祭りの夜と星のプール

相葉 綴

祭りの夜と星のプール

 夜空には、沢山の星が輝いていた。アルタイル、デネブ、ベガ。有名な夏の大三角。それから、ヘラクレス、サソリ、へびつかい。代表的な、夏の星座だ。明かりのないこの場所から見上げる星空は、圧巻だった。まるで、空が落ちてくるような、僕が空に吸い寄せられているような、不思議な感覚に陥る。

「なに見てるの」

 軽やかな水音と共に、彼女の声が聞こえた。

「空。夏の、夜空」

 水音がした方へ、顔を向ける。彼女は服が濡れることになんて構いもしないで、プールサイドに腰を下ろして、夜空に水をかけていた。彼女に蹴り上げられた水滴が、星の輝きを受けてきらきらと宙を舞う。

 遠くから、祭りの囃子と喧騒が小さく聞こえていた。それはとても楽しそうで、耳を傾けるだけでも祭りの熱を感じることができる。誰もが笑顔を浮かべ、屋台で買った食べ物を片手に練り歩く。そこにはきっと、沢山の幸せが溢れていた。

 けれど、僕らの周りはしんと静まり返っていた。虫の声も聞こえない。まるで僕らだけ世界から切り離されてしまったかのような気さえする。

「ね、せっかくここまで来たんだからさ。入っちゃおうよ」

 ほら。

 そう言って、彼女は手を差し出した。

「入るって、さすがに、まずくないか」

「大丈夫だって」

 言う終わる前に、手首を捕まれた。

「わっ」

 そして、引きずられる様にして。

「それっ」

 僕と彼女はプールに飛び込んだ。全身が水に包まれて、祭りの喧騒が遠ざかっていく。本当に、静かになった。衣服が水を吸って重たい。夜のプールは、想像していた以上に冷たかった。けれど、夏の夜の火照った体には、その水の冷たさが、やけに心地いい。ずっとこうしていたい。そんなことさえ思う。

「ぷはっ」

 けれど、さすがに息が続かなくなって、水面から顔を出した。

「気持ちいいねぇ」

 隣で彼女が笑っていた。濡れた髪を伝うしずくがきらきらと輝いていた。明かりのない夜のプールで、星の明かりだけが彼女を照らしている。水面には夜空が映し出されていて、蒼く輝いていた。まるで星の海を泳いでいるみたいだ。

「なんだか、不思議な気分だねぇ」

 濡れた髪を揺らしながら、空を仰ぐ。

「君とこうして、夜のプールに忍び込むなんて。世も末だねぇ」

 いたずらをする子供のように笑う。

 それから彼女は、両手を広げて仰向けに浮かんだ。

「わぁ、星がきれいだ。君もやりなよ」

 言われた通りに、僕も浮いてみた。

 そうして、圧倒された。

 さっき見上げた星空と同じはずなのに、比べ物にならないくらいに、視界いっぱいに星が広がっていた。星しか見えない。アルタイル、デネブ、ベガ。大三角。ヘラクレス。サソリ。へびつかい。夏の星座。そして、天の川。白い靄がかかったように、夜空を南北に横切っている。小さな星たちが寄り集まって、夜空に川を描いていた。

 僕は今、星の中にいた。何万光年も遠く離れているはずなのに。僕らは今、その遠い遠い星の海を泳いでいた。

「なんだか、少し怖いね」

 彼女が不安そうに呟いた。

「どうして」

「なんだか、一人ぼっちみたいだ」

 そのとき、右手になにかが触れた。ほんのりと暖かい、小さななにか。

「ケイローン」

 なにか、言いたかった。でも、うまく言葉にできなかった。

「なに、それ」

「ケンタウロス。……いて座の」

 だから、出てきたのはそんな言葉だった。水の音が聞こえる。ちゃぷちゃぷと、僕らを中心に波紋を広げて、水面が少しだけ波打つ。

「いて座って、お馬さんだったのか。もう少し、かわいい方がよかったなぁ」

 彼女が曖昧に微笑んだ。

「ケイローンはすごい人、だよ。彼はいろんな人を助けて、いろんな人を教え導いた。だから」

 だから、君も。君にも。

「すごい人だったんだね。なんかちょっと誇らしいな」

 そう言って、彼女は空へと手を伸ばした。水がはねて、星の光を映し出す。

「私、いて座なんだ」

 知ってる。

「君はそういうこと、詳しいよね」

「そういうことって」

「たとえば、今の星座の話とかさ。学校じゃあんまり教わらないようなこと、とか」

「そう、かな」

「うん」

 それから、僕らは静かに空を見上げた。満点の星空を。アルタイルを。デネブを。ベガを。夏の、大三角を。ヘラクレスを、サソリを、へびつかいを。

 もちろん、ケイローンも。

 僕は星に詳しいわけじゃない。学校で教わらないことを、知っているわけじゃない。少しでも、彼女のことが知りたかった。ただそれだけ。

 だから、サソリもへびつかいも、どんな神話が元になっているかなんて、詳しいことは知らない。さすがに、ヘラクレスは有名だから少しは知っているけれど。

 ただ、彼女を知りたかった。

「きれいだね」

「うん」

 いつの間にか、僕の右手は小さな温もりに包まれていた。僕はそれを握り返す。ちゃぷん、と水が跳ねて、水面を揺らす。

 星が満ちる夜空は僕らを包んでいた。夜空から零れ落ちた星の粒が水面に揺れて、淡く輝く。まるで、星の海を漂っているようだった。ふわり、ふわりと、流れのままに。どこまでも、どこまでも、君と二人で。

 このまま、この時間がずっと続けばいいと思った。

 続いて欲しいと願った。このときが続くこと、ただそれだけを。

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