十二.猛炎


 広い洞窟は喧騒に包まれていた。

 天幕は崩され、たき火には水を掛けられ、兵士達は松明と武器を手に取って首領の下に集まる。慌ただしい音は、いつまでもこだました。


 ユンジェは頭陀袋を肩に掛けると、平民の天幕で使用されていた布を裂いて、外衣代わりに羽織った。

 簡単に糸で留めた後、ティエンにも同じものを羽織らせ、頭巾の部分ができているかを確認する。


「ティエン。洞窟を出たら、しっかりと布をかぶっておくんだぞ。もし火に襲われたら、まず髪をやられちまうからな」


 髪は燃えやすい。それが燃え広がって、顔に火傷を負ってしまうやもしれない。

 せっかく天人のように美しい顔をしているのだ。それに傷が入ってしまうのは勿体無い。


 また、布をかぶっておけば、少なからず飛んでくる火の粉から目を守れる。ユンジェは再三再四、彼に布をかぶっておくよう注意を促した。


 無論、燃えているのは東の森だ。そこへ飛び込むわけではないし、小山に逃げ込めば、火の心配もしなくて済む。


 だが、ユンジェは先ほど見た夢を引きずっていた。そのため、ティエンに火の用心をさせていた。


 それが終わると、ユンジェはティエンの手を引いて、潰れている天幕の傍にある武器の木箱の荷をあさった。向こうで兵達が集まっている今しか、物をあされる機会がない。


 なんだか盗みをしている気分になったが、これは盗みではない。身分の高い王族のティエンから許可を貰ったのだ。許されるだろう。


 ユンジェは小ぶりな短弓と矢、そして短剣を取って、ティエンに持たせた。矢筒の紐を結んでやり、数本の矢を入れてやる。


「ユンジェ。お前の分は?」


「俺は懐剣があるからいいよ。それに、ほら、弓が一つしかなくて……あ、ちょっと」


 ティエンが箱を覗き込む。

 意味深長な目を向けられたので、ユンジェは目を逸らした。


「あんまり多く持っていっても荷物になるだけだから、置いて行こうと思って」


「ふふっ、そうだった。ユンジェは弓が下手くそだったな。忘れていたよ」


「煩い。お前が上手すぎるだけだっ」


 洞窟の出入り口にいた兵達がばらけた。

 ここにいる者達は数にして十五ほど。二、三人に固まって、夜の外へと出ている。偵察に行ったのだろう。


 どさくさにまぎれて、ティエンと逃げ出せないかと思ったが、相手はそう甘くない。


 よりにもよって兵を纏めるカグムとハオが、ピンイン王子の護衛に就いた。


 ここにいる謀反人の中でも、とりわけ腕が立つらしい。王子の存在の大きさを思い知らされる。ティエンは嫌悪感を惜しみなく出していたが。


 偵察の知らせがくるまで待機を強いられたユンジェは棒きれを取って、松明の下で地面に絵を描いていた。

 遊んでいるわけではない。考え事を目で分かるようにしているのだ。


 それを遊びと見られてしまい、ハオに大層呆れられてしまったが、右から左に聞き流す。


「ティエン。方角って分かる?」


 川を描き終わったユンジェは、ティエンに東と西を教えて欲しいと頼んだ。


「何を考えているんだ。ユンジェ」


 東と西を書き記したティエンが、絵を覗き込んでくる。


「森を燃やした理由を考えているんだ。あれはタオシュンの仕業とみて、まず間違いない。じゃあ、どうして燃やしたんだろう?」


 吊り橋を落としたのだから、逃げ道を塞ぐためだということは分かる。ユンジェは東の森の部分に斜線を引いた。

 残る逃げ道は西の小山と、北から南にかけた川。この渓谷は一本道だ。ゆえに大回りをして、北と南を塞がれてしまうと、ここからの脱出が不可能となる。


 小山の出入り口は一本坂。

 ユンジェがタオシュンであれば、ここを絶好の狩場したいところ。森に逃げ込まれ、身を隠されでもしたら厄介だ。


「森を燃やしたのは、身を隠す場所を減らすため。そして小山の一本坂に誘い込むためか。でも、それだけだとは思えない。俺がタオシュンなら、渓谷のことをよく調べる」


 輩はこの渓谷に洞窟が多発していることを、ある程度、把握しているのではないだろうか。身を隠せる場所が多いことも、きっと分かっている。


「私ならあぶり出したいところだな」


 ティエンが棒きれを取って、地面に×を記していく。これは洞窟なのだろう。


「渓谷にどれほどの数の洞窟があるか分からないが、それを一つ一つ調べるのは手間だ。獲物が逃げる可能性もある。自分が攻めるより、相手に出てきて欲しいところだ」


 あぶり出し。

 そうか、タオシュンはあぶり出すつもりなのだ。

 森を焼くと、何が出る? 火が出る。炎が生まれる。燃えやすい集まる森は火事となる。それに伴って煙も出る。この渓谷の東側は木々の集合体。これらをすべて燃やせば、大量の煙が発生する。


 この煙を利用すれば、洞窟に身を隠す人間を外に出すことができるやもしれない。


 しかし現実問題、それは不可能だ。今は雨の季節、火を焚いたとしても雨が降れば、木が湿気てしまう。燃え広がりにくくなる。


(俺がタオシュンなら、この問題をどう解決する。どう乗り越える)


 頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。目を丸くして、顔を上げるとカグムが見下ろしていた。


「ユンジェ。楽しそうにしてるな。俺も入れてくれよ。どうせ、お前のことだ。遊んでいるわけじゃねーんだろう?」


 盗み聞きしていたくせに。ユンジェは白々しいカグムに目を細める。

 しゃがんで目を合わせてくるカグムとユンジェの間に、棒きれが投げられた。

 危ない、と思う間もなく、ティエンが割って入る。彼は自分の背にユンジェを隠し、「ただの戯れです」と、短く答えた。帯に挟んでいる短剣に手が伸びている。


「カグム、この子に近付かないで頂きたい。私は申し上げたはずです。この子に触れたら、喉を切り裂くと。ユンジェ、こっちに来なさい」


 有無言わせない空気に、しどろもどろになりながら場所を移動する。


「はあっ。本当に気丈夫になられましたね。護衛している今だけでも、私を信用して下さりませんか?」


 気だるくため息をつくカグムに、ティエンは不快感を示す。


「はっ、冗談も休み休み言ったらどうです? 誰が貴殿を信用しろと? 私だけでなく、ユンジェを利用しようと目論んでいると知っておいて、どうして信用できるのでしょう?」


「利用だなんて人聞きが悪い。私は天士ホウレイさまに、彼を差し上げたいだけですよ。この子は麒麟の使い。ホウレイさまは、さぞお喜びになることでしょう。謀反を目的とする我々にとって、ユンジェは必要不可欠な存在です」


「それを利用と言わず、なんと称しましょうか? カグム」


 へらりと笑うカグムと、柳眉を寄せるティエンのせいで、すっかり空気が悪くなる。

 仕方のない話だ。この二人には埋めきれない、深い溝がある。ティエンにとってしてみれば、カグムの存在は腹立たしくもあり、不気味でもあることだろう。


 しかし。このままでは息苦しい。とても息苦しい。

 ユンジェは、なんとなく傍にいるハオに視線を投げた。向こうも、大変息苦しいと思っていたのだろう。気まずそうに視線を向けてくる。


「そういえばお前、なんで外に飛び出したんだ? あれがあったから、事態に気付いたわけだが……」


 ユンジェは喜んで話に乗った。この空気が壊せるのであれば、小さな話でも盛り上げてみせる。


「麒麟の夢を見たんだ」


「はあ? 夢で飛び出したのかよ」


 うそは言っていない。本当のことだ。

 ユンジェは夢を思い出し、身震いをした。あれは今思い出しても、恐ろしいものであった。瑞獣である麒麟が焼け爛れていく、なんて。


 偵察から戻って来た兵が、血相を変えて戻って来る。


「カグム、川がせき止められた。そこに大量の煙筒と木々が放り込まれている。それも、燃え盛った木だ! 奴等、油を使ってやがる!」


 それらは水に浸かっても、なかなか消えることはなく、寧ろ水に浸かることで、辺りに煙が発生している。煙筒がそれに拍車を掛けているので、手がつけられない。

 また風向きのせいで、森の炎がこちらにまで伸びている。このままでは危ない、とのこと。


 ユンジェは青ざめた。タオシュンの目論見が分かった。


「あの熊野郎……本気であぶり出しに来やがったな」


 こんな狭い渓谷で、大量の燃えた木が川に落とされたら。それに油が掛けられていたら。更にせき止められた川に落とされてきたら、呼吸を苦しめる煙が発生してしまう。ここの酸素が薄くなる。


 この渓谷は小山と森の切り立った崖に挟まれた場所、風通しは悪い。川はせき止められた。人がいることは容易に想像できる。森には火の手。小山にしか逃げ道はない。


(くそっ。雨の季節でも、よく燃えるように油を撒いたのか。とんでもないことをしてくれる奴だよ。あの熊)


 洞窟に抜け道があればいいのだが、それを探している間に、煙で呼吸困難に陥ってしまいかねない。留まっても地獄、逃げ道を目指しても地獄だ。


「ティエン。口に布を当てておくんだ。走る時は身を低くしろ。煙は上にのぼっていくから」


 何度も頷くティエンは言われた通りに、布を口に当てた。これも一時しのぎにしかならない。一刻も早く渓谷を脱出しなければ。


 カグムは組になって動く兵達に、散って動くように指示する。少しでも、タオシュン達の目を惑わせるようにしているのだろう。


 煙が洞窟まで伸びてきた。

 カグムはユンジェ達の前を走り、小山の道のりを先導する。背後にはハオがいるので、二人は挟まれたような形で走っていた。


 松明もないのに、川を沿うように走れるのは、燃え盛る森のおかげだ。

 見上げれば、炎が夜空で伸びている。焼けていく森の奥では、獣達の悲痛な鳴き声や、羽ばたく鳥達が逃げまどっていた。勢いが強い。


(まずい。本当にまずい。あの炎が明かりになっている。視界が利くってことは、敵にだって視界が利くってことだ。俺達の走る姿が見えてもおかしくねーぞ)


 西の小山に目を向ける。ユンジェは目を見開いた。

 横一列に構えているあれは、タオシュン率いる兵。そして馬に乗る、将軍タオシュンの姿。


(何もかも、タオシュンの思惑通りか)


 ここを通ることを予想していたのだろう。口角をつり上げ、右の手を高く挙げた。


 その瞬間、台座に待機していた兵達が連弩(れんど)を一斉に放つ。連射性の高い連弩は、無数の矢を放ち、ティエンの命を狙う。


 その先端には油紙でも貼り付けているのか、闇夜に炎の直線を描いた。


「ティエン、伏せろ!」


 彼の膝裏を叩き、尻餅をつけさせると、ユンジェは帯にたばさむ懐剣を抜いた。

 矢の軌道を変えてしまうほどの暴風が吹きすさび、天が気高く雄叫びを上げる。勇ましいそれは、麒麟の鳴き声。


 懐剣を通じ、瑞獣が力を与えてくれる。


 それは神秘の力。麒麟が持つ、先を見通す力。敵意を見る力。善悪を見抜く力。



「ユンジェっ!」



 ティエンの呼び声を背に受け、ユンジェは駆け出す。

 彼に向かってくる火矢はすべて、懐剣で弾き落とした。

 所有者に『敵意』を向ける者は、例えどんなものであろうと許さない。それが硬い刃であろうと、速度ある矢であろうと、力のある兵士であろうと。


 ユンジェの使命はただひとつ。所有者を守ること一点に過ぎない。自分はピンイン王子の懐剣ふところがたな、守護の懐剣なのだから。


 ただの棒きれとなった矢を足で小突き、上唇を軽く舐める。ひとまず、ティエンに向かう火矢は弾き落とせたようだ。


 前から乾いた笑いが聞こえる。犯人はカグムであった。


「あの速度の矢を叩き落とすなんて、さすが麒麟から使命を授かった者。短剣を折られた時から覚悟はしていたが、これは想像以上だ。ホウレイさまが喜びそうだな」


 背後ではハオが冷や汗を流している。


「おい、おい……本当に麒麟の使いだったのかよ。俺はてっきり、猪口才なことばっかりするクソガキとばかり。しかし、あの動きは化け物だろ」


 どうやら、常人離れの動きをしているらしい。自覚は無い。頭の中は守ることで一杯だ。


 連弩れんどから放たれる火矢は雨あられのように降ってくる。

 矢にまじって、石が飛んできた。列をなす兵の中に、おおゆみを持つ者がいるのだろう。


 さすがに、大きな石は細い懐剣では弾けず、持ち手の腕に食い込んだ。


 痛みすら念頭にない。

 ユンジェは考えた。どうすれば、この状況を打破できるかを。よく考えろ。敵はネズミが袋小路になったと油断しているはずだ。


(何かないのか? 何かっ、あ)


 ふと、燃え盛る炎のうねりに乗った、風の動きの微かな変化に気付く。煙のおかげで、空気の流れが目に見えて分かる。

 熱気を帯びたそれは、狭い洞窟の隅々にまで手が伸びている。


 その中で、一つだけ煙を吸い込む穴を見つけた。


(あそこ洞窟……まさか)


 連弩の列の先、森側にある奥の狭い洞窟に目を眇めると、ユンジェは踵を返して、ティエンの下へ向かった。


「ティエン。あそこまで走りたい」


 火矢を懐剣で弾き、顎でしゃくる。

 聡いティエンはそれだけで、すべてを理解したのだろう。短弓を持つと、矢を弓弦に引っ掛けた。


「頼む。届いてくれ」


 その一声と共に、ティエンの手から矢が離れる。

 闇夜を切り裂き、一直線に進む、それはタオシュンの乗る馬の首に刺さった。痛みにわななく馬が、二足立ちになった。兵達の気がそちらに流れる。


 鳴き声を合図にユンジェはティエンの腕を引いて走る。

 後からカグムとハオが追って来た。各々連弩の火矢の餌食にはなっていないようだ。それが飛んで来ても、紙一重に避けている。優秀な腕前と言われるだけあるものだ。


 自由の利くおおゆみの兵が、崖の真下を走るユンジェ達に狙いを定める。

 拳ほどある石からティエンを守るため、ユンジェは己の着ている布を取ると、それを広げて敵の視界を覆った。


 また、それを大きく振って石の軌道を少しでも逸らす。子ども騙しだろうが、やらないよりかはマシだ。


 目的の洞窟に飛び込む。

 真っ暗な穴の奥に、橙の光が見えた。ユンジェは天井を見上げ、毒蛇が潜んでいないか確認すると、ティエンと共に奥を目指した。

 おうとつの激しい石と砂利の道は濡れていた。水の音が聞こえるので、どこかで湧水が発生しているのだろう。


「見えた。出口」


 ユンジェは天を見上げた。

 急傾斜になっている先に、微かに見える橙の明かり。あれは炎だ。

 この洞窟は燃え盛る東の森と繋がっている。タオシュンらは安全な西の小山側に陣形を取っているのだ。進むべき道は、もうここしかない。

 しかし。急傾斜の岩道が行く手を阻んでいる。


(あそこに木が見える。使えるな)


 ユンジェは目を細め、まだ火が回っていないことを確認すると、懐剣を口に銜え、頭陀袋から布縄を取り出す。

 それの先端を刃で切り、重みのある石を拾って、何重にも巻いていく。


 その横でティエンが己の頭陀袋から布縄を出し、両端をしっかりと結んだ。何をやろうとしているのか、ユンジェの動きで察したのだろう。


「ハオ。そこらへんに水たまりか、水場はない?」


 最後尾で敵の動きを見張るハオが周囲を見渡し、手探りで地面を触る。


「俺の真後ろに水たまりがある」


「ティエン。縄を濡らしてくれ。水に濡らすと、結び目が解きにくくなる」


 縄を水に浸しに行くティエンと入れ替わりに、カグムが急傾斜の岩にのぼった。続いてユンジェも岩にしがみつき、四苦八苦しながら彼の後に続く。


「ユンジェ。俺の肩に乗れ。あの木に狙いを定めたいんだろう? まったく、お前の準備の良さには舌を巻くよ」


 軽々とユンジェを引っ張り上げるカグムが、恐ろしいガキだと苦笑いを浮かべた。褒め言葉と思っておこう。


 カグムの肩に乗ったユンジェは、濡れた布縄をティエンから受け取ると、石の結んだ側を先頭にし、頭上で勢いよく回す。


 遠心力のついたそれは、出口の先に見える木の太い枝に引っ掛かった。


 しっかり引っ掛かったことを確認すると、ユンジェはそれを伝って、急傾斜の岩道をのぼっていく。

 ユンジェは歳のわりに身軽だ。ゆえに、太い枝が軋むだけで終わる。しかし、大人達はそうもいかない。

 穴から這い出ると、急いで木の幹に縄を括りつけ、歯と手を使って何重にも硬く結ぶ。


「のぼってきて。火の回りが早いから、なるべく急いで」


 合図を送ると、カグムがのぼってくる。次にティエンが引っ張り上げられ、彼の背を支えるようにハオが穴から出てきた。



 取りあえず、渓谷は抜け出せた。

 けれど、安心はできない。ユンジェ達は地獄から地獄に移っただけである。

 周りを見渡せば、どこもかしこも炎の壁。その熱気を吸うだけで、喉の奥が火傷を負いそうだ。

 森の中を走るのは、あまりにも危険だと判断したカグムが、皆を連れて渓谷の見える崖を目指した。渓谷を沿うように走れば、少なくとも火の手から逃れられると思ったのだろう。


 妥当な判断だ。

 いま、森のどこにいるかも分からないのに、燃え盛る中を走り回るなど自滅行為である。


 だが、渓谷が見えた途端、火矢が、石が飛んでくる。西の小山にいるおおゆみの兵達がユンジェ達を捉えたのだ。

 ユンジェはティエンの腕を引いて、渓谷を沿うように逃げる。火矢や石が飛んできたら、懐剣で弾き、少しでも彼から危険から遠ざける。

 渓谷を見やれば、カグム達の仲間が注意を引こうとしていた。


(馬に乗った兵が追って来たな)


 小山側に騎兵が見える。

 その中には、タオシュンの姿も見受けられた。見る見る先を走る輩は、両崖の距離が狭まっているところに狙いを定め、馬で助走をつける。


(嘘だろ。あいつ、まさか)


 颯爽と馬で飛び越えてくる。

 こちら側は火に包まれているというのに。それほどまでに、ピンイン王子を仕留めたいのだろうか。


 次から次へと飛び越えてくる騎兵に、思わず足を止めた。馬の足はあっという間に、ユンジェ達に追いつく。


 カグムとハオが前に出て騎兵の相手を始めるが、猪突猛進のタオシュンは止められそうにない。


 ユンジェはティエンを連れて、炎の森に飛び込んだ。

 来た道を戻れば、おおゆみ兵に狙われる。かと言って、留まればタオシュンにやられる。


 輩の残忍さは身を持って体験しているのだ。捕まれば、今度こそ殺されると分かっていた。


(絶対に殺させはしない。ティエンは何もしてない。こいつは、俺と違って何も悪いことをしていないんだ。なんで、死を望まれなきゃいけないんだっ)


 ユンジェには分からなかった。

 何もしていないティエンが、執拗なまでに死を望まれる、その意味が。


「くそっ、来たか」


 馬に乗ったタオシュンが回りこんでくる。片手には大刀だいとうが握られており、到底懐剣で太刀打ちできるものではない。

 それでも、ユンジェは両手で懐剣を握り、ティエンを背中に隠す。



「ようやく見つけましたぞ、ピンイン王子。そして小僧、よくもわしに傷をつけおったな。この借りは返さねばなるまい」



 不敵に笑う熊の顔に、揺るぎない怒りと殺意が宿っている。

 昼間のように明るく照らす、炎のせいで、見たくもない顔がはっきりと目に焼き付いてしまった。

 こめかみから汗が流れ落ちる。熱気が凄まじい。火の粉が肌を焼く。呼吸すら難しいほど、ここは灼熱であった。


 なのに、タオシュンは顔色一つ変えず、馬に乗っている。こいつは本当に人間だろうか。ユンジェは、つい相手のことを疑ってしまう。


「将軍タオシュン。どこまでも、しつこい男だな」


 ティエンが苦言した。

 ほう。タオシュンが大げさに驚いてみせる。


「これはこれは。ピンイン王子、ついに声が戻りましたか。呪いが解けているのは、やはりその小僧の仕業ですかな? であれば貴方様の懐剣を抜いた、呪われし使いを目の前で八つ裂きにしてやらねばなりますまい」


 そう言ってタオシュンが馬の腹を蹴り、大刀でユンジェ達を薙ぐ。

 受け止めることができなかった刃は、迷うことなくユンジェを貫こうとした。地を蹴って、大刀から逃れようとするが、輩は幾度も前に回ってくる。


 そこまでして、ティエンを苦しめたいのか。


「呪いとかなんとか言っているけど、ティエンが一体何をしたんだってんだ。今まで、ずっと閉じ込めていたんだろう?」


 前に転がり、馬から逃れる。ティエンが弓を構えると大きく旋回した。輩の視野の広さに舌打ちを鳴らしたくなる。


 タオシュンが鼻を鳴らした。


「お前は無知な謀反人だな。これは国を亡ぼす者だというのに」


 まったく理解ができない。

 この軟な男がどう国を亡ぼすというのだ。彼に国が亡ぼせるというのなら、ユンジェにだってできそうである。


 なにせ、彼よりも力があり、生きる術も多く知っているのだから。


 しかし、タオシュンは言う。

 ピンイン王子が生まれてから飢饉、渇水、流行り病など、不幸が止まない。麟ノ国は昔に比べ、確実に衰退している。


 これは偶然ではない。呪いという名の必然な不幸事。忌み嫌われる王子は、この世にいるだけで国の者に地獄を見せる。


「今もそうだ。こやつがいたことで、時期にこの土地は亡ぶ」


「はあ? どういう意味だよ。この森を燃やしたのはお前の……おい、まさか」


 タオシュンが高笑いを上げた。亡ぶのだと謳う将軍は今頃、町や農民の集落にも火の手が伸びているだろう。そう言って青褪める二人を嘲笑する。


「火をつけたのはっ、森だけじゃなかったのか」


 農民の集落、ということは世話を焼いてくれたトーリャの家もきっと。ああ、なんてことをしてくれたのだ。この熊男。


「隠れた王子を探すのは手間でな。火をつけて、あぶり出したまでよ。無論、これは許された行為。我らが君主、尊きクンル王はどのような手を使っても良い、と仰ったのだから」


 それに、これは当然の報いだとタオシュン。


 この地は呪われた王子の身を一年も、隠し通していた。

 それは麟ノ国に対する謀反と言っても過言ではない。所詮、地図に薄く載った小さな町だ。消えたところで、国には何ら支障が無い。


 なにより麟ノ国を脅かす呪われた王子を始末することが、最優先すべき正義だ。輩は陶酔したように誇り高く語る。


「ピンイン王子、お分かり頂けますかな。貴方様が生き続けるだけで、ひとつの町が消え、森が消え、人が消えるのです」


 同意を求めるタオシュンに、ティエンの体が震えた。恐怖からくるものではない。怒りからくるものだ。


「己の行いすら、貴様は私の呪いと謳うか」


「やむをえないことです。いつの時代にも、犠牲というものはございます」


 国が亡ぶより、小さな土地が亡んだ方がずっと良い。呪いは小さな犠牲で食い止める。これは君主の英断である。

 タオシュンは口を歪曲につり上げた。


 ユンジェは腹を抱えて笑いたくなった。

 ピンイン王子をひとり殺すために、町や森、人を犠牲にする。それを王子の呪いと称する。


 単なる責任転嫁ではないか。呪いでも何でもない。これは目に見えた人災だ。責を負わされるティエンは、なんて哀れなのだろう!


「そうか。これは私の呪いが齎した結果か」


 ふらりとタオシュンと向かい合ったティエンが、構えていた弓を下ろす。

 ユンジェは驚き、真に受けるなと怒声を張った。が、彼の姿を見た途端、その声が萎んでしまう。


 ティエンは美しく笑っていた。絵に描いたような微笑みは、その目は、激情に荒れ狂っている。


「貴様の行いが呪いで済まされるというのであれば、私の行いも呪いで済まされるのであろう」


 絹糸のような黒髪が熱風に梳かれる。

 炎と共に揺れるそれは、まるで麒麟の持つ、黄金の体毛を彷彿させた。彼を取り巻く熱風が意図して、火の粉を散らす。厳かな空気は麒麟と向かい合う時の空気そのもの。


「タオシュン、お前の身は私の呪いを持って滅びる。心せよ」


 ティエンが笑みを深めれば、燃え盛る木々達がなぎ倒される。火の粉が舞い上がった。

 なのに、うねる炎はティエンを避ける。まるで、平伏するようにティエンに道を作る。


(あっ)


 ユンジェは帯にたばさむ鞘を抜き、加護が宿る黄玉トパーズを見つめた。真っ赤に燃えている。それは森を焼く炎と同じ色だ。


「王族の落ちこぼれが何を申しますか」


 馬の腹を蹴るタオシュンが、ティエンに大刀を振るう。

 その刃先が届く前に、左右の炎が行く手を邪魔した。走る獣は燃え盛る炎を恐れ、手綱を千切るようにして立ち止まる。

 間に合わず、炎は馬を呑み込んだ。


 苦々しく舌を鳴らすタオシュンが走り去る馬を捨て、その首を切ろうと、大刀をティエンに切りかかる。道すがら大木が倒れ、それを阻んだ。

 どうしたってティエンまで大刀が届かない。


 戸惑うタオシュンには、きっと見えていないのだろう。彼を守るように立ちはだかる、天の生き物が。


 ティエンは生まれながら、王族として認められなかった。それは黄玉トパーズに麒麟の加護が宿らなかったからだ。加護を受ける前に、いつも黄玉は砕けていた。

 だから、呪われた王子と呼ばれるようになった。


 しかし、それはきっと呪いではないのだろう。ユンジェは加護を受けられなかった理由を、はっきりと確信した。


(ティエンは加護が受けられなかったんじゃない。要らなかったんだ)


 だって、彼の傍にはいつも麒麟がいたのだから。ああ、そうだ。きっとそうだ。ユンジェだって見たではないか。彼の傍にいる麒麟の姿を。

 麒麟はティエンに何かしらの器を見たのだろう。他の王族にないものがあると期待し、いつも傍にいて、彼を見守っていたのだろう。


 しかし、周りは死を望む声ばかり。その多さに耐え兼ね、天の生き物は加護を与え、ユンジェに使命を授けたのだ。

 麒麟の加護を受け、尚且つ麒麟とその使いが傍にいる、ティエンはまぎれもなく――麒麟に選ばれた者。


「如何した、将軍タオシュン。私は今、弓を下ろしている。刃を下ろさなければ、呪いは消えぬぞ」


 双方の余裕が形勢逆転する。

 それまで優勢を取っていたタオシュンに焦りが見え隠れした。得体の知れない恐怖に襲われたのだろう。乱雑に大刀を振り、雄叫びを上げた。


 冷静の欠いた人間ほど、単調な動きを見せる。ユンジェは懐剣を構え、素早く駆け出す。


「忘れるな、タオシュンよ。私には麒麟の使命を授かった、頼もしい懐剣がいることを」


 ティエンが弓を構えた。右に回ったユンジェは飛び上がり、鎧からはみ出ている首に狙いを定める。

 そこには包帯が巻いてあったが、鋭利ある懐剣で容易く裂くことができた。厚い肉に刃が刺さると、タオシュンが大口を開ける。


 その瞬間を狙い、ティエンは矢を放した。

 彼の傍にいた麒麟も走り出す。炎を運ぶ麒麟と共に、矢は輩の喉奥深く突き刺さった。血を吐く、その口から悲鳴は上がらなかった。


 果たして、喉を焼かれたのか、声帯を貫かれたのか。

 どちらにせよ、皮肉なものであった。声が出ないその状況は、かつてティエンの身に受けたものと酷似している。

 森中を響かせる声を上げていれば、もしかすると、援兵が来たかもしれないのに。


 片手で喉を押さえ、悶え苦しむタオシュンが傍若無人に暴れる。輩の持つ大刀が木を倒し、熊男は燃える木々の下敷きとなった。

 なおも眼球が飛び出しそうなほど目を開き、忌々しそうに二人を睨む。


 そして最後の力を振り絞ったのか、叫びたい気持ちが輩に力を与えたのか、タオシュンは血反吐をはき、咆哮した。



「ぶざまっ、あまりにぶざま。だれっ、も、貴様のっ、生など望んでおっ、おらんことを、忘れるなっ、ピンインっ――!」



 それは呪詛のようであった。

 短弓を肩に掛け、ティエンは炎に包まれる男に小さく笑うと、背を向けて歩きだす。まだ息のある男は燃え盛る炎に苦痛を浮かべ、木々の下から這い出ようとしていた。


「知っているさ、そんなこと。それでも、私は生きる。タオシュン、貴様の死を超えて」


 ユンジェは懐剣を鞘に収め、焼け爛れていく人間に目を細める。

 正義と称して町や森を焼いた男の末路に、因果応報の四文字が脳裏を過ぎった。ティエンは呪いと言ったが、これは呪いなんかではない。己の行いを返されただけの、報いだ。


 呪われた王子の隣に並ぶと、そっと彼の手を握った。

 そうしなければ、彼がひとりになってしまいそうだと思った。手の震えには気付かない振りをする。


「ユンジェ。私は生きる。たとえ、千も万もの人間が私の死を望もうと、無様と言われようと――たった一人の家族のお前と共に生き続ける」


 炎に包まれる森が道を作る。何もかも焼きつくすそれは、ティエンを敬うように、身を引いていく。ひれ伏していく。


「お前が呪いの王子なら、俺は呪いの懐剣だな。いいよ、それでも。この先、どんなことがあっても、俺はお前に最後までついていく。約束だ」


 握り返してくる手の力は、普段の華奢な彼からは想像できないほど、強いものであった。


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