2-13.詞亡くし者
塔から出た後、集落全てを軽く案内してはもらったけれど、カインの記憶はほとんど動くことがなかった。さすがに落ちこんだ気持ちを隠すことができず、それがおもてに出ていたのだろう、レフは口を噤んだままだった。気遣いのある沈黙にいたたまれなくなるが、それよりも集落の連中が途中、こちらを見て何事かをささやきあっているのが気になる。己を知るものかと期待してそちらを見ると、やはり逃げられ、失望に打ちのめされるのだけれど。二回ほどそれらを繰り返し、カインはレフと共に家に戻った。
「……お帰り」
今に座っていたノーラがこちらを向いて、その顔にカインは目をまたたかせた。ノーラの顔は青を通り越し、白い。まるでそこだけ綺麗に雪が積もったかのような自然物の白だ。<
「どうかしたのか」
「いいえ、何も」
明らかに何事かがあった素振りでノーラは言う。でも、彼女の唇はきゅっと締められて、続きを口にするつもりはないようだ。レフも気にはしていたみたいだが、ノーラが寄りかかる机の上に封書が置かれているのを見て、軽い笑みを浮かべてみせた。
「ベリさん、手紙は書けましたか?」
「書いたわ。誰に送ってもらうつもりなの」
「僕の身の回りの世話をしてくれてる人がいます。その人にお願いしようかなと」
「ねえ、レフ」
ノーラが目をすがめた。まるで獲物を見つけた猛禽類のような瞳で、レフを見つめる。
「そこに彼女は含まれているのかしら」
試すような、挑むような口調がレフの体を震わせた。隣にいたカインがぎりぎりとらえることのできる程度の、小さな変化。レフの微笑みは変わらない。
「なんのことですか?」
「あの鉄の扉。あそこに誰か一人いるわね。あれは誰?」
「……どうして、それを」
「敏感なのよね、私。気配には。例えそれが『
ノーラが灯したのだろう、中央にある暖炉のかがり火が音を立てる。声を発しても、きっと空間に吸われてしまうのではないかというほど、ひりついた沈黙が降りる。棘をともなった緊張は二人の間にしばらく流れて、でもカインは話についていけない。ノーラの言葉を整理するので手一杯になった。言葉の意味がわかってしまえばとても簡単なのだけれど、答えと中身が重要すぎる問いかけに、カインの頭ははっきりと疑問を帯び、思わず口が出た。
「どういうことだ、レフ。『詞亡くしもの』は全て塔にいるのではないのか?」
「それは……」
「身内だから、かしら」
言い淀むレフに追い打ちをかけたのは、まさしくノーラだ。この二刻の間に、一体彼女は何を見て、知ったのだろうか。カインには少年を問いつめるつもりは髪の先程にもないけれど、ノーラはどうなのか。思わず目を見つめて、それからこっそりため息をついた。きっと彼女に逃すつもりは露ほどにもない。それほどまで強い視線をレフに浴びせているし、歴戦の猛者であるノーラにこうもとらえられ続けていれば、レフも簡単に逃げることはできないだろう。
「大丈夫、誰にも言わないわ」
氷像のようになったレフの氷を溶かすみたいに、ノーラが歩み寄った声を出した。
「中には身内をかくまう人間だっているもの。何人か、見てきたことがある。それくらいしたい気持ちは、私でもわかるつもりよ」
柔らかい、春の日差しを模したかのような声音は今まで聞いたことのない音色で、ほんのちょっとカインは驚く。それほどまでに慈悲を含んだ台詞に、レフがおずおずと顔を上げた。視線は奥の、鉄の扉に注がれている。白い目はその中を見据えるように真摯だ。
「……あそこにいるのは、僕の、双子の姉です。数年前に汚染されました」
「なるほど、塔にいないのは特別扱いってことかしら」
「それほど特別なことでしょうか。閉じこめられていることが」
「そうね、違うわ。あなたにとって特別、それって長の姉だから周りも特別視しているだけよね」
言葉尻は強いのだけれど、声はどこまでも優しい。不均衡なノーラの言葉に、レフはうまく返事ができないみたいだった。今までのやり取りを聞いて、カインは簡単に結論を出した。要は、ここに『詞亡くしもの』がいて、それはレフの姉であるということだ。姉と弟、その単語を脳裏で繰り返すたび、デューとフィージィの二人が浮かぶ。でも、どうしてノーラは踏みこんだ話をするのだろうか。あまりこの集落、そしてレフに関わりたくないように、カインには感じていたのだけれど。
「ノーラ。レフ。話についていけないのだが」
全ての困惑を乗せて口を開けると、はっとしたようにレフがこちらを見上げてくる。薄い青の瞳孔が困惑に揺らめいて、顔に残る幼さで、己に助けを求めるようにも思えた。けれどカインは救いの手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。苦く、小さな微笑みでレフを見たままのノーラは、腕を組んだまま動かない。この家に、今誰もレフを救うものはいない。そのことに気付いたのだろう、完全に降参した、そんな素振りでレフの肩が落ちた。
「……そうですね。別に会わせても問題ないでしょう。
それはすなわち、『詞亡くしもの』たちは動くことを許されぬということだ。レフはノーラの横を通り過ぎ、鉄の扉の前に立つ。その体には力が入っていて、開けることを最後まで悩んでいるようだった。それとも対面したくない気持ちがあるのか、カインには判断がつかない。レフは大きく息を吐き、止めてから、うつむかせた顔を上げ塔の鍵とは別の鍵を差しこんだ。
大きな軋みと共に音がして、扉が開かれる。ノーラの流し目に誘われるようにその部屋の中を覗いてみると、そこには一人、寝そべったままの少女がいた。
「彼女は……」
「これが僕の姉、レフィナです。見た通り、黒に喰われた」
部屋の中は小さく、蝋燭の明かりだけが開かれた扉から入りこみか細く外気に揺れている。寝台に寝そべる少女は目が虚ろで焦点が合っておらず、気軽に寄ってはならない雰囲気を出していた。だが、痩せているとはいえ塔に囚われているものと比べると血色も良く、まだ肉質がある。髪だって梳いている誰かがいるのだろう、蠅すらたかっている様子はない。
「
「先代や両親は、もう?」
ノーラの問いに、部屋の片隅でうつむきながらレフは小さくうなずいた。きっと、とカインは少年から漂う哀愁で判断した。共にこの世にいないのだろう。
「……レフ、ちょっといいかしら。話があるの」
「はい」
誰も言葉を発せないくらいの重苦しい沈黙を裂いて、二人が家の外に出て行くのがわかる。残されたカインはただ、少女を見ていた。正確にいえば、少女の周りで点滅を繰り返す黒い光を。まただ、とカインはぼうっとした頭で思う。またこの光がある。塔にいた『詞亡くしもの』たちにも、殺した
小綺麗だがやはり、カインの目から見ても不吉さをまとわせている少女の周りに集う黒い光へ、カインはそっと手を伸ばした。蛍のようにくっついてくる光に指先が触れた途端、心臓を氷の手でわしづかみにされた感触を覚える。それでも堪えて黙っていると、光は段々指先を伝い、己の中へ入ってくるような気がした。流れてくる腐臭のような匂いと冷気は暖炉の火を越えてカインの心中を、腹の底を冷やし、固め、一つの黒い塊となる。自然と目蓋が落ちる。底の知れない暗闇に、カインはいる気がした。己の心臓の音だけか聞こえる中、その黒は螺旋を描いてカインの脳天から爪先までゆっくりと染み渡ってくる。この冷たさと凍えるようなおぞましさに、彼らはずっと耐えているのか。手が落ちる。それでも光はカインの中に無理やり、毛穴の一つ一つをこじ開けるように入ることを止めようとはしない。
脳裏に描き出されるのは愛らしいスミレの花畑。手を広げ迎え入れる男女の胸。レフの笑顔。過去という皺を刻んだ老婆の冷たい表情。温もり、香り、音、匂い、手触り、全てがごちゃごちゃな混沌となってカインの五感を刺激する。闇の中の海で、もがいているような感覚。黒い瞬きは点滅を繰り返し、脳の奥底にまでそれらの光景が、鼻と口が空気の香りで満杯になるまで続く。
何をしているのだろう、とカインは思う。思うけれど、止めることをどこかで拒否する己がいる。足の爪先までも氷塊につけられたみたいな凍えを感じてもなお、カインはその場に立ちつくす。ようやく我に返ることができたのは、裏口の扉が閉まる大きな音が耳に滑りこんできたからだ。
ゆっくり目を開けると思った以上に少女へ近づいていて、慌てて離れる。冬の海の中に浸かっていたかのように体のあちこちが硬く、不意に動いたものだから関節が嫌な音を立てた。
少女を一瞥し、部屋から出て二人に視線をやれば、帰ってきたレフの顔もまた青ざめていた。しかも小さい言葉を紡いでいるのか、唇が小さく何度も動いている。声は小さすぎて聞き取れず、でもなぜ、という単語だけはかろうじて耳にできた程度には。ノーラは憐れみをこめた視線をレフに投げかけていたけれど、それをまばたき一つで隠し、こちらの方に向かって歩いてくる。
「カイン、
「あ……ああ」
レフへ声をかけようと口を開いて、ノーラに遮られる。故意なのかそうでないのか、一瞬悩んだほど絶妙な間合いだ。だがカインにはわかってしまった。わかるほどにはノーラと付き合ってきたつもりだ。彼女はわざと話題を変えた。また己の知らないところで、事が進んでいることに若干戸惑いにも似た悲しみが胸を締めつける。
レフを居間に残し、最初に寝かされていた部屋に連れられて、寝台に二人並んで腰かける。剥き出しのノーラの肩が触れて、その距離と温もりに少し戸惑うけれど、彼女は気にもしていない様子だ。ノーラから漂ってきた清廉な香りは、腐臭で麻痺した鼻を正してくれる程度に心地よい。
「石目蛇は、確かレフが冬眠させている状態だから、上手くやれば無傷で倒せるわね」
「……そうだな」
「あれと瞳を合わせちゃだめよ。石にされるわ。そういう光を放ってくるから」
「そう言えば、刃に毒を塗ってあったな。あれは使えるだろうか?」
「目を切るのにはね。体中が固いから、突き刺す感じで倒した方がいいわ」
ふ、とノーラがため息をついて、寝台にくっついている壁に背中を預ける。その様子と言葉に覇気がないのを見て取り、カインは小首を傾げた。ノーラはまた遠く、ここではないどこかを見つめていて、ほんの少し肌の色は戻ってはいるけれど、具合はまだ良くなさそうだ。
「私も行こうかしら」
「退治に、か?」
「そう。でも手伝いはしないわよ。あなたが一人でどこまでできるか、確認しておきたいし」
カインは返事をしなかった。嘘の混じった本音を追求すべきかで、迷う。色々聞きたいことはあるけれど、それよりノーラの様子が気にかかる。何も言わない沈黙に耐えかねてなのか、ノーラは小さく頭を振って、長く息を吐き出した。
「……ここにいたくないのよ」
「なぜだ?」
「どうしても」
ノーラは頑なに心の裡を晒さない。まだ信頼されていないのだろうか、そう思うと胸が、どことなくうずく。翳りを帯びたノーラの顔は歳以下の幼子のようで、レフが浮かべていた悲しみに不思議と似ている。
「黒い光」
レフのことに触れない方がいい、そう思ってカインは別の話題を出した。
「また、黒い光が見えた。匂いもしていた」
「どこで?」
「塔の中と……レフの姉の部屋で」
「私には見えなかったけど?」
疑問と疑惑、二つを声に乗せられてカインは黙る。自然と無言になって、気だるさに似た静けさが二人の間に降りた。どこからか入りこむ風に部屋が揺れる音が大きい。窓から射しこむ光が一筋になって、まるで一つの柱みたいに見える。冷えた体が少しずつ体温を取り戻し、指先の感覚がようやく戻って来た頃、小さく、ごくわずかな嗚咽が耳に届いた。隣からではなく、居間近くから。
「そっとしておいてあげて」
沈痛さを伴った柔らかな声音で、ノーラがささやく。部屋にかけられた花の絵、それを通して何かを見つめ続けながら呟かれた言葉に、カインは言葉なくうなずいた。
「人間って怖いわね」
まるで、己がそうではないような口調でノーラは言う。
「自分のためならどこまでも醜くなれる。それって良いことなのかしら」
カインは独り言みたいなノーラの問いを思案した。醜悪と呼べるものをまだ、己は見ていない。もしかしたら、閉ざされた記憶の奥に眠っているのかもしれないけれど、思い出せぬそれは答えを出すには心許ない。ゆるゆると首を振ることで返事に代える。そんな己を見ていたのだろう、ノーラはまるで一人で耐えきれぬ重みを背負ったような苦い笑みを浮かべ、自らの赤が大分薄まった前髪に触れた。
「そろそろ髪、元に戻るかな。あなたの髪もずいぶん日に当たったわね。もっと緑が濃かった気がするんだけど」
「そうだろうか」
「手入れしないと、だめよ」
まるですすり泣く声を消してあげたい、そんな不器用さを含んだノーラの言葉は穏やかで、でも耳にはレフの泣き声が響いてやまない。時間の流れがやけに遅く感じ、レフが目をすっかり赤く、腫れぼったくして居間に戻るまで、カインとノーラは実りも少なくつたない会話を続けた。
玻璃の娘 黒の王~カイン、あるいは殊魂の話~ 実緒屋おみ/忌み子の姫〜5月発売決定 @ushio_soraomi
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