6.劇団員たちの思惑

【凶猛なる怪物を見よ!

 煮え立つ影めいた漆黒の毛皮、いかなる獣とて及ばぬ巨体。

 一対の蹄は荒野を踏み躙り、二対の腕は鉤爪を具えて、狂おしき殺戮の衝動に軋む。


 赤々と燃える黄昏の空に、二脚四腕の異形はおぞましく吼えた。

 硫黄の蒸気を吐き出す顎は、迷い込む者を食らう魔の洞か、あるいは地獄の火の炉のふいごか。

 爛々たる双眸は憎悪に満ち、ただ一人立ちはだかる騎士を見据える。

 栗色の髪。深紅の瞳。未だ若く、されど恐れを知らぬ娘。


 怪物は駆けた。

 蹄が土煙を蹴立てるたび、罅割れた大地が震撼する。

 驀進の途上にある岩も枯れ木も、鉤爪の一振りで砕け散る。

 騎士の姿は小高い丘の上。遠く隔たっていたはずの距離を、人外の脚力は見る間に詰める。

 剛腕が娘に届くまで、残るはほんの三歩、二歩、一歩――


 否。鉤爪が胴を寸断する刹那、騎士は自ら前へと飛んだ。

 おお、激流に身を投げるがごとき愚行! だが人よ、目を背けるなかれ!

 猛り狂う四腕の暴威は、しかし目測を違えられ、懐中に飛び来たる敵を打てぬ。

 傾いた陽光を刀身に受け、騎士の剣がまばゆく輝く。振り下ろされるは誅伐の刃、貫くは悪しき者の心臓なり。


 すさまじい絶叫が地を圧した。

 仰向けに倒れた怪物はなお足掻き、運命を撥ね退けんと六肢を振るう。ぴたりと身を添わせた騎士のすぐ上を、恐るべき鉤爪が幾度も掠める。

 されど、いかほどの膂力があろうと、死神を追い返すことは叶わぬ。溢れ出た黒い血が大地に広がり、抵抗の動きもやがて弱まって、腕と脚とが投げ出される。

 民を苦しめた怪物の、それが最期の時であった。


 騎士は立ち上がった。

 勝機は一瞬の交錯にのみあった。陣取った高所の利を活かし、鉤爪を掻い潜って急所を狙う。

 まともに斬り結んでは勝てるはずもなく、さりとてこの策も博打じみた奇手。

 針の先ほどの誤りがあれば、無残な骸となっていた――そのような死線を越えながら、彼女はただ静かに剣を収める。


「見事な働きでした、我が騎士よ」


 なぜなら、従者の勝利とは、ひとえに主君に捧げられるものであるから。

 岩陰より歩み出た姫君に、騎士は恭しく跪いた。柔らかな風がその髪をそよがせ、戦に荒ぶった心を癒す。

 風はまた、神秘の先触れだった。姫に続いて姿を見せたのは、緑髪緑衣の妖精である。


「ええ、本当に感謝しますわ。交わした約束のその通り、我らの道へお連れしましょう」


 金鈴を鳴らすかのごとき声。

 自然の幼子は騎士の武勇を讃え、舞踏にも似た一礼と共に、無垢なる顔を綻ばせる。


 時は、しばしを遡る。

 不埒な賊をことごとく討ち取り、姫君を救った騎士であったが、帰路となる橋は落とされていた。

 これより数日と間を置かず、城では隣国の王女を招く。その出迎えができぬとなれば、決して小さからぬ問題となろう。

 こうも難事が続く以上は、単なる不運とは片付けがたい。おそらく姫を疎む悪臣の手引き。

 その企みをくじくためにも、足止めを受けるわけには行かぬ。


 手立てを探す騎士の前に、一人の妖精が現れて告げた。

 この地を荒らす悪しき怪物をあなたが退治してくれるのならば、秘密の山道を教えましょうと。


 そうして、今。


「強きお方、貴きお方。我が身は門へのしるべとなれど、門を開け放つ鍵とはならず。ゆめまぼろしに迷いたくなくば、智慧と心とを頼みになさい。きっと無事にお帰りになってね」


 歌うように言う妖精に導かれ、主従は人界の境を越える。いつしか辺りに霧が湧き出で、荒野と黄昏の空とを隠す。


「正しく歩むことができなければ、妖精の道からは抜け出せぬと聞きます。我々は城に辿り着けるでしょうか」


 気丈な姫のかんばせにも、今ばかりは不安の影が差した。

 傍らの騎士は凛然と答える。


「必ずや。我が誓いにかけて、いかなる困難も退けて見せましょう」】







「違うわね」


 こいつ、いきなり否定か。


「最後の台詞は、もっと無意味な自信に溢れてる感じがいいわ。自分の働きに驕りが出て、待ち受ける試練に対して油断して、無謀な姿勢になっているの」

「……はあ」


 ちゃんと役のこと言ってんだよね、それ。

 練習前にゆうべの出来事を話したら吊るし上げを食らった身としては、このワルレーテの演技指導にもちょっと棘を感じてしまう。


「それと、怪物を倒した後の動きが軽すぎる。あれじゃ相手の脅威さに説得力が出ないわ」

「綺麗な動きで、って注文だっただろ?」

「そうだけど、大変な戦いではあったの。そこが伝わるようにやって」

「なんだよ。どうするのか全然分かんないぞ」


 華麗に勝利を収める。苦戦ぶりをアピールする。

 その二つって両立するのか?


 ボクは半眼になって主宰どのを見た。

 この女がまだ朝の――自己管理がどうとか、後先を考えてとか、妹さんが治してくれなかったらどうする気だったのとか、そういう話をした時の不機嫌さを引きずっていて、そのせいで無茶な要求をしているんじゃないか。そう思っていたのは認める。


「いいわ。あたしがやるから、見てて」


 それが見当違いだったことも。


「剣を」

「……ああ」


 小道具の剣だけをボクから受け取ると、ワルレーテはごく自然に舞台に上がった。

 まだ後片付けの途中だ。背景の岩やら枯れ木やらを、遊女たちがおしゃべりしながら舞台袖に引っ込めている。

 それを止めさせるわけでもなく、彼女はそのまま演技を始めた。


 怪物を倒した直後の場面だ。

 一旦伏せた騎士は立ち上がり、剣を鞘に収め、主人に跪く。

 ワルレーテもそのようにした。伏せた状態から立ち上がり、怪物を仕留めた剣を仕舞い、今はいない姫君に向けて片膝を突いた。


「…………」


 ボクは眉間に皺が寄るのを自覚した。

 どこが、とは説明しにくい。一見する限りでは理想の騎士様然とした、戦闘の消耗なんて全然ないような動きだ。ボクがやろうとしたのと同じ。

 それでいて、違う。優雅でありながら、ワルレーテの演技は重みと熱を感じさせる。騎士が確かに怪物から受けていたプレッシャーを。


 だが、本当に違うのはそこからだった。


 風が吹いた。

 神秘の先触れ、騎士の荒ぶる心を癒す風。跪いたままのワルレーテの、その内にわだかまっていた重圧が、その一吹きで溶け消えた。

 息詰まる戦いは過去のものになり、場面が移り変わるのだと、台詞もなしに理解できた。


 ――実際は、風なんてなかったのに。

 さっきの稽古では、舞台袖にいた裏方の遊女が、大きな袋を使って風を送ってきた。本番でもそうする予定だ。

 だけど、今はそれを使っていない。


 さすがに舌を巻く。

 ワルレーテは自分の演技の、ちょっとした雰囲気の変化だけで、“風が吹いた”と錯覚させてみせたわけだ。


「どうかしら。分かった?」


 誇るでもなく淡々と、彼女が舞台から降りてくる。

 片付けはまだ続いている。途中からそれを認識していなかったことに、ボクはそこで気付いた。

 そりゃ一応ちゃんとワルレーテに集中するようにはしていたけど、にしても。


「……あんた、自分で主役を張ればいいだろ」


 理屈の上では、なんとなく分かる。

 ちょっとした手足の強張り、連続する動作のわずかなずれ。ワルレーテの演じる騎士に苦難を乗り越えた説得力があるのは、きっとその辺りの工夫の差だ。

 だが、言うは易し。それらはあくまで鮮やかな勝利の裏側に垣間見えるものでなくてはならないし、なおかつ離れて見ている観客にも伝わる必要がある。

 とてもじゃないが、ボクに同じことができるとは思えない。


「同感ね」


 冷たい援護射撃が背後から飛んだ。

 もうそれだけで誰が来たかは分かるが、ボクは一応振り向いてやった。


「これまでのように、あなたが男役でも良かったのではなくて?」


 相変わらずのエルザ。

 腕を組んで見下す仕草は、他人に物怖じすることをまるで知らない、劇の中とはまた別種の貴人ぶりだ。


「チオチェには魅力があるわ」


 そのエルザの視線を真正面から受け止めて、ワルレーテはそうのたまった。


「見た目は中性的だし、動きに切れもある。娼館を常宿にしてるってゴシップだって、男役には武器になる」


 反論は、意外にも出ない。

 エルザはほんの少し柳眉を顰める風にして、ただ黙って何事かを考えている。


 いや、でも、せっかくボクを持ち上げる流れのところ悪いんだけど、それじゃ困るんだよ。

 ここでこそ遠慮なくボクの欠点をあげつらってほしい。そして降板させる方向に持っていこう。お前と組むのは業腹だけど、今は利害が一致してるはずだろ。


「……ボクは向いてないと思うけどな」


 仕方がないので、自分の身は自分で守ることにする。

 ボクは舞台を振り返った。“怪物”が片付けられていくところだ。何事かはしゃぎながら大きなオブジェを運ぶ遊女たちの中に、ひときわ背の低い少女もいる。


「演技力で言ったら、文字通り子供以下だ。大根だよ」


 首の向きを戻しつつ、その様子を親指で肩越しに示す。

 実際、プーカは今朝のやりとりからは想像できないくらい、ちゃんと役者をやっていた。あれが才能なんだとしたら、やっぱりボクはしかるべき人間に立場を譲ってやるべきだ。


「あなたも上手いわよ?」


 が、ワルレーテは思ってもみない言葉を聞いたとばかりに眼鏡の奥の琥珀を瞬かせた。

 そこにエルザが口を挟む。


「初めてにしては」

「そうね。手放しで褒められるわけじゃない――けど、素質は十分だわ。役者としてはきっと、あたしよりも」

「いや……いやいや。待ってくれよ」


 ……ここまで言われると、ボクも反発より困惑が勝ってしまう。

 言い訳でもするみたいに両手を広げて、なんとか返すべき言葉を探す。


「考えてもみろ。こっちは照れて途中で演技を投げ出す程度だぞ」

「最初のうちはいいのよ。下手に乗り気でこなされるよりいい」

「どうして」

「馬鹿にしていないってことだからよ。与えられた役に対して何か素晴らしいと認めるところがあって、だから自分には似合わないって考えてる。真摯に向き合うつもりがなきゃそうはならないわ」

「……こじつけだ。適当なこと言うなっての」


 そんな理屈が通るならなんだって言える。

 そう非難の意を込めた言葉を、ワルレーテは軽く首を振って流す。


「どの道、前のやり方のままじゃ無理があったわ。あたしが話を作って、役者もやる。音楽を入れられる場面も限られる。新人を迎えるには丁度いい機会だったの」

「遊女の失踪にさえ片が付けば、ボクはもう役者なんてやらないぞ」

「引き止めるわ。どうにかしてね」


 ボクは額を押さえた。うちの妹みたいな強情ぶりだ。

 てっきり劇団にボクを放り込んだのはディアドリンの愉快犯だと思っていたが、この分だとワルレーテの意向も相当強かったんだろう。

 何がそんなに気に入ったんだか、彼女の言う素質とやらに心当たりのないボクとしては首を捻るしかない。


 加勢を求めてエルザに目を向けるも、そちらは未だに難しい顔をして口を閉ざすばかり。

 言いたいことがあるが、躊躇っている。そんな様子に見える。歯に衣着せぬ普段の物言いからすると、ずいぶん珍しい。

 そして、いいから言ってほしい。ボクは正直弾切れだ。ワルレーテの気を変えさせるとしたら、あとはもうお前がなんとかするしかないぞ。


 だが、エルザの胸の内が吐露されることはなかった。


「しゅさい! しゅさいーーーー!!」


 なんとも元気のいい声と共に、緑衣の妖精が駆け込んできたから。


「完了よ! お片付け!」

「あら、ありがとう。助かったわ」


 ワルレーテは慣れたもののようで、柔らかく微笑んで頭を撫でてやっている。

 プーカは気持ち良さそうに目を細めた。仔猫みたいだ。


 二人の視界の外で、エルザがそっと溜息をつく。

 安堵か、落胆か。だがその次の瞬間には、儚い麗人然とした表情は掻き消え、いつもの調子を取り戻して言う。


「怪物を動かしていた子たちは、何と?」

「あ、エルザ。えっとね、ちょっと右上の腕ががたつくみたいです、って」

「そう。直しておかなくてはいけないわね」


 〈一夜郷〉から来ている遊女たちには、実際に劇に出る者の他に、裏方の役割を任されているのもいる。

 さっき用具の後始末をしていたのもそうだし、本番中のちょっとした演出を担うのもそう。そして今日練習した場面の目玉、騎士と戦う怪物を操作するのも、黒子に扮した彼女たちの役目だ。


 現実の舞台道具としての怪物は、大まかな原型の上に毛皮を被せ、四本の腕にくっついた細い棒で動作を表現するようになっている。両足の裏には車輪が仕込まれ、床を滑って移動する仕組みだ。

 針子の経験のある遊女が制作したものらしく、見た目は案外よく出来ている。しかしどうにも動かすとちゃちなのは、ボクが求めすぎているだけだろうか。


「チオチェも、どう? 見直したかしら!」


 ワルレーテの手を離れ、プーカは今度はこちらにじゃれついてきた。

 やたらと振り回される両腕を適当に受け流す。こんなに落ち着きがない癖に、よくまあ芝居は集中してやるもんだ。


「ああ、認めたくないくらい上手だったよ。化け妖精プーカなんて名乗るだけはある」

「ほえ?」


 だが、プーカは首を傾げた。

 何か間違ってたか?


「……プーカってのは、変身ができる妖精のことを言うんだろ? どこかでそう聞いたんだけど」

「そうなの!? 知らなかったわわたい!」


 本人が把握してないだけだった。

 なんだよ。その名の通りに芝居と普段とで姿を変えているんだなあ、とかちょっと思ったボクが馬鹿みたいじゃないかよ。


「あっ、じゃあわたいも実は変身とかできるのかしら……!? どうやって!?」

「いや、悪い。お前には関係ない話だった。……無理だって! 無理!」


 だから変な唸り声を上げて変なポーズを取るのはやめろ! 何事かと思われるだろ!

 まったく、どこの誰が無責任にこんな名前を付けたのか。


 その後、いつも通りに全員集めての反省会が行われたが、普段より人数が多かったせいか、はたまた子供が途中で船を漕ぎ始めたせいか、取り立てて胸に刻むべき内容とはならなかった。

 出演者に対しては、既に個別に話をしていたからというのもあるかもしれない。


 何にせよ、楽に終わってくれる分にはいい。

 しかしこの場ではもう一つだけ、後々に影響する出来事があった。


「…………姐さん。チオチェの姐さん」


 帰り支度をしていた時のことだ。

 他の面々より少し離れていたボクに向かって、いかにも秘密の話めかして近寄ってくる影がある。

 焦げ茶色の髪と顎鬚。この劇団の用心棒兼雑用を務める、中年の男。


「カズニト?」

「いやね、今朝の話なんですが。ちっと気になることがありまして」


 こいつと一対一で会話するのは初めてかもしれない。

 改めて見ると――やっぱり覇気が感じられないなあ、これは。今も中途半端な笑みが顔に張り付いている。声は深くてなかなか良いんだけど。


「今朝のって言うと」

「ほら、妙な金貨を渡されたって言ってましたでしょ?」

「ああ、これ」


 ボクは懐から、例のおかしな形に割られた金貨を出した。

 カズニトの黒い瞳がすっと細まる。纏う気配が少しだけ鋭く変わる。


「見覚えでもあるとか?」

「……いや、駄目だ。出てこねえ」

「なんだよ」

「あー、どうも最近は頭の巡りが悪くなっちまいましてねえ」


 露骨に落胆した顔を作ってやると、カズニトは決まり悪そうに頭を掻いた。

 それからこちらに身を乗り出し、もう少し声を潜めてみせる。


「出てこねえが、どっかで見たのは間違いないんですよ。なんで、よかったら俺の方でも調べてみましょうか?」

「ほんと? そりゃ助かるけど」


 調査の手が増えるのは大歓迎だ。それがボクよりもこの都に馴染んでいて、ボクみたいに外見で舐められない人間なら尚更。

 ……でもこいつ、なんとなく胡散臭い気もする。


「……いいのか?」

「まあ、やれそうな範囲でですがね。危ない橋までは渡らない気でいるんで、あんまり期待せずにいてもらえればと」


 言外の意味には気付かず、あるいは気付かないふりをして、彼は頷いた。

 となれば、ボクも現状断る理由はない。


「それじゃ、頼むよ」

「あいよ。そっちも気を付けてくだせえな。ワルレーテの嬢ちゃんが怒ってるところを見ると、俺も肝が冷えるもんで」

「……努力する」


 とりあえず金貨の現物はボクが持っておくことにして、再び懐に仕舞い直す。

 劇場の床板をぎしぎし鳴らして、猫背気味の男の背中が遠ざかっていく。


 ワルレーテがボクを使う算段が揺らがない以上、舞台デビューを避けるためには、もはや公演前に事件を解決する他ない。

 それを抜きにしても、事が済むのは早い方がいい。いなくなった遊女が無事かは分からないが、そうでなくなる確率は時間が経つほど増していく。


 万が一カズニトが敵側で、ボクを罠に嵌めるつもりなんだとしたら……そうだな。

 力づくでなんとかしよう。

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“騎士役”少女は底の都に足掻く 敗者T @losert

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