七.麒麟


 ◆◆


 ユンジェとティエンは森の出口を目指した。

 生い茂る森は身を隠す場所には持ってこいだが、夜になれば、どれほど危険な場所になるのか、二人は重々に知っている。


 今夜は雨が続くだろうから、獣除けの火も焚けそうにない。ろくに道具も揃っていないのに、森で野宿するのはあまりにも無謀であった。

 とはいえ、無事に森を抜けられるだろうか。森の出口はユンジェが知る限り、三か所。


 水田を持つ農家の集落へ続く道。町へ続く道。そして吊り橋を使う道。


 前者二つは、敵が潜んでいる可能性が高い。

 ユンジェは町で盗み聞きした話を思い出していた。消去法で残るは吊り橋だ。敵はそこまで足を伸ばしているだろうか? あそこは険しい道の先にある。迷っている暇はない。


(あの吊り橋は渓谷けいこくの出入り口だ。逃げ道は渓谷しかない。見えたっ!)


 森の出口が確認できた、刹那のこと。

 目に飛び込んできた吊り橋から、無数の矢が飛んできた。

 雨あられのように向かってくる凶器をいち早く察知したティエンが、ユンジェを引き倒し、覆いかぶさってくる。


 庇われているのだと気付いた時には、彼の華奢な体に、肩に、背中に、矢が刺さっていた。ユンジェは悲鳴を上げてしまう。


「な、なにやっているんだよ! ティエン!」


 そこを退くように告げるが、ティエンは動こうとしない。

 必死にユンジェを守ろうと抱きしめるばかりだ。彼の体を押そうと、肩に手を添える。両手にべっとりと鮮血がつき、ユンジェは震えた。


 なのに。ティエンは大丈夫だと目で笑う。やせ我慢していることくらい、目を見なくとも嘘だと分かるのに。


「これはこれは、ピンイン王子。髪を切り、なんとも変わり果てたお姿になられましたな。このタオシュンですら、思わず情けを掛けたくなりますぞ」


 矢の猛撃が止み、大刀だいとうを持った無精ひげの男が近寄ってくる。

 熊のような巨体を持つ輩の鎧は、吊り橋で弓を構えている男達の鎧よりも、ひと際色合いが美しく、鉄板が厚い。

 知識の乏しいユンジェでも、タオシュンは身分が高い者だと分かった。


 肩で息をするティエンが美しい顔を歪ませ、タオシュンを殺す勢いで睨む。それに比例して、ユンジェを腕に抱く力が増した。非力のくせに、どこにそんな力があるのだろうか。痛い。息が詰まりそうだ。


「ほほう。相も変わらず、声は出せないようで」


 タオシュンはティエンの声について、何か知っているようだ。では、声を失ってしまった原因は、この男か。


「軟な貴方様がまさか、生きておられるとは。あの一件で、とっくに野垂れ死んでいるかと思いましたが――その小僧が謀反人ですかな?」


 これ以上、ティエンに力を込められるとユンジェは潰れてしまいそうだ。彼の体は痛みで震えているというのに、まったく自分を手放そうとしない。


(い、痛ぇ……なんだ?)


 体に食い込むものを感じる。

 ユンジェは手探りで、それに触れた。懐剣だ。ティエンの帯にたばさんでいる懐剣の護手が、ユンジェの腹部に食い込んでいるのだ。


 視線をずらし、右の手で懐剣の鞘を掴む。

 同時にティエンの体が横に倒れた。余所見をしている間に、タオシュンが彼の横っ面を引っ叩いたようだ。共に倒れるユンジェだが、その体は熊のような手によって持ち上げられる。決して軽い体躯ではないのだが、タオシュンは軽々とユンジェを持った。


 急いでティエンが体を起こし、自分を取り戻そうと輩にしがみつくが、太い足が彼を蹴り飛ばしてしまった。


「て、てめえっ! よくもティエンを! くそ、放せよ!」


 咄嗟に掴んだ懐剣を振り回し、輩の手から逃れようと躍起になる。びくともしない。胸倉を掴む力が強まると、呼吸が苦しくなった。力の差は歴然だ。

 タオシュンが懐剣を見て鼻で笑う。


黄玉トパーズに加護が宿っていない。やはり、貴方様に王族の資格はあらず」


 首が絞まっていく。ユンジェは呻いた。


「だめっ、だ……ティエンっ……来るなっ」


 まだユンジェを救おうと、地面を這うティエンにタオシュンが一瞥し、不敵に笑う。本能が警鐘を鳴らした。嫌な予感がする。


「麟ノ国を亡ぼす、忌まわしき王子よ。とくと見ておけ、これが貴様を匿った謀反人の愚かな末路よ」


 タオシュンの口調が荒くなり、ティエンを侮蔑するように唾を吐いた。


 ユンジェは吊り橋の前で待機している、輩達の下へ連れて行かれる。

 そこには大勢の人間がいた。地面に落とされると、逃げる間もなく囲まれ、容赦なく蹴られ、殴られる。

 それは殺すのではなく、甚振いたぶられると呼ぶに相応しい。

 何度も腹部を蹴られ、放った手を踏みつぶされた。

 至近距離から矢を撃たれ、腕に刺さった。槍の柄で殴られることもあれば、それ自体を足に刺されることもあった。


 たくさんの痛みが与えられ、悲鳴が口から迸った。生理的な涙も出た。血も出た。酸いのある胃液も吐いた。訳が分からなくなった。


「あれが末路よ。小僧はお前のせいで、楽に死ぬことができず、地獄を味わっているのだ!」


 遠いところでタオシュンの嘲笑う声が聞こえる。

 ユンジェの目が正常なのであれば、ティエンは青白い顔で、こちらの様子を見ている。


 彼を押さえつけているタオシュンが無理やり、その光景を見せているのだろう。ユンジェを助けようとする彼を、見下している。外道め。


 気付くとユンジェは、うつ伏せになっていた。

 ぼやけた頭で分かるのは、手足を押さえつける男達と、髪を引っ張られる痛みと、首を狙うよう指示する声と――ああ、そうか。輩達はティエンの目の前で、ユンジェの首をねてしまうつもりなのだ。


 どこまでも非道な奴等だ。そんなにピンイン王子とやらを苦しめたいのだろうか。


(ティエン……ごめん。もう、俺、無理みたい)


 手足が動きそうにない。体が石のように重い。痛みが麻痺し始めている。なによりも眠たい。冷たい雨粒が心地良い。


(この後、ティエンはどうなるんだろう)


 ユンジェはここで終わる。簡単に首を刎ねられて、お仕舞いとなろう。


 では、残されたティエンはどうなる?

 彼もユンジェと同じ道を辿るのだろうか。それとも、ユンジェよりも酷いことをされてしまうのだろうか。

 彼はまた、ひとりになってしまうのだろうか。


 ティエン。

 美しき顔を持った、天人のような男。生きる術を何も知らなかった彼は、本当に手の掛かる男であった。食事に我儘な男であった。

 しかし根は優しく、義理堅く、努力家で、いつもユンジェの精神を支えてくれる兄のような存在であった。


(おれ、ティエンを知らないまま……死ぬのか)


 走馬灯のように、二人で過ごした日々が蘇る。


「小僧の首を落とせ!」


 ティエンにまだ何も聞けていない。本名がピンインだということしか、彼が王子ということしか知らない。


(このまま死ねるかよ。俺が先に言ったんだ。最後までティエンに付き合うって)


 虚ろになっていたユンジェの目に光が戻った。あれほど甚振られても、握り締めていた懐剣を見据える。


 握り締めているそれから、確かな鼓動を感じる。脈打つ懐剣は声なき声で、ユンジェに使命を託そうとした。厳かな声は麒麟であった。夢で向かい合った麒麟が、ユンジェの前にふたたび現れようとしている。


――迷う必要など、もうどこにもない。


 ユンジェは最後の力を振り絞って、頭を持ち上げると、右の手を押さえつけている輩の手に噛みついた。

 拘束の手が緩まった瞬間、身をよじって鞘を銜える。


(使命でもなんでもやってやる。俺はティエンと交わした約束を守りたい――ただっ、それだけだっ!)


 躊躇いはなかった。

 ユンジェは右手で懐剣を引き抜くと、体を反転させ、振り下ろされた柳葉刀を受け止める。小さな刃は受け止めた刃渡りの広い刀を真っ二つに折った。


「まさかっ……あの小僧、王族でもない身分でありながら、麟ノ懐剣を抜いたのか!」


 タオシュンの驚愕は、天に轟く雷鳴によって掻き消される。

 灰色の雲は黒雲に変わり、滝のように雨粒が落ちた。稲光が絶え間なく続く。やがてそれは懐剣に宿り、眩しいばかりの光を宿す。


 麒麟が天から降りてくる。

 直感したユンジェは、鞘を銜えたまま懐剣に柄を逆手に持つと、怯んでいる輩達の包囲網を掻い潜った。

 誰もユンジェを止められなかった。天から降りてきた麒麟が隣を走って、ユンジェを守る盾となってくれる。


 しかし輩達の目には見えないのか、吹きすさぶ風に目を瞑るばかり。こんなにも威風堂々とした獣が地上を翔けているというのに、なんとも不思議な話だ。


(この熊野郎。ティエンから離れろ!)


 軽い身のこなしで、タオシュンの懐に入る。


 負った傷など念頭にもない。

 両手で懐剣を持ち、ティエンを押さえている汚い手に刃を突き刺す。頭の中は彼を守ることでいっぱいであった。吉凶禍福の運命を背負いし天の子を守護する。

 それが、麒麟に与えられたユンジェの使命なのだから。


 傍らにいる麒麟に視線を投げる。

 神々しい威光を放つ、それはユンジェの意思を汲み、ティエンに寄り添った。彼は麒麟が見えているのだろう。戸惑ったように、双方を見やっている。



「いまだ。ピンイン王子をお守りしろ! お前ら、回れ、回るんだ!」



 と、その時だ。

 大勢いる輩の内、数人が味方に武器を向け始めた。

 ユンジェは驚いてしまう。一体、何が起きているのか分からない。敵が身内に切りかかっているだなんて。


「くっ、忌々しい。我が兵に謀反人の間諜かんちょうがまぎれていたか。殺せ、裏切者は残らず殺せ!」


 タオシュンの怒声が空気を震わせる。どうやら、あれらはティエンの味方のようだ。


「このっ、小僧めが!」


 度重なる事態に激昂したタオシュンが、ユンジェに怒りの矛先を向け、大刀だいとうで薙いでくる。

 ティエンを巻き込まないよう、切り立った断崖の吊り橋付近まで逃げた。十二分に距離を取ったところで、大振りに向かってくる大刀を紙一重に避ける。


 そして持ち手に飛び乗り、顔面目掛けて踏みつけた。

 よろめいたところで懐剣を構え、鎧に覆われていない首にそれを突き刺す。返り血が右頬に付着した。

 タオシュンが痛みに叫ぶ。天を裂くような悲鳴まで、熊のようであった。


(ティエンは無事か)


 巨体が両膝を崩し、音を立てて倒れる。

 それに目もくれず、地面に着地したユンジェは、急いでティエンの方を見る。彼は謀反人の間諜と呼ばれていた者達に囲まれ、守られているようであった。

 ホッと胸を撫で下ろし、銜えていた鞘を手に持ち、ゆっくりと刃を収める。やはり彼らはティエンの味方のようだ。



「よくもっ、小僧許さぬぞォオ!」



 背筋が凍る。振り返れば、倒れた筈の巨体が起き上がっていた。

 急所の首を刺したはずなのに、タオシュンは血しぶきを上げながら、大刀を大振りに回した。


(こいつ、化け物かよっ)


 懐剣で鞘を受け止めるが、馬鹿力に負け、体が木の葉のように空中を舞った。


(しまった。この下には急流の激しい川が)


 雨の季節で川は増水している。急流は濁流となって、より激しさを増している。なにより、この高さから落ちて、タダで済むはずがない。


「ピンイン王子!」


 誰かが素っ頓狂な声を上げた。焦る声や、制する声も聞こえる。


(まさか……違っていてくれよ)


 ユンジェが崖を見上げれば、ああ、思った通り、ティエンが麒麟と共に飛び下りてくる。


 何をしているのだろうか、この男は。


 自分よりも体が軟なくせに、怪我を負っているくせに、守ってくれる味方もいるというのに。それを置き去りにして自分を追って来るなんて、本当に馬鹿としか言いようがない。

 ティエンが手を伸ばしてくる。それを掴むために、ユンジェも手を伸ばし、必死に伸ばし、伸ばして、手と手は結び合う。


 雨音にまじって、高い水しぶきが二つ上がった。


 川の中は大嵐であった。右も左も分からず、もみくちゃにされ、濁流に呑まれた二人の体は流された。成す術もなかった。


 けれども。ユンジェとティエンは、その流れから次第に逸れ、浅瀬に追いやられた。それは幸運という名の奇跡であった。

 水面から顔を出したユンジェは、ティエンを引っ張り上げ、砂利の岸に這いあがる。


「はあっ、はあっ……ティエン、生きているか?」


 咳き込んで水を吐いているティエンが、何度も頷いた。生きているなら、それで良い。ユンジェは脱力し、びっしょりと濡れた髪を掻き上げる。


「あっ」


 目の前に神々しい光を放つ獣が、二人を見下ろしていた。


 麒麟だ。

 天から降りてきた獣が、観察するようにユンジェとティエンの姿を目に映している。吸い込まれそうな眼は澄み切っており、善悪を見通す力を感じた。

 水面に立っている獣の足元を見ると、常に光の波紋が生まれている。それが改めて、天の生き物だということを思い知らされる。


 威圧感のある空気にユンジェは息を呑んでいたが、一匙の勇気を掴むと、手放さずに持っていた懐剣を差し出した。


「約束するよ。ティエンは必ず俺が守るから。お前が言っていた、守護の懐剣になるから」


 麒麟の輪郭がおぼろげになる。

 まるで雲のように形を崩していく獣は、音階のある一声鳴くと、懐剣の鞘に装飾されている黄玉トパーズに角を当て、天高く昇っていた。


(天に還っていったんだ。あれこそ天の使いって奴かも)


 ユンジェは恐る恐る黄玉を確認する。そこには炎のような、燃え盛るものが宿っている。常に揺らめき、力強く燃え盛るそれは、命のともしびのように見えた。


 ティエンが咳を零す。

 我に返ったユンジェは、彼の前に両膝をつき、怪我の具合を確認する。彼の肩や背中には、まだ痛々しい矢が刺さっていた。


 それはユンジェを庇った傷だ。

 それなのに、彼はユンジェを追って崖を飛び下りてきた。ぼろぼろになってまで、自分の傍にいようとした彼に、つい怒鳴ってしまう。


「お前は何を考えているんだよ! 俺と一緒に落ちるなんて、どうかしているぜ! 死ぬかもしれなかったんだぞ!」


 涙声で訴えると、ティエンが同じように涙目で微笑んだ。安堵した顔であった。申し訳なさも、少しかんばせに宿していた。

 しゃくり上げるユンジェの頭を撫で、傷を確認してくる。人の心配をしている場合ではないだろうに。


「……ティエン。お前、なんだよそれ!」


 ふと、ティエンの首に目を向けたユンジェは血相を変えた。なんと、彼の喉元が青たんのように腫れ上がっていたのだ。


 よく目を凝らすと、彼の首に黒蛇が巻きついている。それがティエンの喉元に噛みつき、白い首は毒々しい紫に変色していた。

 ユンジェは大慌てで懐剣を抜くと、刃先をティエンの喉に向けた。彼が目を見開き、驚くが、一刻の猶予もない。これが毒蛇であれば大変だ。


「じっとしてろよ」


 狙いを定め、懐剣の刃先で蛇の頭を突き刺す。体をくねらせ、もがき苦しむ蛇を掴むと、頭を押さえ、刃を滑らせて胴体を真っ二つにした。

 ユンジェは割れた胴の一つを抓み、それをまじまじと見つめる。黒蛇は内臓まで真っ黒であった。こんな蛇、見たこともない。


「毒蛇だったらまずいな。ティエン、こっち向け。念のために毒を吸い出し……ティエン?」


 彼は喉を押さえ、げえげえと嘔吐えずいていた。

 ユンジェは蛇の死骸を放り、ティエンに傷口を見せるように訴える。やっぱり、あれは毒蛇だったのだ。早く毒を吸い出さないと!


「ティエン! 俺に喉を見せろ。てぃっ……ティエン?」


 体を折っていた彼が、呆然とユンジェを見つめてくる。


「う……ぁ……え……」


 微かに音が聞こえた。

 ユンジェも、呆けた顔でティエンを見つめる。今の音は声であった。掠れた、弱々しいものであったが、まぎれもなく声であった。


「……ゆ……じぇ……」


「お前……」


 呂律が上手く回らないのか、ティエンは何度も腹に力を込めて、舌を動かしている。

 しかし、すぐに要領を取り戻したのだろう。

 依然、掠れた声ではあったが、はっきりと自分を呼ぶ。



「ゆんじぇ……わたし、こえ、とどいているか?」



 いつもユンジェは想像していた。

 ティエンの声はどのようなものであろうと。女のように美しく高い声なのだろうか。それとも顔に似合わず、野太い声なのだろうか。はたまた、天人が持つような透き通った声なのだろうか。


 彼の声は高くもなければ、低くもない、間を取った声であった。優しい声であった。安心する声であった。


 感極まってしまう。彼の声が取り戻せたことが、自分のことのように嬉しい。泣けてくるほど嬉しい。それはどうしてだろう。涙しているティエンに、感化されたのだろうか。きっとそうだ、そうだに違いない。


「あっ、ティエン!」


 まだ返事をしていないのに、彼の体が崩れてしまう。

 怪我を負った上に、荒れ狂う川に飛び込んだせいだ。雨も降り続いている。急いで雨宿りできる場所を探し、彼に手当てと、乾いた服と、休息を与えなければ。


「いたぞ、ピンイン王子はご無事だ!」


 気ばかり焦っていると、ティエンを探す者達の声が聞こえた。あれは謀反人の間諜と呼ばれていた者達に違いない。ティエンを気遣う声が、彼の味方だと教えてくれる。


「お願い。ティエンを助けて。助けて下さい」


 ユンジェは駆け寄って来る、謀反人の間諜に助けを求めた。もう、なりふりなど構っていられなかった。 

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