猫殺しの放課後 第0話 食卓

藻中こけ

第0話 食卓

 薄暗いガレージの中、金属製の檻、手製の捕獲器の中で、一匹の茶と白の毛並みをした野良猫がぐったりと横たわっていた。


 捕まえた直後は丸々と太っていたが、今はやせ細り、毛の艶もすっかり失わている。


 それも当然かもしれない。四日前、家の裏にある空き地に置いておいた捕獲器で捕えてから、水しか与えていなかったのだから。


 今回の猫は初めての餓死に挑戦しようと思っていたのだが、意外としぶとい。今となってはひどく弱弱しいが、それでも時折その喉から漏れる鳴き声は大きく、助けを求めようとしているかのようだった。


 このまま置いておくと、俺の家から猫の鳴き声がすると噂が立ってしまうかもしれない。そこで、残念だがこいつは餓死を待たずに今日殺すことにした。だが、その前に少し思いがけない収穫があったので、ちょっとした実験を試してみることにする。


 俺は捕獲器に近づくと、その扉を開けた。自由への道が開かれても、白茶の猫は身を横たえたままか細い呼吸を繰り返している。どうやら逃げ出す体力もないらしい。


 もっとも、ガレージのシャッターは閉ざされているので、檻から出たところで外に逃げることは叶わないが。


 俺は十分に猫が弱っていることを確認してから、手に持ったポリ袋の口を開ける。そこには、毛並みがぐっしょりと濡れた小さな生きた子猫が入っていた。今日、たまたま庭に入ってきていたのを捕まえたもので、先ほど水責めをして抵抗する体力を奪っていたところだ。


 注目するべきはその毛並み。ポリ袋の中の子猫は、檻に捕えた成猫と同じ、白と茶色の毛だった。一目見て、親子だとわかる。


 子猫はおそらく生後四か月は経っていないだろう。自力で餌を得ることはできず、俺が親猫を捕えてから四日間、食い物にありつくこともできず衰弱している様子だ。水責めをしなくても、きっとろくに歩くことさえできなかっただろうが、念のためだ


 俺は子猫の首を掴むと、開いた檻の扉の前へと置いた。弱弱しい鳴き声が響き、母猫はそれに反応した。そして、わずかな力を振り絞って立ち上がると、ゆっくりと子猫へと歩いて行く。


 そして――子猫の首へと噛り付いた。


 ガレージの中を弱弱しい悲鳴が響き渡った。決して大きくはないものの、耳をつんざくようにひどくやかましい鳴き声だった。


 猫の知能では記憶できないのか、あるいは人の匂いが移ったせいで我が子がわからないのか。それとも、認識していても関係ないほどに飢えているのか。


 そのどれが正しいかはわからない。だが、確かなのは目の前に広がる光景だ。


 飢えた獣は自らが生んだ子であることなど関係なく、ただ生存本能に従って肉を貪り食っている。生物の本能の前に、人間的な肉親の情を当てはめること自体が間違いなのかもしれない。


「やっぱりか……」


 それを見て、ひどく落胆している自分に気付く。今まで何度も猫を殺してきたのに、少しだけ心が痛んだ気がした。


 その理由を考えてみて――俺は昔の記憶を思い出し始めた。俺、小川陽樹がまだ小学生のころ。母さんが狂う前、まだギリギリの均衡で、家族が結びついていた日々を。


  ***


 あの日、道路で車に轢かれてのたうち回る猫の死に様を見てから、俺は猫が死ぬところが気になって仕方なくなった。思えば、それまで虫も殺したことのなかった俺にとって、それが初めて見る生き物の死だったからかもしれない。


 幸い俺の住んでいる街は野良猫がとても多かったので、獲物には事欠かなかった。とは言え、当時は捕獲器も持っておらず、野良猫をおびき寄せるための技術も未熟だったので、最初のうちは苦労していたが。


 だが、やがて俺の猫殺しは両親の知るところとなり――というか、俺自身別に隠していなかったので、学校や近所にも広まった。


 そして、父さんも母さんも俺に必死に猫を殺すのをやめるように説得した。だが、周囲の反応がかえって俺の興味を煽り立てた。


 みんなは平然と虫を殺す。アリを、ダンゴムシを、ハエを、ゴキブリを。虫どころかネズミだって、母さんが前に業者に駆除してもらっていたのを知っている。


 それなのに、どうして殺してはいけない命があるのか。殺していい命との違いは何なのか。ひどく気になって、俺は何度も何度も猫を捕まえては殺した。


 やがて、母さんは俺に対して虐待を繰り返すようになり――父さんは、そんな家から逃れるように単身赴任していった。


 今も鮮明に覚えている、母さんがボール紙で作った粗末なクイズカード。ガやゴキブリやネズミ、ネットで拾ったいろいろな生き物の画像が貼り付けられた紙。


『この生き物は殺していい? それともダメ?』


 カードを出されるたびにそんなクイズを出され、俺は答えていった。


『クモ』のカードを見せられ、『殺してもいい』と答えた。


『ガ』のカードを見せられ、『殺してもいい』と答えた。


『ゴキブリ』のカードを見せられ、『殺してもいい』と答えた。


『ヤモリ』のカードを見せられ、『殺してもいい』と答えた。


『ドブネズミ』のカードを見せられ、『殺してもいい』と答えた。


 そこまでは、母さんも笑顔だったのに。『ネコ』のカードを見せられ、俺が『殺してもいい』と答えると、途端に彼女は怒り狂い、俺をしこたま殴りつけた。


「おまえなんて、生まれてこなければよかったのに」


 そんな風に、憎悪に満ちた言葉を吐きながら。


 母さんの精神は子供だった当時の俺の目から見ても危ういほどに擦り切れていたが、それでもしばらくは生活を共にしていた。それが彼女の義務感だったのだろう。


 俺への虐待を繰り返しながらパートに出て、毎日食事を作ってくれた。その時はまるで以前と変わらない優しさを見せることもあった。


 まるで、狂った母とまともな母が同時に存在しているかのようだった。今思えば、それは精神が壊れつつあることによる情緒不安定だったのだろうが。


 そんなある日のこと、俺は母さんがキッチンに立って料理をしているところを見た。


 献立はビーフシチューらしく、ちょうど牛肉を包丁で切っているところ。当時の俺は、すでに食卓に並ぶ肉が牛や豚や鶏の死骸だということくらいはわかっていた。


 だから、不思議に思い、こう尋ねたのだった。


「どうして猫は殺しちゃいけないのに。牛や豚や鶏は殺していいの?」


 すると、母さんは料理の手を止め、俺を睨みつける。その顔は、狂った母の方の表情だった。そのまま、俺は包丁の柄で何度も何度も殴られ、顔に痣ができるほどまでに滅多打ちにされた。


 だが、その痛みよりも、俺には母さんが怒りのままに喚き散らしていた言葉の方が頭に残っていた。


「どうしてわからないの、陽樹ッ! 牛や豚は食べるためだからいいの! そのくらいわかってよ! 何で普通の子になれないのよ、あなたはッ」


 振り下ろされた柄で乳歯を折られながら、俺は子供心に電撃に打たれたような気分がしていた。初めて、母さんや周りの人たちが言う生き物の区別――『命の境界線』の手がかりがやっと掴めたような気がしたから。


――そうか。食べるためなら、殺してもいいんだ。





 それから一週間後。


 俺は痣だらけの顔中にガーゼを撒きながら登校し、小学校の図書室で料理の本を読み漁った。


 そして、家へと帰る途中、空き地で猫をおびき寄せて捕まえることに成功した。


 当時の俺はすでにどうすれば効率よく猫を捕えることができるかわかっていた。


 餌はビーフジャーキー。ただ置くだけでは効果が薄いので、父さんがかつて煙草を吸うために使っていたライターを拝借して、軽く炙る。こうすれば匂いが強く出て、猫をおびき寄せやすくなるはずだ。


 餌を置いてしばらくして、一匹の猫がやってくる。生後半年程度の若い三毛猫だった。子猫一匹の割に毛並みがよかったので、もともと人に飼われていたのかもしれない。


 避妊去勢をせずに猫を飼い、子猫を生んでしまって捨てるということはよくある。そいつも、そういった類の捨て猫だったのだろうか。


 ともかく、そいつはビーフジャーキーへと近づいて食べ始めた。俺はその後ろから忍び足で近づいて、頭部へと大きな石を叩きつけた――というより、落として頭蓋骨を潰した。


 猫の頭部は脆い。扁平な形状をしているので、上から衝撃を受けると簡単に壊れる。すでに度重なる猫殺しでそのことはよく理解していた。頭の潰れた猫が残った神経反応で脚をバタバタと動かして痙攣するのをしばらく見た後、大人しくなった死骸をランドセルの中に押し込む。


 そのためにわざわざ教室の引き出しに教科書やノートすべてを置いてきて、中を空にしておいたのだった。


 そして、ランドセルを背負ったまま、急いで自転車のペダルを漕いだ。季節は初夏。少しずつ暖かくなってきていたから、ぼやぼやしてると新鮮な肉が腐ってしまうかもしれない。


 奇しくも、その日は母さんの誕生日だった。いつもならどれだけ忙しくても父さんは帰ってきていたが、『今年は忙しくて帰れない』と母さんと電話しているのを前に盗み聞きしていたことがある。


 きっと、俺が薄気味悪くて、帰るのが嫌だったのだろう。


 それはともかく、俺は家に帰るとさっそくキッチンへと向かった。家庭科の授業で何度か班で料理を作ったことはあるが、一人で最初から最後までやるのは初めてだ。


 とりあえず、頭の潰れた三毛猫の死骸をまな板に載せ、しばらく途方に暮れる。


 魚すら捌いたことのない俺に取っては、毛皮のある哺乳類なんてどうやって下ごしらえすればいいかわからない。だが、急がないと料理ができる前に母さんが帰ってきてしまう。


 悩んだ末に、俺は心を決めて三毛猫の背中から包丁を入れた。毛皮からその下の皮膚へ刃を突き立て、数十センチほど切れ目を入れる。死んで数分経っていたからだろうか、思ったほど血はでなかった。


 そこからゆっくりと皮を裏返す。皮膚の下の黄色っぽい脂肪がひどく生々しく見え、その下には白と薄紅色の肉が見える。


 肉へとへばりつく脂肪を何とか包丁で切ろうとしていくが、子供の手際ではうまく切り離せない。仕方なく、途中からキッチン鋏を持ち出して、毛皮を切り離していく。血で手が汚れるのを、蛇口のバルブを捻って何度か水道水で流していった。


 何とかすっかり毛皮を剥ぎ取ったころには、すでに30分は経過していた。まな板の上、それから流し台の周りは三毛猫の白、黒、茶の毛が散らばってひどく汚れている。


 それを見て、ひどく心細い気分になった。早くキッチンを綺麗にしないと、帰ってきた母さんが見たら激怒することだろう。


 やっと殺していい生き物の区別に気付いたことを証明して、母さんと仲直りしたいのに、そのために料理を作ってあげているのに。そんな事態になったら本末転倒だ。


 だが、掃除は後回しだ。これ以上時間をかけたら猫の肉が腐敗してしまうだろう。早く何でもいいから加熱して調理しないと――俺の頭を、そのことだけが占めていた。


 シンク下の収納からフライパンを取り出し、ガスコンロの上へとセットする。それからオリーブオイルを薄く引き、ガスの元栓を開き、火をかけ始めた。


 その間、猫の死骸から肉を取る。毛皮を失った猫は思った以上に細い上に筋張っていて、骨から肉を剥がすのは至難だった。だが、包丁とキッチン鋏を駆使して、何とかこそぎ取っていく。


 二人分の食事くらいの肉を取れたころには、フライパンはとっくに加熱されていた。ただ気ばかりが急いて、どんな料理を作るかさえ考えていなかったが、とにかく中に猫の肉を投入する。


 オリーブオイルが弾け、肉がゆっくりと焼け始める。だが、その匂いはひどく獣臭く、吐き気に何度もえずいた。換気扇を回し始めても焼け石に水だ。


 それでも、何度かフライ返しで炒めているうちに焼き色が付いてきた。そうして焼いてみると、見た目はいつも食べている牛肉や豚肉と変わらない。だが、問題は味だ。


 焼けた肉の一かけらを菜箸で取り、匂いに我慢しながら口の中に運んで味見してみる。


 舌へと広がったのは、猛烈な獣臭。口に含んだだけで鼻腔が刺激され、あまりの臭さに食道の奥から酸っぱいものがこみ上げた。


 それでも何度か咀嚼を繰り返し、猫の肉を嚥下する。胃袋に収まっても喉奥から漂ってくる匂いは収まらず、最悪に不快な気分だった。


 これではとても母さんには食べさせられない。何とか味付けして臭みを消さないと。その一心で、キッチン中から調味料を集め、少しずつかけて味見を繰り返す。


 コショウやトウガラシ、タバスコに練りニンニク、ショウガ……いろいろと香辛料を試してみると少しは臭みはマシになるものの、完全には消えない。


 そんな無駄なことを繰り返しているうちに、母さんの帰宅時刻は近づいてくる。俺は情けなくて、涙が出始めていた。これじゃ母さんと仲直りなんてできない。嫌がらせだと思われて、また怒られるだけだ。


 そうして藁にもすがる思いでキッチンの戸棚を開けているうちに、俺はあるものを見つけた。


 ――カレールウ。


 それを見て、俺は思い立った。カレーのスパイスなら、猫肉の獣臭を中和できるかもしれない。


 考えるよりも早く鍋を用意し、水を沸騰させ始めた。同時進行でジャガイモやニンジンの皮を剥き、細かく刻んでいく。炊飯器に研いだ米も入れて、スイッチを押した。


 カレーライスを作る準備をしているうちに、炒めた猫肉をボウルへと移して中にたっぷりの牛乳を注ぎ込む。以前、母さんがまだまともだったころに料理を手伝った際、母さんがそうやって牛のレバーの臭みを取っていたことを思い出したからだ。


 また、あの頃のような家族に戻れるだろうか。そんな淡い希望を抱きながら、俺は十分に牛乳へと漬けた猫肉とカレールウを鍋へと入れた。


 そして、数十分後。


 俺は小皿に猫肉のカレーを入れ、味見をしてみた。


 ――おいしい。


 炒めた猫肉をさらに煮込んだおかげか、何とか食べられるくらいに柔らかくなっている。それに、工夫のおかげか、獣臭も気付かないくらいに薄くなっていた。これならばカレーの香りで誤魔化せるだろう。


 安心している暇もなく、俺は手っ取り早くキッチンを片付け、二人分の皿にカレーライスを盛りつけた。


 もうすぐ、母さんがパートから帰ってくる時間。そう思いながらダイニングのテーブルにカレーライスの皿を置いたとき、玄関のドアが開いた音がした。


「おかえり、母さん!」


 俺が声をかけて出迎えると、母さんは少しぎょっとした様子だった。だが、すぐにカレーライスの匂いに気付き、困惑を見せた。


「誕生日、おめでとう。今日はぼくが夕飯を作ったよ」


「……あなたが? 本当に?」


 母さんは驚いた様子で、ダイニングへと向かい、そこに置かれた二人分のカレーライスを見て、目を瞠っていた。


「うん、一人でがんばったよ。母さんと仲直りしたくて」


 その言葉に、今まで死んだ魚のようだった母さんの目に、わずかに光が差した。それから、わなわなと唇を震わせると、にわかに俺を抱きしめた。


「ごめんなさい、ありがとう……ごめんね、陽樹。ごめんね、殴ったりして……一緒に、カレーライス食べようね……」


 涙に咽びながら、俺を強く抱き締める母さんの体温がひどく懐かしく思えた。


 それからの数十分の食卓は、まるで以前のあたたかい家族が戻ったかのようだった。二人とも、強いて今までのことは話さず、これからのことを語っていた。


 父さんにも、このカレーライスを食べさせたいとか、また今度、家族でどこかに出かけたいとか――そんな他愛もないことを話していた気がする。


 やがて、二人ともカレーライスを食べ終わった後、母さんはふと気付いたようにあることを聞いてきた。


「ところで……お肉も陽樹が自分で買ってきたの? 冷蔵庫の中、もうお肉無かったはずだけど」


 その話題になり、俺は内心誇らしげな気分だった。


「うん、やっとわかったんだ。殺していい生き物と殺しちゃいけない生き物……その区別がどこにあるのか。母さん、ぼく、やっと普通の子になれたよ」


 俺が笑顔で言うと、母さんは怪訝そうにしていた。だが、俺はそんなことには少しも気付かず、椅子から立ち上がると意気揚々と冷蔵庫の方へと歩いて行った。


「食べるためなら――殺してもいいんだよね?」


 そう言って、冷蔵庫の扉を開く。


 中にあるのは、捌いた猫の残りの死骸。ラップに包んだそれが冷蔵庫内の一段を占めている。捕まえる際に潰した頭から飛び出た眼球が、奇しくも外を見つめるように転がっていた。


 その虚ろな瞳が、ちょうど母さんの見開かれた両目と視線を交わす。


 しばらく、母さんは言葉を失っていた。それから顔から血の気が引き、唇をわなわなと震わせ――


 それから、絹を裂くような絶叫が家の中に響いたのだった。


  ***


 その出来事が決定打となって、母さんの心は完全に壊れた。今は精神病院に収容され、狭い部屋の中で妄想の家族と一緒に過ごしているらしい。


 きっと、母さんの妄想の中の俺は、命の境界線をきちんと理解しているのだろう。虫を殺し、猫を護ることに何の疑問も抱かない、まともで健常な精神を持った、『普通の子』として。


 だが、現実の俺には――まだわからない。少なくとも確かなのは、命の境界線は「食用かそうじゃないか」なんて概念じゃないことだ。


 もしもそれが正しいながら、母さんが発狂するはずなどなかったのだから。


 ふと気付けば、過去に思いを巡らしているうちに猫はすっかり子猫を食べ尽くしていた。骨も、肉も、皮も、何もかも。


 残っているのは、コンクリートの床に広がるわずかな血痕と肉片だけ。


 俺は我が子を食らった母猫をこれ以上見ているのが忍びなく――その首へと、無造作にナイフを振り下ろしたのだった。


               終

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