天使の胃袋

爽月柳史

天使の胃袋

 夕方帰宅すると、部屋の真ん中に巨大な翼が落ちていた。

 大きな鳥が死んでいるのかと思ったら、翼には人間が付属していて、いや人間に翼が付属していて鳥ではないことが分かり驚いた。つまり私の部屋の真ん中に「天使」が落ちていたのだ。

 私は恐る恐る天使に近づく。五色に彩られた巨大な翼をそっと押しのけると、硬く目蓋を閉ざした横顔と、直線で構成されながらもしなやかさを感じられる青年の身体が現れた。天使が青年の姿をしていることに意外さを感じながら、鼻に手を近づけると僅かに風を感じたので取りあえずは息があることが分かった。

 そっと翼を元のように戻して、しばらくぼんやりと天使を見つめていると、ピクリと翼が震えゆっくりと上体が起き上がり、こちらを向いた。閉じられた目蓋がゆっくりと開き、灰長石の光を思わせる艶めかしい青色の双眸が私を見据えた。天使はやはり天使なので、その瞳や長い睫毛や、稲穂のようなややくすんだ金の髪や、白磁のように滑らかな白色の肌は絵画的で、ほどよく筋肉のついた上半身からジーンズに包まれた足までの線が流れるようだ。さてこの天使、下は穿いているのに、何故上は何も着てないのだろう、と一瞬疑問が浮かび、猛禽の翼のように強く大きい翼を見て納得する。あれでは何も着られない。天使はじっと私を視野に入れている。野良猫のような敵意や警戒心はそこになく、ただ目がそこに向いているだけというような無関心さだ。

 「どうして此処にいるの」

 問いかけても彼はじっと動かず反応もしない。さては、言葉が分からないか。彼は天使なので、人間の言葉など理解しないのかもしれない。

 どうしたものだろうか。昔読んだ本で似たような物語があったが、あの物語では部屋に落ちているのは巨大な卵で、コウノトリ(と思われる)が生まれてきたという内容だった。こちらも翼ある者だが、あまりにも違い過ぎる。さらにコウノトリならば物語に則って魚と青虫で養うことができるものだが、天使が何を食べるのかは検討がつかない。首を捻っていると、微かな音が聞こえた。音の方向に目を向けると彫像のように動かなかった天使が、双眸に不思議そうな色を浮かべて首を傾げていた。再び彼の方から微かな音、これは腹の虫の音だ。

 私は何か天使が食べそうなものはないだろうかと冷蔵庫を開く。とりあえず冷やされていたソーセージとトマトとレタスを天使の元へ持っていくも、天使は眉を顰めるばかりで口にしようとしない。しかし依然として天使の腹は鳴っており、このまま何も食べさせないのも気が咎める。

 ならばと思い、冷蔵庫や食品棚の中身を片っ端から出し天使の前に並べてみた。数ある食品の中から天使が選び出したのは、牛乳と蜂蜜だった。この二つから、成程と合点がいく。どちらも「食べさせるため」に生成されるもので、命を屠った上での物ではない。天使として当然とも言える食べ物であろう。

 天使はその二つからさらに牛乳を選び、こちらがコップを用意するのも待たずに、牛乳パックを開けそのまま口を付けて飲み始めた。飢えていたのだろうか、喉を鳴らして勢いよく飲んでいく。飲み込む速度と注ぐ速度にズレがあるせいで、口の端から牛乳が零れ顎から首を伝っていく。獣のような仕草は何故か優美で気品に溢れ、天使がとうとう牛乳パックを空にするまで私は見入ってしまった。

 「天使が他の生き物を食べるはずがない……私という奴は気が利かないな」

 天使は牛乳を飲み終えても、逃げようとする素振りを見せなかった。しばらく此処にいるつもりなのだろうか。

 「君が此処にいるというのならば構わないよ。牛乳と蜂蜜は欠かさないようにしよう。君はコウノトリではないようだから南の国へ連れてってくれなどとは言わない。そもそも暑いのは嫌いだしね」

 私の言葉を待っていたかのように天使は瞼を閉じ、その身を横たえた。満たされて眠ったのだろう。私は起こさぬように天使に近寄り、その姿を眺める。人間が翼を持った場合、その翼を動かすにあたって分厚い筋肉を必要とするらしいが、天使の身体は普通の、いや完全に均整の取れた人間の身体を実現したらこうなるであろうという物で、不自然さは見当たらなかった。強いて言うなら、芸術品めいた完成度だろう。

 零した牛乳が付いたままの口や首をティッシュでそっと拭き取りながら、目鼻口が完全な比率で配置された白皙の美貌に嘆息し、花弁のような唇に目を奪われ、五色の翼の風切り羽根の絹のような手触りに息を呑んだ。如何にも磨き抜かれた大理石のような滑らかさを持っているだろうと思わせる肌に触れたいと思うが、起こしてしまうような気もするので、桜貝のような爪をした長い指と連なる手から手首を視線でなぞる程度に留める。

 「私の所に来てどうするつもりなの」

 と小声で問いかけても天使は答えなかった。

 それきり天使は私の部屋に居続けた。牛乳を飲み、蜂蜜を舐め、時折口や首、手などに付着したそれらを私に拭き取られ、眠りに就くという生活を繰り返していた。それなりに日数が経過した現在でも、言葉はおろか声も発さない。まるで動く植物を育てている気分だった。天使の双眸は静かで、しかし艶めかしく輝く神聖さと淫靡さを併せ持った奇妙な青さを湛え、何処も見ていないような、反対に遥か遠くの何かを見据えているかのように透き通り、完璧な造形の姿と相まって一流の職人が手掛けた人形のようでもあった。けれども腹は鳴り、牛乳と蜂蜜を食し、温もりを持ち、拍動が感じられるという事実が、天使は人形などではなく生きものであることを物語っている。ただし生き物であれば誰しもが行う排泄行為は見られないので、全て真似事なのかもしれないとも思えた。

 天使の白磁がどうにも血の通ったものに思えず、彼が眠っているその隙にそっと傷を付けてみた。傷口から一寸遅れて血液が滲み出しその色が赤ワインのような深い色をしていることを知り、息を詰めて何時までも見ていた。天使は痛みに気付かなかったのか、そもそも感じないのか目を醒ますことなく、私は自分が眠気に負け眠りに落ちるまでその美しい傷を眺めていた。朝日に目覚めると天使は青い双眸を開いており、私が付けた傷は跡形もなく消えていた。

 天使はすぐに傷が治癒するらしいことが分かり、あの傷に魅せられた私は天使が眠りに落ちる毎に手首を傷つけ流れる血を観賞した。満月の夜はカーテンを開け放ち、月光に照らされた中で、まさか本当にワインの味がしないかと血を少しだけ舐めてみたこともある。結論としては塩辛く鉄の味がして、私の血と大して変わらなかった。天使の血は他の生き物と大差ない様だ。少しがっかりしたような気分で天使の顔を見て、ぎくりと固まる。天使の双眸が薄く開き、月明りで青い輝きを漏らしていた。しかし天使はそれ以上瞼を開くことも身じろぎをすることもせず、再び瞼を閉ざした。

 翌朝、天使はさも当然のように其処にいた。あの時確かに目が合った筈なのに、私のしたことは自分には取るに足らぬことなのだと宣言しているかのように牛乳を飲み、蜂蜜を舐めた。手を取り、あちこちに付着した牛乳や蜂蜜を拭き取る時も、いつものようにじっと身じろぎすらしない。戯れに翼に手を伸ばし羽根を一枚毟り取ってみても、その様子は変わらなかった。食事を終えて眠りに落ちた天使に手を伸ばす。額に触れ、閉じられた目蓋に隠された眼球の丸みを慈しみ、頬をなぞり顎が耳に辿り着く地点からそのまま筋肉の筋を辿って首から鎖骨へと旅をする。白皙の肌は冷たく硬そうな印象とは裏腹に、私の指に温もりと瑞々しい弾力を伝えてきた。作り物めいた皮膚の下では血管が力強く拍動し、心地よいリズムを刻んでいる。鎖骨の硬い感触をなぞり、窪みに指先を遊ばせる。天使の皮膚の下も、筋肉や内臓、血管に神経系、骨格、などの我々と違わない物たちで構成されているのだろう。

 果たして、本当にそうだろうか。天使の持つそれらは本当に我々人間の持つそれらと同じなのか。天使の姿は麗しく、とても中身だけが我々と変わらないようには感じられない。外見の美しさは中身の美しさに起因するのではなかったか。外を綺麗にするためには中から綺麗にするのではなかったか。それならば、美しく完全な外見をした天使はその中身も完全で美しいのではないだろうか。

 正中線、左右が対象の生き物の中心の線、真ん中の線。顔に入れるのは躊躇われた。なのでそっと撫でるようにして首にナイフを入れる。ナイフの軌跡から血が滲み私は一瞬自分の首に手を当てた。鎖骨の間までで刃を止めて、赤い線に指を掛けて左右に広げる、血液を真っ白なタオルに吸わせながら、内部に目を凝らす。ぱっくりと裂けたの中心部に骨のような白っぽい塊があった。位置からすると喉仏だろうか。撫でると骨のような感触がした。喉仏の裏にはホースのような物が見えた。あれは気管だろうか。鳥の気管は強いと聞いたことがあるが、天使の気管は強いのだろうか。

 天使の顔を確認すると微睡むように薄目を開けていた。灰長石の青色が濡れたように光りを漏らし、髪色と同じ金をした長い睫毛が僅かに影を落としている。

 ピンセットで皮を引っ張る。剥がれにくいところはシールやガムを剥がす要領で少しずつ撫でていく。白皙の表皮の覆いを取ると、筋肉と思われる組織が現れた。骨とは異なりしなやかに人体を支える組織である。筋肉は思っていたよりも複数の部位に分割され、入り組んでおりその隙間には細い管のようなものが見えた。その入り組み方は、機械式時計の内部構造のような一見無秩序にさえ見える秩序だったもので、知らずに止めていた息を「ほう」と吐いた。大して複雑なつくりではないだろうと思っていたのだが、そのようなことはなく、首でここまでの精緻さならば他はどうなのだろうかと私の胸は早鐘を打つ。天使はまるでオブジェのように静かに横たわっており、こちらを静かに見つめる青色と呼吸に合わせて上下する胸が、天使が決してオブジェではないことを証明していて、くらりと世界が回るような心地がする。

 正中線を切り進めていく。今度は鎖骨の間から、下腹部まで首のとき以上に慎重に。皮を剥ぎ筋肉を観賞する。首の時とは違いこちらはタイル絵のようだ。筋の流れと白い筋によってそれぞれが役割を持っているのだろうと察せられる。胸部をさらに切り開くと白い肋骨が露出し、肋骨の間の肉を開くとその内部が窺えた。鳥籠のように内部に肺と心臓を抱えていた。心臓は左胸とされるが、実際にはほとんど真ん中なことが分かった。肺は天使の呼吸に合わせて膨らんでは縮み、心臓は拍、拍と血液を送り出している。触れることを躊躇うほどに繊細な動きは、成程、肋骨という守りがなければ簡単に壊れてしまうだろう。血液が集中しているからかその色は深く赤く、肋骨から覗く様子は柘榴である。柘榴の果実は秒針のように規則的に柔らかい動きを続けていた。刃を進めると、肺と心臓の下に膜を一枚隔てて大きな臓器が収まっている。きっと肝臓だ。肝臓がここまで大きい物なのかと、肝という字が一番大切な物を意味する理由が分かった気がした。大きいからか、少し安心できる気がして指で触れると温かかった。さらに進めて腹を開いた所で、露出した臓器の影が青いことに気が付く。


 部屋が薄青く染まる。

 

 見れば濃紺の空は明けつつあり紫色になっていた。私は特に今日用事があるわけでもなかったので続けようとしたが、天使が起き上がった。このような状態でも動けるのかと、ぼんやりする私の前で剥がれた皮を戻し、裂け目を上からすうっとなぞると、ファスナーのように傷跡が閉じていった。


 私はそれに見とれるうちに眠ってしまったようだった。うっすらと目を開けると見慣れたものとなった翼の五色が目に飛び込んだ。近づいてみれば天使も眠っているようだった。今朝方見たものは夢ではなかった証拠に肌は滑らかそのもので傷跡はおろか爪痕一つ存在していなかった。私は起こさぬように台所へと向かい、小さな鍋をコンロにかけ、牛乳を入れて火を点ける。

 台所から戻ると天使は目を醒ましていた。私の方に初めて視線を送る。しかし、怒りも、侮蔑も、嘲笑も、怯えすらその目には存在していない。本当にただ見ているそれだけだ。

 私は蜂蜜をたっぷりと入れた甘いホットミルクを天使の前に置いた。

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天使の胃袋 爽月柳史 @ryu_shi_so

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