第十七話 鏡の国の俺 1

「紅茶でいいかな? 通販で買ったんだけど意外と美味しいのよ。こうやってお湯を入れるとゆっくりと葉が開いていくのが見えて楽しいでしょ」


 そう言って、彼女は耐熱ガラスでできた急須をテーブルに置いた。俺はレザーで被われたソファーに寝そべるように座って、茶葉が変化していく様を黙って見つめていた。

 ここはマコ様が住むマンションだ。彼女の年齢には不釣り合いなほど豪華なマンションだと思っていたが中に入ってさらに驚いた。二十畳ほどもあるリビング・ダイニングには食事用のテーブルとソファーセットが配置され、奥にはグランドピアノが置かれていた。間取りは2LDKだが一部屋が広い。アースカラーを基調にした暖かみのある色で構成されたインテリアに、東南アジアっぽい籐で編んだカゴや小物入れがあちこちに置かれ、壁にはモノクロフィルムで撮影されたコントラストの強い海の写真がシンプルな額に入れて掛かっている。

 目の前のスクールカウンセラーはまるで南国の娘のような柔らかで色鮮やかなワンピースを着ている。彼女の印象的な長い黒髪は一房の大きな三つ編みに纏められていた。そしてもう一つ印象的な大きな胸は、今は開放されて身体の動きに合わせてゆらゆらと動き、彼女がブラをつけていないことをアピールする。

 足には絨毯と色違いで揃えたような毛足の長いモコモコしたスリッパを履いていた。

 普段とはまるで異なる彼女の格好は、俺の心をリラックスさせてくれる。


 彼女に会うまでに俺はずいぶん悩んだ。

 なにせ第一印象から不思議な女性だった。いや、正直に言おう。不気味だったのだ。のえるは以前、彼女のことを『嘘つき女』だと言っていた。

 のえるがそんなにまで嫌う相手にわざわざ近づこうとは思わなかったし、俺自身もマコ様に会いたかった訳じゃない。でも、見つけてしまった。

 祥子に電話を切られて放心していた俺だったが、しばらくすると他に相談できそうな相手を求めてアイフォンのアドレス帳を開いていた。何も期待せず名前のリストをスクロールしていくうちに一つの名前が目に留まった。


 鷹村たかむら 志摩子しまこ

 何の肩書きもないその名前は大勢のクラスメイトの中に埋もれていて、それがスクールカウンセラーのマコ様だと気づくのにしばらく時間がかかった。


「貴女、あたしに相談したいことがあるんじゃない?」


 電話に出たマコ様は、まるで待っていたかのようにいつもの口調で静かに言う。


「もう、何もかもがわからなくなってしまって……何か知ってたら教えてください」


 自分でも何を言っているのかわからない。それでも彼女は優しく答える。


「いいわ。今からウチに来れる? 最寄りの駅からのマップを送るわ」


 一人で電車で行こうとしていた俺を純次が強硬に引き留めた。少し前まで自宅のバスルームで座り込んで震えていた女が、今度は一人で出かけると言うのだから心配されても仕方ない。

 それに、これ以上迷惑をかけたくないと思っているくせに、付き添ってくれるという彼の申し出に嬉しさを隠すことができなかった。

 しかし、せっかくバイクで送ってくれた純次を、マコ様は玄関で追い返してしまった。

 まるで門前払いだ。純次は何も言わずに帰っていった。


「なあに? その顔。彼を帰されて不満なのかしら。帰りのアシを気にしてるなら、あたしが送ってあげるわよ。まさか……ひょっとして彼に申し訳ないとでも思っているの?」


 突然、意外なことを言われて面食らう。彼女は何て嫌なことを言うのだろう。


 煎れてくれた紅茶を一口啜ってカップをテーブルに戻す。


「あの、いきなり変なことを聞きますけどいいですか?」


 そう言って一呼吸おいて相手を見るが、彼女は首をわずかに傾けて微笑んだままだ。


「立花のえるについて先生がご存知のことを教えて欲しいんです」


 自分のことを教えて欲しいだなんて客観的な評価を求める前向きな人間か、あるいは記憶喪失になってしまった奴の台詞だろう。怪しいことこの上ない。


「自分のことじゃない? 何が知りたいの?」


 案の定、質問で返された。当たり前だ。俺の質問の意図がわからなければ正確に的を射た回答はできない。


「それは……」


 そこまで言って思い出した。彼女に嘘は通用しない。このとんでもなく頭の回転の速い女は、わずかな会話からも言葉の真偽を見抜いてしまうのだ。


「立花のえるのことがわからないから……知っていることを教えてください」


 俺のセリフは懇願になる。


「私が知っている立花のえるは、そうね……美しい娘よ。いつも明るくてよく笑っていた。でも、内面は優しくて傷つきやすい子だわ。それで、自分のことがわからないというのはいったいどういう意味?」


 マコ様がのえるの情報を少しだけ出してから質問を繰り返す。もっと教えて欲しければ、答えろということだ。


「のえるとしての以前の記憶がないんです」


 仕方なくそう答える。でも、これは嘘ではない。


「そのためにトラブルに巻き込まれて……それを解決するためにのえるの情報が必要なんです。先生はのえるとは親しかったのですか?」


「のえるとあたしが親しかったかどうかはノーコメント。だけどお互いの携帯に電話番号があるということは、少なくとも電話では話をする間柄だったと言えるでしょうね。ところで、のえるとしての記憶がないというけれど、それはどういう意味? 他の記憶ならあるということ?」


 そう言われてギクリとする。ダメだ。彼女を相手にごまかして情報を引き出そうとするには無理がある。やはり入れ替わりのことを話さざるを得ない。この場に純次がいなくて良かったのかもしれない。


「本当のことを話します。わたし……いや、俺は佐々木 雄一と言う高校生です。さっき送ってくれた純次の兄です。一月ほど前のある日突然、立花のえると精神が入れ替わってしまったんです。こんな話、バカバカしいと思われるでしょうけど……」


 そこまで言ってからマコ様の反応を見る。彼女は何の表情も浮かべずに俺の話を聞いていた。話を信じてくれているのかどうか表情からはわからない。のえるとの約束を破って話してしまったという後悔と、どうせ信じてはくれないだろうという諦観とが刹那のうちに交錯する。


「こんな話、信じられませんよね?」


 諦め気味に問う。


「そんなことはないわ」


 マコ様は少しだけ心外そうな顔をしてそう答える。


「 貴方は佐々木 雄一君という高校生の男の子だというのね。貴方がそう言うのならそれが真実なのよ。それに、彼女が……本人を目の前にして彼女と言うのは変だけど……心が入れ替わった演技をしてあたしを騙そうなんて思わないでしょうね。そんなことをしても彼女には何の得にもならないから。それに……」


 マコ様は一旦言葉を切って乾いた唇を舐める。まるで悪戯っ子が舌を出したようにも見えた。


「あの子にあたしは騙せないからよ。それはあの子も十分承知しているわ。もしもそんな話を誰かに信じさせようと思っても、あたしにだけは話さないハズよ」


 いつの間にかのえるの呼び名が『あの子』に変わっている。いや、それはどうでもいい。マコ様は今ここにいる俺がのえるではないと理解してくれたようだ。


「では改めて雄一くんと呼びましょうか。雄一くん、貴方の言っていることが事実だとしたら、貴方に言わなくてはならないことがあるの」


 急に神妙な顔をしてマコ様は言う。


「まず最初に貴方が立花のえるでないと言うのなら、のえるの個人情報を貴方に教えるわけにはいかない。あの子は私の患者なのよ。医者は患者のプライバシーを守る義務があるの」


「患者だって? のえるは前からカウンセリングにかかっていたってことなんですか?」


 俺は驚いた。

 でも、考えてみれば実の父親から性的虐待を受けて育ったのえるがカウンセリングを受けていても不思議ではない。


「その質問には答えられないわ。ごめんなさいね。でも……そうだ、心が入れ替わったというのなら、あの子は雄一くんの身体を使っているわけよね。あの子は今どこにいるのかしら」


 聞かれた。それは一番聞かれたくなかったことだった。でも、彼女に嘘はつけない。


「……死にました」


 自分でもびっくりするくらい弱々しい声になった。

 マコ様の両目が見開かれる。今度は彼女が驚く番だった。


「どうして? 何があったの?」


「俺が悪かったんです。彼女を襲った連中をやっつけたら、そいつらに逆恨みされて入れ替わった後に俺の代わりに彼女が襲われて……」


 喋っているうちに感情のコントロールができなくなり、いきなり目に涙が溢れて頬を伝って流れ落ちていく。


「本当に死んだの?」


「ニュースで見ました。翌日の新聞にも載ってます。それに……俺は通夜に出て自分の遺影に線香をあげてきました。棺桶に入った自分も見たんです」


 マコ様は黙って奥の部屋に入っていくと、ノートパソコンを抱えて戻ってきた。それをテーブルの上で開いて操作をしている。


「これが貴方?」


 パソコンの画面には、あの日、繁華街の巨大スクリーンに映し出された被害者の写真。入学願書に貼ったものらしい俺の顔写真が表示されていた。


「そう、それが……俺です。殺されたんです。だから殺しました。その犯人を……」


「ちょっと待って! 貴方が相手を殺したっていうの?」


 マコ様は再び驚いた顔を見せた。

 これで殺人の罪が露見してしまうが、もとよりすべてが終わったら死ぬつもりだった。なんの問題もない。


「そうです。それから……」


 ……のえるの父親も。そう言おうと思った時、電子音のチャイムが鳴った。


「ちょっと待ってて。誰か来たみたい。下の玄関から掛けてくればいいのに……」


 マコ様はそう言うと玄関のドアに向かった。

 しばらくして彼女は怪訝な顔をして戻ってくる。


「お父さんが迎えにいらしてるけど、どうする?」


 え? お父さんって? まさか……。

 不吉な予感に顔をあげると、マコ様の背後にそれが見えた。戦慄する間も与えられず俺はまるで時間が止められてしまったように動けなくなった。

 今、まさに話そうとしていた、のえるの父親が……彼女に性的虐待を続けていた卑劣な男が玄関から続く薄暗い廊下に幽霊のように立っていた。


 その男の印象は変わらない……『恐怖』だ。


 普段は優しい父親が、力ずくで自分の身体を蹂躙していく映像が何度も何度も繰り返しフラッシュバックする。

 危険を知らせるためなのか、あるいは女のように悲鳴をあげようとでも言うのか、俺の口は大きく開いて肺に大量の空気を吸い込んで勢いよく吐き出す。しかし、本当に声が出ているのかどうか、自分でもわからない。

 俺の異変に気づいて慌てて振り返ろうとするマコ様を、後ろから突き飛ばすようにして男がリビングに侵入してきた。


「きゃあああっ!」


 マコ様の悲鳴が短く響く。彼女はバランスを崩して、ソファーに寝そべるように座っていた俺の上に倒れてきた。俺はまったく動くことができず、彼女を受け止めることさえできない。マコ様と一緒くたに絡まり合ってソファーから転げ落ちた。

 毛足の長い絨毯が敷かれていたが、それでも頭を強く打ち付けて一瞬気が遠くなる。

 覆いかぶさったマコ様の腕の下から、それでも俺の目は父親に釘付けになっていた。


「大丈夫かい? のえる」


 びっくりするほど優しい口調で問いかける。俺は口を開くが言葉が出ない。


「お前の帰りがあまりに遅いから迎えにきたんだ。お前の携帯のGPSで探したんだよ。ほら『ありがとう、パパ』って言ってごらん」


 奴が顔を近づけてくる。頭には白い包帯が何重にも巻かれていた。

 やっぱり、俺がやったんだ。父親の頭を浴室の床に叩きつけたのは現実だ。でも、死ななかったんだ。それどころか、浴室を綺麗に掃除して俺を……自分の娘を捜していたのだ。

 犯すために。反抗した娘に性的な制裁を加えるために。


「何だ? この女は」


 そう言って奴はマコ様の手首をつかんで引っ張り上げる。彼女は気を失っているのか、まったく動かない。

 奴はそのままマコ様を抱き上げて向かいのソファーに座らせると、バッグから銀色の粘着テープを取り出して彼女の手足をぐるぐる巻きにして拘束した。口にもテープを貼って塞ぐ。

 それから、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 ダメだ。またもや身体が恐怖に支配されてる。逃げなければ。死ぬより酷い目に遭わされる。でも、身体はまったく動かない。陵辱される映像のフラッシュバックはどんどんゆっくりになって、今ではスローモーションのように再生されている。


「うん? ダメじゃないか、のえる。もう大きくなったのにお漏らしなんかしちゃあ」


 背中に冷たい違和感が広がっていく。

 もう、自分で自分がコントロールできない。見上げる奴の顔がみるみる歪んで、溢れた涙が頬を伝って絨毯に落ちていった。


「仕方ないなあ。他所様のお宅で無作法だけどシャワーを借りて綺麗にしようか」


 そう言って俺の手をとると、強引に引っ張りあげてリビングを出ようとする。

 口を開けるが声が出てこない。必死に頭を振って拒絶しても奴はまったく容赦はない。俺は抵抗もできないままバスルームに引き摺られていく。

 助けてくれ。

 助けて……。

 純次!


 廊下を引き摺られる俺の足が何かに当たった。灯りが消えて薄暗い廊下に何かがあった。いや、倒れていた。何者かが……。

 血にまみれた傷だらけの顔を見て俺は息を呑んだ。純次だった。


「………………!」


 俺は声の限りに叫んでいた。女の声で。本当の女のように。

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