ぬけがら

進藤翼

ぬけがら

 遠くでヒグラシが鳴いているのが聞こえた。

 今日の終わりが近づいている。

 空は強く濃いオレンジ色におおわれている。おそらくこれ以上はないだろうと思わせるくらいに、まぶしくて鮮やかな色だ。ほとんど西に傾いた太陽が、まだ沈むまいと必死に力をふりしぼっているから、こんなにも強烈な光を放つのだろう。燃えているように、辺りは橙色で満たされていた。

 縁側に座っている私もその炎に包まれて、反対側には、焦げた影が伸びている。燃える私の身体。息苦しいのはそのせいだ。

 夏の終わりが近づいていた。私の見えないところで、季節はその足をゆっくり進めている。のんびりしているくせに一歩の歩幅が大きいから、あっという間に秋にたどり着こうとしている。もう数歩でゴールしてしまうだろう。

 いつだって気づいたらそんな時期だ。そのときになって初めて、本当に季節と向き合う。

 何かを忘れているような、どうしようもなく感傷的な気分になる夏の終わり。

 私はそのモヤモヤした気分を携帯電話に込めた。強く握りしめて、力の限り放り投げた。だけれど所詮、私の肩だ。想像した飛距離の半分以下、ひゅうんと緩い放物線を描いた携帯電話は、目の前に広がる庭を越えたところで地面に落下した。ガツンと鈍い音が耳に届く。

 壊れてしまっただろうか。たとえ壊れてなかったとしても、庭の向こうには左右に伸びる道路がある。そのまま放っておけば、いずれ通りがかった自動車が踏んでしまうにちがいない。そうしたら確かめるまでもなく完全に壊れてしまうだろう。

 それでもいいかなあと思う気持ちと、早く拾いにいかないとと思う気持ちがちょうど半分ずつくらいあった。いつ自動車がくるかわからない。ちょっと悩んでから、結局立ち上がった。道路にあった赤い携帯電話は、夕日に染められていてキレイに見えた。

 拾ってみると、外装に大きな傷がついていた。けっこう目立つところだ。コーティングが剥がれてしまっている。ところが、それでも何一異常なく携帯電話は作動した。私はやっぱり複雑な気持ちになって、その傷跡をなでた。

 遠くでヒグラシが鳴いているのが聞こえた。精一杯力の限り、鳴いていた。




 いつからその人をすきになっていたのかなんて覚えてない。知らないうちに、気が付いたら目で追っていた。きっと誰だってそうだろうと思う。

 どんなときも恋とは無自覚のうちに始まるものだ。

 一人暮らししている家で夕食の用意をしているときに、顔を思い出してジャガイモといっしょに指を切ったり、お風呂で声を思い出して耐え切れず湯船に頭ごとしずんだりするぐらいだった。廊下ですれ違ったとき、大学生協で見かけたとき、講義のときの姿勢とか、寝ちゃっているときとか、板書しているときの手の動きとか、なぜか耳たぶを触るクセとか、その一つ一つが私をどうしようもない気持ちにさせた。

 私はただその感情をふわふわと漂わせていた。ゆっくりとあちこち、雲みたいにたゆたうだけでよかった。それでじゅうぶんなんだと思っていた。

 だけれどそれは思い込みで、人間とは欲深いものだった。

ありがちなことに、日に日に感情は高まる一方で止まらずに加速し続けた。ふわふわしていたはずの感情というシャボン玉はいつしかぶるぶると震え出し、そしてやがて弾けた。パチンっと割れてしまった。私の制止なんて追い付かないほどの速度で感情は進んでいった。

 私が講義を受けようと座っていた席の後ろに、彼が座った。まさかこの講義を彼が取っていたなんて思いもしなかった。私の後ろに彼が座っている。私の心臓はそれだけではち切れんばかりになった。しかも、彼は一人だった。私も一人でこの講義を取っていた。邪魔が入らない、絶好の機会。

教授の声なんて耳に入らない。板書の文字が外国語に見える。それより私変な格好してないかな、背中にごみとかついてないかな、とか色々考えて慌てるばかりだった。ほどなくして講義が終わり、ペンケースやらルーズリーフやらをかばんにしまい終わったらしい彼は席を立ち、出口に歩き出そうとしていた。そこで、わけがわからなくなって突撃してしまったのだった。

出て行こうとする彼の服の裾をひっぱってむりやり立ち止まらせて、怪訝そうに振り返った彼に好きですと弾丸を放った。

 それで、バッサリと斬られた。それは見事に正面から斬り捨てられた。当たり前だ。それまであいさつ程度しかしてなかった間柄の人間にいきなり好きですなんて言われても、断られるのが当然だ。それでも、後ろに呼吸の音が聞こえそうなくらい近くに好きな人がいて、暴走するなというほうが難しい話だ。

 暑さがほんのすこぉし和らぐ夏の終わり。私の恋も終わった。



 私はすっかりぬけがらになっていた。気が付くと家に帰ってきていて、そしていつの間にか眠っていたようで、目を覚ましたときには、もうすぐ夕方が訪れるだろうという時間だった。午後の授業をサボったことになる。まあ、今日くらいは、いいだろう。

 私はため息をついた。ベッドはいつでも優しい。どんな状況の私も、いつだって受け止めてくれる。天井を見つめた。

 もうすぐ夕方。夕方か。夕方というと、私はおばあちゃん家のことを思い出す。おばあちゃん家の縁側で見る夕焼けは、やけにきれいだった。夏休みになっておばあちゃん家に行くたびに、私は縁側に座ってその光景をずっと見ていた。夕焼けにも人を惹きつける力があるんだろう。見ずにはいられないんだ。そのくらい美しいものだった。

 ああ、なんだか久しぶりに見たくなってきたなあ。じんわりと、私の中にオレンジ色が広がっていく感覚がした。なぜだかわからないのだけど、私の心がそうしろと言っている。見なければ後悔するぞ、と。

 よし。

 私はベッドから勢いよく起きると、そのまま家を飛び出した。悲しい気持ちを引きずってうじうじするよりも、行動したほうが絶対にいい、はずだ。


 

 電車はタタンタタンと揺れながら、目的地へ走っていく。色んな人や色んな思いを乗せて進んでいく。

 おばあちゃんはもう亡くなってしまったけど、家は残されている。

 夕方になる前には着くはずだ。

 やがて、もうすぐ目的の駅に到着することがアナウンスで知らされた。


 相変わらず寂れた雰囲気のある駅の改札を抜ける。その寂れ具合がなんとも懐かしかった。いったいいつ以来にここに来ただろうか。大学に入ってからというもの、バイトやサークルを言い訳にして、おばあちゃんの家を訪れることはなかった。

 三十分ほど歩くと、のんびりとしたゆるい坂道の中腹にあるおばあちゃん家が見えてきた。

 私は庭に向かって、縁側に腰を下ろした。

 思わずむせ返るような特有の草のにおいと、熱を孕んだまとわりつく風のにおいが混ざった、なんとも言い難い独特の、夏の、におい。過ぎ去る気配を確かに漂わせながら、でもまだ夏のにおいがした。

 そして、今日の終わりが始まる。

 とたんに世界の色が変化した。あっという間にはちみつのビンの中に落とされた。そして胸がしめつけられて、きゅうとして、苦しくなる。

目に焼き付けなければと思った。この終末を、終わる今日を、はちみつの海に溶ける世界を、しっかりと網膜にうつさなければと思った。

 遠くでヒグラシが鳴くのが聞こえた。ああ、今日が終わる。





 傷をどうやって隠そうか考えながら、私は携帯をポケットにしまった。よく手になじんだこの携帯は、ポケットへのおさまりもちょうどいい。

 私は庭に戻って、再び縁側に座る。

 あの炎は、あの空は、小さい頃見ていた景色と何も変わりはしないのに、私がこんなにも苦しいと思うのは、以前の私と今の私が違うからだ。

 以前の私はキレイとしか思わなかった。今の私は苦しいと思っている。じゃあ、未来の私は? この先の私は、この景色を見てどんな感想を抱くだろう。

 燃える空を背景にして、少し高い位置でトンボが飛んでいる。空に負けないくらいに尻尾の赤いトンボだ。

 トンボは、じっとしない。往復をしなければいけないルールでもあるかのように、同じところをぐーるぐる飛んでいる。一匹がようやく羽休めに、庭の端っこにある背の低い松の木にとまった。そこで私は懐かしいものを見つけた。思わず、あ、と声を出して駆け寄った。その木の、私の腰くらいの位置に、セミのぬけがらがあった。

 うすい茶色をして、木にしがみついているぬけがら。その背中だけぱっくりと割れている。

 久々に見たものだから私は興味津々で、壊さないようにそっと手に取って観察することにした。昔見たときより小さく感じたのは、私が大きくなったからだろうか。

 すっかり虫が苦手な私だったけど、不思議とぬけがらは平気だった。

 ぬけがら。

 セミの、ぬけがら。

 私もきっとこのぬけがらのようなものなのかもしれない。取り残された身体。置き去りにされた身体。

 ぬけがらを見ていたら、突然目の前をトンボが横切っていったから驚いた。羽休みにとまっていたトンボが思い出したように飛んだのだった。身体がビクッとして、私は思わずセミのぬけがらを落としてしまった。

あれ、どこに落ちたかな。足元を見ながらぐるぐるとまわっていると、音が聞こえた。パリっというなにかが割れた音だ。

 あ、と思ってそっと足をずらしてみると、やっぱりそこにあったのはぬけがらだった。正確には、ぬけがらだったものだ。もうぬけがらとわからないほどになっていた。

 あっけない。あんまりにも簡単に割れてしまった。

 くっ、と、笑いが込み上げてきた。なんだかそれがとてもおかしいことに思えた。

 なんだ、こんなもんか。こんなもんだよなあと、しばらく笑っていた。

 そうだ。

 羽化しなければ。私は思った。おばあちゃんの家は、当たり前だけど、私のほかに誰もいない。だから今日はおばあちゃんの家に泊まって、存分に泣くことにしよう。そして翌朝になったら、私はここにぬけがらを残していこうと思う。古い私を脱ぎ捨てて、文字通り一皮むけた、新しい私になろうと思う。


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