☓☓☓


 「はぁ、はぁ……。うぅ、うぅあっ……」


 女子トイレからはかなり遠い場所にある、音楽室前の廊下。

 そこに『姫穂ちゃん』は倒れていました。廊下の真ん中で、背を丸めて寝転がり、何やらうめき声をあげています。

 顔面は涙と鼻水でぐじゅぐじゅになり、全身は脂汗あぶらあせでびっしょり。しかし、一番の水難はお漏らしのようで、彼女のセーラー服のスカートはびちょびちょに濡れ、床にはおしっこの臭いがする水たまりができていました。

 

 「くきゅっ……。指で、ふしゃいでるのにっ……。うぅぁ……! 全然、止まらりゃないぃ……!」

 

 『姫穂ちゃん』はスカートの中の更に奥に右手を突っ込み、どうにかおしっこを止めるべく、指先で尿道に栓をしようとしてるみたいでした。

 しかし、それでもおしっこはチョロチョロと漏れ出て止まる気配がありません。範囲を拡大していく水たまりに『姫穂ちゃん』はさらに焦り、今度は両手で一生懸命股間こかんをまさぐりながら、身を左右に捩って暴れ出しました。

 

 奇行きこう

 特に●●●の子の奇行というのは目を引くもののようで、偶然廊下を通りがかった他の生徒たちは、地べたに寝転がりながら声を上げてバタバタと暴れる●●●の『姫穂ちゃん』を、異質で奇怪な生き物として見ていました。触れてはいけないもの、関わってはいけない存在……明らかに同じ人間へと向けられる視線ではありません。直接彼女に手を差し伸べる人は一人もおらず、皆ヒソヒソとうわさしながら『姫穂ちゃん』と水たまりを避けて通り過ぎていきます。

 

 「トイりぇ、トイレっ……! はぁ、はぁ、場所が……分からにゃい……!」

 

 「何あれ?」「なんでここ濡れてるの?」「なんか叫んでるよー?」「うぇっ、臭いなぁ」「キモっ」「あれ誰?」「虫みたい」「あはは」


 「わあぁっ!? み、見りゅなっ! 見ないでくれぇっ……!!」


 その中には、周輝くんの友達の男子グループの子たちもいました。


 「小便漏らした? マジで?」「うわ、姫穂じゃん」「あいつ呼んで来いよ」「●●●の介護係って、これの掃除もやらされるのか」「周輝も大変だなぁ」


 「じゅるるっ……! み、見るなって……言ってりゅのに……」


 その中には、周輝くんの彼女もいました。


 「ちょっとヤバくない?」「誰だっけ、あれ」「姫穂って言う名前の特別クラスの子」「わっ、口からヨダレめっちゃ出てる」「キモすぎ」「アタシ、ああいう子ほんと無理」「この前も電車でね……」


 「やめろっ、やめてくりぇっ……! はぁ、はぁ……お、おりぇは●●●じゃないっ……」


 しかし、誰もそれが周輝くんだとは気づきません。やっぱり誰がどう見ても、あそこでおしっこをぶち撒けながらのたうち回っているのは、●●●の『姫穂ちゃん』です。


 「あぁう……うあぁっ……。あぁっ、わあああぁーーっ!!! んきゃああああぁーーーっ!!!! ぴぎゃぁっ!!! ああ゛あ゛あ゛ああぁぁーーーっ!!」

 

 ついには、“かんしゃく”まで出てしまいました。こうなったら、もう誰も手がつけられません。

 私は、もうしばらく遠目でその様子を見ていても面白そうかな、と思いましたが、私の隣にいる『周輝くん』……つまり、本物の姫穂ちゃんが、それを見ていられないようなので、そろそろ重い腰を上げることにしました。不本意ながら、『共生係』出動です。


 「寧々香ちゃん、急がなくていいの? 周輝くん泣いてるけど……」

 「いいよ、別に。あの人は私たちの助けなんていらないみたいだから」

 「そ、そうかなぁ……?」

 「姫穂ちゃん、あなたは私の言うことを聞いてね。そうすれば、私はあなたを助けるからね」

 「うん……」


 今の姫穂ちゃんは、とっても純粋で素直な良い子です。

 いや、きっと本来の姫穂ちゃんは、素直な良い子だったのでしょう。不自由な身体の中で藻掻もがき苦しむ姫穂ちゃんを、私を含むみんなが今まで理解しようとしなかった、というだけの話です。姫穂ちゃんはずっと自分の中で、私たちには見えないものと戦っていたのです。

 

 私はこの時、お母さんや先生が言っていた、「●●●の子を真に理解する社会」というのは、きっとこういうことなんだと強く感じました。そして、やっと苦しみから解放された姫穂ちゃんには、幸せになってもらいたいなぁと思いました。


 * *


 「はっ……!?」

 「あら、気がついた? おはよう。周輝くん」


 それから数十分ほど経ち、気を失っていた周輝くんは、特別教室の床に敷かれたマットレスの上で目を覚ましました。私たち『共生係』が、気を失った彼女をここまで運んだのですが。


 「あうぅ……、うぇ……?」

 「あはは、まだまともに喋れないと思うよ。“かんしゃく”、起こしちゃったんだから」

 「あん……ひぇう……?」

 

 “かんしゃく”。

 姫穂ちゃんの脳は、限界までパニックなったり物理的に強い衝撃を受けたりすると、一時的に思考や記憶をする部分を破壊するようにできているそうです。言語や計算能力など、姫穂ちゃんの脳の浅い場所にあるものはこれによって一瞬で消え、その後回復したりしなかったりします。

 自我の崩壊にも繋がりかねないその過剰な防衛本能を、私は“かんしゃく”と呼んでいます。自制のできない姫穂ちゃんは、頻繁ひんぱんにそれを起こそうとするので、今まで私はそれを止めるために常に気を配っていました。


 「でも、もういいよね。あなたは一人でも大丈夫みたいだし」

 「うぅあーっ……! あぁーっ……! ぐぎゅっ……」

 「私を見て怒ってるの? じゃあ、まだ自分が周輝くんだったという記憶はあるんだね」

 「あうぅー……。お、おえぇ……! じゅ、ぷうっ!」

 「うーん、何が言いたいのか分からないよ。手足は自分で動かせる?」

 「いいぃ……! いううぅー……!」

 「ちょっと無理みたいだね。じゃあ、私がやるね」

 「ぴうっ……!?」


 言葉を話せない、起き上がれもしない。まるで大きな赤ちゃんです。下手に抵抗されるよりは楽なので、ありがたいですが。

 仰向けで寝る『姫穂ちゃん』から、私はぐっしょり濡れたスカートとパンツを脱がせてあげました。すると『姫穂ちゃん』は、また真っ赤になって叫びました。

 

 「やぁーーーっ!! いぃぃやあぁーーーっ!!」

 「お漏らしした周輝くんが悪いんでしょ? ほら、大人しくして。脚を開いて」

 「やぁっ!! やっ、やぁっ!! やぁーーむぇーーっ!!」

 

 まだ心に周輝くんが残っているせいで、彼女には「はだかの股間を見られるのは恥ずかしい」という感情があるのでしょうか。脚をバタバタさせて、私の指示には従ってくれません。

 このままでは、拭いてあげることができません。仕方なく、私は彼女の股にある毛をくしゃっと掴み、ちぎれそうなくらい引っ張りました。


 「びきゃあーーっ!!? い゛ぃぃぎぃいっ!?」

 「ごめんね。もうあなたには優しくしてあげる気はないの。だって、私の好きな姫穂ちゃんは、あなたじゃないから」

 「うぅぐっ……うあぅ……! ぐすっ、ひぐっ……」


 『姫穂ちゃん』は抵抗をやめ、裸んぼの脚を開くと、今度は静かにポロポロと泣き始めました。彼女の中身はみにくい周輝くんですが、見た目は可愛い『姫穂ちゃん』なので、泣き顔もとっても可愛いです。

 

 「じゃあ、タオルで拭いていくよ。暴れないでね」

 「ひうぅ……ふええぇぇん……」

 「また泣いてるの? 男の子なのに。……あ、男の子と言えば、ここはどうなのかな?」

 「ふえぇっ……。んっ……んきゅっ……?」

 「うん? どうかした?」

 「んっ……ふっ……」

 「私が触るたびに、変な声出してるけど」

 「んっ、あっ、あんっ、ひんっ……。んんううぅー……!!」

 「あはは、ごめんごめん。ちょっと試したかっただけだよ。姫穂ちゃんの体で、周輝くんはどんな声出すのかなって」

 「はぁ、はぁ……。んううぅ……」


 私が拭くのをやめると、少しのぼせあがったような顔で『姫穂ちゃん』は私の目をじっと見つめました。悔しそうな、恥ずかしそうな、色んな感情のこもった顔です。口からは、相変わらずヨダレが溢れ出ています。

 

 ガラッ。

 その時、特別教室の扉を開け、『周輝くん』が室内へと入ってきました。ちょうどいいタイミングです。


 「おかえり、姫穂ちゃん。もう終わったの?」

 「うん。ちゃんと綺麗にしてきたよ」

 

 周輝くんがお漏らしした廊下の後始末あとしまつは、姫穂ちゃんにお願いしました。一人に任せていいのかどうか不安もありましたが、どうやら完璧に『共生係』のお仕事をこなしてくれたようです。


 「寧々香ちゃんは何をやってたの?」

 「周輝くんの下半身を拭いてあげてたの。今終わったところ」

 「わっ! ひめが、おまたひろげてる……」

 「いいところに来てくれたね。次は姫穂ちゃんにも手伝ってもらおうかな」

 「えっ? ひめもお手伝い……?」


 姫穂ちゃんに恥部ちぶをジロジロと見られ、周輝くんは恥ずかしさのあまり、ぎゅっと目をつぶってしまいました。姫穂ちゃんはそれを気にせず、周輝くんの太ももを指でつついたり、性器をじっくり観察したりしています。

 改めて二人の対面が終わったところで、私は姫穂ちゃんにピンク色の紙おむつを差し出しました。大人の女性用なので、シンプルなデザインのものです。


 「これ、はかせてあげて。周輝くんに」

 「えっ? おむつ? パンツじゃないの?」

 「どうせまた漏らすでしょ? この人にはこれでいいの。パンツはまだ早いの」

 「そ、そっかぁ」

 「やり方は教えてあげるから、私の言う通りやってみて。姫穂ちゃん」

 「うん……」


 かつて自分が“動物並みの知能しかない●●●”と馬鹿にしていた女の子に、おむつをはかせてもらうことになるなんて、この上ない屈辱くつじょくでしょう。周輝くんは涙目になりながら「んうぅーーっ! やあぁーっ!」と叫んで首を左右に振り、やめてもらうように私に訴えかけてきました。


 ですが、もちろん無視しました。今の立場をしっかり二人に認識してもらわないとならないからです。姫穂ちゃんが『共生係』の男の子で、周輝くんが●●●の女の子であることを、しっかりと。


 * * *


 それから数日。


 姫穂ちゃんは『共生係』として、新しい周輝くんとして確実に成長を続け、反対に周輝くんは徐々に完全な●●●に近づいていき、新しい姫穂ちゃんとして日々尊厳そんげんを失っていきました。


 「じゃあー、これは?」

 「じゅーいち、と、よん……? あうぅ……」

 「そっかぁ。じゃあ、こっちの問題は?」

 「に、にじゅっ……! にじゅ……にじゅ……」

 「ううん。答えは18。6と12を足すと、ほら!」

 「うあぁー……。あたま、が、いたぃ……」

 「そろそろ休憩にしよっか。まずはヨダレを拭いてあげるね、周輝くん」

 「ん、んむっ……」

 

 これは、姫穂ちゃんが周輝くんに勉強を教えてあげているところです。

 周輝くんの頭脳を持つ姫穂ちゃんは、喋り方が以前より利発りはつ的になり、姫穂ちゃんの頭脳を持つ周輝くんは、やっと少しだけ言葉が喋れるようになりました。計算の能力は、まだまだのようですが……。

 姫穂ちゃん……現在の『周輝くん』は、とても頼りになる『共生係』の一員となってくれました。そのおかげで、私もずいぶん楽をさせてもらっています。


 「周輝くんの勉強は終わった? 姫穂ちゃん」

 「とりあえず一段落って感じだよ、寧々香ちゃん。ひめ……じゃなかった、俺の方の勉強を、今からやろうと思って」

 「熱心だね。勉強するの楽しい?」

 「うんっ! 難しい問題が解けると、すごく気持ちがいいの!」

 

 入れ替わりにもどうやら進行具合があるようで、姫穂ちゃんは周輝くんが持っていた能力をどんどん習得しているみたいでした。数学や理科に関してなら、すでに私よりも賢いでしょう。

 もちろん、もう一方ではその逆の現象も。


 「……で、あなたはどうして机に寝てるの? 周輝くん」

 「じゅるる……。か、からだ、が、だるくて……あたま、も、いたくて……」

 「それで?」

 「そりぇで……だから……」

 「勉強の続きをしないの? そんな理由で?」

 「だ、だって、しゅ、しゅごく、つりゃいんだよっ!」

 「あっそ。じゃあ髪の毛引っ張ろうか? それともお腹を蹴ろうか?」

 「ひうぅっ……!? な、なんで……」

 「何でって、あなたが『動物のしつけ』とか言って姫穂ちゃんにしてきたことでしょ? 自分一人で何もできないくせに、まだ文句ばっかり言い続けるなら、私もそうするしかないよ?」

 「ううぅっ……。ぐすっ、ひぐっ」


 自業自得です。当然の報い……いや、姫穂ちゃんが受けた痛みや苦しみに比べたら、まだ全然足りないと思います。

 しかしその時、姫穂ちゃんが私と周輝くんの間に割って入ってきました。まるで私がやろうとしてることを、阻止するかのように。


 「あ、あのっ!」

 「何? 姫穂ちゃん」

 「そういえば、今日は塾がある日だったなぁって、思って!」

 「塾? ああ、姫穂ちゃんと周輝くんが通ってるっていう」

 「そう、それ! ひめ、『共生係』だから、周輝くんと一緒に塾に行くんだよね?」

 「そうだね。塾の行き道と帰り道、そばについていてあげて」

 「だ、だから……その、待ち合わせの場所とかを決めなきゃダメだから、今から周輝くんとお話ししてもいい? 寧々香ちゃん」

 「……!」


 これは、周輝くんをかばっている……のでしょうか。今まで周輝くんにしいたげられてきたはずの姫穂ちゃんが? まさか、そんな……。

 いいえ、偶然のタイミングでしょう。とりあえずそういうことにして、私はここで一旦引き下がることにしました。


 「あっ、そういえばそうだね。周輝くんと打ち合わせしなきゃだね、姫穂ちゃん」

 「そ、そうなの!」

 「じゃあ、今から二人で話して。私はちょっと席を外すから」

 「う、うん! 邪魔してごめんね、寧々香ちゃん」

 「いいよ、気にしないで。……あんまり姫穂ちゃんを困らせちゃダメだよ? 周輝くん」


 「うう、あうぅ……」

 

 * *


 その日の夜。

 学校から帰宅し、夕食と宿題を終えて、一息ひといき


 「確か、塾が終わるのは10時ごろだって言ってたっけ」


 なんとなく、あの二人の動向が気になって、私は『健懸けんけんじゅく』の近くにある公園へと夜の散歩に出かけました。

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