第7話

 私の意識は、何もない空間にありました。どのぐらい何もないかというと、上下や左右といった概念すら存在しない、ただの空間でありました。

『彼』はその空間の真ん中に居ました。人理の及ばぬ太古の昔からある尊大にして無慈悲な海の化身としてのあるべき姿、無数の触手をおぞましく蠢かす陽光すらも届かぬ海底にある林、無謬であり曖昧である観念体の具現として与えられた海洋生物としての姿で。

 辺りには死んだ魚の漂う死の海に似た生臭い匂いが漂っていました。

 不意に、『彼』はその体を揺すって、さざ波が押し寄せるような絶え間ない声をあげました。

「ああ、わかる」

 それは私の名を呼ぶ声でした。私は無数のささやき声を重ね合わせて切り貼りしたような音の中に、懐かしい声を聴きました。

「ええ、私も、今でもあなたを愛している」

 両手を広げて『彼』を抱きしめれば、喪った恋人と同じぬくもりを感じました。当たり前です、いまや私の恋人は『彼』の一部であり、『彼』そのものなのですから。

 私は脚を開いて彼を受け入れ、何度も何度もその名を呼びました。人の声では決して呼べぬその名を、何度も何度も呼んで、そして快楽の果てへと……。

 もちろん、こうした忘我の最中のことを誰かにお話するのは、これが初めてです。あのあと、私の精神状態を心配した両親が半ば強制的に私を病院へと連れて行ったのですが、『彼』との尊い愛の交わりをただの淫らな夢想だと思われることを恐れた私は、その事実の大半を医者にさえ伝えませんでした。そこで私は、恋人を亡くしたことによる心神耗弱だと診断されたのです。

 私はこの診断を受け入れました。そのころにはまだ、この忘我の状態が自分の変質によるものだとは気づいていませんでしたし、亡くした恋人との快楽に浸るための単なる夢想なのだと、自分でもそう思い込んでいましたから。

 そうではないと思い知らされたのは、幾度目の忘我の時でしょうか……『彼』と私しかいないはずの夢想の中に、あの車いすの少女がいたのです。彼女は相変わらず青いタオルケットで下半身を覆っていましたが、上下の存在しないこの空間では困ることもなく、ただふわふわと漂っていました。

 少女は私を見下ろして、「ふふ」と小さく笑っていました。

「どうして私がここにいるのって、そんな顔してるわね」

「ええ、まさに、いまそれを聞こうと思ったのよ」

「簡単なことだわ、『彼』は海であり、海は『彼』でもある、ならばいずれ海に還る私も海なんだもの」

 私の頭が混乱しました。いったい、私は誰と話しているのでしょう。

「ねえ、夢だと思ってるでしょ、これ、全部」

 少女の姿をした者が大きく揺れ動き、何もない空間を由良、ゆらりと泳ぎ始めました。青いタオルケットを払い落したその下半身は、大きな尾びれをつけた魚のものでした。

「夢ならばよかったのにね」

 少女が大きく尾をひるがえしたその時、現実に置いてある肉体の感覚が私の中にまざまざとよみがえりました。私は買い物に行こうと電車に乗っていたはずなのですが、すぐ隣に立ったOLの狼狽した声や、意識のない私に呼びかける声や、体を支えてくれる誰かの手の感触など、すべてが明確すぎるほどに感じられたのでした。

「大丈夫です」

 そう発音したつもりだったのに、声は何もない空間に響いただけで、表へは一つも届きません。肉体の五感はあっても、指一本動かすことはできず、そこで初めて、精神だけが完全に肉体とは別の場所に囚われているのだということを知りました。

「私、どうなるの?」

「母になるのよ、それが惰魂様の望み」

「惰魂様の……」

「そう、『彼』の」

 返事を反してくれたのは少女だったのか、それとも別の何かだったのか――もっとも、彼女も海の一部である以上、そんな些細な区別などどうでもいいことなのでしたが――私はいつも通り『彼』に抱きしめられていました。

「あ、だめ」

 拒絶の言葉すら聞かずに私にのしかかってくる体温は海の底の水のように冷たく、その体臭は死に絶えた海の腐臭でしたが、今やそれが、私の愛する男なのです。

 電車という公共の場で、衆目に晒されながらだらしなく抱き落とされてゆく……その快楽に抗うことはできず、私はただ泣くような声で、亡くした恋人の名を呼んだのでした。

 もしかしたら、それが完全なる正気でいられた最後の瞬間だったのかもしれません。


 その日からずっと、ともすれば狂気へと堕ちそうになる自分を押しとどめて暮らしてきました。

 正直な話、私はもはや喪った恋人の名前を覚えていません。今や『彼』の一部となってしまったその人を呼ぶとき、人間の個人識別のための概念である名前など、なんの意味も持たないからです。

 肉体の感覚も、現実の五感を鮮明に感じながらそれよりもさらに強い快楽を与えられる忘我を何度も経験するうち、すっかりあいまいなものとなってしまいました。今では時々、こちらで感じている五感の感覚よりも、あちらで感じている快楽の方が現実ではないのかと思うほどです。

 そう、『彼』は私の精神を媒介とすることによって、陸上の生き物である私の肉体に干渉することに成功したのです。私は数か月前に生理が止まりました。他に心当たりなどありませんから、間違いなく『彼』の子供です。

 あれから、『彼』による精神干渉はますます強くなり、最近では一日の大半を忘我の中で過ごす日も多くなってきました。きっともうすぐ、私の精神は完全にこちらの世界を離れ、あの何もない空間に囚われてしまうことでしょう。

 残った肉体は、桝内から寄越された人間によって回収され、海へと還されるに違いありません。もしもある日、私がきれいさっぱりいなくなったら、ああ、海になったんだなと思っていただければ間違いないと思います。

 残るは私の胎内にいるこの子ども……私は、この子がどうして私を選んで生まれるのか、その理由を知っています。忘我の内にいる時に『彼』が教えてくれましたから。しかし人間がその理由を知ろうと思うならば、おそらくは私のように心をあちら側に置かねば理解することすらできないでしょう。そしてそれは正気を売り渡してしまうことを意味するのだから、どちらにしろ真っ当な精神の人間には、この子を陸に送り込んだ『彼』の真意にはたどり着けないのです。

 どうしても知りたいのならば、海に……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

矢田川怪狸 @masukakinisuto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ