第9話 恐怖

 邪神の棲み処とは、人間の精神の向こう側にある。

 ゆらゆらと揺れ動く壁は、宿り木を絞め殺す蔦のように絡みつき、物理法則を捻じ曲げて光を通す天井には、巨大な影が蠢いている。

 人間の精神が耐えられる世界ではない。

 その棲み処を目にした少年はのちに、こう、表現するしかなかった。

 一昔前に流行ったマンデルブロ集合がプリントされた布を吊るしたテントのようであった、と。


「触手のお姉ちゃん、大変だよ、触手のお姉ちゃんがばらばらになっちゃった!」


「クトゥルーは、バラバラじゃないのです」


「クトゥルーは、合体するのです」


「そうじゃなくて、砂場に居るお姉ちゃんだよ!」


「一号なのです」


「急いで見に行くのです」


 しかし!

 砂漠を渡り、城にたどり着いたクトゥルーたちの前で、バラバラになった邪神の体は、既に冷たく命なき肉の塊と化していた。


「わーん、お姉ちゃんがー、お姉ちゃんがー」


 泣き叫ぶ少女の声にも、邪神が動じる筈も無い。闇の深淵より這い出た邪神に、一片の情など無いのだから。

 邪神が触手を振り上げると、一斉に襲い掛かる!


「もぐもぐ、早く食べるのです」


「もぐもぐ、残さず食べるのです」


「バウバウ」


 邪神は、散らばった邪神の体を貪り始めた!

 力無きものは、己の仲間であったとしても食らい尽くす残忍さ。


「お姉ちゃんたち、何を?……」


 顔を上げた邪神は、無数の触手から緑色の液体を滴らせ、その口から、引き千切れた手をのぞかせていた。


「キャー!」


 邪神をちっぽけな人間の尺度で測れるものではなかった!

 虚ろな目をして、闇の中を這いずりまわる眷属にされたとしても、邪神の真の姿の前では、恐怖に心臓を握りつぶされ、闇雲に走り回るしか出来ないのだから。

 泣きながら逃げ去った子供たちをしり目に、邪神はさらなる行動に出る。


「全部食べると、元に戻せるのです」


 そう、元は一体の邪神だったのだ!


「一号、復活なのです~」


「わーい、戻ったのです~」


「小さくなったのです」


「おかしいのです、まだ落ちてるのです」


 復活した邪神は元の半分くらいの大きさになっていた。

 足りなくなった部品を遅くまで探していたクトゥルーたちであったが結局見つける事は出来ずに、基地へと戻る事にした。

 大きさが変わったとしても、邪神の恐ろしさは変わらないのだ……。

 そう、邪神の恐ろしさは変わらないのだ……。


――にょき。


 その夜遅く、柴犬ベスの頭から一本の触手が生えていた。


 何という事だ!

 邪神の魔の手に掴まれているのは、人間だけではない。

 この地上に住むありとあらゆる生物が、既に侵略されていたのだ!

 それをまだ知らぬ愚かな人間たちに、警鐘を鳴らさねば……。

 だが、……既に、遅すぎた……。

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