第3話 スウィングしなければ音楽じゃない

「今、ショパンをもう練習してます!」(上山鳴美の小学二年時の文集より)



 未だに鳴美は悪夢を見る。まどろみの中には大気汚染のような漆黒が混ざっている。鳴美は今、悪夢を見ている。自殺に成功し、魂が抜け、遺体となった自分を俯瞰して見ている。鳴美の両親は救急救命室の前で震えながら祈っている。「他に何もいりません」「自分の命と変えて下さい」。昨夜まで何事も無かった家庭は突如災害に見舞われた。しかし、両隣の家庭は何事も起こっていない。言うならば人間関係災害であった。上山家だけが命の問題に瀕している。

 治療室の扉が開き、両親は医師を見上げる。言葉が発せられる前に表情からその内容を探る。徐々に両親の顔から血の気が引いていく。膝から力が失われ、立っているのがやっとになる。医師の顔にあったのは愛娘の生を願う両親へ死を告げることを苦悶とする緊張である。

「真に残念ですが、鳴美さんはお亡くなりになられました」

 母は全身を震わせながら膝から崩れ落ち、父は呼吸を忘れ、かつて看護師が産まれたばかりの鳴美を抱えてもって来たことを思い出す。両手に当時の柔らかい感触が蘇る。

 俯瞰して見ていた鳴美は地面に降り、医師に近づいて言う。

「私、死にたくない。生き返るまで蘇生して下さい!」

 けれど、鳴美の声は医師はおろか両親にさえ届かない。鳴美はもうこの世にはいない。脳が死んでいるのだから。


 鳴美は目を開け、過呼吸になっている自分に気が付き、額と全身に汗を感じる。身体が焼けたように熱く、パジャマと掛け布団がひどく湿っているのを感じる。そして夢であったことに気が付き、涙を流す。そして胎児のように丸まり、震え続ける。鳴美には悪夢が夢では無い気がした。枝分かれした別の時間軸を見たのだと思い始める。鳴美は布団の中で嗚咽を洩らし続ける。震えは止まることを知らず、加速する。心の中にあるものが倒壊していく。鳴美は後遺症に苦しんでいる。いじめは終わっても、記憶は消えていない。それは夢となってまとわり続けている。

 鳴美は掛け布団をめくり、カーテンを開け、北東の方角を見る。薄暗い空、南の方角から明るさが伸びている。朝日が少しだけ地平線付近から顔を出している。鳴美は窓を開け、涙で濡れた顔に薄明の空気を浴びる。千葉県で離れて暮らす両親を想い、青いパジャマの袖で涙を拭う。

「いつか、元通りになれたら、家に帰るから」


 窓から見える木々に桜色はもう無く、代わりに生えたばかりの若葉がひしめき、風が吹くたび羽ばたくように揺れている。音楽室の前から二列目の長机に鳴美は座り、正面にあるグランドピアノの足に溜まったホコリを見つめている。中央に置かれたイスには白髪に銀縁眼鏡をかけ、茶色のベストを着た音楽教師の鈴木が座っている。

「この中でピアノ弾けるやつ、いるかぁ」

 鈴木は御年五十二歳で、以前なら自身でピアノを弾いていたが、年齢からかそれも億劫になり、近年は生徒に代わりを勤めさせていた。しかし、鈴木の思いとは裏腹に、挙手は一つとして挙がらない。鈴木は昨年ピアノを弾かせた一年生が一人もいないことから、首を左右に振り、新しいクラスの男子と女子の顔ぶれを大雑把に見ていく。鳴美は伏し目になり、その視線を受けないようにする。鈴木は向かって左側にいる男子たちから一人ずつ順番に見ていく。長年の音楽教師としての眼力でピアノを弾ける生徒を暴いていく。

 鈴木は男子たちを最後尾まで見終え、眉毛を上げ残念さを顔に出す。右手でメガネをクイッと上げ、今度は向かって右側にいる女子の一列目から順に見ていく。鳴美は伏し目のまま、視線が通り過ぎるのを待つ。見極めが二列目に移った時、これまでスムーズに動いていた首が一瞬だけ止まる。

 視線の先に鳴美がいる。伏し目の鳴美がそこにはいる。

 鈴木のセンサーは何かに引っかかる。手に持っている生徒名簿に目をやる。唇が動く。かみやま、と。引っかかった記憶の周囲を探る鈴木。鳴美の全身に恐怖が駆け巡る。無意識に息をするのを止める。もし、コンクールなどで自分の名前に見覚えがあったならば、ピアノを弾くように促され、過去が、リストカットが周囲に知れ渡る。そうなったらもう学校には来れない。鳴美は信じない神の代わりの何かに祈りだす。

 すると、鈴木は簡単に諦める。歳のせいで記憶を引き出す力が鈍り、踏ん張ることが億劫に感じ、引っかかりに意味は無いと結論づけ、次の生徒へ視線を移す。鈴木に見つめられた五秒が一分以上に感じた鳴美は急いで呼吸を始める。自主退学がま逃れたことに安堵し、関連した過去を思い出し始める。毎年合唱などで生徒の伴奏が必要になった時は必ず鳴美が指名されたこと。いや、生徒たちのみんなが一斉に鳴美を見た。確定という言葉がそこにはあった。


「上山は俺より上手い」

 鳴美が小学四年生の時に赴任してきた音楽教師は鳴美の演奏を見終えると笑いながらそう言った。事実そうであった。この教師、塚本は小学三年生の時にチェロを始め、高校卒業前にはプロを諦め、音大には教員免許を取得するために行った。ピアノ歴はわずかしかなかった。

 鳴美はこの塚本が好きだった。大学を卒業したばかりの塚本は若く、何よりクラシック音楽以外にも造形が深かった。いつも授業を五分ほど早く終わらせ、音楽準備室からCDを持って再度現れ、ジャズやタンゴ、ブギウギにアイリッシュなどをかけた。鳴美はそんな塚本と六年時の卒業前、体育館で全校生徒を前にデュエットをした。二人が相談した曲目はサン=サーンス『白鳥』、バッハ『G線上のアリア』など、チェロがメインのものばかりになった。

「何で俺がメインになってんだ」塚本はそう言って笑った。

「先生が上手いってこと、みんな知らないから」鳴美はそう言って微笑み返した。

 当日、最後のドヴォルザーク『家路』を弾き終わった時、全校生徒から拍手が湧いた。鳴美は塚本と目を合わせ、ピアノから立ち上がって少しだけ前に歩き会釈をすると、塚本は鳴美に近づいてこう言った。

「よし、アンコールだ」

「えっ」鳴美は驚いて顔を上げた。

「卒業するのは上山だろ。生徒に花を持たせない教師がいるか」

「でも……じゃあ……何を弾けば良いんですか?」

「うーん」言い出したはずの塚本は悩んだ。

「じゃあ、ショパンのエチュ……」

 鳴美がそう言い始めると、塚本はそれを遮って言った。

「『アイ・ガット・リズム』だ。うん」

「クラシックじゃないんですか?」

「それは緊張しまくる発表会で弾いてるだろ? この場は楽しめば良いんだ」

 鳴美はキョトンとした。塚本は鳴美にCDと楽譜を貸し、鳴美は気分転換にそれを聴き、弾いていたがまさか人前で披露することはないと思っていたからだ。

「エキシビション。今日くらいは良いんじゃないか?」塚本はにこやかに言った。

「はい」

 鳴美は微笑みながら言い、背中を向けピアノの方へ歩みだした。すると背後から声が聴こえた。

「スウィングしなければ音楽じゃないぞ」

 鳴美はピアノの前に座り、塚本の方を向いて頷いた。塚本は塚本で「言ってみたかったんだよな、これ」、「決まった、三回転トーループ並に」と心の中で次々に感触を得ていた。鳴美の表情は笑顔に満ち、それは発表会では見せないものであった。緊張から解放され、今から演奏することにワクワクしていた。家で遊びながら弾いていたジャズ。人前では弾くことはないと思っていたが、思わぬ形で演奏機会に恵まれた。そして鳴美は大きく息を吸ってゆっくり吐き出すと、発表会では絶対に弾かないジャズを弾き始めた。

 

「いないなぁ」鈴木は生徒たちを全員見終わった後、ため息をつきながら言う。「じゃあ仕方ないな、新山。頼む」

「やだよ」鳴美の二つ後ろの席から声が発せられる。

「お前しかいないんだぁ」

「お前がやれよ」乱暴な物言いが飛び出す。

「俺は腱鞘炎なんだぁ」鈴木は痛そうに左手で右肘を掴む。

「嘘つけよ。ピアノなんて弾かねえじゃん」

「よし、じゃあ部を廃部にする」

「ふざけんな。部員はギリいるって言ってんじゃん」

「一人はゴーストだろぉ? 知ってるんだぞぉ」

「……分かったよ、弾けば良いんだろ」

 そう言うと鳴美の後方から乱暴にイスを引く音が聴こえ、ズカズカと階段を降りる音がして次第に大きくなる。鳴美は顔を少し上げ、通り過ぎたばかりの後ろ姿をちらっと見る。すると、派手な香水の匂いが漂い、クラス一のミニスカートと細くて長い足が見える。揺れる髪は校則に引っかからない程度脱色し、校則に引っかかるほどパーマを当てている。学年主任の高橋に注意される度に「くせっ毛なんだ」と言っていた。それが新山唯という女であった。鳴美はその風貌と物言いから関わるのを避けていた。かつて鳴美をいじめ抜いたクラスメイトによく似ていたからだ。

 新山唯はピアノ前のイスにドスンと座る。髪が風圧でヒラリと舞い、耳元のピアスがチラリと見える。

 鈴木は三度頷いて言う。「良いピアスだなぁ」

 新山唯は「マズイ」という顔をして黙る。

「これからも弾いてくれたら、高橋主任には黙っておく」

「汚えな」

「ああそうだ。俺は小便では手を洗わない」

「ほんとに汚えじゃねえか」

「安心しろ、その鍵盤にはずっと触れていない」

「カスめ。何で給料貰えんだよ、コイツが」新山唯は小声でつぶやく。

「何か言ったかぁ?」

「別に」

「よし、じゃあみんな起立」鈴木は笑顔で生徒たちに向かってそう言うと、皆はダラダラとまだらに立ち上がる。

「p.16ページを開いてくれ。シューベルトの『アヴェ・マリア』を歌うぞぉ」

 音楽室中に教科書がパラパラと開かれる音が響く。左手で前からめくったほうが早いのに、鳴美だけが右手で後ろからめくってページを探している。鈴木は全員が教科書を持ったのを確認すると新山唯に向かって言う。

「じゃあ弾いてくれ、唯ちゃん」

 楽譜を見ていた新山唯は語尾の言葉に目の下をピクリと動かし、フーっと息をゆっくりと吐きながら鍵盤に両手を乗せ、眉間に皺を寄せながら弾き始める。


 鳴美は窓際に置かれたベッドの上にうつ伏せになり、開いた窓から入ってきた夜の風が乾ききっていない髪に触れて小さくなびく。枕元に置いたユーカリの匂いを嗅ぎ、ミニコンポから流している屋久島の渓流の音を聴き、スマートフォンを操作し、SNSのサイトを開いている。アカウント名はスカーワルツ。アイコンは飼っていた愛犬。つまり、仮名と写真を使って架空の人物になっている。だからこそ本音が出せる。鳴美がタイムラインを見ていると、フォローしている人の新しい書き込みが表示される。

「死にたい」

 アカウント名は戸坂。当然仮名であろうと鳴美は思っていたし、事実そうであった。戸坂に表示されているのはアカウント名だけで写真はない。けれども、SNSで苦しみを発する人はたいていそうであり、イタズラであるとは思われない。

「苦しい?」鳴美は今日もSOSに応える。

「うん」戸坂から直ぐに返信が入る。

「私もだよ」

「強いんだよ君は」

「弱いよ私」

「じゃあ何か希望でもあるの?」

「ない。でも、生きるって決めたの」

「希望が無いのになんで生きられるの?」

「死んでしまったらお終いだから」

「お終いか。僕はもう終わってる」

「そんなことない」

「生きてたって何も良いことは無いよ」

「私も良いことはないけど、悪いことが起きないように注意を払って生きてる」

「大変なんだね、君も」

「いつか良いことが起きるって期待してる。それだけで良いの」

「良いこと、か。僕には起きない」

「そんなの分からないよ」

「結局、このやり取りも延命でしかない」

「ダメだよ。死んだら」

「死にたい。自殺したい」

「成功してしまったらご両親が悲しむよ」鳴美は今朝見た夢を思い出して書き込む。

「それはないよ」

 その言葉に鳴美は打ちひしがれ、初めて戸坂の家庭環境について考える。鳴美は両親の愛情に恵まれたが、世の中には虐待を受けて育った子、今現在もそういう環境で育っている子がいることぐらいは知っている。今月だけでも二件、幼児虐待が報じられ、うち一件は亡くなっている。

 鳴美は中学校二年生の時の同級生を思い出す。両親が離婚して急に苗字が変わった子を。結局、髪を染め、学校に来なくなった子を。人は経験したことがないことは分からない。鳴美は戸坂の気持ちが分からないということが分かる。

「複雑なの?」

「そうだよ」

「じゃあ私が話を聞くから死なないで」

「何でそこまで言ってくれるの?」

「私だって死にたいって思う時、あるから」

「どのくらい?」

「下校の音楽が町内に流れたら、いつも」

「新世界ってやつ?」

 正確には『新世界より』であったが、鳴美は音楽について掘り下げられ、匿名の仮面が取れるのを恐れ、修正しないことを選ぶ。ちょうど、屋久島の渓流を再生していたCDが終わり、部屋が静かになる。

「そう」

「変わってるね。何か思い出でもあるの?」

「そうなの。あの時は幸せだった」

「そっか。でも、毎日鳴る音楽が苦しみを呼び起こすって辛いだろうね」

「辛いよ。でも私は死なないって決めた。悪いことが起きないように注意を払っていれば、きっと良いことが起こるって期待してる」

「未来は未知数か」

「そう。だから死んじゃダメ」

「僕の未来は変えられない。でも、死なないって約束する」

 未来は変えられない――。重い病気がまず連想され、続けて障害が思い当たる。鳴美は事情を深く訊こうか迷ったが、一歩前進したので今回は傷口を広げずに終えることを選ぶ。

「辛い時はメッセージちょうだい。必ず返すから」

「ありがとう。スカーワルツ」


 鳴美はいつものように別館で昼食を終え、教室に戻り、最後尾窓際の自席に座り、右手に持っていたバッグを腿の上で左手に持ち替え、底を右手で添えて机の左側についているフックにかける。この時、左手にはほとんど力が入っておらず、実質右手だけで運んでいる。

 本来ならば、バッグを右手一本で持ち、左側に運びたいのであるが、対角線へ物を運ぶという行為は些か見ている人に怪訝な印象を与えてしまう。鳴美は行動する前に己を他者の視線で見て、どう思われるかを常に考え、訝しげな思念が湧かぬよう最善の注意を払っている。

「聞いたか? 横綱が暴行だってよ」

 背後から声が聴こえる。鳴美はその声が辻本渉のものであることがすぐに分かる。

「前にもあったよな」

 続けて佐藤の声がする。昼食を食べ終えた二人は鳴美を気づかい、席に座らずロッカーの前で立ち話をしている。

「ああ、殺されたやつな」

「変わらないな」

「悪しき風習なんだろ」

「まわしも汚れたもんだ」

「元々汚れてるだろ」

「そういう意味じゃねえよ」

「けど、あれって洗濯できないんだぜ」

「えっ、じゃあどうしてんの?」

「弟子が拭いて、日干しらしい」

「曇ってたら最悪じゃんか……」佐藤は愕然とする。

「香水撒くしかないだろうな」

「いや、股間から良い匂いがしたら稽古に集中できないだろ」

「晴れたら晴れたで、太陽はいつもより頑張っちゃうだろうな」

「それだけのためにかよ」

「まさか、相撲が温暖化の原因だったとはな」

「いや、それは別問題だろう」

 窓の外の曇り空をぼんやりと眺めていた鳴美は、視界の右側に人影を感じる。そちらを向くと、そこには縁のないメガネをかけ、ブラウスを第二ボタンまで締め、香水の香りがしない雪恵が立っている。

「上山さん、良かったらこれ、読んで見ない?」

 雪恵が差し出したそれは夏目漱石の『草枕』であった。鳴美の瞳孔が開く。カナダの大ピアニスト、グレン・グールドが愛読した本で、ピアニストを志す青少年が読む日本の古典文学といえば筆頭に挙がるものである。すなわち、鳴美は小学三年生の時に読み、夏休みの読書感想文に使用した。けれど、実際のところいまいちピンと来なく、本は再度読まれず、数年後には実家の自室の本棚から漏れ、押入れのダンボールの中に眠ったままであった。

 このたった一、二秒の間に鳴美の頭の中ではいろいろな考えが湧き起こる。なぜ『草枕』なのか。ピアノをやっていたことが知られたのか。反応を伺いそれを見極めようとしているのか。鳴美は訊くことを避けようとしたが、自身のことに関わるのなら、と思い切って訊いてみる。

「ありがとう、でもなぜ『草枕』なの?」

「短歌に興味が無さそうだったから、小説の方が好きなのか、と思って」

 即答した雪恵の二つの澄んだ瞳に詮索の色は無かった。鳴美は過剰防衛反応から、考えすぎたことをすぐに理解した。鳴美は間が空かぬようすぐに言葉返す。

「良いの?」

「うん」

 鳴美は右手を伸ばし、差し出された本を掴む。その感触は手脂の無いサラッとしたもので、雪絵の外見と同様清潔感が漂う。

「ありがとう。大切に読むね」鳴美は笑顔で言う。

 鳴美はクラスメイトと余計な壁を作らぬよう、笑顔を作ってきたが、今回は雪恵の優しさと本への懐かしさに心がほぐれ、自然な笑顔が出ている。雪恵も何となくいつもと笑顔が違うと感じ、顔がほぐれる。

「うん」

 そう言うと、雪恵は背を向けて教室入口付近の自席へと歩いていく。その背中を見つめている鳴美に一つの疑問が浮かび上がる。

 何で夏目漱石なんだろう? と。

 雪恵は雪恵でふと鳴美の瞳孔が開いたことが気になり始める。

 読んだこと、あったのかな。

 そう言えば、草枕を知ってたようだったな。

 持ってたら、ありがた迷惑になっちゃったかも。

 でも、良い笑顔だったから、大丈夫かな。

 あっ、もしかすると読もうとしていたのかも。

 うん、大丈夫。たぶん。


 小さな丘の上にある図書館から出ると、正面には燃えるような夕日が浮かんでいる。その橙色は大空に含む青色と混じり合い、この世で最も美しい紫色を生み出している。鳴美は夕日を浴びながら丘を降り、家路へと進む。歩道を進むとやがて三叉路に当たり、鳴美は先程読んだばかりの本の文章を思い出す。


 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


 鳴美は普段選ぶ右側の住宅街ではなく左へ進む。普段避けている方を。二車線道路脇の歩道をゆくと、左手に小さな商業ビルが建ち並ぶ。その中の一つの前で鳴美のローファーは音を立てて止める。一階には大手楽器店、二階には系列のピアノ教室があり、車道脇には降りたばかりと思わしき車が停めてある。鳴美はガラス張りの楽器店の中を見つめる。奥にはチェロがいくつか立てかけてあるのが見える。鳴美の足は自然と店へ吸い寄せられていく。ガラスに左手を触れ、チェロを見つめ続ける。あの優しくて楽しい音を思い出す。

 すると、一階脇にある屋内階段の上方奥からチャリンチャリンとベルが揺れる音が聴こえ、続けて階段を降りる足音がし始め、それは徐々に大きくなる。鳴美が屋内階段の方を向くと、三十代前半の女性と小学校低学年の少年が姿を現す。

「今日は八番を褒められたよ」髪を短く切り、長袖Tシャツを着た少年は笑顔で言う。

「あら、良かったわね。一生懸命練習してたものね」無地の薄ピンクの長袖シャツにタイトなジーンズを履いた女性は言う。

 二人は目の前に停めてある赤い車へ向かっていく。鳴美は二人を見ながら自身の過去を思い出す。かつて同じように母親が運転する車で別店舗のピアノ教室に送り迎えをしてもらっていたことを。

 やっぱり、来なければ良かったな。

 鳴美は赤い車が走り去って行くのを眺めながら、後悔し、目に涙を溜める。そして、頭の中で塚本と演奏した思い出の曲が再生される。鳴美はリヒテルにはほど遠く、塚本はロストロポーヴィチにはかすりもしなかった。けれど、二人は世代を越えた友情のようなものを確かにあの時、あの名曲を通して共有していた。

「三番か、上山。俺にはドーピングをしなければ越えられない高さのハードルだぞ、自慢じゃないが」

 鳴美は懐かしい声を思い出し、赤い車とは反対方向へ歩きだす。夕日は地平線に降り、薄暗い空に半月の光が僅かだけ輝いている。

 


 今夜も、上山鳴美は自作短歌を詠む。


 西日餅餅屋が鳴らすチェロソナタベートーヴェンで胸裏膨らむ

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いじめの後に巡礼が待っているということ 司島維草 @ravel_op82

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