第39話 佳乃と呪いを救う者

 呪いが恐ろしいと思っていた。けれど、呪いを解くことも恐ろしい。


 伊達享に焦がれていた。その手どころか唇を味わいたくて、伊達に好意があるなし問わず自らの欲のために呪いを悪用するほど。


 けれどいまは、差し出された手に胸が弾むことはない。求めるものは心がときめくような熱ではないのだ。穏やかであったり時に激しかったり、けれど耐えず隣にいて心地よさを与えてくれる風のような存在。


 いまになって思えば、春にはもう想いが傾き始めていたのかもしれない。周りを突き放し、まっすぐ前を見て駆け抜けていくその姿に気になりはじめていたのだろう。


 呪いによってたくさん傷つけてしまったのだ。いまさら好きになってくれることはないだろうとわかっている。でもこの呪いを解けば、剣淵の前に立つ自信に繋がるかもしれない。


 そのために佳乃は決意した。たとえ記憶を変えられてしまっても、剣淵のことがわからなくなってしまっても、それでも呪いを解く。


「呪いを、解いてください」



 そして伊達の手を取ろうとした時だった。


 風が、駆け抜けていく。


 それは後方から、佳乃へ向かって。



 無風だった空間が揺れる。駆け抜けた風に佳乃が振り返ろうとした時、伸ばしかけた手をぐいと引かれた。


「三笠!」


 聞き間違いかもしれないのに、鼓膜がその声音を拾って体が喜びに震える。


 剣淵奏斗だ。きっと近くにいる。

 剣淵の姿はどこにもないのだが、乳白色の世界から前腕がひょっこりと伸びていた。空中に唐突に現れる腕、まったく不気味な光景である。それでも佳乃にとっては見知った指先に剣淵の声が心強かった。


「戻ってこい!」


 そして勢いよく、引っ張られる。抵抗や返答の間はなく、引かれるままにバランスを崩し、佳乃は後方へと倒れこんだ。


 転倒の衝撃に備えて咄嗟に瞳を閉じた佳乃だったが、背中から臀部までどっさりと柔らかなものに包まれるだけで、痛みはなかった。


 おそるおそる瞼を開ければ、乳白色で染められた不思議な世界はなく、あの眩しさが嘘のような暗い場所だった。


「え……うそ、あけぼの山……」


 さわさわと風に揺れる葉音と緑の香り。そこは夜のあけぼの山だ。

 見渡す景色に戻ってきたのだと実感を抱き、そして自らの背に敷いたものを確かめた時である。


「……痛ってぇ、重い」

「け、剣淵!? どうしてここに!?」


 佳乃は剣淵の体の上にあった。後方へと転倒した佳乃を剣淵が体で受け止め、そのまま二人は倒れこんだらしい。

 慌てて離れると、剣淵は痛みに呻きつつゆっくりと起き上がった。


「お前と連絡つかなくなったって北郷と浮島さんから聞いて、探し回ったんだよ」

「……探してくれてたんだ」


 夢、なのかもしれない。学校では喋らず、今日は予定があったはずの剣淵奏斗が目の前にいるのだ。

 いつものごとく走り回っていたのだろう、額に汗が浮かび、普段セットしている髪も乱れていた。そこまで佳乃を探していたのだと思うと嬉しくて、会えた喜びに涙が滲む。


「ありがとう、剣淵」

「詳しい話はあとだ。まずは――」


 剣淵は立ち上がり、衣類についた泥を手で払う。それからゆっくりと前を見据え、佳乃と同じようにあけぼの山に戻ってきた伊達享を睨みつけた。


「三笠に何をした?」

「さすが剣淵くん、野蛮な男だね。僕が彼女に何かすると思う?」


 伊達享も忌々しそうに剣淵を睨み、二人の間に緊迫した空気が流れる。


「僕は何もしていないよ。彼女に提案をしただけだ」

「どうせロクでもない提案だろ、話聞くまでもねーよ却下だ」

「ふふ、どうかな――ねえ、三笠さん、本当に呪いを解かなくていいの?」


 伊達に聞かれて、浮かれていた佳乃の思考が冷えていく。


 そうだった。剣淵の登場に忘れかけていたが、呪いを解くと決めていたのである。


「おいで。呪いを解いてあげるから」

「あ? お前が?」


 剣淵は眉根を寄せて苛立った様子だった。このままでは伊達を殴りにいってしまうかもしれない。慌てて佳乃が説明をする。


「伊達くんが呪いを解いてくれるらしいの」

「なんで伊達が呪いを解けるんだよ?」

「それは僕が呪いをかけたからだよ。もう一度、彼女の記憶を改変すれば呪いを解くことができる。だから三笠さん、」


 呪いを解こう、と誘おうとしたのだろう。


 しかし伊達の元へは行かせまいと、剣淵が佳乃の腕を掴んでいた。自らの方へ佳乃を引き寄せながら、剣淵が聞く。


「記憶を改変って……お前が11年前のことを忘れていたように、また何か忘れるのか?」

「……かも、しれない」

「じゃあダメだ。んなもん必要ねーよ。伊達の言うことは信じるな」


 剣淵は頑なで、佳乃の腕を離そうとはしなかった。


「お前がこいつに何をされてきたのか知ってんのか。呪いをかけられただけじゃねーんだぞ」

「ひどいなあ剣淵くん。僕はただ三笠さんのことが好きなだけだよ」

「ちょ、ちょっとまって! 呪い以外って……どういうこと?」


 呪い以外にされたことなんて心当たりがなく困惑する佳乃を見て、剣淵が舌打ちをひとつ。伊達に怒っているはずが、その怒りを佳乃にぶつけるような荒っぽい声音で答えた。


「落書きだの靴がなくなっただのくだらねー子供みたいな嫌がらせは伊達が犯人だ。それから、お前が伊達にすっぽかされたやつ2回とも嫌がらせだ!」

「……うそ。じゃあ伊達くんは待ち合わせにわざとこなかったの?」

「そうだ。伊達は、お前がずぶ濡れになってでも待ち続けるとわかっていて誘ったんだ。お前が待ちぼうけ食らわされて困ってる姿を見て喜んでるようなクソ野郎なんだよ、伊達は! 気づけよバカ!」

「知ってたなら教えてよ! 剣淵のバカ!」


 気づかなかったことに対するショックもあったのだが、それよりも剣淵にバカと言われたことが頭にきて、佳乃も言い返してしまった。


 剣淵は佳乃を睨みつけ――しかしそこでゆるゆると怒りの火が鎮まっていく。

 ため息をつくように沈んだ声でぽつりと呟いた。


「言えるわけねーだろ。お前の好きなやつが伊達だって、わかってんのに」

「あ……」


 脳裏に蘇ったのは、二回目の、夏のデートだった。


 佳乃が目撃したのは、伊達を殴る剣淵の姿だった。殴った理由は意見の相違で、言い争ったからだと伊達に聞いたが、その詳細まではわからなかった。

 しかし佳乃には、殴られた伊達よりも剣淵の方が傷ついているように見えてしまったのだ。


 あの時、佳乃は剣淵を止めた。伊達を殴らないでと必死に止めたが、剣淵のこぶしは佳乃を思うがゆえだったのだ。

 その理由がようやく判明し、まるで頭を殴られたような衝撃を受ける。



「とにかく伊達は、お前を傷つけたり困らせたりして楽しむクソ野郎だ。んなやつの言うこと信じるんじゃねーよ」


 ちらりと伊達を見る。

 剣淵によって悪行を明かされても伊達の表情は変わらず、余裕たっぷりに微笑んでいた。


「剣淵くんの言っていることは正解だよ。君を困らせてやりたくて、嫌がらせをしたんだ。僕はね三笠さんが好きだけど、一番好きなのは君がずたぼろに傷つき、悩んでいる姿なんだ。君が幸せそうにしているとイライラする」

「っ、ひどい……そんなの好きって言わないよ」

「何と言われようが別に構わないよ。でも、三笠さんの呪いは僕にしか解けない。それは本当のことだから」

「……っ、私は、呪いを」

「解きたいよね? だってこの呪いが、君の好きな人を傷つけてしまったんだから。呪われたままなら、また傷つけてしまうかもしれないよ?」


 心が、揺らぐ。伊達の真実を明かされても、天秤にかけた呪いは重たいのだ。


「好きな人って、三笠、お前――」

「呪われている女の子なんてきっと好きになってもらえない。好きな人のためにも、呪いは解いた方がいいんじゃないかな?」


 その一言がダメ押しとなって、ぐらぐらと揺れていた気持ちが決着する。

 やはり呪いを解きたい。解かなければいつか後悔する。



「剣淵、私やっぱり呪いを解くよ」

「はあ!? お前は俺の話を聞いてたのか、伊達は信用できないクソ野郎だぞ」

「だって――」


 伝えなければ、と思ったのだ。

 きっと剣淵は、佳乃と伊達が付き合っているのだと思っているのだろう。なんたってあのキスシーンを見られてしまっているのだから。


 正直になりたいと心から思った。内に秘めている剣淵への想いと、そして剣淵を傷つけてしまっても抱き続ける希望を。


「私が好きなのは伊達くんじゃないの、剣淵なの。私、いつの間にかすごく好きになってた」


 じっと剣淵の顔を見上げれば、泣きそうになる。改めて視線を重ねれば、どんどんと好意の色をした欲が膨らんでいくのだ。

 友達になりたい、彼女になりたい、キスをしたい。身勝手な欲が溢れて、涙に溶けて零れ落ちそうになる。


「だけど私は、呪いを隠してキスをして、何度も剣淵を傷つけてしまった。だから呪いを解きたいの」

「……お前、」

「身勝手だってわかっているけど――呪いが解けたら、また私と喋ってよ。剣淵の彼女になれなくてもいいから、友達でいいから、勉強会をしたり山に出かけたりしたい」


 剣淵の瞳が大きく揺れた。その色が何の感情を示しているのか、それを探ってしまえば瞳の端に留めている涙が溢れてしまいそうで、佳乃は顔を背ける。

 これ以上答えを求めてしまえば、もしも剣淵に拒否をされてしまえばきっと立ち直れない。

 せめて呪いを消すまでの間、希望を抱いていたかった。


「伊達くん。私の呪いを解いて」


 剣淵の腕を振りほどき、伊達に向き直る。



 数歩ほど足を進め、差し伸べられた伊達の手を取ろうとした時だった。


「あー! クソッ、めんどくせーな!」


 緊迫感漂う三人の間で、いよいよ臨界点に達した剣淵の怒りが爆発する。

 あけぼの山の夜に響くひときわ大きな叫びをあげると、自らの腕から離れていこうとする佳乃を後ろから抱きしめた。



 佳乃からすれば、唐突に引き止められ、しかも体をがっしりと抱きしめられる形だ。

 佳乃の腕から胸部まで締め上げるように腕が回り、首筋に剣淵の頭がことんと落ちてくる。乱れた髪が鎖骨に触れて、妙にくすぐったい。


「勝手に一人で完結してんじゃねーよ。誰がお前を嫌いだって言った――確かに呪いの話を聞いた時は色々とわからなくなったけど、でも俺が好きなのは三笠だ。呪いなんて関係ねーよ」

「け、剣淵……?」

「呪われてようが呪われてなかろうが、お前のことを好きになってた。呪いがなくてもきっとお前にキスをしたいと思ってた」


 次々と鼓膜に届く言葉を咀嚼し理解するまで、ひどく時間がかかった。

 もしかすると全ては佳乃の淡い希望が見せた夢なのかもしれない、そう思うほどに佳乃にとって幸せな言葉だったのだ。


 体が震えた。理解しようと時間をかける思考より、体が先に反応し、剣淵の温度に包まれていることを喜んでいた。


「だから呪いなんてもん解かなくていい。お前が嘘をつくたびに俺がキスをする。それじゃダメか?」

「で、でもそれじゃ剣淵に迷惑がかかっちゃう」

「好きなヤツとキスができる呪い、そんなの最高だろ。だから呪いを解くな、伊達のところには行かせない」


 ああ、やはり、涙がこぼれていく。剣淵への想いともっと近くにいたいという欲と、そして想いが通じた奇跡に視界がじわじわと滲んで溢れていく。


 両想いが奇跡なのだとしたら幸福な色をしていて、切なさに似ているけれど春のように温かなものなのだろう。それを噛み締めて、佳乃は聞く。


「後悔しない? 私が変な呪い持ちの子でもいいの?」

「するわけねーだろ。だから呪いなんか解かなくても、俺の彼女になってくれ。俺が三笠の彼氏になりたい」


 体をがっしりと抱きしめる腕に、熱い涙がぽたぽたと落ちていく。


 佳乃だけではなく呪いまで受け止めてもらえることは幸せだ。

 さらに佳乃が疎んじてきた呪いを最高だとさえ言ってのけるのだ。

 そんなの、もっと好きになるに決まっている。


 そのまま佳乃は伊達を見据えた。


「伊達くん。ごめんね、私は呪いを解かないよ」

「……この機会を逃したら、二度と呪いが解けないとしても?」

「いいの。だって私、教えてもらったから。この呪いはそんなに悪いものじゃないかもしれないって」


 呪いのキスは嫌なものだとばかり思っていたのだ。そこに剣淵という一陣の風が吹いて、温度を変えていく。

 振り返れば、好きな人と唇を重ねることのできる、なんて幸せな呪いなのだろう。


 伊達は不機嫌そうに眉根を寄せながら佳乃を見つめ、しばらくしてから呆れたように長い息をついた。


「君への興味が失せた。もういいよ」


 ひどく冷ややかな顔をして、伊達が佳乃に背を向ける。


「僕は、君が傷つき困り果てる姿が好きだったのに。いまの君は僕が求めているものじゃない。こんなもの、いらない」


 伊達が歩き出す。去っていく姿を引き止めることはない。佳乃も剣淵も、何も語らずそれを見送っていた。



 それから静寂の時間が流れ、伊達の気配が消えた頃。剣淵が思いだしたかのように顔をあげ、戸惑いながら佳乃に聞いた。


「ところでよ、伊達は何者なんだ。お前に呪いをかけただの解くだの、あいつは何なんだ?」

「うーん……『地球人には認識できない存在』とか『地球に留まる』とか言ってたけど、何者なんだろうね」


 佳乃が答えた瞬間。水を打ったようにぴしりと剣淵の動きが止まった。


「そ、それって……つまり、」

「あの不思議な光の中に呼び出したりできたし、うーん、伊達くんって不思議だね」

「あいつは宇宙人で、あの光はやっぱりUFOとかそういうもの……クソッ、くだらねぇ喧嘩してないで色々聞きだせばよかった!」


 剣淵のオカルト趣味が爆発し、瞳の色が好奇に輝く。先ほどの熱い告白からは一転して子供のような姿に、つい笑ってしまう。


 そしてやはり思うのだ。こういうところも含めて、剣淵が好きなのだと。


 伊達がどんな存在であろうとも構わない。伊達享は伊達享。もし宇宙人だったとしても、いまはこの呪いを与えてくれたことに感謝するだけ。


 佳乃は剣淵の手を握りしめる。徐々に冷えていくあけぼの山の夜だというのにその手は温かかった。


「ねえ、剣淵――帰ろうよ」

「……おう」

「もちろん帰りは背負ってくれるんでしょ?」

「あ? 健康なやつは歩いて帰れ」

「えー。二回も背負ってもらったのに」

「くだらねーこと言うと置いてくぞ」


 軽口を飛ばしながら、二人も歩き出す。心細くなってしまいそうな暗い山道で、手を繋ぎながら。ずっと、手を繋ぎながら。

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