第十四話 迷い子の迷子の俺

 濃くて温かいミルクの海に浮かんだまま静かにたゆたっていた。目に映る世界は地平の向こうまで真っ白で、どこまでも広いがゆえに距離感がまったく掴めない。距離感が掴めないのだから、本当なら広いかどうかだってわからない。自分の手足どころか鼻の頭さえも見えない。それはつまり、ここが肉体とは隔絶された空間であることの証。魂は至上の幸福に包まれたまま、完全な平和に浴する権利を約束されていた。

 ここには何度も来たことがある。抗えない快感に屈してオーガズムに達した時だ。ということは、俺は本庄にイカされてしまったということだ。そうか、作戦は失敗したのか。

 そう認識しても、なぜか不思議と焦りは感じない。俺の心は平穏そのものだった。


「……える………」


 なにかが聞こえる。


「のえる!」


 のえるを呼ぶ声だ。ああ、また現実の世界に引き戻されるのか。このまま、ここで浮かんでいられたらどれほど幸せだろうか。

 俺の意識は、まるで深い水の底から泡と一緒に浮上していくように、ゆっくりと覚醒していく。目が覚めたらすべての問題が解決しているような、そんな夢のような展開を期待していた。


 しかし、現実は違う。

 俺は、プールサイドのデッキチェアに寝そべる本庄の上に、うつ伏せに裸のまま抱きついて荒い呼吸を繰り返していた。力強い腕にがっちりと抱きかかえられた腰が、快楽の余韻で定期的に震えてしまう。意識が完全に覚醒する前から再び強い快感に支配される。女の身体とはなんて不便なものなのだろうか。


「よぉーし、イッたな。俺の勝ちだ!」


 本庄が大声で叫ぶ。

 でも、俺はホントにイッたのか? あの真っ白な空間にいた記憶もあるし、余韻はあるけどイク瞬間の感覚はなかった。第一、のえると精神が入れ替わってから触られて感じたことは一度もない。


「イッた……の?」


「なんだ? あれだけ激しくイキながら覚えてないのか? 大声で喘いで、潮まで噴いたんだぞ! なのに覚えてねぇだ? ふざけてるのか!」


 本庄の声に嘲りと苛立ちの感情が混じる。


「まあまあ、待ちなよ兄さん。ソイツをイカせちまうとは、アンタなかなかテクニシャンだねぇ。ちょいと待ってくれ。仕上げが必要なんだ」


 痴漢野郎の声がする。やはりイカされてしまったのか。俺は羞恥心で彼の顔を見ることができない。


「立ち上がれ」


 痴漢野郎の口調が変化する。ひょっとして、俺に言っているのだろうか。恐る恐る顔を上げて彼の方を見ると目が合った。立ち上がればいいのか。我に返ると俺はまだ本庄に抱きついたままだった。デッキチェアに手をついて体を起こすと本庄の腕が自然に解かれた。

 これから一体どうするつもりなんだ。体を起こすしてもう一度痴漢野郎を見た。彼は俺の目を見たまま、うなずくように頭を上下に振っている。なにしてるんだ?

 その動きをじっと見ていると、俺の脳が少しづつ回転を始める。ああ、彼はどうやら俺に合図を送ろうとしているようだ。俺に向かって顎で差し示しているようだ。俺の方。俺の背後には……プールがある。ここで俺は、彼の考えを理解した。


「ふっ! ぅうっ!」


 立ち上がろうと力を入れるたびに息が漏れてしまう。足先をゆっくりと降ろして床に着き、ガクガクと震える膝を抑えて四つん這いになる。今、身につけているものは、ストッキングと黒レースのガーターベルトだけ。本庄に全裸を晒してしまっているが、そんなことは気にならない。

 奴の腕が伸びて乳首の先端を摘まむ。甘い快感が乳首から腰の奥底に向かって走る。本庄の顔を見るとニヤニヤした笑いが張り付いていた。どうやら、まだ上手く動けない俺を見て優越感に浸っているようだ。あるいは、手強い相手を屈服させた達成感を感じているのかもしれない。そして次に俺が何を始めるのか隠微な期待に満ちた目で見つめている。


「うっ……ふっ!」


 俺は両腕に力を込めて上体を持ち上げる。本庄の猥褻な視線に晒されたまま、ふらつきながらもなんとか立ち上がった。そしてゆっくりと奴に背を向ける。目の前には大量の水を湛え、水中からの幻想的な灯りに照らされた二十五メートルプールが広がっていた。


「さあ、兄さん。後はそいつを自分で捕まえてくれ」


 痴漢野郎が言い終わる前に、俺の身体はゆっくりと水面に向かって傾き始め、両腕は真っ直ぐ伸びてゴールを指し示す。

 本庄はまだ何も言わない。呆気にとられているのか、それともいまだに俺が逃げようとしていることに気づいていないのか……どちらにしても奴の顔を確かめることはできない。

 身体が水平になる直前に両脚を蹴って飛び込む。一瞬の後に全身が水中に沈んだ。


 ああ、気持ちいい。


 全身を優しく包む水は少しだけ冷たく、恥辱に晒された身体を癒してくれる。

 身体が水面に浮かび上がると泳ぎをクロールに切り替える。どこかで怒鳴る声が聞こえるが、水音に紛れてよく聞き取れない。

 ゆっくりとしたストロークだが確実に前に進んでいる。これならゴールまで泳いで行ける。本庄は俺を追いかけて飛び込むはずだ。しかし泥酔した奴は俺に追いつく前に溺れて死ぬ。


 のえる、これで俺はやっと君の仇を打つことができる。すべてが終わったら君の両親に話をしよう。信じてもらえなくても構わない。こんな秘密を抱えたまま死ぬのは嫌だ。全部話して心の底に溜まった澱を吐き出して綺麗にしてから、君のところに行くんだ。


 そう考えていた時、ふいに足に何かが当たった。

 いや、足首を掴まれたのだ。見えなくてもずぶ濡れになって足首を掴む本庄の姿を容易に想像することができた。でもどうして? あれだけ飲んだのに酔っ払っていないのか。理不尽な恐怖が冷たい手で俺の心臓を鷲掴みにする。

 掴んだ腕を蹴ろうとして足を激しく動かすが、無駄に水を掻くだけだった。足首が水面上に持ち上げられて上体が水中に沈む。背中に何かがのしかかって来て、俺の身体はさらに沈められた。

 追いつかれたという驚きで呼吸が乱れる。息が苦しいのに水面は遠い。窒息の恐怖が再び俺に襲いかかる。本庄は俺の背中にまたがって足首を押さえている。その行為には性欲も怒りも感じない。ただ冷たく暗い殺意だけが存在している。

 苦しい。本庄は俺をおもちゃにしようなんて思っていない。今すぐ殺すつもりだ。苦しい。恐い。嫌だ。死にたくない!

 助けて!

 ふいに背中に乗った重みが消えて、足首が開放された。必死に足掻いて水面を目指す。無意識のうちにその場から離れようとする。顔が水面に出た。足が水底につく。ここは水深が浅い。急いで息を吸い込んだせいで水が気管に入り激しく咳き込む。

 助かったのか? 激しい水音に振り返ると、二人の男が揉み合っていた。水中での格闘戦は、水の抵抗のためにスピードが抑えられて地味に見える。だが実際には、窒息という要素が加わることで、より陰惨で残酷な殺し合いになるのだ。


 数分の後、金髪のモヒカン男がうつ伏せのまま水面に浮かんだ……本庄だ。

 痴漢野郎が立っていた。

 勝ったのだ。俺は痴漢野郎に向かって水を搔いて歩く。

 彼は疲れきった顔をしていた。濡れた黒髪は額に張り付き、両目は軽く閉じられて、荒い息を繰り返していた。

 また彼に助けられてしまった。俺は本当に一人じゃ何もできない。それが痛いほどわかった。彼……ああ、そうだ、まだ名前を聞いていなかった。


「おい……」


 何て聞けばいいのだろう。逡巡してる間に痴漢野郎の身体がゆっくりと後ろに傾く。慌てて近づき、彼の頭が沈む直前に両腕で抱き止めた。

 本庄と一緒にかなりの量の酒を飲んでいたハズだ。そして水中での格闘……酔いが回ったのかそれとも疲れたのか。

 しかし、胸に抱えた頭は上向いていき、彼の身体は力を失って水面に浮かんだ。そこで俺は禍々しいものを見た。

 泳ぐためだろう……ジャケットとシャツを脱いだ上半身裸の腹に、何かが突き立っている。それが何であるか認識し、理解するまでに数秒を要した。本庄が刺したのだろうフォールディングナイフが柄の部分を残して彼の腹に突き立っていた。


「あああああああああぁっ!」


 俺の悲鳴が室内にこだまする。彼が死ぬ。死んでしまう。彼が……!

 パニックに陥って、無意識のうちにナイフを抜こうと片手を伸ばす。刺さったナイフが今も彼の身体を傷付け続けている。これを抜かなければ。しかし、恐怖のためにナイフに触ることさえできない。


「俺を……殺す気か?」


 彼が口を開いた。俺は驚いて彼の頭を落としそうになり、慌てて強く抱きしめた。裸の乳房が彼の顔に押し付けられる。


「それを抜いたら……出血で死んじまう。そのままに……しとけ」


「でもっ!」


 このまま放っておいても死んでしまうかもしれない。

 俺は一体何をやってるんだろう。自分一人では何もできず、手伝ってもらってさえこの有り様だ。俺は……。

 硬く閉じた両目から涙が止め処なく溢れてくる。泣いてどうにかなるわけではない。理屈ではわかっていてもどうしても感情を抑えることができなかった。

 うるさかったクラブミュージックもいつの間にか止まっている。


「お前は……先に行け。あとは……俺が片付ける」


「嫌だっ!」


 俺は強く首を振る。


「こんなになって……。死んじゃうよ」


「俺は大丈夫……なんだよ。もうすぐ俺の仲間が……来る。全部終わったらお前を……連れて帰る……つもりだったが、こんなことに……なっちまったんで……な。悪いが……一人で帰ってくれ」


 酒やデッキチェアが準備されていたから仲間はいるのだろう。でも、本当に助けにくるのかわからない。もしそれが俺を逃すためのウソだったとしたら……。


「嫌だよ」


「聞き分けの……ない女だなぁ。そんなに……俺と一緒に……いたいのか?」


「バカヤロー。そんなわけあるか! それに俺は女じゃねぇ!」


 彼の大きな手が俺の濡れた髪に触れる。そしてゆっくりと頭を撫でた。


「お前は女だ……可愛い女だよ。仕方ねぇな……。学校を出たら……大通りに出て……待ってろ。……迎えをやるよ。本当に……手間のかかる女……だな」


 彼は浮かんだまま両手のひらを空に向けるポーズをする。そして俺に指示を出した。


「プールサイドに……掴まらせてくれ」


 俺は黙って彼をプールサイドまで引っ張って行くと、手をとってプールの縁石に掴まらせた。それから思い立って水から上がると彼の腕を掴んで引っ張った。だが、女の細い腕では彼を引き揚げることができない。チクショウ。どうして俺は女なんだ。


「お前は先に……行け。何度も……言わせるな」


 俺の手を振りほどいて彼が命令する。

 その時、どうしてそんなことをしたのか自分でもわからない。

 でも、のえるの名誉と身体を守るために、そして俺を助けるために命をかけてくれた彼にお礼がしたかった。もう二度と生きて会えないかもしれない男に、今ここでできる事……。

 俺は再び水に入り、荒い息をつきながら浮かんでいる彼の顔に手を添えて、その唇にキスをした。


「死ぬなよ」


 それだけ言い残すと、もう彼の顔は見なかった。プールサイドに落ちていたドレスを拾うが、濡れた身体にまとわりついて上手く着ることができない。

 彼が脱ぎ捨てたシャツを見つけて羽織り、テーブルの上に投げ出されていたハンドバックを掴む。侵入に使った窓を開けて足から出ようとする前に、プールの方を振り返った。うつ伏せで水面に浮かんだままの本庄が見える。向こうのプールサイド側から彼が小さく手を振っている。早く行けという合図だ。良かった。まだ生きてる。

 窓から足を出してからうつ伏せになり、外廊下の手すりに足をかけながら慎重に降りる。廊下に立つと、もう室内は見なかった。

 急いで外廊下を走る。ヒールを置いてきたからストッキングをはいたままの状態だ。ゴツゴツしたコンクリートの床が冷たい。そのまま非常階段を一階まで降りると、警備員がいないことを確かめてから敷地のフェンスに近づいた。

 人目につかないように細い道に面した敷地に沿って歩き、街灯の光が届かない場所を選んでよじ登る。金網に指とつま先をかけ、苦労してフェンスを乗り越える。アスファルトに足が着いたときには疲労はピークに達していた。

 迎えが来ると言っていた大通りまではたった十数メートルだが、その距離を歩く気力はすでにない。フェンスにもたれて地面に座り込むと、もうそこから動けなくなってしまった。


 彼の仲間は本当に彼を助けに来るのだろうか? 今になって、だんだん不安になってきた。あれは俺を逃がすためのハッタリだったんじゃないだろうか。あのまま俺が残っていたら、学校の警備員に発見されただろう。そして、本庄たちを復讐のために殺そうとしていたことがバレてしまう。しかし、彼の命は助けられるかもしれない。

 どうして俺は彼を置いてきてしまったのだろうか。再び止め処なく涙が溢れてしまう。また俺は泣いているのか。泣くことしかできないのか。俺は……。

 意を決して立ち上がろうとした時、強い光に照らされた。


「のえる……なのか?」


 聞き覚えがある声がする。

 そんな……俺が家を出た時にはぐっすり眠っていたはずだ。こんなところにいるハズがない。


「のえる。探したよ、早く車に乗りなさい」


 その声の主は、のえるの父親だった。

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