第10話 紙飛行機

 篠原かなでと一緒に帰るのは初めてだった。

 マンガに出てくるみたいな真っ赤な太陽が半分だけ顔を出して、のったりのったりと両足を交差させる僕たちを見送っていた。

 篠原かなでは足が遅かった。

 僕は、彼女のペースに歩調を合わせてゆっくりゆっくりと足を踏み出す。

 時々、帰宅を急ぐ親子のカラスの鳴き声が空に響いて、地表に二つの影を映しだした。

「あのね、あゆむくん」

「なに?」

「ごめんね」

 猫の首に付いた鈴みたいに小さな彼女の声を聞き取って、なにが?と僕は言う。

「転校のこと、内緒にしてて」

 ああ、というように首を動かして、なんでもないよ、と僕は言う。

「篠原さん」

「なぁに?」

「あれって本当?」

「なにが?」

「手術するってこと」

 僕の一言で、彼女はゆっくりと動かしていた両足の動きを止めた。それと同時に、目の前に置かれた信号が赤になる。僕も彼女と同じ足の速さで、信号機の前で足を止めた。

 僕らの目の前を、大きなトラックが走って行った。時速何十キロという風が起こり、花柄のピンで留められた彼女の前髪をひらりと揺らした。

「お父さんの、仕事の都合じゃなかったんだね」

 彼女は何も言わない。黒い髪を目の前にたらし、小さな靴の爪先を見ている。

「やっぱ、本当なんだ」

「……」

「東京、行っちゃうんだってね」

「…うん」

 視界の上を輝いていた赤い信号がちかちかとして、黄色になり、走りまわっていた車が止まる。黄色い信号が青になり、僕たちは無言のまま足を踏み出した。

「……ごめんね、あゆむくん」

「……うん」

「……怒ってる?」

 怒ってないよ。僕は少し、寂しいだけだ。

「そこのお医者さんね。わたしは小さい時からずっと通っている病院の先生の、お父さんが経営してるところなんだって。東京ではすごく有名な病院でね。すごく腕のいいお医者さんなんだって」

 にこにことぎこちない笑顔を浮かべる彼女の話に、僕は適当に相槌を打つ。ああ、無理して笑っているんだな、と僕は思う。

 こんな笑顔の篠原かなでなんて、全然可愛くもなんともない。

「だからね、あゆむくん。わたし――」

「……の?」

「え?」

「その病院いけば、本当に篠原さんは元気になるの?そんな無理して東京の病院行って、怖い手術受けて。そうすれば篠原さん、もっとちゃんと元気になれるの?篠原さん前に言ってたじゃん。もっと元気になって、みんなと一緒に遊びたいって。本当に、元気になれるの?」

 思わず吐き出したその衝動に、目の前で大きな瞳を見開いている篠原かなでの表情に気がついて、僕は又自分自身がとんでもないことを言ってしまったということに気が付く。

 僕はまた、篠原奏を傷つけた。

 正面で大きな瞳をこぼしそうなほどに見開いている彼女から目を逸らし、赤い影を作る地面に視線を泳がせて言葉を探す。

 僕がフォローをする前に、篠原かなでは「わかんない」と呟いた。

「みんなと離れて大きな病院で手術して、本当に元気になれるのかはよくわかんない。今とあんまり変わんないかもしれないし、すごく良くなるかもしれない。でもね、わたし、このまんま、苦しいままでいたくないの。わたしもね、みんなと一緒に外で遊びたいの。はしゃぎたいの。手術は成功すれば、今まで気なかったことが全部できるようになるんだよ?なんでもできるようになるんだよ?それって、すごく素敵なことなんだよね」

 僕は目を上げて、俯き加減に歩いている彼女の顔を見る。

 彼女は笑っていた。少し寂しげに、悲しげに。将来への期待と、それと同様の不安も持って。

 僕は彼女に問いかける。

「こわい?」

 なにが、というようにして、彼女が顔を上げた。

「手術することが」

 僕の言葉に、彼女はまた睫毛を伏せた。

 それから、言いにくそうに重たい口の端を上げた。

「……うん」

 少しだけ、こわい。

 彼女のその呟きに、僕は彼女に見られないようにして奥歯を噛みしめる。

 ゆっくりゆっくりと帰路を進める僕らの横を、学生鞄をくくりつけた自転車が2台通り過ぎた。

 ちりんちりーんというベルの音が、僕らの間に響いて消えた。

「あの」

「うん」

「絵本作家、て……」

 この質問を切り出したのは僕だ。

 伏せられていた彼女の顔が正面を向いて、僕の目と視線がかちあう。

「うん。大丈夫だよ。だって、あゆむくんのお墨付きだもんね」

 彼女はそう言ってふわりと笑った。

 彼女の笑顔に、僕も笑う。それから僕は、こうも言う。

「あれ」

「ん?」

「“紙飛行機”のやつ。おれ、まだ出してなくて。ずっと前に、おれのやりたいことが決まったら、一番に教えるって約束したから」

 土田幸樹は、実家の農家を継ぐと言っていた。

 畠山康則はサッカー選手になると言っていた。

 篠原奏は絵本作家になりたいと言っていた。


――もしも僕に、その病院の先生のような技術があったのならば


 彼女が苦しんでいたのならすぐに飛んで行って楽にしてあげられたのだろうし、彼女のことをもっと元気にしてあげられたのだろう。

 その先生以上の技術があったのならば、彼女にこんなにも余計な不安など感じさせず、あっという間に健康にしてあげられたのだろう。

 でも僕は子供だから、まだまだ何の能力も持たない役立たずだから。

「おれは、医者になりたい」

 今はまだ無理だけど。

 いつか、いつか一生懸命勉強して。

 転校だとか難しい手術なんてしなくていいように。

「おれが、医者になるから」

 先ほどと同じテンポで歩き続ける僕たちの間を、冷たい風が吹き抜けた。先をゆく僕の数歩後ろで、彼女が歩みを止めていた。どうしたのか、と僕は問う。彼女は下を向いたまま、なんでもないよ、と言った。

 僕が正面を向いて歩きだしてすぐに、立ち止まっていた彼女の靴音も聞こえてきた。

「ねぇ、あゆむくん」

「うん」

「約束だよ」

「……わかってるよ」

「わたしも、約束するから」

 そんな、呟きにもよく似たやり取りをかわしながら、僕は地面に這わせていた視線をあげて天を見上げた。

 真っ赤な空には飛行機が飛んで、雲の後を残していた。

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