水深2.5メートル【2】

「では、出席番号順に飛び込み台の前に並んでください。」


 出席番号。

 私は、いつだって最後の方だから、こういう時はドキドキをため込んで、ため込んで、眩暈がしそうになる。


 飛び込み台の頂上へは、さび付いた階段をのぼっていく。

 階段の一段一段が狭くて、厚みのない鉄製。

 はだしの足には、高温で、錆びが少し痛い。

 頼りないその階段が、今から3メートルの高さから飛び降りんとする私たちを、元気づけてはくれない。ただ、不安を上乗せしてくれる。


 私の順番が近づいてくる。

 飛び込む人は、飛び込み台の真ん中、次に飛び込む人は、端っこに待機。


 綺麗に飛び込む人は、飛び込んだ時の音がない。

 全く音がしないわけではなく、音は、あるべき整頓された音なのだ。

 上品に奏でられる。たっぷりの水に、柔らかに落ちていく。


 錆びた階段をのぼり、飛び込み台に足をかけて到達する。

 波型の木で作られた飛び込み台の板が足の裏に心地いい。

 私は、地上3メートルから見た巨大な水たまりに、悲鳴をあげないようにしながら、背筋を伸ばす。


 下で見た時には、あんなに汚くて淀んでいたプール。

 虫と落ち葉がくるくると舞う、小さな墓場のようなプールは、上から見ると、信じられないくらい綺麗だ。  

 白い夏の光がいろんな方向からさしているみたいに、水面があっちでもこっちでもきらめいて、ニセモノみたい。



 地上よりも強く太陽の光を背中に感じる。

 暑いのか怖いのか、しっとり汗ばむ。

 足の親指に力を入れて、一歩。

 膝が少し震えている。

 震えを抑えるために、反対の足を少し広めの歩幅で、二歩。


 目を瞑る。少し休憩。


 「次ー」と上を見上げるまぶしそうな声で先生が私の飛び込みを促すのが聞こえる。もう一歩。

 もう進めないところまで来ると、私は両方の足の指を飛び込み台のふちに掛ける。

 足の指にぎゅっと力を入れながら、下を覗き込むと、きらめきが一層恐ろしい。

 遠近の感覚が完全に狂った。


 いつまでも、そこで棒立ちになっているわけにはいかないので、私は腹をくくる。終わりを求めて。

 もう一回、素早く目を瞑って開く。

 親指に力を入れて身体を傾ける。

 腹に力を込めて、弧を描くイメージで、跳ぶ。





 跳んだ瞬間、私は飛ぶ。

 今まで生きた中でこんなに空中にいたことあったけ。

 体中から何もかもが抜け落ちていく。

 耳元では、ごうごう風が鳴っていて、それだけ。

 私の周りから、それ以外の音も方向も、感覚も感情も、性別も夏さえもなくなってただ、跳んで、飛んで、あぁ、落下しているんだなと、水面が近づいてきてぼんやり思う。



 私は、今どんなふうに飛び込んでいるのだろう。

 無様だろうか、美しいだろうか。


 今はもう、何が何だか分かんない。

 あぁ、落ちる。このあと私は、まろやかに水に包まれるのだろうか。



 水面ぎりぎりで、私は目をぎゅっと瞑った。



 ターンと平たい音を立てて腹をしたたかに打ち付けた。





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