02:夏祭りの夜に(2)
あれは四ヵ月ほど前の春、小学校からの帰り道のことだ。
花見をしようと通りがかった公園の道端にカラスが集まっていた。
近寄ってみれば、小さな白い狐が突っつかれて傷だらけになっていた。
美緒はランドセルを振り回してカラスを撃退し、おかげであちこち引っかかれたり突っつかれた。
いまでも右眉の上、額には小さな傷痕がある。
でも、腕の中で震える子狐を助けられたのだと思えば痛みも何もかも平気だった。額の傷は勲章だ。
「うん、そう」
美緒が覚えていたことが嬉しかったらしく、男の子は笑った。
(あ、八重歯)
笑った拍子にほんの少しだけ八重歯が見えた。
「元気そうで良かった。傷だらけのまんまいなくなっちゃったから心配したんだよ。傷痕とか残らなかった?」
「うん、傷跡は残ってないし、元気……かな。うん。いまは大丈夫」
男の子は妙に歯切れの悪い言い方をした。
「いまは?」
「ああ、ええと。なんでもないの。元気だよ」
男の子は両手を振った。
「なんでここにいるの? 迷い込んだの?」
「うん。おばあちゃんと一緒に屋台を見てたら、いつの間にか」
「そっか。今日はここもお祭りだから、空間が歪んで繋がったのかな。一緒に来て。
男の子が右手を差し出してきた。
「本当? ありがとう!」
喜んで手を取ると、男の子は美緒の手を引いて歩き出した。
迷いなく、大勢のあやかしたちが闊歩する通りをまっすぐに。
繋ぐ手の感触と温もりが、もう一人ではないことを教え、それまで感じていた心細さや不安を溶かしてくれた。
「わたし、美緒っていうの。芳谷美緒。あなたの名前は?」
弾んだ声で言って、男の子の狐の耳を見つめる。
狐の耳はふわふわの毛に覆われていて、触り心地が良さそうだ。
頼めば撫でさせてもらえないだろうか。
名前を尋ねながら、美緒はそんなことを考えていた。
「
「銀太くん。苗字はあるの?」
「苗字?」
銀太は可愛らしく小首を傾げた。
どうやらあやかしに苗字という概念はないようだ。
「ううん、なんでもない。さっきのあやかしはなんで退散したんだろうね。わたしの後ろを見てたみたいだけど、苦手なあやかしがいたりしたのかな?」
「あれはねえ、多分ぼくのお兄ちゃん。前にぼくがいじめられてたとき、銀太を泣かせる奴はおれが許さないって怒ってくれたから。後ろから見てて、怒ってくれたんだと思う。すっごく頼りになるんだよ、ぼくのお兄ちゃん。ぼくよりずうっと頭も良いし、喧嘩も強いし、格好良いんだ」
銀太が顎を上げ、自慢げに言うので、美緒はくすっと笑みを零した。
「お兄ちゃんのこと大好きなんだね」
「うん。大好き! 美緒はお兄ちゃんいる?」
「ううん、一人っ子。だから羨ましいな」
手を繋いで歩きながら、銀太がいかに自分の兄が素晴らしいか、どれほど尊敬しているかを語っているうちに、目的地に着いたようだった。
「あ、こっち」
銀太は話を中断して、細いわき道に入った。
わき道の先には淡く光を放つ、ぼんやりとした白い靄が広がっていた。
靄の傍では細い桜の木があり、花びらが夜の雪のように光って見える。
「ここを通れば現世に戻れるよ。もう迷い込んで来ちゃダメだよ。美緒は祭りに浮かれて現実を忘れたんだろうけど、ちゃんとしっかり現実を見てて。ヨガクレにはさっきのあやかしみたいに、こわーいあやかしもたくさんいるんだからね」
銀太は両手を顔の前に持ってきて、掴む仕草をした。
「うん、気を付けるね。心配してくれてありがとう。でも、もうお別れかぁ。なんか寂しいな。せっかく会えたのに」
不思議な白い靄を見つめてから、名残惜しく銀太を見る。
「わたしまた銀太くんに会いたいな。会えるかな?」
「美緒はこっちに来ちゃダメだよ。危ないよ」
「じゃあ、銀太くんが会いに来てくれる?」
ねだるように言うと、
「……うん。いつかきっと、会いに行くよ。美緒に会いに」
銀太は思いがけないほどの優しい微笑みを浮かべた。
風が吹いて銀太の白い髪と耳が揺れ、視界を薄紅の花びらが横切る。
「そうだ、これ。約束の印にあげる。お守りの鈴」
銀太は左の袖から赤い紐がついた鈴を取り上げ、差し出してきた。
「もらっていいの? お守りって、大事なものなんじゃないの?」
「いいよ。美緒は特別だから」
「……ありがとう」
特別なんて言われると照れくさい。
はにかみながら、美緒は鈴を受け取り、そっと巾着袋に入れた。
「お返ししたいけど……わたしいまなにももってない。かんざしとか要らないよね? 銀太くんは男の子……雄? だよね?」
「雄だよ」
プライドが傷ついたのか、銀太は微妙な顔をした。
「かんざし、くれるならほしい。綺麗だから飾りたい」
「うん、どうぞ」
かんざしを引き抜くと、長い髪が解けて肩に落ちた。
「ありがとう。大事にするね」
かんざしを受け取って銀太は笑った。美緒も笑みを返す。
「わたしも鈴、大事にするよ。絶対絶対会いに来てね」
「うん」
「待ってるからね。約束だよ!」
美緒は満面の笑顔で手を振って、白い光の靄を潜った。
内臓が浮き上がるような、天地がひっくり返ったような妙な感覚が過ぎ去った頃、美緒は見慣れた神社の鳥居の前に立っていた。
現実世界では美緒が突然出現したように見えたらしく、母親に抱かれた赤ちゃんが目を剥いてこちらを見ていた。
幸い、目撃者はその赤ちゃん一人だけのようだ。
美緒はごまかすようにその赤ちゃんに笑いかけた後、境内に入った。
祖母を探しながら、頭上に吊られた提灯を見上げる。
提灯の形もあやかしの隠れ里で見たものとは違うし、中の火もいきなり踊り出したりはしない。
提灯から伸びる電気コードを見て、そういえば中に入っているのはろうそくではなく電球なのだと思い出した。
(そうだよ。踊り出すわけがない。でもわたしは見た。無数の提灯の中で踊る火を!)
興奮で身体が熱くなる。誰も知らないことを美緒は知った。
狐の子と喋った。彼に貰った鈴も巾着袋の中で音を立てている。
決して夢ではない。本当に、美緒はあやかしの隠れ里に行ったのだ。
「美緒ー!」
自分を呼ぶ祖母の声が聞こえて、美緒は全速力でそちらへ走った。
祖母は手水舎の近くで不安げに辺りを見回していた。
体験した摩訶不思議な出来事を、一刻も早く話したくて堪らない。
「おばあちゃん! 聞いて聞いて! さっきね――」
美緒は体当たりするように祖母に抱きつき、頬を上気させて語り始めた。
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