第3話 一触即発

 ミント・スウィートは天才だ。

 他人が理解するのに一時間必要な理論を、彼女は一分で理解できる。利用ではなく、まるで自分が考えたと言わんばかりに、使いこなす。ただ理解力に優れているのではなく、それを確かに自分の糧とし、次へと繋げていることができるのだ。


 ミントは勉学を苦に思ったことはない。むしろ、自分の知らない世界が、自分の知らなかった理論で成り立ち、繋がっていき、そして広がっていくことに快感さえ覚えている。つまり、彼女にとって勉学とは、悦楽に等しい行為だったのだ。


 そのために、彼女は多くの知識を欲した。何でもいい。知らないことを知り、そして世界を広げていけるのであれば、どんな知識だって取り入れた。その姿勢が、今の彼女をつくりだしたと言っても過言ではない。


 しかし、そんなミントではあるが、初めて勉学を苦痛に感じている。

 きっかけは、一週間前の『星崩れ』だ。

 目の前に現れた『理解不能』な光景。そして、そのひとつが大切な幼馴染の胸を貫いた光景。決定的だったのは、星崩れにより夜空に広がっていたはずの星々がすべて消えてしまったということ。


 何もかもが、ミントの知識を、そして理解を超えていた。

 すべてに辻褄が合うような答えを探しているが、やはりどれも机上の空論にさえ至らない。それこそ、神話の幻想ファンタジーを信じろと言われているような気がしてならないのだ。あの星崩れは神話の序章に記されている通りの光景であり、むしろ神話が実在したと裏付けのようにも思える。


 ミントは天才であり、理論を重んじる。

 しかし、だからといって幻想を幻想だと吐き捨てるような短絡さもない。この現状においては、神話をすべて調べ尽くすことが何よりの最善だと思えた。


 すべては、ソディアの胸を貫いた流星だ。

 あれは……見間違いだったのだろうか。ほんの一瞬。瞬きの間に終わっていてもおかしくはない事象だった。だからこそ、自分がおかしくなっていたのではと思うときもあるが、それではソディアの胸元の痣と気絶した説明がつかない。


「……だとすれば、やはりソディアは――」


 学校の図書館にある書庫でミントは一人呟く。

 本来であれば授業の時間なのだが、学校の期待の星であるミントの『特権』の前では関係のないことだ。むしろ、教師としても自分たちの教えられる限度を超えていることを感じていたために、ミントが授業に出席しないことを安堵している。普段であれば特権を振るうことに抵抗を覚えるが、やはり気になることをとことん調べ尽くしたい質なのだ。


 図書館や書庫にある神話に関係する書籍をすべて引っ張り出し、隅々まで目を走らせた。それらはすべて知っていた知識であり、ミントがしていた行為はテストの答案の答え合わせをしているようなものだ。結果として、自分の知識に間違いはなく、故にミントが思い至った発想に間違いはないともいえる……ことが示唆されたのだ。

 なんとも曖昧な言い回しなのは、その仮説を出した本人が信じたくないという気持ちが強いからだろう。しかし、この一週間であらゆる可能性を探り、考えたが、どうにも自分の頭がおかしいと言わざるを得ない結論となってしまった。


「そして……私は、これをソディアに伝えなくてはならない」


 しかし、伝えられない。

 絶縁を切り出したのは自分だ。どんな顔をして会いに行けばいいというのだ。

 だというのに、彼女のためにこうして調査をしているのだから、なんて意志薄弱なのだろう。全然、縁が切れていないじゃないか。ミントは頭に手を当てながら、自分の馬鹿さ加減に力なく笑う。


 一週間。

 ソディアと一言も話さない時間がそんなに長いのは、初めてのことだ。信じているわけではないが、母親の話では、どうやら二人は産まれて三日後には赤ん坊の言葉で会話をしていたらしい。つまり、それからの縁であり……簡単に切れるものではないというのは、誰にでもわかる話だ。


 考えるのはソディアのことばかりだ。

 やや跳ね返りの強い灰色の髪。柔和な雰囲気をつくり出している垂れた双眸。吸いつくようなしっとりとした肌。そして……あの青い痣。あれは、ソディアには相応しくない。

 自分がいないときには、どんな話をしているのだろう。そういえば、シュガーとは仲良くしているのだろうか。自分のこともあってぎくしゃくは……いや、あの愚直な妹のことだから大丈夫だろう。昨日、辛く当たったことも謝らなければならない。ソディア。ソディアはどうしているのだろう。勉強でわからないところがあって悩んではいないだろうか。真面目で良い子だから宿題はしているだろうけど、行き止まると諦めが早いところもあるし不安だ。……そういや、昔のソディアは諦めが悪いというか……負けず嫌いなところがあったよな。最近は、大人になって文字通り大人しくなっているけど。そうそう、大人になったといえば。


「ソディアの胸……成長してたな」


 そう呟き、ミントは感触を思い出すかのように右手を卑猥に動かす。あの柔らかさと温かみ、そして大きさが正確に再現され、幼馴染の成長の記録を理解し……次の瞬間に我に返り、ミントは「あああああああああっ!!」と叫んで、書庫の床を転がった。


「え? 嘘!? 私、今なんて言った? この私がっ! こんな変態発言をっ!!」


 そもそも傷痕がないか確かめただけで、胸を触ったのは不可抗力というか、事故でっ!! と、誰も聞いていないのに言い訳を始め、落ち着いたのは終業を告げる鐘の音が鳴ったころだ。


「……帰ろ」


 やけに疲れたミントは、今は何も考えないことにしようと決め、帰り支度を始める。書庫を出れば、そこは静謐な空気に満たされた図書館だ。本棚の間を通り抜け、最後に司書に一礼をした後に図書館を後にする。校内にはまだ多くの学生が残っており、放課後らしく騒がしい。決して嫌いではないが、馬鹿みたいに騒ぐような落ち着かない人間とは関わり合いたくない。ミントは早々に校舎を出ようとしたところで、数人の女学生がその先を遮るようにして立ちふさがった。


 その先頭に立っているのは、制服をだらしなく着崩し、まるで男性を誘惑するかのように煽情的な姿をしている女学生だ。胸元を大きく開け、太腿を大胆に晒している。それはつまり自分の身体に自信があるということであり、その自信に相応しいスタイルと美貌を確かに有している。ただし、その表情は醜いと評してもいいほどに悪辣な意思が込められていた。


 女学生たちの登場に、ミントはたじろぐ。

 何も考えずに帰ろうとは思っていたが、彼女たちの登場を考慮しなかったのは浅はかだったな。と、反省する。しかしながら、ここで弱気を晒したら付け入られるだけだ。ミントは虚勢を張り、先頭に立つ女学生に言う。


「ジャンジーさん。あなたも暇だね。もしかしてだけど、私を待って、ずっとここにいたの? だとしたら、時間の使い方をもうちょっと考えた方が良い」


 ミントの言葉に、数人の女学生はせせら笑う。どうやら虚勢であることは見抜かれているらしく、そんな彼女の態度が可笑しいのだろう。笑いたければ笑え、とミントは心の中で吐き捨てながら逃げ道を探す。考えられるとしたら背後の図書館なのだが、ここに逃げるのは自分の好きな場所を汚されるようで気が乗らない。しかし、仕方ないか……。

 そんなミントの思考を遮るかのように、ジャンジーは口を開く。自慢のウェーブがかかったブロンドの髪を撫でながら、余裕のある表情だ。


「スウィートさん。はっきり言うけど、怖がってるのバレバレ。声も上擦ってるし、視線がキョロキョロしてるし、マジウケる。ほら、ここだと往来の邪魔だからさ? いつもの場所行こうよ」


 いつもの場所。

 その言葉に、ミントは背筋が凍る。すでに使われていない運動場の離れにある倉庫。あそこが、ジャンジーが言う『いつもの場所』であり、彼女たちが愉しむ場所でもあった。そして、ミントにとっては耐え抜く場所であり、屈辱の場所でもあった。


「ほら、行こうか」


 ジャンジーが、そっとミントの肩に手を乗せる。途端に、金縛りに合ったようにミントの身体が動けなくなり、ジャンジーに引っ張られるような形で歩いていく。

 どうにかしなくてはならない、と考える。しかし、ミントの小柄な身体ではジャンジーは愚か、他の女学生に対抗することさえできない。ならば助けを求める? と何度も考えたが、『期待の星』という尊厳がそれを邪魔する。天才が苛められているなど、あってはならないことなのだ。ジャンジーは、そんなミントの立場を利用しているともいえ、彼女が誰にも言えないことを知っているために、こうして苛めを繰り返しているのだ。


 一歩進むごとに地獄に迫っている感覚に、ミントは息を呑む。

 他人から見れば、ジャンジーたちとミントが仲良く校内を歩いているようにしか見えないだろう。なにせ、ジャンジーを含めた他の女学生は楽しそうに歓談しているのだから。


 校舎を出れば、運動場で楽しそうに遊ぶ子供たちの姿が目に入る。辛いことも悲しいことも知らないと言わんばかりの笑みに、ミントは羨望の目を向ける。ああ、あんなにも楽しく遊べたら、それこそソディアと遊べたらなんて喜ばしいことなのだろう、と妄想する。


 しかし、それこそ幻想ファンタジーだ。

 自分に待ち受けているのは耐えがたい屈辱の地獄でしかない。


 ついに、屋外倉庫の目の前まで来た。この古めかしい外見を見るたびに、ミントは胃が痛む。思わず、昼食を戻しそうになるが、それをグッと堪える。そうだ、耐えるんだ。堪えるんだ。と、自分に言い聞かせて、あくまで毅然とした態度で立つ。


「スウィートさん、自分で開けなよ」

「え?」

「ほら、ウチらネイルしてるからさ。あんまり汚いもの触りたくないんだよね。こういう雑用って、スウィートさんにお似合いだし」


 ジャンジーが「ねえ?」と周囲に同意を求めると、周りの女学生は品性の欠片もない笑いを見せる。何が可笑しいのかさっぱりわからないが、ミントはジャンジーの言葉に従って扉に手を掛ける。


 そこで、ふと室内から声を聞こえたような気がした。

 どこか聞きなれたような声。懐かしく思えるような声。安心する声。ずっとそばで聞いていた声。ああ、ついに心が弱って幻聴が……。そもそも、こんな場所にあの子がいるわけがない。

 やはり気のせいだろう。しかし、思わず両目に涙が浮かぶ。幻聴であろうと、彼女の声が励ましてくれるのであれば、まだまだ全然頑張れる。そう奮起しつつ、ミントは小さな身体の力を振り絞って扉を開ける。


 倉庫内の鬱蒼とした空気が吐き出され、室内に外の光が差し込む。

 その瞬間、そこに何者かがいることに気付いた。

 嘘だろ? と思いつつも、扉を全開すればそこには見知った二人がいた。


 衰弱したような顔つきで妹にお姫様抱っこされているソディア。

 そして、そんな彼女を心配して抱きかかえる王子様のようなシュガー。


 そんな二人もまた、驚きの表情でミントを見ている。

 互いに動けない静寂の瞬間を破ったのは、ソディアの呟きだった。


「……ミ、ントちゃん。どうして、こんな、ところに……」

「お姉ちゃん……? 泣いて――」

「っ……!!」


 しまった、呆けている場合ではない。なんでこんな場所に二人がいて、なんでこんな状況かはさっぱりわからないが、このタイミングは非常にまずい。この姿を、二人に晒すわけにはいかない。ミントは我に返りどうするか考えるが、すでに遅かった。


「ちょっと、スウィートさん? なーに、突っ立ってんのさ。って……ああ? 先客? こんなところに?」


 まるで遊んでいるところを邪魔されたかのように不快そうな顔を見せるジャンジーは、ミントの背後から倉庫内の二人を見る。すると、にやりと笑って「へえ……」と物珍しそうな目で見て来る。


「こりゃあ、悪いことをしちゃったね。こんなところで逢引きとは……マジウケる」


 背後から聞こえるジャンジーの声に、ミントは震える。

 この声色は、新しい玩具を見つけたかのような楽しみが内包されている。玩具として弄ばれて来たミントだからこそわかる感覚だった。何を思ったのか、ジャンジーはミントだけでなく、ソディアやシュガーまで自分たちの玩具とする気だということを直感する。


「しかも、女同士とか……。あれあれ? これってスクープじゃね?」


 そう言って、後ろに控えてた女学生に「ほら、見てみなよ」と頭を避ける。未だに、シュガーは王子様のようにソディアを抱きかかえていたため、その光景に女学生たちは「うわっ」「嘘でしょ」「ありえね」と気持ち悪そうな声を口々に挙げる。


 二人を知っているミントとしては、そういうことではないことを看破している。

 しかし、それを説明したところで聞き入れるはずもない。

 最悪だ。まさか、二人がこの女の毒牙に掛かるだなんて。


 どうにかしなくてはならない。

 どうにかしなくては、自分だけでなく二人までもが弄ばれる。

 それは許されない。許さない。


 頭の中で状況を打開する策を考えるが、精神的にジャンジーに追いつめられているミントに、良案は浮かばない。何もかもが『駄目だ』と自分で否定してしまう。

 ふと、目の前の二人の顔を見れば、シュガーはよくわからなそうな顔で頭を傾げている。それに抱きかかえられているソディアは、すべてを察したかのように顔を曇らせている。

 その表情はミントの心を深く抉る。詰まるところ、自分はソディアに弱いところを見せたくなかったのかもしれない。ずっと、ソディアにとっての憧れの存在であるミントを演じていたかったのかもしれない。そんな目で見られていないことなどわかっているはずなのに、ちっぽけな『尊厳』がそれを邪魔していた。


 格好いい自分でいたかった。

 恥ずかしくない、自分でいたかった。

 しかし、それもすべて終わりだ。


 これからのことなんて、考えられない。

 ミントは顔を伏し、堪えていたはずの涙を流す。

 背後からは自分や妹、そして幼馴染を嘲笑する騒がしい笑い声が聞こえる。笑われている。指を差されて、笑われている。辱めにあっている。自分だけじゃない。大切な友人たちまでもが。


 それは耐えがたい屈辱だ。

 しかし、すでにミントの心は折れている。

 ソディアにすべてを知られてしまったときから折れていた。


 ならば、もうどうなってもいい。

 もう、どうでもいい。

 星崩れ? 神話? 幻想? そんなもの、どうでもいい。

 もう、もう、もう……終わりだ。


「あの」


 そんなミントの心情など露知らず、全く状況を把握できず、空気を読めない少女が声を挙げる。しかし、自分が笑われていることをわかっているらしく、その声色は不機嫌だ。


「よくわからないんですけど、ひとまずその耳障りな笑い声やめてもらっていいですか? あと、お姉ちゃんが泣いているのはあなたたちのせいですか?」


 愚直だ。あくまで、ストレートな物言いしかできない馬鹿だ。

 こんなときであろうと言葉を選ばない、いや思ったことを口に出すシュガーに、ミントは「やめろ!」と言いたい。しかし、喉奥から零れて来る嗚咽がそれを遮る。すでにジャンジーは二人の弱みを握っていると確信している。仮に、二人にとっては些細なことであろうと、社会的には誤解されて勘違いされてもおかしくはない光景なのだ。


 少なくとも、暴露されればこの学園内では『そういう人』として見られてしまう。

 それは避けなければならないのだ。だからこそ、ここは――。


「あのさ、その口の聞き方は何? ムカつくんですけど。あとさ、今なんて言った? お姉ちゃん? 誰が?」


 ジャンジーの不機嫌な声が、暗い倉庫内に木霊する。

 それに対し、シュガーは即答する。


「ミント・スウィートは、私のお姉ちゃんです。早く質問に答えてください。お姉ちゃんを泣かしているのは、あなたたちですか?」


 シュガーがそう言って数瞬の後、ジャンジーと他の女学生たちは声を挙げて笑う。口々に「うっそでしょ」「こんなチビが、お姉ちゃん!?」「ウケる。いじめられてるお姉ちゃんだよー」と、わかりやすい悪口を言う。それは理解力が乏しいシュガーにとっても、単純明快な反応であり「なるほど」と頷く。それを聞いたジャンジーが苛立った様子で、ミントの横にある扉を強く蹴った。すると、ミントは「ひぃっ!」と短い悲鳴を挙げ、身体を小さく縮こませて震える。


「お前のお姉ちゃんはね? こんな音にも怖がっちゃうお子ちゃまなんだよ? 知らなかったでしょ? なーにが、なるほどだよ!」

「そうさせたのは、あなたたちですよね?」


 シュガーはそう言うと、抱えていたソディアをそっと下ろす。彼女の異変に気付いたソディアがシュガーを止めようとするが、すでに頭に血が上っており聞く耳を持たないことを察する。声が届くとしたら、それは実の姉であるミントだろうか。そう思い、幼馴染を見るが、今までに見たことがない幼馴染の姿がそこにはあった。


 小さい声で「許して」「ごめんなさい」と何度も呟き、身体を縮こまらせて震えている。眼鏡の奥の目はどこか虚ろで、涙が溢れて止まらない。すでにミントは防衛体制に入っているらしく、周りの状況がよく見えていない様子でもある。


 ソディアは、そんなミントの姿に息を呑む。

 苛められていることは、ジャンジーに連れていかれる様子で考えられた。その後に本人からも何があったか聞いた。しかし、実際に暴力を振るわれているところを見たことは無い。だからこそ、あの自信に溢れているミントが、ここまで怯えて震える姿は知らなかったし、想像できなかった。


 自分の大好きな幼馴染が。

 ここまで追いつめられているなんて。

 思いもよらなかった。


 やはり、馬鹿なのは自分だった。

 こんな姿を目の当たりにして。

 大切な人が馬鹿にされているのを耳にして。


「手段なんて……選んでられるかっ……!」


 ソディアが顔を上げると、すぐ近くにあった清掃用の箒が目に入った。

 埃が被って、何年も使われていないことがわかる。

 でも彼女には、それがずっとここで自分を待っていたかのような運命を感じた。

 だからこそ、自然と、ゆっくりとそれを手に取った。

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