第17話「まさかその格好でやらないよな」
朝9:30に目覚めた俺の体は、いつもの背中が重い感じも、酒がまだ抜けていなくて錆びているようなダルさもなく、全身がただひたすら軽かった。
こんなすがすがしい朝は何年ぶりだろうか。
歯磨きをしてもえずかない。鏡をみて「うわ、また老けたなー」と自分の肌の凹凸に落ち込むこともない。
窓の外の冷え切った冬の空気も、神聖なものに思える。そうだ、ベランダに出て、小鳥さんに挨拶してみよう。だって……世界はこんなにも愛で満ち溢れているのだから。
「長束、寒い……窓閉めて」
「あ、ごめん」
ゆうゆの一言で、すっかり現実へと引き戻されてしまった。引き戻されたといっても、夢のような現実なんだけどな。
俺とゆうゆは朝の支度を済まし、俺は人生で初めてプリーツスカートを履き、足元がスースーする初めての感覚を味わいながら、マンションから5駅ほど離れた場所にあるレッスンスタジオへと向かった。
乗り慣れた路線であったが、俺は車内でもいままで感じたことのない初めての感覚を体験した。電車を待っているホームで、電車に乗り込む瞬間に降りてくる乗客と、そして電車に乗った時車内で、やたらと人と目があうのだ。
つまりは、すれ違う人がみな俺とゆうゆのことをチラッと見るのである。目が合えばみんなさっと目線をそらしてしまうのだが、通勤ひとつをとってもこんなに世界が違うものなのか、と俺は美少女目線の世界に酔いしれていた。
途中でゆうゆが「ごはん買って行こうよ」と言ってきたので、レッスン場の近くにあるコンビニへと立ち寄ることにした。
そういえば昨日の夜は、なにも食べていないことを俺は思い出した。
いまからレッスンって言ってたし、なにか腹に溜めておいたほうが良さそうだ。
スポーツドリンクとかも必要なのかな……俺はコンビニで食料を物色しながらゆうゆが何を買っているのかちらっと見た。するとゆうゆは手に、大盛りの明太子パスタと明太子おにぎり、1リットルの水、さらにポテトチップスとチョコレート菓子を抱えて、さっそうとレジへと向かった。
「!?」
炭水化物オンパレード……あれ全部朝食にたいらげるというのか? あんな華奢な体のどこにそんなに大量に入るのだ……。俺もこの間までそれくらいたいらげていたが、ゆうゆと俺では体型が違いすぎる。
なんだ、もしかして食べても食べても太らない、胃下垂ってやつなのだろうか?
俺は呆気にとられ、ゆうゆが会計を済ます姿に見入ってしまっていた。
「長束、早くしないと遅刻しちゃうよ……」
会計を済ませたゆうゆに急かされ、俺は適当にスポーツドリンクと目の前にあったおにぎりを二つ手に取りレジに向かった。
到着したレッスン場は、プレハブのような二階建ての建物だった。外付けされた、カンカンと金属音が響く階段を登り、薄いドアを引くと、そこには壁がすべて鏡張りとなったダンススタジオであった。
するとダンススタジオの端のカーテンで仕切られた一角から、黄緑色のタンクトップとピンク色のタンクトップを重ね着し、黒いハーフパンツを履いた女性が出てきた。
「おはよう。ゆうゆ、長束。今日も早いな」
二十代半ばくらいだろうか。快活な口調と明るい笑顔、少しに日焼けた引き締まった身体の女性である。身長は160センチくらいといったところだろうか。高めの位置でまとめられた、艶やかな茶髪のポニーテールが揺れる。うーんいわゆるうぇい系の一軍女子って感じだ。パリピ感が漂っている。
「おはようございます……」
「あ、おはようございますっ!!」
「今日は新曲のおさらいからやろうか」
話している内容と、アグレッシブな服装的に、おそらくダンスの先生なのだろう。先生はスマホをスピーカーにつなぎ、黒人ラッパーが歌ってそうなR&Bをかけた。スクールカースト上位の陽キャしか聞かないであろう低音が効いた洋楽である。俺のスマホにはこんな系統の音楽は一曲も入っていない。
先生はそのまま鏡の前でベターっと開脚し、上半身を前に倒すと準備体操をはじめた。
ゆうゆはそんな先生の様子にはお構いなし、といった感じでスタジオの隅に体育すわりし先ほどコンビニで買ったパスタをもぐもぐと食べだした。
俺もゆうゆの隣にちょこんと座り、さきほど買ったおにぎりをとりあえず食べることにした。
いまから、ダンスをやるんだよな。ダンスなんてやったのは中学生の頃体育の授業であった創作ダンス以来である。一応バスケ部に入ってはいたものの、ただのスラムダンクの影響で真面目にスポーツをやってきた経験はないが大丈夫だろうか。足つったり脇腹痛くなったりしたら嫌だな……。
久しぶりの運動に不安になってきた俺はゆうゆが食べ終わるのを待たず、さっさとおにぎり二つをたいらげ、見よう見まねで先生のストレッチを真似ることにした。
鏡に向かって開脚し、前屈してみるのだが、思ったよりも大変である。どうやらこの身体もそこまで股関節が柔らかいわけではないようで、床に手のひらをつけるのが精一杯というところだ。上半身をベターっとつけるにはまだまだ至らない。
すると鏡越しで、俺のぎこちないストレッチを見た先生が急に立ち上がり俺のそばまでやってきた。
「長束、着替えは? まさかその格好でやらないよな」
先生は笑いを浮かべながら、鏡をみてみろというかのようにあごをくいっと鏡のほうに向けた。先生の動きにつられ、鏡を見てみると、そこにはパンツ丸出しで開脚している俺がいるではないか。
「!!!」
スカートを履く習慣がない、というのはパンツが見えないように気にする習慣もないということだ。リラックスした態勢とったり、何気ない仕草ひとつひとつの中で、いちいちラッキースケベが発揮されないように、所作を気にしないといけないというのか。なんというか、女になるっていろいろ面倒というか人の目をいちいち気にしないといけない窮屈さも付随しているのかもしれない。
俺は美少女生活二日目にして、美少女としての生活は、思っていたような完璧な楽園ではないのかもしれない。という一寸の不安にこの先の生活が少し心配となった。
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