、か細い声で自分の名前を呼ぶので心が痛くなる。一刻もはやく休ませてやりたい。


「カグム、青州の関所は本当に通れないのか」


「いえ。難しいというだけで、通れないわけではございません」


「だったら目的を変更すべきだ。向こうに行き先を読まれている以上、白州の関所は極めて危険。お前達の仲間が謀反狩りに遭っている可能性もある」


 そんなところに、傷付いたユンジェを連れて行けるわけがない。ティエンは地図を見下ろし、青州の道のりを指でなぞった。


(山ばかりだな。山は森林より日夜の気温差が激しい。ユンジェが耐えられるかどうか)


 それでも、白州より生きる道が強いのであれば、そちらを選ぶしかない。


「問題は将軍カンエイを撒かねばならない点か。よし、来た道を戻るか」


 それはつまり、将軍カンエイ達と対面するということに繋がる。カグムは即座に却下を申し出た。


「死に行くようなものです。この数で勝てるとお思いですか」


「誰が戦に挑むと言った。私は来た道を戻る、と言ったのだ」


「見つかればどうなると思っておられるのですか」


「そんなもの、馬鹿でも分かる。だから、見つからないように戻ればいいだろう?」


 ティエンが嘲笑する。それにカグムは何を思ったのか、身分も立場も忘れ、素で睨みつけてくる。


「ピンイン、お前の案はただの考えなしだ。当てずっぽうで物を言うんじゃない」


「はっ。このまま白州の関所に向かい、敵中の策に嵌るより、ずっとマシだ」


 口論する両者の間に凍てついた空気が流れる。慌ててハオが口を挟んだ。


「お、落ち着いて下さいピンインさま。カグム、お前もらしくねーぞ。最後まで話を聞いてから意見しろ。時間がねーんだから」


 その通りだ。時間がないことを忘れはならない。ティエンは地図を閉じると、頭陀袋に入れて立ち上がる。


「相手は周りをよく見て動く。その判断のもと、私達を追っているのであれば、裏を掻くしかあるまい」


 カグムが言うように、追われる者が来た道を引き返すなど自滅行為であろう。しかし、知将相手ならば、それくらいしなければ撒けないとティエンは考えている。


 このまま前に進んでも、いずれ追いつかれることだろう。

 ティエンが言ったように、挟み撃ちの考えだってある。相手は追い込みの天才だ。こうしている間にも、ネズミの自分達を少しずつ囲んでいるやもしれない。


「見つかれば、確実に死ぬぞ。ピンイン」


「見つからなければ、確実に生き延びる。そうではないか?」


 どの道を取っても危険なのだ。

 今さら、四の五の言っても仕方がない。ティエンは誰にどう言われようが、ユンジェと共に生きたいのだ。死ぬことは、とても怖いことだから。


「見つかるようなヘマはしない。いや、してはならないんだ。兵と鉢合わせになれば、ユンジェが使命に駆られ、無理をすると分かっている」


 ついに折れたのだろう。異論はないと告げ、カグムは軽くため息をついた。


「ピンインさま。ひとつ確認です。ここまでご熱心に意見して下さる、ということは、こちら側の人間と見ても宜しいでしょうか?」


 カグムが探りを入れてくる。なにか裏でもあるのでは、と疑っているのだろう。ティエンは眉を顰め、冗談ではないと突き返した。


「私はユンジェを救いたいだけだ。その子を守るためなら、なんだってするさ」


 そう、いまのティエンにはそれだけなのだ。怨みも憎しみも、自分の私情に過ぎない。優先すべきことは他にある。

 ティエンはユンジェの頭陀袋を開けると、使えるものを探る。子どもはいざという時に備え、色んなものを作っている。きっと今回も役立つものがあるはずだ。


「ああ。これは使えるな」


 大きな葉に包まった布袋を数個見つけたので、兵達に投げ渡した。受け取ったハオが「これは?」と、尋ねてきたので、目つぶしだと簡単に答える。


「ユンジェお手製の目つぶしだ。改良されてあるから、以前より威力は強い」


 敵に見つかったらそれを使え、とティエンは布袋を指さした。葉を取ると粉が飛び散るから注意するように、と言葉を添える。


「確か、砂と粉山椒と塩に加え、唐辛子を入れたと言っていたな。なんでも、顔に当てることで、目だけでなく鼻や口にも痛みを与える狙いだとか」


 呼吸器官を狙ったら、追っ手は上手く走れないだろう。これなら、前よりもずっと逃げ切る希望が持てる、とユンジェは得意げに語っていたものだ。

 それを聞いたハオは、見事に顔を引き攣らせる。


「え、えげつねえ物ですね。目だけじゃなくて、鼻や口まで狙うなんて」


「ユンジェは頭が良いんだ。自分の弱さを知っているからこそ、不意打ちで相手の弱点を突くことが上手い」


 聞こえは良いが、要するに卑怯が得意なのでは。それで痛い目に遭ったことのあるハオは、遠い目で目つぶしを眺めた。

 そんな彼の手に、ティエンはもう一つ、目つぶしを押し付ける。みな、一個ずつであるが、ハオだけ二個託された。その意味は。


「これはユンジェの分だ。お前は患者を診ることができる。あの子はお前の傍が良いだろう」


 ハオは目を見開く。それはつまり、ユンジェをハオに託す、という意味になる。しかしながら、今まで王子はハオと二人乗りをしていた。馬は四頭しかいない。まさか。


「カグム。どうせ、私は一人乗りをさせてもらえないんだろう? だったら私は、貴様の馬に乗る。指揮をする人間と一緒の方が都合も良い」


「ピンインさまの御指名ですか、光栄ですね。構いませんよ。貴方様さえ良ければ」


 やっぱりそうだ。ハオは心中でため息をついた。


(おいおい、大丈夫かよ。その組み合わせ……道を引き返すより、不安なんだけど。頼むから馬の上で殺し合い、とかやめてくれよ)


 周囲の戸惑いなんぞ二人はお構いなしだ。

 含み笑いを浮かべるカグムに冷たく笑い、「せいぜい油断せんようにな」と、忠告をしてティエンはユンジェの枕元で両膝を折った。


「ユンジェ。そろそろ出発する。頑張れるか?」


 頬を紅潮させる子どもは重たい瞼を持ち上げ、小さく頷くと、ティエンに助言した。


「ティエン……相手はよく考える奴なんだろ? なら……めいっぱい、考えさせるんだ」


 ユンジェは高熱に魘されながらも、話をしかと聞いていたらしい。意外にティエンと相性の良い相手かもしれない、と子どもは力なく笑う。


「おれに、よく言うじゃん。お前は考えることが得意だけど、ちょっと『すぎる』ところがあるって。おれ、考えすぎると、わけ分かんなくなるからさ……うまく言えないけど」


 考えすぎる。

 ティエンは顎に指を当てた。ユンジェもそうだが、よく考える奴は周囲を隈なく観察している。そこから様々な可能性を見出し、相手の意表を突いたり、出し抜いたり、撒いたりする。ユンジェはそれを、とても得意としている。


 だがドツボに嵌ると、深読みをしたり、混乱したり、冷静な判断ができなくる。もし、相手が似た型であるならば。


 と、ティエンの顔を見つめていたユンジェが、嬉しそうに頬を緩めた。


「いまのティエン、すごく格好良いな……すごく頼れる……おれ、甘えてもいいかな。お前に、守ってもらっていいかな」


 勿論だ。今回は懐剣の出番など、一切出させない。ユンジェはただ、馬に乗っておくだけで良い。


「後はすべて、私に任せておくれ。ユンジェは安心して寝ておきなさい」


 ティエンは子どもの頭を撫でると、行動に起こした。まずは、消えかけているたき火に枝を足さなければ。



 ◆◆



 四頭の馬は日の出と共に、しじまの森林を、南の方角へ駆け抜ける。


 本日の天候は快晴、澄み切った空には白い雲ひとつない。

 気持ちの良い青空が地上を見守っている。そこに小さな鳥が飛んでも、肉眼で確認できるほど、空は青く澄み渡っていた。


 来た道を引き返す馬達の後ろでは、白い煙が四、五本と立ちのぼっている。

 それらはたき火から出る煙で、ティエンの指示で焚かせたものであった。距離を開かせて、たき火を焚いたつもりだが、いざ確認してみると、各々距離が近く見える。


 もう少し、離れてくれると惑わせる力も強まるのだが。仕方がない。時間がなかったのだから。


「正気の沙汰とは思えませんね。ピンインさま。わざわざ狼煙のろしをあげるなんて」


 ティエンは、前で手綱を握るカグムを冷たく見やる。

 この男の背中を短剣で刺してやることができれば、どれだけ気持ちが晴れることか。果たして本当に晴れる、のだろうか。

 苦々しい私怨を必死に押し殺し、簡単に答える。


「わざと敵に居場所を教えているのだ。あれでいい」


「朝からあんなものを上げたら、さぞ兵達は訝しがるでしょうね。あれは罠なんじゃないか、と……四つも、五つも、煙が上がっていたら何かあると、俺なら思いますね」


 さすが兵に身を置く者。ティエンの思うように勘ぐってくれる。カグムでさえ、このように思うのだから、将軍は余計に勘ぐることだろう。


「なぜ。あんなに狼煙を? あれの他に、たき火をいくつも組み立てさせましたよね。しかも湿気た枝で」


 湿気た枝でたき火を組み立てさせ、火を点けさせた意味がカグムには分からないようだ。それに火を点けても、燃え広がらずに終わる。火はやがて消えてしまう。

 なのに。ティエンは敢えて、それに火をつけた。一体なんの意図があるのだと、カグムが追究してくる。


 答えは簡単だ。


「意味など無い。それが私の目的だ」


「もう少し、分かりやすくお願いできますか?」


 ティエンは繰り返した。


「だから、あれに意味など無いと言っている。お前は今、数の意味を考えただろう? 当然だ。あんなにたき火を用意したのだから、何かしら意味があるのではないかと考える」


「なるほど。それが狙い、ですか」


「不気味だろう? 無意味な狼煙の数も、たき火の数も。相手は何を目論んでいるのだと、勘ぐってしまう」


 よく考える奴ほど、抱いた疑問と敵の目的を合致させようとする。不可解な点が出てくると、それの意味を解明しようと躍起になる。

 ユンジェがまさしくその型で、目的を把握するまで相手側の視点に立ち、なんでそうするのだと考え込む。

 はっきり理由が分からないと、気持ちが悪いのだろう。将軍カンエイがユンジェと似た型であることを願いたいものだ。


「タチの悪い策ですね。俺なら、意味が無いと分かった時点で腹を立てますよ」


「大いに結構。策略に嵌ってくれた証拠だ。まあ、狼煙の数については敵に見つかりやすいように増やした、という理由もある」


「あの数なら、すぐに見つけるでしょう。俺ならあの狼煙を、何かの誤魔化す手段として見ますがね」


「もしくは味方に合図を寄越しているんじゃないか、とも思うだろうな」


 あるいは居場所をかく乱させるためか。たき火の近くに誘導させるためか。

 はたまた、別の目的があるのか。将軍はよく考え、観察を始めるだろう。戦に長けた者なのだ。あれの正体がなんなのか、強く怪しむはずだ。


(よく考える奴の強みは観察力。それから、あらゆる可能性を導きだす)


 それを逆手に取ることができれば、逃げる時間稼ぎになる。


「カグム。貴様は指揮する側だ。あの狼煙を見て、一斉に隊を動かすか?」


 とっくに己の考えを読んでいるカグムは肩を竦め、「いいえ」と答えた。


「まずは偵察を送りますね。状況が把握できないのに、隊を動かすなんて無駄な労力ですから。偵察は基本戦術ですよ」


「では、その偵察がいつまでも戻って来なかったら?」


 彼は鋭く耳をすませ、赤い舌で口端を舐めると片手で手綱を握り、手の平に収めていた目つぶしを構える。


「もちろん。何か遭ったのだと判断し、指揮の自分が動きますね。自分達の気配に気づいたのかと、相手の目的地へ馬を走らせるやもしれません」


 ティエンは細く笑った。良かった、己の読みは外れていない。


「ピンインさま。見つからないように引き返すと申し上げませんでしたっけ? 懐剣が飛び出しても知りませんよ。貴方様に危機が迫ると、ガキは使命に駆られるというのに」


 肩に掛けていた短弓を手に持つと、矢筒から矢を抜き、いつでも構えを取れるようにする。


「無論、見つからないように引き返す。見つかる前に潰せば、万事丸く収まるだろう? ユンジェにだって負担は掛けまい」


 隣を一瞥すると、苦しそうに呼吸をしているユンジェの姿。

 腕に抱くハオが頻繁に様子を見ているが、険しい表情は子どもの容態を物語っている。ああ、馬の揺れすら、本当はつらいだろう。一刻も早く静かなところで横にさせてやりたい。


 誰よりも先に走っていた、シュントウの馬から指笛が聞こえた。偵察の馬を発見したという合図だ。続けざま、音が三つ。偵察の数を表している。


(三頭。やれるな)


 ティエンはハオに最後尾にいるよう声を張ると、頭からかぶっていた布を取りはらい、矢のやじりに付いた目つぶしに手を掛ける。

 そして覆っている葉を引き千切ると、カグムに命じた。


「先頭へ行け。先陣は私達が切る」


「本当に勇猛な男になりましたね。昔は人の顔色を窺ってばかりだったというのに」


「生憎、一年以上前の記憶はない。無駄口を叩いていると、馬から蹴り落とすぞ」


 男の背中を鋭く睨むと、彼は振り返り、含み笑いを浮かべた。


「つれないですね。誰よりも護衛していたのは俺なのに」


「逆心した近衛兵が何をほざく」


「ははっ。憶えているじゃないですか。一年以上前のこと」


「せいぜい今のうちに煽るだけ煽れ、後で貴様の背中に隙間なく矢を飾ってやる」


 ティエンは分かっていた。カグムがわざと己を煽り、怒りを誘おうとしていることを。

 いつも、それで感情的になってしまうが、今回ばかりはその手には乗ってやるものか。今、大切なことはこの場面をどう切り抜けるかだ。


 カグムも煽ることをやめたのだろう。やれやれ、と肩を竦めてくる。


「まったく。貴方様にはおとなしくして欲しいんですけどね。危険ですよ、先陣なんて」


「あの子はいつも、私のために命を懸けている。なのに、私が危険を恐れるなど、まるで筋が通らない」


「念を押しますが、ガキはピンインさまの懐剣です。お忘れなく」


 みなまで言わずとも分かっている。


「ハオ、ユンジェをしかと抱えておけ。飛び出させたら、貴様の喉を切り裂くからな」


「えっ、は、はいっ……仰せのままにっ」


 ハオは射貫くような眼光に冷汗を流した。何度も頷き、死ぬ気で腕に抱いておくと態度で示す。

 それを確認すると、「走れ!」と、ティエンの号令の下、カグムの馬が速度を上げる。先頭を走っていたシュントウと入れ替わり、彼は向こうに見える、微かな列に目を眇め、大きく旋回した。


「王子、振り落とされないで下さいよ」


 馬の腹を蹴ると、それはたてがみを靡かせ、距離を置いて偵察の列に並んだ。

 厚い鎧に覆われた兵の姿はまぎれもなく、王族直属の兵。機会を見計らい、カグムの馬ははその列の真横を突いた。


 何事だと驚き、こちらを向く兵の顔目掛けて矢を放つ。やじりに括りついた小袋が飛散し、偵察の一人が盛大にむせた。

 目が開けられないどころか、それを吸ってしまったのだろう。顔を歪め、涙を流しながら、馬の足を止めている。


(さすがユンジェお手製の目つぶしだ。狙い通りだ)


 更にカグムが、その手に握っていた目つぶしを、馬の顔に当てたので、獣は驚き、人間を振り落とす。

 一瞬の隙を見逃すことのない彼は、太極刀を抜き、鎧の厚さが薄い首を狙って、それで斬りつけた。


「残りを逃がすな、挟め!」


 手をあおいで指示するカグムの合図によって、二頭の馬が飛び出した。旋回する隙すら与えず、二本の柳葉刀が目つぶしの後に宙を裂く。


 たとえ目つぶしを避けることができても、刀は避けられず、ひとりは地面に転がった。すべて避け切ったとしても、最後尾にいたハオが待ち構えている。


「こっちに来るんじゃねーよ。俺が王子にどやされるだろうが!」


 馬に投げつけた目つぶしが、最後のひとりを振り落とす。

 その拍子にかぶとが落ちたが、なおも、果敢に剣を抜き、ハオの馬へと向かう。その馬に怪我人が乗っていることを、瞬時に見抜いたようだ。

 思うように動けないところを気付く辺り、兵はとても良い目と判断力を持っている。


 されど。それを許すティエンではない。


「ユンジェに近付くな」


 素早く矢筒から矢を抜くと、冷静に見極め、相手の頸椎けいつい目掛けて放つ。今度のやじりは鋭利ある鉄製。柔らかな肉など、簡単に射貫く。


「……ピンイン。お前」


 さすがに人を討つと思わなかったのか、カグムが振り返って凝視してくる。付き合いの長い彼だからこそ、己の行為に驚くのかもしれない。


 だが、ティエンは崩れる人間などに目もくれず、すぐに右の方角を見て、カグム達に走るよう命じた。偵察は四人いたようだ。


(誰ひとり、逃がすものか)


 将軍カンエイの下へ引き返す馬は、森林の奥へと入って行く。藪や木々を利用し、天幕にいる仲間達へ知らせようという魂胆だろうが、そうはさせない。


「囲め! 前へ出ろ、カグム!」


 一人の力など、所詮弱いもの。左右後ろの逃げ道を馬で塞いだ後、ティエンを乗せた馬は獲物の前につく。


 四方が塞がったことにより、偵察の逃げ道は無くなった。ティエンは振り返り、弓を構える。恐怖と死を恐れた兵の視線とぶつかったが、矢を放つ手に情けなど無かった。


 それは一直線上を描き、柔らかな喉に刺さる。悲鳴なき悲鳴を上げ、人間は転がり落ちた。馬が止まるとティエンは馬から降り、帯にたばさんでいた短剣を抜く。

 そして、まだ息のある偵察を、躊躇いなく突き刺した。


 ティエンができる、唯一の慈悲であった。もがき苦しんで死ぬより、はやく楽にしてやるべきだと、ティエンは考えた。


(偽善でしかないがな)


 短剣の血を布で拭い、こと切れている人間を一瞥する。


 とりわけ名も知らぬ兵に怨みなどない。

 けれど、守るべき者を守るため、生き抜くためには、仕方がないと考えている。

 それは父王に命令され、己を狙う兵達とて同じだろう。彼等もまた、呪われた王子を討つことで国が守れると考えているに違いない。


 だからこそ、命を懸けた行いはそれ相応の覚悟をしておかなければならないだろう。


 ティエンもいつか、その兵のように、知らぬ誰かに命を奪われるやもしれない。兵に捕まり、首を刎ねられるやもしれない。巡り巡って因果に身を焼かれるやもしれない。

 きっとそれは、常に覚悟しておかなければならないことだろう。


 しかし。その時が来るまで、精一杯生きたい。

 ティエンは這いつくばっても、ユンジェと生きると心に誓っている。子どもと平和に生きることを、いつも夢見ている。


(生きるとは悪、だな)


 いつぞかユンジェが語った罪。あれも生きたいがための罪であった。

 そして、いまも、生きたいがためにティエンは罪を犯している。生きるとは悪であり、罪なのかもしれない。


 だが、それに恐れる暇など無い。


「亡骸を隠して、次へ移るぞ。時間は惜しい」


 ティエンは短剣を鞘に収め、外衣を靡かせながら、カグムの馬へと戻った。



 偵察の亡骸を藪に隠し、馬達を狼煙の上がっている方角へ走らせる。

 その後、ティエン達はそこから少し離れ、切り立った岩陰の下で息を潜めた。そこは走る馬では通りにくい斜面が多きところなので、よほどのことがない限り、隊は通らないだろう。


 太陽が真上に来た頃、熱に魘されるユンジェが怯え始めた。来る、来る、来る、としきりに呟くので、隊が一斉に動いたことを教えてくれる。


 程なくして地が鳴り、馬の音が無数に通り過ぎた。


 ティエンが様子を窺うと、脇目も振らず、狼煙の方角へ向かう兵達の姿。

 そこの中に、ひときわ若い男が立派な馬と鎧を着こなし、道を進んで行く。凛々しい横顔を持つ男であった。知的な面持ちと、深い藍色の髪は知将の名にふさわしいもの。


――あれが将軍カンエイ。


 ティエンは顔を忘れぬよう目に焼き付けると、過ぎ去る音にまぎれ、カグム達と馬を走らせた。少しでも己の策が時間を稼いでくれることを、切々に願いながら。


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