白黒つけようか

進藤翼

白黒つけようか

 雪が降り始める頃には、きっと先輩は来なくなるだろう。そもそも夏の大会が終わったら本来は引退するはずだ。三年生だから、受験がある。それでも先輩は何かと理由をつけては週に一回は顔を見せに来ていた。こんな秘境に。来てくれるのは嬉しかったけど、受験とは先輩にとって今後の人生を決める上で大切なことだ。いくら勉強ができるといっても、全くしないということはないだろう。だからきっと、さすがに雪が降り始める頃には来なくなるのだろう。

 朝っぱらから薄暗かった。今日は雨が降るだろうなと思っていたけど、放課後になっても降り出すことはなく、よりいっそう灰色が濃くなるばかりだった。

 ぱちり、ぱちり、ぱちりと石を打つ。

 いつもは賑わう放課後もこんな天気だとそうも言ってられないらしい。みな足早に学校を後にしていった。残っているのは部活動のある生徒だけだ。窓の向こう側、視線をおとして校庭を見てみると、この寒い中サッカー部と野球部がユニフォーム姿で練習をしている。かけ声に合わせて、走ったり歩いたりを繰り返していた。

 四階建ての校舎は三階までが普通教室で、四階には、特別教室が並んでいる。視聴覚室とか科学室とか。その一番奥、日頃生徒の立ち入りがまずない地理準備室が、囲碁部の部室だ。正直、入部するまでここに部屋があること自体知らなかった。知らないまま卒業した生徒がほとんどだろう。

 部員は僕と先輩の二人だけ。二年の僕と、三年の先輩だ。元々囲碁部は数年前の囲碁ブームに便乗して新設された部だった。当時はそれなりに人気があったらしいけど、ブームが下火になるに比例して、どんどん部員が減っていった。結果、こんなところに追いやられたそうだ。僕が入部しなかったら廃部するところだったといつか先輩に教えられた。

 世界から忘れ去られた教室は、常に静寂に包まれている。四階自体、授業がないとまず訪れないところだ。放課後になれば、人の気配なんかこれほども感じなくなる。サッカー部や野球部のかけ声さえ、意識をしなければ聞こえない。葉を落とした木のようにぽつんと、ひっそりとそこにあるだけ。

 その中で、石を打つ音だけが聞こえる。冷えた室内に気持ちの良い快音が響き、僕はそこに冬の朝を想起する。澄んだ水のような、不純物など知らないというような、清廉された空気だ。

ぱちり、ぱちり、ぱちり。

 地理準備室とは主に地図を収納する部屋だ。細かく仕切られている棚には、くるくると巻かれ筒状になった紙があちこちに収められている。地図は日本と世界で大きく二分され、県別や国別や大陸別など様々なカテゴリーがあり、その数は意外と多い。ところがそのほとんどが今ではずいぶんなホコリが積もっていた。プロジェクターが使用されるようになってから、紙媒体はほとんどお払い箱状態になってしまったことが原因らしい。そのため本来の目的とは大きく外れて、この部屋は物置になっていた。入学式の看板とか、過去の文化祭で使われたらしい遺物なんかが雑に放置されている。

 僕が棋譜を眺めながら黒と白の石を打っていると、廊下から足音が聞こえた。誰かなんて考えなくてもわかる。わざわざこんなところまでくるような人は限られているからだ。

「今日も寒いねえ」

 控えめに扉を開いて、やっぱり先輩がはいってきた。マフラーにニット帽をかぶって、今日も完全な防寒だった。

 僕は嬉しさを顔に出さないようにする。御主人さまの帰りを待っていたイヌのような表情をしては、カッコ悪い。あくまでも、いつも通りにしなければならない。

「いよいよ秋も終わるってことですかね、どうぞ」

 イスを用意して、先輩に示す。ありがとうと言って、先輩は腰をおろした。碁盤を挟んで、僕と向かい合う形になる。

 十一月中旬。紅葉も見ごろを過ぎようとしていた。冬が訪れようとすると、世界は急激に枯れ始める。色味が消え、辺りは雪に埋もれてしまうだろう。

「先輩、今日はどうしてこちらに?」

 並べていた石を片付けながら、僕は先輩に尋ねた。たまたまこっちに用事があったから顔を出しただけ、なんだろうな。

「たまたまこっちに用事があったから顔を出しただけ」

 僕が聞くと、先輩はいつもそう答えるのだった。用事がこんな未開の地にあるはずがない。つまり嘘だ。でも僕は先輩がどうしてそんな嘘を言うのか分からなかったから、いつも、そうですかと相槌をうつことしかできなかった。指摘するのが、なんだか怖かった。

「じゃ、打とっか」

 先輩がニギって、お互いの石の色が決まった。僕は黒、先輩は白だ。

 対局の挨拶をして、僕は石をいつものように右上の星と呼ばれる交点に打った。

 先輩も普段と同じ、左下の星より一つ下の交点に石を打った。

ぱちり、ぱちり、ぱちり、ぱちり。交互に石を置いていく。

「冬っていう季節はすきなんだけど、寒いのは苦手だな。布団から出るの、毎朝苦労してる」

 先輩は息を白くさせながらそう言った。

 生徒の立ち入りがほぼゼロといっていい地理準備室には、当然のことながら暖房器具なんてものはない。だから僕も先輩もコートとマフラーを身に着けたままだ。劣悪な環境だと、友人は言う。でも僕はそうは思わなかった。寒いほうが、ぱちり、という音が響きやすいからだ。冬の朝を呼び起こさせる音なんて、きっと、この時期のこの部屋にしかない。

 僕は下辺の領土の守りを固めようと、右隅にコスミを打つ。

 碁というのは、簡単に言えば陣取りゲームである。自分の石で領土を広げ守り、相手の領土を削って減らすことを目的としたものだ。ポイントは、攻守のバランス。攻めすぎると守りの薄い自分の領土が侵略されてしまうし、守りすぎると、相手に領土を広げる機会を与えてしまう。そのバランスがとても難しい。

 親父くさいと敬遠されがちなゲームだけど、やってみるとこれがなかなかに面白いものだ。

「ちょっと前までは暑い暑いって言ってたような気がするんですけどね。いつの間にか、もうこんな時期になっちゃいましたね」

 僕も息を白くさせながら言う。

ぱちり。先輩が僕の領土を減らそうと軽い攻撃をしかけてくる。でもここは自分の石をつないでしまえば、これ以上の侵入はできない。壁をつくって、兵士の攻撃を拒んだような形だ。

「中庭のイチョウの木も、葉っぱ落としてたな。もう冬が来ちゃうなんてね。あまり実感は涌かないかなあ」ぱちり。

「日が落ちるのも早くなってきましたよね。四時過ぎたらもうけっこう暗いです。街灯の着く時間も、そういえば早くなってました」ぱちり。

「でも冬至って十二月でしょ?」ぱちり。

「そうですね」ぱちり。

「ということは、まだまだ日が短くなるってことだよね」ぱちり。

「そうなりますね」ぱちり。

「やだなあ。暗いのはすきじゃない。明るい方がいいよ」ぱちり。

「冬の夜も悪くないですよ、きっと」ぱちり。

「明るい方がいいよ。暗いと、余計なこと考えちゃうし」ぱちり。

 僕も先輩も、視線は盤面だ。会話はしているけどあくまで意識は碁盤に注いでいる。いちいち顔を見ているひまなんてない。碁をするには、意外なほど集中力が必要だ。そもそも本来は対局中におしゃべりをすることはない。部活だから許されることだ。

 冷えた石は指にこたえる。夏の頃はひんやりとしていてよかったのだけど、今ははっきり冷たい。

 盤に伸びる先輩の手もすっかり冷えているようだった。ただでさえ白いのに、さらに白くなってしまっている。石像みたいな、触ることをためらいそうになるほど整った美しさだ。石を挟むその繊細で細い指は、見えるたびにドキリとしてしまう。その指で、上辺から中央に一間トビを打った。自分の領土を守りつつ広げる働きを持つ一手だ。

 ぱちり、ぱちり。ぱちり、ぱちり。ぱちり、ぱちり。

 碁盤に、黒と白の塊が大きくなっていく。ときに兵士ときに壁となる石が連なって、複雑な模様のようになっている。僕は模様が加わるたびに冬の朝を思い出す。シンとした森の中、ひきしまった空気に、石の音が聞こえる。響き、遠くに消えるその瞬間まで、味わうべき音だ。

 僕はそれほど長考するタイプではない。リズムに乗って、トントンと進んでいくような打ち方をする。でも先輩は、一手一手を慎重に吟味するタイプだ。ここに打っていいのかどうかを頭の中で検討して、よしと思ったとき初めてそこに石を置くのだ。

 ところが今日の先輩は、僕のあとを同じリズムで追いかけるように軽快な打ち方をしている。珍しいな、と思った。そういえば、今日の先輩はなんだかいつもと違うような気がする。最初は気づけなかったけど、先輩が石を打ったときにわかった。音が違うんだ。先輩は、いつも聞いていて気持ちいいほどの快音を鳴らして碁盤に石を打つ。でも、今日の音はすっきりしない。どこか濁っているような気がする。

 僕はいやいやと思い直す。音なんて、別に大したものじゃない。いつもと違う音だからといって、それが対局に影響するわけでもない。そんなことに気を取られていたら負けてしまう。集中しないと。よし。

 僕は先輩の領土に飛び込んだ。壁がまだ完成していなかったところに、それを分断するように突撃を仕掛けた。なかなかの強手だ。これを受けきるのは苦労するはず。その攻防の決着がつく頃には、先輩の領土は大きく減っているだろう。

 今まで僕のリズムについてくるように打っていた先輩の手が止まった。さすがにこれはいつもの先輩に戻るようだ。慎重に応手をしないと、勝負が決まってしまうかもしれない場面。

 きっと先輩のことだ。ここはノビで分断されたどちらかの領土を守るはず。そしたら僕は守らなかった側にさらに攻撃をすればいい。

 ところが、先輩はどちらも守らずに逆に僕の領土に強烈な一手を放ってきた。

 穏やかに進んでいた盤上に、一閃。電気がはしる。冬の朝の幻想は霧散した。森の木々はざわつき、不穏な音を震わせ始める。

 ぱちり、という音が、さっきまでの濁った音とは違っていた。大砲を撃たれたような衝撃だった。攻撃に対して、攻撃してきた。

 先輩らしくない一手だ。受けずに攻めるだなんて。しかも、この石はちょっとやそっとじゃ取れそうにない。むしろ下手したら僕の領土がまるまる先輩の領土に取り込まれるおそれがある。読んでなかった手だった。

 いつも打っている相手だからと、軽んじていた。

 思わず先輩を見ると、真剣な顔をしていた。なんでもないような顔をしているけど、これは、炎だ。さっきまでのゆるい雰囲気は消し飛び、目の前の碁盤に鋭い視線を向けていた。

その恐ろしい美しさに、ぞくりとする。

 これはリズムに乗って軽く打っていいような一手じゃない。僕は頭の中で攻防の展開をする。スベッてもキラレるか。深く領土に食い込まれないように、とにかく被害をできるだけ抑えないといけない。いや、逆に泳がせて相手の石を潰してしまえばいいか。さっきの攻撃する一手を打つ前に、こっちを補強しておくべきだった。

 色々な考えが浮かぶがどれも最良の手とはいえない。苦い薬を飲んだ気分だ。粉末状のココアが溶けきらずに残っていたのを噛んでしまったような居心地の悪さ。顔面が緊張する。こわばって動かない。ためらいながら僕は石を打つ。ぱちり、と聞こえた音は頼りないものだった。

 打った瞬間に間違えたと気付いた。明らかにこれでは守りが甘い。動揺して調子が狂ってしまった。

 先輩は追撃の一手を放ってくる。壁をぶち壊し、こちら側に侵入してきた。今僕が打った石もほとんど意味を成していない。このままでは右辺の領土が全てつぶれてしまう。まずい。ある程度の譲歩はしても、まるごと渡すわけにはいけない。

 寒いくせに背中が熱くなっている。思い通りにさせてたまるか。

 僕はさっき先輩の領土を分断するように打った一手に続けてさらに一撃をお見舞いした。先輩が息をのんだことが気配で伝わってきた。守らなかったことが意外だったのだろう。そっちのペースのまま進んだら防戦一方だ。それならばいっそ、お互いなぐり合ってしまえばいい。先輩は僕の右辺の領土を奪い、僕は先輩の左辺の領土を奪う。

 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。

 凍る教室で、碁盤の上だけが燃えている。空気がひりつく。火の子が身体を襲う。

 守りたいけど、守ったら負ける。僕が領土を守ろうと一手打っても、先輩は攻撃を緩めないだろう。僕が再び先輩の領土を攻撃することにしても、その守った一手ぶん攻撃が遅れてしまうことになる。損だ。だから、守らない。一手ぶんの損は、とてつもなく大きい。

 ノーガードの領土の内側を、競い合うように侵略していく。僕のほうが劣勢だ。けどまだ取り返せる。

 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。

 左右で始まった戦いは、段々中央へとのびていく。退くわけにはいかない。ここまできたら意地だ。黒と白の塊が以前より大きくなる。連なり入り組み絡み合い、より複雑になっていく模様は、出口のない迷路だ。限られた面積を少しでも自分の領土にしようと、お互い譲らない。

 白いはずの吐息の温度が高くなる。

 先輩とは、置き去りにされたこの教室でそれこそ数えられないほどの対局を重ねてきた。お互いの戦法や打ち筋は知り尽くしている。つもりだった。ところが今の状況はどうしたことだろう。見たことのない先輩だ。こんな打ち方、僕は知らない。無茶な攻めをして、強引に勝ちを拾いにくる先輩なんて。

 今までの確立した自分の打ち方をがらりと変えるのは難しいことだ。一度身に着いた文字を書くときのクセをなかなか矯正できないように、意識してもできるようなことじゃない。

 先輩になにかあったのだろうか。あまりにも、らしくない。

 石の打つ音だけが聞こえた。それ以外に音はなかった。

 


一年のうち数日でも悩みのない日があれば幸福だみたいなことを言ったのって、誰だったかな。確か太宰治だったような気がするけど。

 受験生に悩みのない日なんて、どうやら一日もないようだった。ということは、今の私は幸福ではないってことになっちゃう。自覚はあまりないけれど、そうなのかな。

 ありがたいことに、勉強はできるタイプの人間だった。順位も二十位から下は取ったことがなかったはず。

 三年生になったとき、受験生という言葉をぐぐぐっと身近に感じるようになった。いやだなあって思った。受験生っていうと、なんだか全員受験することを強制させられているような、そんな気分になる。私は進学するつもりだけれど、だからといって受験するのが当然、みたいな空気はなんだか湿っていていやだった。

 寒くなって夜が長くなってくると、いろいろなことを考えちゃうからすきじゃなかった。目の前に伸びた数々の選択肢、それを順に進んで行ってどうなるかを頭の中で映像化する。良いことも悪いこともあるだろうって感じ。どの道を選んだところで、良し悪しは半々くらい。

 都内の大学に行くのか、この地に留まるか。どっち。

 わからない。自分で選ぶということがこんなにも難しいものだったなんて知らなかった。どっちを選んだところで正解でも不正解でもない気がする

 東京に行けば、華やかなんだろうな。娯楽だって比べものにならないくらいたくさんあるし、芸能人にだって会えるはず。憧れの気持ちは、ある。もしかしたら新しい価値観を得て、それが将来に繋がることがあるかもしれない。

 でも、私は地元がすきだった。田舎の面も都会の面も併せ持つこの地方都市が、私はすきだった。この土地の良さをなによりも知っているし、空気も肌に合っているし。

 私が恐れているのは、私が私でなくなっちゃうことだった。東京に行ったら、今の私は消えちゃう。色んな方向に色んな影響を受けて、私は変わっちゃうだろう。それはなによりも怖いことだった。けれども同時に、新しさに触れたい自分もいる。その二つの気持ちが混在して、もうどうしたらいいのかわからない。

 地元にいたらそこしか見えなくなるよ、若いうちに景色を見ておかないと、そこだけで終わっちゃうよ。

 友達はそんなことを言っていた。それも、わかる。知らない世界に飛び込むのは大事だと思う。刺激を受けなければ、脳は退化する一方だってテレビで言ってた。でもずっと同じところにいるからといって、刺激がないわけじゃない。ずっと住んでいるからこそ、見えてくるものだってある。そうでしょ?

 変わりたくないくせに、それを恐れているのに、変わりたいと思っている。どうしようもない矛盾を抱えた私だった。

 踏ん切りがつかない。どちらかに振りきることができない。

 だから私は地理準備室に行く。碁を打っている間は対局に集中してほかのことを考えずに済むから。現実逃避だってわかっているけど、世の中に現実逃避しない人なんていないはず。結局は逃げ切れず最後に答えを出さなきゃいけないとしても、私はできるだけ逃げたいんだ。それって悪いこと?

 たまたま用事があって、なんて一瞬でバレる嘘をついているのは、後輩を利用している後ろめたさがあるから。でもそのことを指摘してこないのは、彼なりの優しさなんだろうな。

 いつもはのんびりと構えて打つ私だけど、今日はなんだかごちゃごちゃと頭が整頓されないままだからか、後輩のペースについていきながら打っている。なんだかモヤモヤして、ゆっくり考えることができない。んー、私らしくない。

 後輩と適当な会話をしながら、浮かぶのは先生や友人の言葉、大学案内のパンフレット。

 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。

 音も変だ。集中しきれてないからなのか、指先まで迷っているらしい。もう、面白くない。せっかく気分転換に打っているのに、全然転換できてない。

 しだいに身体が熱くなってきた。怒っているのかな。どうしていいかわからなくなって私のお身体様がお怒りなさってるのかな。

と、後輩がなかなか強い一手を打ってきた。これは、ちょっと考えないといけない一手だ。ありがたいことに、これで散漫だった意識がまとめられそうだった。

 さてどうしようか、まだ中盤だし、ここは素直に受けておいたほうがよさそう。こちら側の領土は減ってしまうけれど、まだ取り返せないことはない。その代わりこっちのほうを固めて、守ろう。私は石を指で挟んで、そして打とうとした。

 そのときゴゴゴゴと、音がした。頭の中で。大地が動く音だ。

 守る? 何を? どうして?

 ふと思った。私は挟んで石を、碁笥(碁石を入れる容器)に落とした。今の私とは、それほど守るべきものなんだろうか。確かに十八年間、この世に生まれてから人並みに生活をしてきた。培ってきた個性や感性を、誰にも譲らず大切にしていきたい。でも、どうせ、変わってしまうんじゃないだろうか。

 小学生のときに見た街の景色と、今見る街の景色は、違う。新しくビルが建設されたとか、そんなことじゃなくて。

 その街を見る私の目が変わったんだ。

 同じところにいたらずっといたら見えてくるものがあると思っていたけれど、それって、単に私の感じ方が変わるからじゃないの? 年齢を重ねて、今まで見えなかったものが見えるようになってきた、ただそれだけのシンプルな話なんじゃないの?

 東京に行ったって行かなくたって、今の私は今の私でいられない、ってことじゃないの?

変わってしまう。どこにいたって、今の私を守ることはできない。どうしたって変わってしまうんだ。高校は三年経ったら卒業してしまうように、ずぅっと同じ場所に留まり続けることなんてできないんだ。

 だったら、そこに守る意味なんて、ないんじゃないの? 飛び込んでみるべきなんじゃないの?

 ふつふつと、身体の底から熱いものがこみあげてくるのがわかった。お怒りになった私の身体が、眠っていた山を起こしてしまったらしい。滾る熱が、足の裏からお腹から、胸から頭から、涌いてくる。

 私に足りなかったのは、勇気だ。

 その爆発しそうな熱を、私は指先に込めて放った。


「五目半で、私の勝ちだねえ」

「……先輩、どうかしました? なんか、らしくないですけど」

 わけがわからなかった。こんなの先輩じゃない。おかしい。振り回されまくって、僕はもうついていくことしかできなかった。いつも以上に疲れてくたくただった。

 碁盤を眺めていた視線を、先輩へ向ける。あれ、なんだかすっきりしている表情だ。

「吹っ切れたんだ」

 そういえば、あのまさかの一手を打ってからというもの、先輩が石を打つ音がいつも通り、いやそれ以上に鳴っていた気がする。

「吹っ切れた?」

「そう、もうわかった。というか、そもそもよーく考えれば、答えは最初から出ていたはずなんだけれど、灯台下暗しっていうのか、気づいていてわざと気づかないフリをしていたのか、その答えを遠ざけていたんだねえ」

 先輩は納得したように頷きながら満足気に言った。僕はさっぱり理解できない。でも、先輩が元気になったのなら、それが一番いいように思えた。

「私、東京の大学行くよ」

「東京、ですか」

「うん」

 そうか。先輩はきっとどこの大学行くかで迷っていたんだな。で、その答えが出たんだろう。そっか。先輩は東京行くんだな。

「先輩は勉強できるから、きっと大抵の大学なら入れますよ。頑張ってくださいね」

 ということは、もうここには来ないんだろうな。勉強しなくちゃだし。雪が降り始める頃にはなんて言っていたけど、それよりもずっと早かったな。

 残念です。

 とは、言わない。僕の言葉でせっかく答えを出した先輩に動揺を与えてはいけない。何も変わらない。棋譜並べをする日が、一日増えるだけだ。先輩が来ないというだけで、活動自体に変更はない。

「てことで、進路も決めたし、これからは毎日ここに来られるねえ」

「え」

「東京の大学に行くならここだなあって決めてたとこがあったんだけど、今の成績だったら問題ないから。このまま成績をキープすればいいわけで、今から必死になる必要がないんだ。今から必死になってるようじゃそもそも話にならないしね」

 さっきまでの鬼気迫る雰囲気はどこへ行ってしまったのか、いつの間にか普段の呑気な先輩に戻っていた。先輩の周りだけ春みたいにほわほわしているのは、なぜなんだろう。

 拍子抜けだ。僕は下を向きながら石を片付ける。笑っていることに気付かれたくないからだ。毎日先輩と会えるなんて、そりゃ、笑ってしまうに決まっている。今年になってから不定期的にしか顔を見られなかったのが、明日から毎日。それは、笑うなというほうが無理だ。

「まさか碁で吹っ切れるなんてなあ」

 先輩は碁笥から白い石をいくつかつまんで、手のひらに置くと撫で始めた。

「わかんないもんだよね。こんな石っころに気付かされるなんてね」

「どういうことはよくわかんないですけど、先輩が決めたならそれがいいと思いますよ」

「私は行く大学決まったけどさ、後輩は決めてるの?」

「先輩はどこ行くんです?」

「K大学」

「じゃ僕もそこにします」

「うん? どうして?」

「先輩と大学でも碁を打ちたいからですよ」

「うん? それってどういう意味?」

「言葉通りの意味ですよ」

「そっかあ。じゃあ待ってるね。がんばって」

「せいぜい頑張りますよ」

一年だけ譲歩するけど、先輩が僕以外の誰かと対局するとこなんて、見たくないしね。

「じゃあ、二戦目いこうか」

 今度も先輩は白石だった。

 ぱちり、ぱちり、ぱちりと、再び冬の朝が、放課後の地理準備室に訪れる。

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