三.王子の今昔



 懐剣は無事、ユンジェに返された。

 それはカグムとハオに持てる物ではなく、彼らの帯にたばさむ前に懐剣の方が拒絶をする。頭陀袋に入れて、ユンジェから遠ざけようものなら、道すがらで不幸に遭ってしまうのである。


 ユンジェは既に三度みたび、頭陀袋に懐剣を入れたハオの不幸を目の当たりにした。

 最初は水を掛けられる程度だったのだが、三度目になると不幸が重くなり、彼は危うく突風に煽られ、潰れる出店の下敷きになるところだった。


 次は命を取られかねない。


 身の危険を感じたハオが、カグムの頭陀袋に収めようとすると、なぜだろう、彼の頭陀袋が燃えかけた。懐剣の祟りだと言われても、まったく不思議ではない。


「カグム。懐剣はガキに持たせるべきだぜ。たぶん、麒麟の使命を授かったこいつから懐剣を遠ざけると、呪いを受けちまうんだよ。なにせ、ピンインさまの懐剣小僧なんだから」


 呪われた王子の懐剣だから、下手なことはしない方がいい。ハオはそう主張した。


「昔、俺が触った時には、こんなことなかったんだがな」


 いまいち不幸事を呪いと思えないカグムは、釈然としない顔をしていたが、彼の意見を聞き入れ、ユンジェに懐剣を返した。


 これで一安心。かと思いきや、カグムは必要以上にユンジェを警戒した。ただの小僧である自分に何かしら、懸念するものがあるのだろう。


 勝手にユンジェの頭陀袋から布紐を取り出すと、それで手首をまとめ、縛り上げてしまった。

 これの丈夫さは、誰より作り主のユンジェが知っている。歯で裂こうとしたって、簡単にはいかない。


 しかも余った紐部分はカグムが握り、手綱のようにユンジェを引いてくる。少しで懐剣や頭陀袋に手を伸ばそうとすれば、笑顔で引っ張られた。


 これではまるで。


(家畜だよなぁ。そんなに警戒されても困るんだけど)


 ユンジェは己の弱さを知っている。

 真っ向からカグムやハオに挑んで、まず勝てるわけがない。卑怯な不意打ちや策で乗り切っていることが大半だ。二人だって、それは分かっているだろうに。


「自分の作った紐で縛られる日がくるなんて思わなかったよ。しかも、こんな格好で町を歩かせるとか、ちょっと酷くないか?」


 前を歩くカグムに文句をぶつけると、彼はくつりと一つ笑いを零す。


「外衣の下に隠しておけば、違和感なんてないさ。酷いことをしている自覚はある。すまんな。だが、お前に自由を与えれば、痛い目を見ると分かっている」


 では、ティエンに自由を与えるのは良いと?

 周りに目を配る二人の、警戒心の薄さにユンジェは鼻で笑いたくなる。


(カグム。あいつはもう、お前が知る囚われの王子なんかじゃないんだぜ?)


 ユンジェはこの町のどこかにいる、彼に想いを寄せる。大丈夫、ティエンなら上手く逃げている。そして、きっと。


 彼らは路地裏を選び、ひと気の少ない道を進む。大通りで騒がれては面倒だと考えているようだ。


 会話から察するに、今から馬宿へ向かうらしい。そこでユンジェを軟禁しようって魂胆なのだろう。


「カグム。ピンインさまは、まだ見つからないのか?」


「いま、ライソウとシュントウが町中を探し回っている。あの容姿だ。聞き込みをすれば、すぐに見つかるさ。仮に顔を隠しても、その姿は目立つだろう」


「はあっ。そんなこと言ってもよ。小さな町とはいえ、二人だけじゃ時間が掛かるぜ」


「最悪、また金を払って傭兵に手伝ってもらうさ」


「ったく。こいつが変な策を打たなきゃ、もっと多く連れて来ることができたのによ」


 ハオに加減なく耳を引っ張られ、ユンジェは悲鳴を上げそうになる。

 口を一の字に結んで彼を睨むと、鼻先を指先で弾かれた。この男、人が自由を奪われていることをいいことに好き勝手にしてくれる。


 腹立たしい気持ちを抱く一方、ユンジェは忍び笑いを浮かべた。


(追っ手は四人だな。よし、数は把握できた。町人にまぎれた間諜もいない)


 それだけ分かれば、余計なことを考えずに動くことができる。ユンジェは拘束されている両手首を見つめ、上唇を舐めた。もう二人の傍にいる必要もない。


 両隣の家屋に目を向けた。ふと地面にできる丸い影に気付いたので、さと

られないように視線を戻して、その上を素通りする。


「なあ、カグム。ガキをオトリにして、一人で町を出たってことはねーかな?」


 ハオが横目で見下ろしてくる。その意味深な目は訴えている。こんなガキ、いくらでも代わりはいるだろうと。失礼な奴だ。


「何度も言うが、ピンインさまがこの子を置いて、どこかへ逃げるとは到底思えない。懐剣のこともそうだが、あの方にとって、その子どもは家族なんだ。身を潜めて機会を窺っているだろうさ」


「農民のガキが家族、ね。こんなガキを家族にしたところで、王族の品位が損なわれるだけなのに、何を考えているんだか」


 正直、正気の沙汰ではない、とハオは肩を竦めた。しかし、カグムはしごく真面目に答える。


「ハオも王族の近衛兵をすると分かるさ。あそこは、常に暗い感情が渦巻いている。心許せる場所なんて片指程度。自由があるようで、習わしに縛られている。贅沢なんて気休め。よっぽど平民の方が、生きた心地がする」


 ティエンと似たようなことを言っている。カグムは彼をよく理解していたのだろう。王族に生まれたティエンを、本当に気の毒だと語っていた。


「とりわけピンインさまは、孤独な方だった。呪われた王子だからと王族からも、貴族からも蔑まれ、疎んじられていた。いつも人のぬくもりに飢えている方だった。だからこそ、己の力で得た繋がりは大切にする」


 その中にカグムに入っていたのは、本人も自覚していることだろう。

 なのに、どうして。ああ、どうして。

 ユンジェは目を細めた。そこまで理解しておいて、どうして彼を裏切ったのだろう。悲しませたのだろう。傷付けたのだろう。


 今もそう。


「なあ、カグム。なんで、ティエンを怒らせるようなことばかりするんだ?」


 彼の背に問いかける。振り返る様子はない。


「今のティエンは、あんたに強い負の感情を持っている。それはカグムだって分かっているんだろう? でも、あんたはティエンを怒らせるような発言ばっかりする。今回だって、なんで俺の兄をあんたが名乗ったんだ。ハオだって良かったじゃないか」


 カグムはユンジェの兄だと名乗り、それを竹簡に記してばらまいた。

 それはまるで、ティエンから家族を奪うと、宣戦布告しているようにも思える。彼はティエンに告げていた。ユンジェの身は、必ず自分が預かると。


 これがハオであれば、ティエンもただの策だと思って受け止めただろうに、あの時の彼は怒りと憎しみに満ち溢れていた。


 きっと、ユンジェには想像もつかないほど、彼は激情に駆られていたに違いない。

 カグムはティエンが嫌いなのだろうか? それとも天士ホウレイの命を遂行すべく、負の感情を利用しているのだろうか。

 依然、何も答えないカグムに、ずるい奴だと悪態をつく。


「誰よりも、ティエンのことを分かっているくせに。理解してやっているくせに。あいつを散々に振り回す。それって、すごくずるいことだと思う。何も言わないってのが、またずるいよ」


 おかげでティエンはカグムに一喜一憂してばかりだ。一喜など、もうひと欠片も残っていないだろうが。


「これだけは教えてよ。ティエンのこと、あんたは呪われた王子だと、死んでほしい存在だと思っている?」


 足を止め、ゆるりと振り返るカグムは笑みを浮かべて答えた。その顔が沈んでいく夕陽に照らされ、光陰がはっきりとつく。


「ああ。思っているよ」


 ユンジェも笑みを返す。



「そうか。なら、俺はあんたからティエンを全力で守らないとな」



 言うや否や、その場にしゃがみ、手綱となっている布紐を力の限り引く。

 カグムの体勢が崩れた。驚いたハオが手を伸ばしてくるが、その手に矢が掠めた。何事だと頭を上げた彼目掛けて、ふたたび矢が飛び、それは顔面に当たった。

 矢じりの先端に括ってある穴あき袋が弾け、中から粉山椒が舞う。ハオが両目を瞑り、苦言を零した。


「くそっ、目つぶしか! 目が痛ぇっ!」


「ハオ! まさかっ」


 顔を守るように、両隣の家屋の屋根を見上げるカグムに、甘いとユンジェは声を上げた。不自由な手を無理やり帯に伸ばすと、ぶら下げていた砂袋を掴み、紐を解いて振りまく。

 それを避けた彼の手から、手綱が滑り落ちる。すかさず、懐剣を両手で抜き、カグムに向かって振り上げた。



「ユンジェから離れろ――っ!」



 屋根の上にいたティエンが、カグム目掛けて飛び降りる。


 さすがにこれは、ユンジェも驚きの声を上げてしまう。

 平屋とはいえ高さはあるのだ。下手したら足を挫かねないというのに、ティエンはカグムを下敷きにして、地上に下り立った。


 勇敢なんだか、無謀なんだか、分からない奴である。


「ティエン。無茶するなよな」


「わざと捕まった、ユンジェには言われたくないな」


「俺はお前が助けてくれると信じていたから、安心して捕まったんだよ」


「簡単に言ってくれるよ。走るぞ」


 駆け寄って来るティエンが短剣でユンジェの布紐を切ると、腕を引いて走り出す。

 しかし。すぐに足を止めると、肩に掛けていた短弓を構え、迷うことなく矢を放った。粉山椒が弾け、追って来るカグムの視界を奪う。


「ふざけた真似ばっかりしてくれるぜ。本当によっ!」


 さすがに苛立ちを覚えたのだろう。カグムの口調が荒くなる。それを面白がるティエンは彼に、力いっぱい吐き捨てた。


「覚えとけ。弱い奴ほど、どんな手を使ってでも生き延びようとすることを――私の兄弟は確かに返してもらったぞ、カグム兄さん」


 正面から勝てない相手を、わざわざ正面から勝負する馬鹿がどこにいる。


 彼はカグムを嫌味ったらしく鼻で笑い、颯爽と大通りへ向かって走る。そんなティエンに、ユンジェは思わず苦笑いを浮かべた。


「お前、すごく根に持ってたんだな」


「当然だろう。何が兄で、何が生き別れの弟。腹立たしい限りだ」


 ティエンが不愉快そうに鼻を鳴らすので、ユンジェは小声で呟いた。


「俺の兄さんなんて、考えなくても一人しかいないじゃん」


「おや? ユンジェ。どうして照れているんだ。私に教えてくれないか?」


「……ティエン、お前って本当に性格が悪い」


 今しがた、不機嫌になっていた男が、いたずら気に顔を覗き込んでくるので、低く唸ってしまう。口にするんじゃなかった。



 路地裏を飛び出した二人は町中を走る。

 わざと捕まり、敵の数を把握していたユンジェに対し、ティエンは町の地形を把握していた。この時のために町人にでも聞き込みをしたのだろう。

 今日来たばかりとは思えない足取りで、彼は先導に立つ。


 それだけではない。ティエンは少しでも時間を稼ぐため、とりわけ小道と周囲の環境を熟知していた。


 目つぶしを食らったにも関わらず、距離を詰めて来るカグムとハオの行く手を塞ぐため、小道に入るや、酒を造るために用意されていた空の樽を引き倒して蹴飛ばす。


「おいおい。ピンインさまって、おとなしい王子さまって聞いてたんだけどっ」


 かろうじて避けたハオに狙いを定め、ティエンは頭陀袋から投てきを取り出して、それを振り回して輩の足元に放った。

 布紐を繋ぎ合わせたお手製の投てきは、先端に石の錘がついており、足に絡むと相手の体勢を崩すことができる。


 ハオは見事にずっこけていた。素っ頓狂な声を出し、両の足に絡まった投てきを外しにかかっている。


 彼の代わりに、カグムが来る。

 ティエンは短剣を抜いて横一線に振った。


 反射的に後ろへ飛躍する彼を追い、もう一度、短剣を振ったティエンは努めて冷静であった。彼は憎しみを込めて、カグムを追っていたのではない。隙を作るために距離を詰めたのだ。

 それに気付いたカグムが、「くそっ」と舌打ちをし、視線を下げる。そこには懐剣を構えたユンジェが潜り込んでいた。


「ティエンはもう、お前の知っている弱い王子じゃないぜ。カグム」


 口角をゆるりと持ち上げ、懐剣を突き刺す。

 寸前のところで、カグムが太極刀を軽く抜き、それを受け止める。刃は届かずに終わった。本気で刺せなかったのは、心のどこかで、彼に世話を焼いてもらった恩義を抱いているからだろう。


 すかさず、ティエンが輩の体を蹴り押す。

 よろめいた隙に、二人は走った。小道の奥へ進み、今度は積み上げられた箱荷を押した。それは道具の入った箱で、輩達が来る前に崩れてしまう。


 塞がった道の向こうで、王子の名を呼ぶ声が聞こえた。ティエンはそれに応える。


「私は私の意思で生きる道を決める。貴様等の言いなりなんぞ、まっぴらごめんだ」


 言い切る彼は誇らしげであった。


「はあっ……やってくれますね、ピンインさま。ユンジェの影響で、すっかりやんちゃになられて。おいハオ、いつまで遊んでいるんだ。まだ取れないのか、それ」


「うるせぇな! いま、短剣で切るつもりだよ!」


 遠回りを強いられる追っ手は、指笛の不規則な音を鳴らした。

 町中に聞こえるような、その高い音は、離れている仲間に何か合図を送っているのだろう。


 それを耳にしたティエンは、勝手に人の家の敷地に入ると、身を屈めて石壁に身を潜める。

 程なくして、王子の行方を探す声が二つ聞こえた。ティエンが小石を拾い、追っ手を確認して向こうへ放る。


 足音が遠ざると、彼は急いで反対側の石壁へ走り、これを乗り越えると告げた。


「この家の先に商人用の門口がある。そこは運搬された商品を通すための門だ。そこまで行けば、見張りの目を掻い潜って外に出られる」


 すでに彼の息はあがっていたが、音を上げる様子はない。

 おうとつの激しい石壁を、ユンジェの手を借りながらのぼり切ると、休む間もなく門口まで誘導してくれる。


 ユンジェは逞しくなったティエンの背中を見つめ、人知れず頬を緩めた。


(ティエンが助けてくれると分かっていたから、わざと捕まったんだけど……本当にお前は頼もしくなったな。正直、ここまでとは思わなかったよ)


 過去のティエンのことなど、ユンジェは何一つ知らない。

 彼がどのように孤独であったのか、さみしい思いをしていたのか、つらい境遇に立たされていたのか、この目で見たわけではない。


 想像するに昔の彼は本当に弱々しかったのあろう。

 そして、それを見守っていたカグムは、王子は弱く守られる存在である、と頭に刷り込まれていたのだろう。

 だから油断をしていたに違いない。何もできない王子だと思い込んでいたに違いない。


 誰が想像しようか。非力な王子が屋根から奇襲を掛けてくる、など。小道を把握し、それを利用して撒こうとする、など。

 追い詰められれば、道具や武器を使い、力強い抵抗を示す。


 これのどこが弱い王子であろうか。


 今のティエンは生きることに貪欲だ。

 周りから死と望まれようが、利用されるために求められようが、己の力で生きる意志は固い。自由に生きるため、少しでもその可能性に縋ろうと、ユンジェと共に旅を続ける。

 いつかまた、知らない土地で作物を育て、静かに暮らすことを夢見ている。


 ああ、目の前のティエンはとても強い男だ。ユンジェは自信を持って叫びたい。


「ユンジェ。何を笑っているんだ?」


 振り返るティエンが、不思議そうな顔で見つめてくる。ユンジェは小さく噴き出し、右の手を出した。


「ティエンに助けてもらったことが、すごく嬉しくなったんだよ。ありがとうな」


「何を突然。ユンジェはいつも、私を助けてくれているだろう? 礼を言われるほどでもないんだが」


「いいから受け取っておけって。俺は助けられて、すごく嬉しいんだから」


 ますます不思議な顔を作るティエンだが、差し出された手の意味は察したのだろう。軽く手を振り上げると、差し出したその手を叩いた。


 乾いた音が心地良くて、ユンジェはまた一つ笑ってしまった。



 ◆◆



 商人用の門口には、複数の荷馬車の姿が見えた。

 それには野菜や穀物、鉄鉱石などが見受けられる。どれも他の町から運搬されてきたようで、商人達は受付に許可書を出していた。

 無論、他の町へ向けて運ぶ荷馬車も見受けられる。


 ティエンはあの荷馬車のどれかにまぎれて、町を出ようと考えているらしい。

 本当は馬宿からカグム達の馬を盗もうと目論んでいたようだが、日が高いのと、人目の多さに諦めたという。


 それは正しい判断だろう。

 騒がれてしまえば、町を守る傭兵達がすっ飛んでくる。せっかくユンジェが身を張ってまで敵を減らしたのに、また敵を増やしてしまうことになるのだから。


 二人は織物が収められた、木造の倉庫の陰に身を隠し、どの荷馬車に乗り込もうか、と話し合った。


 無断で荷馬車に乗るのだから、商人達に見つかってしまうのまずい。

 下ろされるだけならまだしも、盗人だと声を上げられるやもしれない。慎重に選びたいところだ。


「はやく決めないと、カグム達が来る。ティエン、どうする?」


 しきりに周囲を警戒するユンジェに対し、彼は荷馬車を見定めていた。


「穀物の荷馬車が妥当かもしれないな。ユンジェ、見てみろ。あそこに麻袋が積んである」


 ティエンが前方を指さす。そこには荷台の上に麻袋の山ができていた。

 確かに、あれに入って荷馬車にまぎれることができれば、町を出られるやもしれない。袋口さえ閉じることができれば、の話だが。

 しかもだ。


「あれに入って移動することは難しいぜ? 荷馬車の上じゃないと」


「入っているところを見られる可能性があるな。せめて、樽を運ぶ商人がいてくれたら」


 二人して麻袋を睨んでいると、門口にカグムが現れる。

 予想以上に早い登場だ。二人が通常の出入り口からは逃げないだろうと、考えを読んだのだろう。


 しつこい男だ。天士ホウレイは、よほどピンイン王子を欲しているらしい。

 ユンジェとティエンが目を合わせ、小さな吐息を零す。


 その時であった。

 突然、二人の肩に手が伸び、それが叩いてくる。驚きの声を上げそうになった。見つかったのだろうか。各々懐剣と短剣を抜き、身構える。

 けれども、振り向いた瞬間、その人間は口元で人差し指を立てた。



「静かにおし。見つかっちまうよ――元気そうでなによりだねぇ。ユンジェ、ティエン」



 恰幅の良い女性が優しい目で笑ってくる。


 驚愕してしまった。

 彼女は二人の顔なじみであり、ユンジェ達といつも物々交換の取引に応じてくれた。


 何かと自分達に気に掛けてくれる、その女性の名はトーリャ。

 八人家族の母であり、ユンジェと同じ農民。将軍タオシュンの起こした大火事件の被害者であった。


「トーリャおばさん。おばさんなの?」


 夢でも見ているのではなだろうか。こんなところでトーリャに会えるだなんて。


「話は後だよ。私についておいで」


 先導する彼女の後について行く。

 織物倉庫の裏にも、古びた荷馬車が留めてあった。彼女は物を退かせると、二人に寝転がるよう告げ、織物や絹を覆いかぶせてくる。


「私が良いって言うまで、動いちゃだめだからね」


 視界が見えなくなり、トーリャの気配が遠ざかる。荷馬車が揺れ始めた。何度も底板に頭をぶつけてしまうが、じっと息を潜め続ける。


 やがて商人達の声が小さくなり、風の音や車輪の音、蹄の音がよく聞こえるようになる。それでも二人は合図を待った。


 どれほど息を潜めていただろう。


 ふと荷馬車が止まり、それは左右に揺れる。

 織物が取られた。辺りはすっかり暗くなっていたが、もう大丈夫だと微笑んでくる彼女の表情は目視できた。握られている燭台のおかげだろう。

 トーリャは織物を奥に寄せると、燭台を置き、手前にいたユンジェを抱擁した。


「ずっと、心配していたんだよ。あの大火の中、よく生き残れたねぇ」


「おばさんこそ。まさか織ノ町にいると思わなかったよ……家は」


「焼かれちまったよ。突然だった。兵士が来たと思ったら、ピンイン王子を匿っただのなんだの云われて。でも家族はみんな無事さ。知り合いの多くは死んじまったけどねぇ」


 謀反人扱いされたのだと苦笑するトーリャに、ユンジェは言葉を失ってしまう。

 ぎこちなく視線を投げれば、青ざめているティエンが握りこぶしを作っていた。


 あの大火事件は彼のせいではない。けれど、要因は彼にある。


 罪悪感に襲われているティエンに、掛ける言葉が見つからない。どんな言葉を投げたところで、慰めにはならないだろう。

 すると。トーリャがティエンに近寄り、そっと両肩に手を置いた。


「ティエン。お前さんも無事で良かった」


 彼は声が出ないのか、青い顔のまま首を横に振った。気持ちが受け取れないのだろう。そんなティエンに微笑し、トーリャはそっと尋ねる。


「ピンイン王子ってのは、お前さんのことなんだろう?」


 彼女はティエンの正体に気付いていた。

 曰く、町で騒ぎになっていた時、たまたまピンイン王子の容姿を耳にしたという。

 女のように美しい男、などティエンしかいない。正体に気付いたトーリャは大きな感情を抱いた。それは今も変わらない、ひとつの感情。


「ずっと、ずっと、あんたを心配していたんだ。ティエン、ユンジェと一緒によく生きていてくれたねぇ」


 ティエンは驚愕していた。

 彼女から恨まれる覚えはあっても、心配される覚えなどない。


 なのに、トーリャはティエンを心配していたと言う。生きていて嬉しいと言う。


 彼は声を振り絞るように、なぜ、と問うた。

 自分のせいで家も仕事も故郷も奪ったのに、なぜ、と問いを重ねる。呪われた王子であることや、王族であることを話しても、トーリャの表情は変わらない。

 ただただ、笑って頷くばかり。


「お前さん、しゃべれるようになったんだね。良かった」


 責め立てる代わりに、トーリャは喜ぶ。口が利けるようになったのなら、今度こそ親しくなれそうだ、と彼女はおどけた。


「農民の私には、王族とか、呪いとか、難しい話はよく分からないけれど。あんた自身のことは知っているよ。ティエン、あんたはいつも仕事に一生懸命な男さ。人見知りは強いけれど、ユンジェの仕事をよく手伝っていた。ユンジェと仲良くもしていた。私はそんなお前さんの姿を知っている」


 トーリャにはピンイン王子が、どのような悪人で、なぜ兵達に追われているかなど分からない。


 それでも、己の目で見たピンイン王子とやら、人見知りで、仕事に熱意があって、ユンジェと家族のように親しくしていた。

 微笑ましいところを何度も目にしているトーリャだからこそ、ティエンに強く言えるのだ。お前さんが生きていて嬉しい、と。


「頭の良いユンジェが、お前さんを傍に置くんだ。ティエンが悪人だとは、私には到底思えないねぇ。あの大火事件が、お前さんを苦しめているようだけど、あれは火を放った兵達のせいさ。あんたがしたわけじゃない。もし、あんたのせいだとしても、私はティエンを責めやしないよ」


 ああでも、じつは言いたいことがひとつだけある。

 トーリャはティエンの横っ腹を軽く叩き、「あんた。細すぎるよ。女みたいじゃないか」と、大笑いした。


「もっと食べて、太くなりなさい。私の方が強そうに見えるよっ!」


 ティエンは震える唇を噛みしめる。我慢ができなくなったのだろう。なりふり構わず、自分からトーリャと抱擁を交わし、肩口に顔を埋めた。

 そんな彼の背中を叩き、トーリャは子どものようにあやす。


「良かったよ。あんたとユンジェが生きてくれて、本当に良かった」


 顔を上げたティエンが、上擦った声で返した。


「私もです。トーリャ、わたしもっ、貴方が無事で嬉しい。とても、とてもっ」


「美人さんに言われると、なんだか照れるねぇ」

 

 見守っていたユンジェの方が、なんだか泣きたい気持ちに駆られた。

 ティエンにとって初めて、ユンジェ以外の人間に心配を寄せられ、生きていることを喜ばれたのだ。


 彼は救われる想いを噛み締めていることだろう。溢れんばかりの幸せを胸に秘めていることだろう。声を上げて泣きたいほど嬉しいことだろう。


 でも、これはティエン自身の行いが引き寄せた結果でもあるのだ。

 生まれながらに呪いを謳われていた彼が、ユンジェと暮らす一年を誠実に生きていたからこそ、トーリャは彼の身を真摯に心配していたと言える。


(ティエン。トーリャはお前自身を認めているんだぜ。呪われた王子じゃなくて、お前自身を……良かったな。『ピンイン王子』は死を望まれていても、『ティエン』はそうじゃないって証明されたんだ。本当に良かったな)


 トーリャに心開いた彼は額を重ねてくる彼女に甘え、慰められていた。嬉しそうに泣き笑いを浮かべ、いつまでも慰められていた。


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