チャプター8 Pull Me Under(後編)

 ゴマスの車のドアを開けると、目の前には船橋市の北の方にあるゴルフ場の入口に来ていた。


「着いたわよー、対象のドーパントであるソウギョクとナガツキは、この先、一キロ先の十三番ホールで、鈴木さんと焚き火をしているわー」


「はあ……余裕というか呑気なもんですね……ゴルフ場で焚き火って、芝生を痛めそう……」


 IRから帰ってきたばかりのノブヨが「腹が減ってはなんやらです!」と言って、マックのハンバーガーをムシャムシャと食べていた。


「余裕そうに見えるけどー、斥候として送り込んだ何人かのNNユニットは、案の定、我々との連絡は途絶して戦闘中行方不明MIAとなっているわー。いわば、このゴルフ場は一度足を踏み入れたら、二度と帰れない禁足地……藪知らずってやつかなー」


 ゴマスは、指をエアクォーツしながら、ニンテンドーDSでペンを使った何かのパズルゲームをやっていた。


「余裕そうなのは、あなたもでしょゴマス。この先に罠があるのはどう見ても明らかじゃない。その対処は出来ているんでしょうね?」


「対処もなにも、それが出来たら我々はもうやってるわよー……ただ」


「ただ?」


 ゴマスはゲームの電源を消す。ルチルクォーツの瞳が、ギラギラとわたしを見つめる。


「我々は……わたしはねー、全力で和嶋さんを支援するわー。どんな手段を使っても、あの二人の一〇五を手に入れて欲しいのー。そうじゃなきゃ困るわー」


 


 わたしとノブヨを置いて、ゴマスの車がけたたましいエンジン音をあげながら遠ざかる。スズムシやコオロギの合唱が辺りを包み込み、薄暗い電灯に照らされた、ゴルフ場へと続く漆黒の森に視線を向ける。地獄の入口のようにも見えてきた。


「はあ……上の奴らは何がなんでもハルを勝たせたいんですね……はあ……相転移を開始、IFグレード、フラクチャーマント、ブラックダイヤモンドを起動」


 ノブヨはいつも通り、気だるそうにフラクチャーのダイヤのマントとドレスを広げ、わたしの脇腹に真珠の鍵を差し込む。


「はあ……ソフトシェルを解除、ハードシェルへの相転移を開始。フラクチャードレス、ソリタリーシェルを起動……はあ……」


 ノブヨがいつも以上にフラクチャーの姿になるのが嫌そうだった。


「どうしたのノブヨ……お腹痛いの?」


「はあ……生理みたいな言い方止めて下さい。違いますよ……はあ……そんじゃ、とっととフラクチャー合成しますよ」


 ノブヨとわたしは唇を重ねようとする。冷静に考えてみたら、こうしないと互いに合成できないなんて、インクルージョンは何を考えているのやら……。


「はあ……キスというのは、人類の文化史において……紀元前から行われている重要なファクターですから……インクルージョンが……」


 ノブヨの顔が段々と赤くなっていく。


「なんで、そんなノブヨが緊張してるのよ。こっちまで、恥ずかしくなるじゃない……」


「はあ……とっととやりますよ!」


 ノブヨがわたしに無理矢理キスをする。何度目か、わたしはノブヨのラウンドブリリアントカットの瞳に吸い込まれそうに……あれ? 前に見たより、カットの不純物が多い気が……。




 はあ……あの肉屋のオヤジ……いくら、わたしが常連だからって、こんなに竜田揚げくれなくても……でもハルと……ハジメにあげたら、喜んでくれるかな……ハジメ……普段、酸っぱいもんばっかで、あまりタンパクなもの食べてないからね。


 はあ……学祭か……悪くないな。写真部の展示もそうだし、ハルとの演奏も大好き。すごく落ち着く。


 ここのEIへ戻ってきてほんとに良かった……彼女たちはわたしに、知らない感情をどんどん教えてくれるから。


 ……ハジメ、わたしの演奏を上手く撮ってくれるかな……ハジメ……って、なんでわたしハジメの事ばっか考えているんだろう……。


 ハジメと焼肉か……わたしと、二人だけってハルが妬かないかな……ふふ……焼肉だけに。


 あれ? はあ……また、あの二人……学校でイチャイチャしやがって……ここは護衛役でもあるわたしが、しっかり注意しとかないと……ハジメ、気持ちよさそう……あんな顔、わたしの前じゃ……いやいや、まったく、サカリのついた猫じゃあるまいし……うん? なんか、眼から水が……タンパク質を含む水が? えっ……嘘……なんで、わたし泣いてるの? どうして? こんな……わたしは、そんな……わたしはNNよ……そんな……わたし、ハルに……嘘よ……どうして! どうして? どうして涙が止まらないの……ハジメ……ハジメハジメハジメ……どうして、わたし羨ましいだなんて……どうして?


「誰!」


 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうし……。




「フラクチャー合成処理を完了。モードをバイカラー二色ユニットに移行します……はあ」


 わたしの頭の中に響く、ノブヨのエコーが少し、キツく言っているように感じた。もしかしてかなり怒ってるかもしれない。


 ノブヨの悲しみが、脳裏から離れなくて、思わずわたしは「……ごめんノブヨ」と言ってしまう。


「はあ……なにがですか?」


「とにかく、ごめん……」


「……いいんですよ、わたしが勝手に自爆しただけですから」


「自爆って……」


「それに、ごめんって言うのはわたしじゃなくて、ハジメにですよね?」


「それは……」


「ここまできて、喧嘩別れなんてしたら、わたしはハルを許しませんよ」


「……はい」


「これからハルと対峙するソウギョクとナガツキは、千人以上のハルを、一万を越えるわたしたちNNを壊し続けてきた怪物です。今まで以上に想像を絶する苦しい戦いになるでしょう……だから、約束して下さい」


 わたしは右手に真珠の銃。左手にダイヤの盾をイメージし、手から生成する。


「ハジメにちゃんと謝ること……仲直りすること」


「そう……そして、わたしとハジメに美味しい焼肉を奢って下さい」


「うん……うん?」


「わたしこそハルに謝らないといけませんね。そもそも、わたしとハジメだけで焼肉行こうとしたからバチが当たったのかもしれないですから」


 わたしは、森の中へとズンズン進んでいく。


「……いくらでも奢ってあげるわよ。肉ぐらい……三人で行こうノブヨ」


「ええ、三人で行きましょう……。プロポーショングリッドに警告……複数です。ところでなんか、今の台詞って……」


「うん……なんか、死亡フラグっぽかったよね……縁起でもない……数は?」


 暗闇の向こう側、点々と光る瞳と、威嚇する蝶のように、発光した虹色の光沢を放つマントを広げたNNたちが、わたしを出迎えていた。片方の眼が、六条の光を放つスターサファイアの瞳、もう片方がノブヨと同じ、ラウンドブリリアントのダイヤの瞳を併せ持つ二色の……。


「バイカラーユニット……わたしたちとお揃いですね。VSクラスの上位体ハイエンド。数はニ十……死亡フラグですって? とんでもない、所詮こいつらは、わたしとハルには遠く及びませんよ」


「しかもわたしも含めて、全員ご丁寧に、お姫様姿フラクチャーマント……とんだ舞踏会ね」


 木の上にいたNNが長いドレスをヒラヒラさせ、わたしに奇襲をかける。わたしは、盾を襲ってくるNNに投げつけ、反動で怯むNNにありったけの放散虫の弾丸をお見舞いした。砕けたダイヤとサファイアの雨がパラパラとわたしに降り注ぐ。


「……ノブヨありがとう。ソウギョクの爆弾からわたしを庇ってくれて」


 わたしは、ペアリングをギュッと握りしめる。


「いいんですよ……次は絶対、手離さないでください。残り十九」


「時間を今すぐ結晶化できないの? こいつらを一気に片付けたいんだけど……」


「はあ……できるならとっくにやってますよ……こいつら、合成されてても、NNユニットの機能は持続してるみたいです。器用なもんですよ、ソウギョクは」


 足下に何かが転がってくる。グレネード?


「はあ……小賢しい真似を」


 ノブヨが悪役みたいな台詞を言うのと同時に、視界が真っ白になる。さっきのグレネードは、閃光弾的なものだろうか。


「プロポーショングリッドを一時的に解除。視覚以外を高感度化します……ほら!」


 ノブヨの「ほら!」の掛け声と共に、五人のNNと思しき、黒い影がわたしに襲いかかる。わたしの五感を高めて、仮想化したのだろうか、ノイズ混じりのNNと思しき影が波打ちながら、わたしにダイヤの矢を射出する。


 それをスレスレで避けると同時に矢を弾丸で撃ち落としながら、NNたちの頭部を集中的かつ正確に撃ち抜いていく。


「プロポーショングリッドを使っていないのに……こんなにあっさりと」


「はあ……二人目のハルの一〇五を手に入れた影響かもしれませんね……正直わたしでも驚いてますよ……残り、十四」


 最後の一人の頭部に風穴を空けてから、レンズの絞りを変えるかのように、わたしは眼球をカチカチと回転させると、プロポーショングリッドが再起動する。


 間髪入れずに、今度は十人のNNがわたしを一気に囲う。


「ノブヨ、同胞というか姉妹を倒していて、嫌悪感とか覚えないの?」


「はあ……知ってると思いますけど、わたしたちNNユニットは死という概念がないですから。破壊されても、バックアップを取られて、IRに戻されるだけです」


「……不毛ね」


「はあ……同感です」


 ジリジリとNNたちが近づいてくる。


「よく昔の時代劇って、こんな風に集団で襲ってくる場面があるけど、よく見てみると、一人ずつしか戦っていないのよね……子供の頃、思ったのよ」


「……はあ、と言うと?」


「なんで一斉にタコ殴りにしないのかしらって……NNの場合はどうなの?」


「はあ……そんなもん決まってるじゃないですか」


 NNが十人一斉にわたしに矢を連射する。プロポーショングリッドが高速起動し、脳内がバーストしてクラクラする。


 わたしが避けられない、撃ち返さない対処なのか、矢がジグザグに動きだし、弾幕が編み物のように絡み合い、グリッド線が立体的なアラベスク模様のようになって、わたしに襲いかかる。


 頭がギリギリ入る隙間を見つけ、猫のようにわたしは、そこに飛び込み、一番近いNNの頭部に弾丸を撃ち込む。


「残り、十三……タコ殴りにしないのは、映像的に汚いからでしょう。これは、時代劇の殺陣じゃないんですよ」


 三人のNNが三本の矢を連射し、一本の矢を盾で弾き、二本目の矢を銃弾で弾き、三本目の矢を片手で掴み、バレエのようにグルグル回りながら、NNの頭部にそれを叩き込む。


「残り十ニ……上から来ます」


 真上から二人のNNが飛びかかってくる。わたしも、フィギュアスケートのように、勢いよく回転しながら飛び上がり、ウミユリのようなスカートの触手をダイヤのブレードのようにして、NNの首を一気に切断する。


「残り十……よくもまあ、そんな芸当できますよね」


 落下しながら、切断されたNNの身体を盾にして、別のNNを巻き込み、近距離で銃を発砲する。


「残り九……ほんとに、ハルが敵じゃなくて良かった」


「褒め言葉として受け止めておくわよ!」


 次に七人のNNが、長い矢を手に持ち、フェンシングのレイピアのように振り回しながら、わたしを一斉に突いてくる。


「ああ、これこそタコ殴りってわけ……」


「はあ……この場合、タコの刺身ですかね……じゅるり」


「おい、こんな時に食い物の話!」


 プロポーショングリッドが、一斉に警告。細い点が雨のように降り注ぐ。レイピアが一斉に、わたしをメッタ刺しにしようとしていた。


「テンポを合わせて、ステップを踏んでノブヨ」


「はあ……はっ?」


 以前、ミネラルウェア同士の戦いはダンスの応酬みたいだなと思ったけど、それは間違いじゃないと実感していた。高速でステップを踏み、相手のリズムに合わせて、頭と腕を振り回しながら、プロポーショングリッドの導くままに、わたしは舞う。


「悪いけど、わたしはただのタコじゃないわよ!」


 四肢とスカートを真珠とダイヤの銃、ブレードを駆使してNNたちに応酬し、挑発する。


「はあ……文字通りのタコ踊りですか」


「暴走族じゃない!」


「なんか、以前にもこれを踊ったことがあるような気が……」


「あるわよ……あなたが酔っぱらっているときにね」


「はあ……こんな変な踊りを……」


 ダイヤのレイピアが、上下左右、四方八方からわたしが確実に逃げられない方角から突いてくる。


 そう人間のであれば確実に……。


 わたしは、首と四肢の関節、腰の辺りをできる限り不自然に折り曲げ、レイピアを避ける。カートゥーンアニメみたいだけど……。


「はあ……かなりグロい事に」


「避け続けて……ノブヨ!」


 NNのレイピアが高速で突いてくる。わたしが無理に避けようとしていて、身体の節々を次々に折り曲げていく、徐々にわたしの頭は地面へと近づき、わたし自身もどんな体勢をしているのか、段々と分からなくなっていく。


「はあ……なにも、本当にタコにならなくても……あ、そこです」


 地面に埋もれた触手になっている右手の銃を一体のNNの足の裏に撃ち放つ。バランスを崩したNNをそのまま触手で掴み、わたしはブレイクダンスのウィンドミルのようにグルリと回転、何体かのNNの首を斬り落とす。


「残り五体、これで思う存分踊れますよハル」


「ははっ! そうこなくっちゃ!」


 三体のNNがカンフーアクション映画のようにグルグル回りながら、物理的にありえない動きで向かってくる。プロポーショングリッドが混乱していた。矢印が、ジグザグに入り組んで、カバンの中でグチャグチャに絡んだイヤホンのコードのよう。


 タップダンスのシャッフルステップ、足と触手で交互に高速でステップを踏みながら、レイピアを足で払い、矢を斬り落とし、バク転、すかさずNNの頭部に数発発砲する。


「残り四」


 ニ体のNNがわたしの動きを真似しながら、ゆらゆらとコンテンポラリー・ダンス的な、予測不能な舞いを踊っていた。体操のリボンのように、NNの周りで、プロポーショングリッドの矢印がグルグルと回っている。


「なんか、合図はないの……」


「はあ……あるわけないでしょ」


 NNが矢を発射した。わたしはそれを避けずに、両手で受け止める。火花を散らせながら、わたしはネズミ花火のように回転し、宙を舞い、そのまま一人のNNに矢を投げ返す。威力が強すぎたのか、NNの頭部ごと、矢が刺さった状態のまま木の幹に首が埋没する。


 もう片方のNNが撤退しようと、後ろの方へ飛び上がり逃げようとした。


『もう遅い!』


 わたしとノブヨが同時に言う。手に持った矢を投げつけ、ダイヤの弾丸を一緒にお見舞いした。


 わざとらしい昔の西部劇のように、銃弾を浴びたNNが死の舞踏を踊りながら、粉々に砕け散っていく。


「残りニ……あれ?」


 ノブヨの「あれ?」と一緒に、プロポーショングリッドの警告、コンマ一秒の内に、盾が粉砕される。


 衝撃でわたしは太い樹木に、身体ごと突っ込む。


「はあ……長距離射撃ですか」


 片方は三百メートル先のクラブハウスから、もう片方は、七百メートル先にある丘の上からだ。


「どうするノブヨ……近くのヤツから倒しに行く?」


「はあ……その必要はないですよ」


 ガチガチと氷の割れるような音がした。スカートの触手が肩まで、めくれ上がり、段々と長い……長い砲塔のようなものがみるみる生成されていく。


「キャリブレーション……弾道処理計算……アンカー固定……ほら、四つん這いになってハル」


 わたしは地面に這いつくばって、肩から飛び出した大砲を神輿のように担ぐ。


「なんか、ヤドカリになった気分」


「はあ……ハルの場合、カタツムリでしょ……ほい、仮想的ゼロイン」


 肩が少しだけ軽くなり、巨大な放散虫の弾丸……もとい、ダイヤが網目模様状に織り込まれた宝飾品のような砲弾が射出される。


 空気を切り裂き、瞬時に遠くの方で耳をつんざくような爆発音がした。わたしのカーバイドクラスターをブレンドしたのだろう。


「はあ……グリッドの反応を消失。NNユニット全機の破壊を確認しました……妙ですね」


「なにが?」


「簡単過ぎる……ソウギョクたちの事だから、なにか罠があると思ったのに……ん?……I701V75♯007DONTSHOOT……撃つな……あっ!」


「えっ? ノブヨ、それは?」


 わたしは走り出した。いや、ノブヨの意志で走り出したのだ。ノブヨのエコーから、動揺しているのを感じた。


「やばい、ヤバイ……今のはNNユニット間で使われているリートスピークです。うっかり、わたしはそれに、返事をしてしまった……答えてしまったのです!」


「それの何が問題なの?」


「きます」


「何が?」


「何かがです!」


 わたしはノブヨにコントロールされるがまま、森を駆け抜けていく。「何か」を仕掛けられる前に、ソウギョクに接近したいのだろう、わたしはプロポーショングリッドに表示されたターゲットマーカーに向かっているが……向かっているはずなのに。


「……どうして、近付かないの?」


 わたしはマーカーに向かっているのに、いつまで走っても、ソウギョクとナガツキ、ハジメのいる十三番ホールまでたどり着けない。かなりのスピードを出して、森を走っているが、ランニングマシンに乗っているかのように、同じような景色が永遠と続いている。


「はあ……同じって、同じところですよ」


 足下に見覚えのあるダイヤとサファイアの残骸があった。さっきのNNとの闘いの残骸だろうか。


「はあ……環形彷徨ですか」


「リングワンダリングって言いなさいよ……前にもこんな事があったわよね……これって、いつの間にか、この森が……空間が結晶化されたって事?」


 わたしは上へと跳躍する。空からだったら、俯瞰して見渡せるかもしれないと思ったが、木の先端を抜けた先は、なんと、さっきわたしが飛んだばかりの地面が現れ、思わず土とキスしそうになる。


「はあ……どうやったか知りませんが、ソウギョクとナガツキはインクルージョンの権限だった空間転移の力を想定以上に使いこなしているそうですね……こりゃヤバイ」


「こりゃヤバイじゃなくて、何かいい案はないの?」


 わたしとノブヨは、仕方なくマーカーの周りをグルグルと走り続けるしかなかった。渦巻き状に周回して、マーカーに近づけないか試していたが、


「なんか、ほんとに水族館の魚になった気分……」


「なにか……なにかない……なにかないか」


「本当に、どこかの猫型ロボットみたいな事を言わないでノブヨ」


 そんな時、ふと……嗅いだことのあるいいにおいがした。わたしは、走るのを止め、その場に立ち止まる。


「はあ……どうしたんですか?」


「今、においがしたの……ハジメの香水……柑橘系の甘いレモンの香りが……」


「はあ……でも、ハジメはここには……」


「でも香りがしたのよ……ハジメが、すぐそこの、木の裏にいたような気が」


「……ハル」


 わたしは、いもしないハジメに、思いがけず、喉の溜めていたあの台詞を言っていた。


「ハジメ……ごめんね……ハジメ」


 後方、四時の方向から、ハジメの気配がした。


「ハルッ! 避けてぇっ! わたしはここにいるっ!」


 そのハジメの叫びを聞いて、わたしは振り返ると、右目の視界が突然消失する。


「ノブヨ……右目が」


「これは一体、なにが……なにが、起きてるんですか!」


 ノブヨの叫び。


 わたしは違和感を感じて、右目の辺りを触ると、そこには、右目ごと、わたしの顔半分がえぐれていたのに気が付いた。


「やられた? でも、一体どうして……」


「はあ……プロポーショングリッドが機能していない? まさか、ソウギョクの攻撃は時間や空間を無視してるっていうの……えっ? 嘘でしょ……」


 わたしは……ノブヨは再び走り出す。


「どうしたの? ノブヨ!」


「どうやら、インクルージョンは何がなんでも、ハルに勝たせたいそうですね。わたしが……わたしたちが、転移を行う許可が下りました」


「つ、つまり?」


「他のEIを通過します! 入口を作りますよ!」


「入口って、どうやって作るのよ!」


「潜れれば何でもいいです!」


 ノブヨに指示され、なすがままに銃を構え、手近の樹木に発砲する。


 身体がギリギリ潜れそうな穴が空き、わたしは一目散に、その穴にへと飛び込んだ。まるで不思議の国のアリスのようだなと思いながら……。




 彼女は朝の身支度と学校へ行く準備を終えてから、ダイニングの扉を開け、母が入れてくれたコーヒーのにおい、弁当用のご飯が炊けているにおい、ベーコンパンケーキの焼けるにおい、などなどがブレンドミックスされた朝の居心地のいいにおいに酔いしれながら、テーブルに座り、スマホをチェックする。


 画面には昨日、都内へ遊びに行ったハジメとの自撮り写真が、羅列されていて、その並びをジーッと眺めているだけで、彼女は何とも言えない多幸感に包まれていた。


「あらあら、仲がいいわねー……まるで付き合ってるみたいねぇ」


 母が彼女の後ろからジーッとスマホを覗き見していた。


「母さん! 勝手に覗かないで!」


「はいはい……コーヒーが冷めないうちに、とっとと食べちゃいなよ。ガスと戸締まりだけヨロシクね……」


 母はそう言って、慌ただしく家を出ていく。相変わらず仕事が忙しそうだった。


 甘いものが大好きな彼女は蜂蜜の瓶に手を伸ばすが、今日は何となく、ケチャップの気分で、冷蔵庫から取り出す。


 テレビでは、今週の天気予報がやっていて、土日の予報は晴れだった。彼女は今度の土日、ハジメとどこに遊びに行こうかと、ウキウキした心持ちで、スマホの写真を眺めながら、ベーコンパンケーキにケチャップをかけようとするが、空なのかケチャップの出が悪い。


 彼女は、やれやれと思いながら、ケチャップボトルの底の方を思いっきりねじる。


 ビチャビチャと、パンケーキにピンク色の固形物が混じったソースがぶちまけられる。


「あれ……ケチャップってこんなにピンク……色だったけ……」


 彼女はスマホに、ケチャップがかかったのが気になり、スマホを拭こうとする。画面の中のハジメと彼女が幸せそうに笑っていた。


「ハジメ……ほんとに楽しそう……」


 彼女のおでこに、ゴルフボールぐらいの大穴が空いていた。その穴からドクドクと絶えず、ケチャップのような脳味噌のシェイクが吹き出し、ベーコンパンケーキを血だまりで沈めていく。


 わたしはその光景を呆然と眺めていた。わたしはわたしが死ぬのをただただ眺めていただけだった。


「ノブヨ……なによこれ……なんなの……なんなのよ!」


「止まらないでハル! 次の扉に進んでください!」


 ベーコンパンケーキに顔を埋めたわたしを見ながら、ダイニングの扉を開け放つ。




 扉の向こうは、わたしのクラスで、小テスト中だろうか、問題を解き終えたわたしが、ボーッと窓の外のグランドを眺めていた。体育でソフトボールをしているハジメを観察していた。


 ビチャビチャと、テスト用紙がピンク色に染まる。不器用そうにバットを振るハジメを眺めながら、そのまま机に突っ伏すわたし。


 わたしはそれを尻目に、外へと続く窓を開け放つ。




 窓を開け放つと、今度は生徒会の定例会議をしているわたしがいて、ヨシミが入れてくれた紅茶に手を伸ばした瞬間に……ビチャビチャと、自分の脳味噌を紅茶にぶちまける。


「ノブヨ……まさか、インクルージョンたちは……」


 ヨシミの悲鳴がドップラー効果のように、低く響き渡り、わたしは用具入れの扉を開け放つ。




「ハジメ……待った?」


「ううん、いま来たとこ」


 写真部の扉を開けて、わたしはハジメにプリントしたばかりの、写真を見せようとするが、写真がビチャビチャとピンク色に染まっていて、ハジメに見せることが出来なかった。


 呆然としたハジメが、現実を直視できないのか、プルプルと震えながら、笑っていた。叫んでいるように笑っていた。


「インクルージョンは、他のEIのわたしを身代わり……犠牲にしているのね……」


「見ないで下さい……この状況を打破できるまで……」




 次の扉を開けると、雨が降りしきる住宅街に飛び出し、相合い傘をしているわたしとハジメが、コソコソと隠れながら、キスをしようとしていた。こんな記憶はない。たぶん、違うパターンのわたしなんだろう。


「はあ……顔の修復も出来ない……少しでも、ソウギョクの攻撃手段が分かれば……」


 バスンと、傘に大きな雨粒が当たった音がしたと思えば、わたしの頭部に大穴が空いていた。わたしとハジメはお互いに目を閉じながら、口づけをしていた。


 ああ……ハジメ……どうか、どうか、その目を開けないで……ずっとそのままでいて。


 そう、願いながらわたしは見知らぬ家の扉を開ける。




 映画館で、ホラー映画を観ているわたしとハジメ。中央の通路を駆け下りながら、わたしとハジメの前を通過する。


「えっ……わたしのことが見えてないの?」


「このハルは、一◯五を持たないハルですからね。今のハルと因果律が干渉できる可能性が皆無なんですよ。仮に見えたとしても、見えてないんです。マリオット盲点のように、存在自体を視覚的に情報として入れないようにインクルージョンがアウトプットしているんです。いまのわたしとハルは、形や重さに透明度、色が無いんですよ」


「また色……」


 映画のスクリーンで爆発が起きて、わたしの頭に大穴が空く。隣にいるハジメは映画に集中していて、それに気付いていない。ある意味、そっちのほうが良かったのかもしれない。


「はあ……とはいえ、はいずれわたしたちの存在に気付き、今のハルみたいになるでしょう」




 次の扉を開けると、ショッピングセンターで買い物をしているわたし、ハジメとポートレートを撮るわたし、スイーツブッフェでケーキを食べるわたし、ハジメと温泉に入るわたし、中古CD屋で視聴するわたし、ハジメとメタルフェスに行くわたし、動物園に行くわたし、カフェでハジメと勉強をするわたし、ハジメを抱くわたし、水族館に……一人でいるわたし……。


 趣味の悪いお化け屋敷のように、扉を開けると、多種多様なシチェーションのわたしがに頭を貫かれる模様を永遠に繰り返し、繰り返し、わたしに見せつけられる。


 全員、同じ年齢ぐらいのわたしなのは、恐らく「十七歳」のわたしが存在するEIをが、無限にも等しい数から、鑑別しているのだろう。は、恐らく一◯五を持つわたし自身を貫くまで、永遠に他の十七歳のわたしを消し続けるのかもしれない。いや……わたしが、見えていない時間や場所で、もう消しているのかも。


 扉を開けたら、わたしが死に。


 扉を開けたら、わたしが死ぬ。


 扉を開けたら、わたしが死んで。


 扉を開けたら、わたしが死んじまって。


 扉を開けたら……。


 今、わたしが目撃しているのは無限の可能性やパターンを持つ、ごくごく一部のわたし。髪型や服装、体型がコロコロ変わっているのは、そのせいだろう。それでも、わたしはハジメと一緒にいるEIしかないのは、こんな状況でも少しだけ嬉しかった。他の女や男と付き合ってるわたしがいたら……考えるだけでゾッとした。


「はあ……はあ……いわば、これらはハルの因果律の連続体……キリがないと思いますが、何かの偶然か、十七歳ハルのカウントがゼロになったとき……」


「扉を開けて、わたしがいなかったら、わたしはやられるって事?」


「はあ……最悪な場合はです」


 


 扉を開けると、わたしとハジメがどこかの写真展を一緒に鑑賞していた。


「どうして写真が上手くなったなんて、分からないけど、要は直感と行動よ。心の目で撮るの」


 前にも聞いたハジメの台詞。ほどなくして、わたしの脳味噌が、白黒写真のキャンバスをピンク色に染める。ハジメの絶叫を両耳で塞ぎ、わたしは扉を蹴破る。




 339人目のEI。どこかのホテルの廊下だろうか、長い廊下を走りながら、わたしは以前のハジメの台詞が気に掛かっていた。


「はあ……次はどの……どの、扉にしますか?」


「……」


 わたしは適当な扉を選び、ドアノブに手をかけようとする。


「はあ……どうしたんですか……ハル、次のEIへ……」


 わたしは、クルッと振り向く。


「……もうやめたわ」


「はあっ? やめるって、どういう意味ですか?早く次のEIへ転移しないと、ハルが……」


「だからね、ノブヨ……もうそれはやめるのよ。別にわたしが諦めた訳じゃないのよ……」


 わたしは、残った左の眼球を掴み……そのまま、引きちぎる。完全にわたしの視界がシャットアウトする。


「そういえばハジメって、アンダルシアの犬っていう古い映画好きだったわよね……眼球をカミソリで切る映画のどこがいいんだか……」


「ハル……一体なにを……なにをしてるんですか!」


「いいのよノブヨ……これで、これでいいの」


 わたしは、両腕と触手を作れるだけ、ショットガンのようなものを生成させた。


「合図してノブヨ」


「合図ってなにを……それより、プロポーショングリッドを……」


「ううん、その必要はないわよ。ここのEIでのわたしがヤられたら、例の音を消すアレをやって」


「逆位相を……視覚と聴覚を失ったら……ハルは……」


「だから、死ぬつもりはないって、言ってるでしょ。要は直感と行動よ……合図して、ココのわたしが貫かれたら」


「はあ……」


「お願い、わたしを信用してノブヨ……」


 ノブヨのエコーが、長い深呼吸をする。


「……分かりました。わたしが代わりに、ハルの眼となります」


「ありがとう、ノブヨ」


 廊下の向こうで、わたしと誰かと思しきと二人組が喋っていた。


「ここの温泉は美肌の湯らしいわよハル」


「わたし、硫黄の香りって苦手なんだよね……あっ、タオル忘れたから、ヨシミ先に大浴場へ行ってきてー」


 修学旅行中のわたしとヨシミだろうか……これから起こる惨状を知らずに、お互いウキウキしていた。


「はあ……そろそろ、アレがきます」


「お土産なににしようかな、ハジメだったら、やっぱり酸っぱいものかしらねー」


 わたしが部屋のドアの鍵を開けようとする。


「でも、ここはあえてすごく甘い奴を買っておかないと……ハジメ……驚く……だろ……う」


 わたしが、血を流しながら、ゆっくりと床に倒れる音がした。


「今よ……やってノブヨ」


「……ご無事で」


 


 ……黒。


 視覚も聴覚を断絶し、わたしは世界でただ一人、孤独であると錯覚しそうになる……いや、今のわたしは、ノブヨがいる。寂しい訳がない。


「ハルは、盲目の写真家の話を知ってる?」


 以前、ハジメからそんな話を聞いた事がある。


「一パーセントの視力……つまり、その写真家の目には、点のような小さな光しか見えていないの」


 わたしも何も見えないし、聞こえない。地面には立っているけど、深淵の宇宙の中、宙を浮いているような感じがした。でも、不思議と恐怖は感じない。


「目が見えないのに、どうして写真を撮るのかというとね、その盲目の写真家は視覚以外の感覚を研ぎ澄まして、見えないものを見ようとしているのよ……それを視力があるわたしたちに写真として見せようとしているの、自らの心の光景をね。撮った本人には想像もできない光景を……ねえ、ハル……これってスゴイことだと思わない? これが、わたしが写真が好きな理由の一つなの」


「……ええ、今それがよく分かるよハジメ」


 後方七時の方角から、ハジメの匂いがした。したような気がした。グイッと、ノブヨに引っ張られる感触がして、わたしはその方角に、ありったけのショットガンを撃ち放つ。


 視力を失ったプロポーショングリッドが生命維持の為、無理矢理バーストし、時間が停滞化、空気が振動しているのを感じる。


 何かに、放散虫のショットシェルが着弾しているのだろう。ピンボールのようにあちこちバウンドしながら、軌道を徐々に反らし、わたしの脇腹をえぐる。それでいい、一◯五をやられなければ、どうでもよかった。脇腹をえぐろうとしたものを、わたしは両手で思いっきり掴む。


 何かの正体……それは、槍だろうか……槍の柄の部分に、ピーンと張られた糸みたいなものが伸びていた。


 槍じゃない……これは、銛のようなもの……わたしの、一◯五を釣ろうとしているのね。


 一パーセントの視力。銛に繋がった糸の先を視力のない目で辿ってみると、小さな点のようなものが見えたような気がした。


 淡く青い点ペイル・ブルー・ドットのようなものが……わたしにはそう見える。


 その隣には星座のように、小さな点があって……ピンク色の……あれが、ハジメの色……わたしの至福点……ハジメ……ハジメ……。


「ハジメ!」


 わたしは駆け出した。銛の糸を手探りまさぐりしながら、わたしはドアへと体当たりをして破壊する。


 ノブヨがわたしの身体をダイヤモンドでコーティングしてくれたのか、わたしは糸を辿りながら、鉄の扉を、ドアのガラスを、木の壁を、生け垣を、コンクリートの柱を次々とわたしのフラクチャードレスを用いながら、破壊し、掘削し、発破し、あのピンクの点を目指す。




 雨が降った直後のコンクリートのにおい、どこかの家から漏れ出す煙草のにおい、東京湾から運ばれる磯臭いにおい、コーヒー豆を挽いたカフェのにおい、キャラメルポップコーン臭が充満した映画館のにおい、埃っぽい古い建物のエアコンのにおい……。


 様々なにおいが、空間を転移するごとにザッピングされる。


 銛の糸を通して、ハジメの気配や鼓動をわたしは感じていた。糸電話のように、振動でハジメがわたしを呼びかけているのを感じていた。


 小さい頃、長野県にある善光寺の胎内巡りをわたしは思い出す。本尊の地下にある真っ暗な道を巡って、疑似的な死を体験する胎内巡りを……。暗闇に怯え、怖がる幼いわたしに、父親が言ったことをわたしは今でも忘れない。


「ハル……みんな誰でもここを通ったことがあるんだよ」


 そう……わたしは……わたしたちはここを通ったことがある。この暗闇の向こうに、ハジメが待っている。実像も不確定なわたしがいる空間をグルグル巡り、ハジメのにおいを識別し、鑑別する。


 無我夢中で進んでいたら、いつしか、わたしは走っているのではなくて、落ち続けていると気が付く。


 ピンク色の点が消失し、ほのかに漂う甘いレモンの香りがした。




「ノブヨッ! ここよっ!」


 わたしが叫ぶと、水抜きをした耳のように、ゴオッと聴力が回復、引きちぎった眼球をカメラレンズのようにセットし、視力が、プロポーショングリッドが一気に再起動する。


「ハジメッ!」


 そこには、悠然とゴルフ場で焚き火をしている青い光を発光しているコート姿のソウギョクと、レインコートのようなワンピースを着たナガツキ……そしてハジメがいた。


「アンカーを固定! ぶっ放せハル!」


 ノブヨの言うとおり、先手必勝だ。射撃管制グリッドが真っ赤にソウギョクの頭部を捉え、手に持っている銃と、触手の銃をありったけフルバーストさせる。


 ソウギョクが西部劇映画のように、踊るように撃たれる。五秒間、砲火を浴びせ続け、ソウギョクが倒れると、わたしもノブヨは違和感を感じ、銃の発砲を止める。


 轟音の後、土煙が舞い、秋の虫がゴルフ場に再び鳴り響くと、カンカンという、石同士を打ちつけたような手拍子が聞こえた。


「いやはや……わたしのイマジノスを切り抜けたのはあんたが初めてだよ……いやーお見事、お見事」


 ソウギョクは青く光り輝くサファイアの両手で拍手をしながら、むくりと起き上がる。


「はあっ? 無傷だって?」


 どういう仕組みか分からないけど、ソウギョクは傷どころか、ヒビ一つもない。ソウギョクは、子供のごっこ遊びに付き合わされた大人のように、撃たれたフリをしていただけだった。


「ハジメ……怪我はない? こっちへ早くおいで!」


「ハル……」


 ハジメはおろおろした顔で、わたしとソウギョクを見つめる。


「行くんじゃないよハジメ。どっちみち、あんたの恋人はここで破壊させて貰うからね」


「……随分と余裕な態度ね、ソウギョク。イマジノスっていうの? 悪趣味な攻撃だったわよ」


「攻撃じゃない、自己防衛であり、大袈裟な自殺のようなものだ、若きわたしよ。ナガツキは、この歳だからね……危機管理や自己防衛本能が強いミネラルウェアを持っている。つまり、未来を少しだけ予測する事ができるんだよ」


 ナガツキがソウギョクの後ろに隠れながら、傘なのか、パラボラアンテナのようなものを広げ、クルクルと回転させている。あれが、ソウギョクの未知なる力の源泉なのだろうか。


「ハル……アンカーの一部を伸ばして、ソウギョクの背後を撃てるようにします。撃ったら、わたしと合成を解除して、ハジメを確保し、十字砲火、ナガツキとソウギョクのフラクチャーを一気に叩きます」


 ノブヨが小さくわたしに囁く。


「それを空間転移を持つ、NNとわたしのフラクチャーを合成してみたら、どうだい? 無限のように存在する他EIのわたしを次々と、消すことが出来るようになった……それなのに、あんたときたら、自ら目を潰して、ここまで来たっていうのかい……ハジメのにおいを追って……愛の力というか、犬というか、まあ、キモイわな」


「人の事いえないし、他のわたしにも言ったけどさ、お喋りね……ババアのわたしって」


「そうかね? ところで……さっきあなたがわたしに撃ったやつだけど、どこに向かったと思う? ここで、ベラベラと喋っているのも、わたしがなにも考えずに言ってると思うかい? わたしは映画かゲームの悪役みたいに、ただ待っているだけだと思うかい?」


「……それは一体どういう意味だ?」と、言おうとしたら、足下が揺れていた。地震……だと思ったら遅かった。無数のダイヤでコーティングされた放散虫のの弾丸が、真下から雨のように放たれる。


 迂闊だった……身体が、ジェンガのように崩れていく。銃をソウギョクに向けるが、振り上げた腕がそのまま、わたしの銃弾によって、砕け散りソウギョクの方へと飛んでいく。


「……ナガツキは未来を予測するといったろ? とっくに、あんたがここに来ることの準備は既に承知していたよ」


「ノブヨ!」


 わたしは叫び、ノブヨがソウギョクの背後に仕込んだ触手の銃を撃とうとするが、ソウギョクの銛がどこからともなく現れ、背後の銃を粉砕する。


「はあ……万事休すですか……これまでのハルとは、あまりにもレベルが……別次元……」


 そう言って、ノブヨのエコーがだんだんと遠のく。


「最後の詰めが甘いわね……こういうのは結局のところ、経験がものをいうんだよ。ババアを舐めんじゃないわよクソガキ」


 わたしは両手を両足を破壊され、芋虫のようになり、身動きが取れなかった。スカートの触手の銃はまだ使えるかもしれないが、ソウギョクには、わたしの銃弾が届かない……次にどうすればいいのか、わたしには分からなくなっていた。


「まあ、色々と楽しませてもらったわよ。楽に一◯五を奪ってやるから安心しな」


 ソウギョクが銛をこちらに向ける。


 これでお終いなの……ハジメ……。


「ソウギョクはさ……わたしとハルは一緒にいないほうがいいって思ってるの?」


 今まで黙っていたハジメが、ソウギョクに話しかける。


「……そうだよ、ハジメ。そのほうが、あなたにとっても幸せな筈だから」


「幸せ? わたしにとっての幸福ってなんなの?」


「少なくても、わたしに干渉しない事で、こんな不幸な事態には巻き込まれないで済むのよ。ハジメにはハジメだけの人生を歩んで欲しいの。それがハジメにとっての幸福よ」


「そっか……その歳でもやっぱり、ハルはハルなんだね」


 わたしはハジメの右手に持っているものを見て愕然とした。


「わたしはそんなの嫌だよ! 幸福だって? わたしの人生だって? ハルのでしょ? わたしは、わたしの人生はソウギョクの……ハルのモノじゃない!」


「ハジメ……あなた」


「わたしの幸福はわたし自身が決めるのよ!」


 ハジメは撃った。わたしの吹っ飛ばされた銃を拾っていて、ナガツキのパラボラアンテナの傘を後ろから撃った。


 まさか、ナガツキの未来を予測するというのは、ミネラルウェア同士だけという話で、人間……つまり、部外者であるハジメは、眼中すらなかったという事かもしれない。


 それがソウギョクとナガツキにとって盲点だった。


「ナガツキ! そんな……ハジメ! またなの! またあなたは……」


 ナガツキの持つ、フラクチャーが粉々に砕け、傘の回転が止まる。それが合図だった。


「ノブヨッ! ぶっ放せ!」


 ノブヨとわたしは、全身全霊をささげ、ドレスの裾を出来るだけ銃を作り出す。ズルズルと触手をタコのように這わせ、ソウギョクに向かいながら、がむしゃらに撃ちまくる。


 ソウギョクの銛が、何発かの銃弾を弾くが、わたしたちが撃ち出す弾幕に対処できなくなり、サファイアのコートが粉々に砕け散り、今度はソウギョク自身が芋虫のようになる。


 ナガツキの力が無くなったおかげか、ノブヨがわたしの身体を瞬時に修復し、ソウギョクが抵抗できないくらいまで撃ち続けていたら、わたしの五体は完全に復元されていた。


「あっけないものね……もっと、抵抗するかと思っていたわよ」


「はんっ……抵抗だって? ハジメに撃たれて、昔のことを思い出してね……そんな事をする余裕も無くなったんだよ……」


 ナガツキが「うーっ! うーっ!」と唸りながら、ハジメに抱きかかえられ、制止される。


「若きわたしよ……わたしの魂を奪うなら、好きにするがいい。だが、一つだけ頼みを聞いて欲しい事がある。ナガツキより先に、その得物でわたしを撃て、そしてわたしのIRを見て欲しい」


「ええ、言われなくてもそうするわ」


 わたしは撃ち放つ。放散虫の弾丸が、ソウギョクの頭部を破壊……しない?


「どうなってるの……まさか、ソウギョク、まだ罠を……」


 弾丸が空中で静止していた。ブルブルと震えながら、無理に抑えつけるように……。


「違う……こんな事、わたしは……嘘、そんな……あなた」


 ソウギョクはナガツキのほうを見る。ハジメに抱き抱えられたナガツキがいなくなっていた。


「ハル……わたしじゃない。ナガツキが、突然、消えたのよ……」


 バキッという音がした。発射した放散虫が水の波紋のように、円形状に割れ、拡散する。


「どうして……どうしてなの」


 空間にヒビが割れ、亀裂がだんだんと広がり、濃くなり、断面の輪郭がハッキリとしてくる。その姿は……。


「ナガツキ……あんた」


「うっ……うあっ……あ、あ、あっ」


 ナガツキが小さなムーンストーンの手のひらで、ソウギョクのサファイアの腕を握る。


「……ありがとう」


 その一言を最後に、空間を転移し、ソウギョクを庇ったナガツキが粉々に砕け散る。芝生の上に、コロンと、虹色に輝くプリンセスカットの鉱物、一◯五が転がる。


 わたしがそれを拾おうとすると、ソウギョクが「それに触れるんじゃないよ!」と叫び、わたしを銛で突き飛ばす。


「なによ……なによ、このザマはっ……結局、こういう結末にしかならないの!こんな、つまらない死に方……わたしは断固否定する」


 銛がクルクルと高速で回転しながら、サファイアの糸でソウギョクを巻き込み、蚕の繭ように包み込む。


「これは……撃って……ハル」


 ノブヨが銃を装填する。


「でも……」


「今すぐ撃って! ソウギョクは……一◯五同士を……ハル同士を無理矢理、合成しようとしているのです!」


 わたしはサファイアの繭に向かって撃ち続けるが、銛が目にも止まらぬ速度で回転を続け、わたしの銃弾を弾く。


「これは前代未聞よ……わたしも、たぶんインクルージョンたちも何が起きるのか、何に相転移されるか、まるで見当がつかない……」


 一瞬で繭が形成され、濃い青色のシルクインクルージョン絹の内包物を持つ、五メートルぐらいの巨大なサファイアの原石がわたしの前に現れた。


 ノブヨが巨大な放散虫の砲弾を産み出し、それを撃ち放とうとした瞬間だった。繭の中から、プロポーショングリッドが警告を放つ。


「ノブヨ! 危ない!」


 繭から巨大な槍……いや、尻尾のようなものが飛び出し、わたしを貫く。次に、巨大な鉤爪が現れ、そのままわたしを掴む。


「おい……わたし、見てみろよ。わたしの……わたしたちの醜い姿を……」


 その姿は、わたしの好きな十九世紀の宝飾デザイナーであるルネ・ラリックが手掛けた「トンボの精」そのものだった。彫像のようにサファイアでコーティングされたナガツキを抱くソウギョクと、ムーンストーンの巨大なトンボのような羽、サファイアの長大な尾、猛禽類が持つような鋭い鉤爪。


「はあ……トンボがなんでフライって呼ばれるのかが分かるような姿ですね。次は火でも噴くんですか。それでリブロースでも焼いてもらいましょう」


 呆気に取られているのか、ノブヨがこんな時に冗談を言っていた。 


 羽を銃で撃とうとしたが、ソウギョクは宙を飛行しながら、何度も何度も、鉤爪で掴んだわたしを地面に叩きつける。


「これがっ! インクルージョンがやっていた沙汰の答えだよっ!」


 わたしは掴まれながら銃を撃ち続けるが、なんせ地面に叩きつけられているから、まともに当てられる訳がない。


「これが、理不尽な事態に巻き込まれた無力感!」


 わたしは地面とキスをする。


「これが、自ら同士を争わせるインクルージョンへの怒り!」


 わたしは地面とプレッシャーキスをする。


「これが、この常軌を逸した事態から救って欲しいという懇願!」


 わたしは地面とフレンチキスをする。


「これが、どうしてハジメと一緒に死ねなかったという、わたしの絶望!」


 わたしは地面と……え、ハジメと一緒に死ねなかったって?


「これが……」


「歳を取ると話が長くなるのかな、校長先生かよ」


 わたしとノブヨは合成を一時的に解除をして分離する。掴まれた鉤爪を抜け出し、タコのように這い回りながら、尾の根本を掴み、そのままノブヨと再合成する。


 巨大な放散虫の弾丸をお見舞いしてやろうかと思ったが、ソウギョクが尾を乱暴に振り回しながら、回転し、高度をグングン上昇させる。眼下に街の灯りが遠ざかり、速度を徐々に上げてゆく。わたしは尾に触手のスカートでしがみつき、なんとかしようと銃を撃とうとするが、銃弾が射出されない。網膜に何かのエラーが表示される。


「嘘でしょ……ノブヨ」


「高高度で武装を凍結させたんですね……」


 ジャンボ旅客機よりも遙かな高さに到達したのか、ピシピシと音を立て、わたしの身体が凍結し、手持ちのミネラルウェアが使いものにならなくなる。


「はあ……こりゃマズい」


 眼下に広がる、夜の闇に包まれた房総半島から、煌々と光り輝く東京湾の光にわたしは目がくらみ、上空を見上げる。その光景にわたしは、自分の目を疑った。


「見たな……そうだ。これがこの世界の真実だ。いい冥土の土産になったかい?」


 ソウギョクも成層圏に近い漆黒の空を見上げる。そこには、迷路のような透過した構造物が地平線の彼方まで覆われていた。ビスマスの人工結晶のような、乱雑な螺旋状の迷宮、骸晶状の空……これが、EIのサーフェスということなのか。


 プロポーショングリッドのノイズが多くなり、やがて、シャットダウンする。グリッド越しで見ていた光景だったのか、ビスマスの空が消え失せ、わたしはソウギョクの尾から振り落とされる。


 星の重力をダイレクトに全身で受け止めたカンジ。わたしが経験した事のない速度で自由落下する。凍結したわたしの身体がボロボロと崩れていく。


「ハ、ハ、ハ、ハ、ル、ル、ル!」


 ノブヨがわたしとの合成を保つだけでやっとなのだろう。ノブヨのエコーがかすれたように聞こえる。


 ソウギョクが羽を折り畳み、こちらへ向かって急降下してくる。


「やばいヤバイやばいヤバイ、なにかないか、なにかないか……」


 ノブヨの口調が移っていた。ボロボロに崩れながら、銃の発砲を続け、カーバイドクラスターを射出しようとするが、そもそもプロポーショングリッドが機能していないので、何も起こらない。


「なにか、なにか、なにかないの……ここで……わたしは……」


「終わりなんかじゃないよ」


「そう、終わりじゃない……へっ?」


 目の前にわたしがいた。以前倒した筈の十年後のわたしと、十歳のわたしが、高高度から落下中のわたしを、あぐらをかきながら、余裕そうに眺めていた。


「そこにいるのは、ありえない……あなたたち、わたしの中に……いつから」


「そんなことより、わたしたちの力を借りなくていいの? ババアのわたしがやってくるよ?」


 十歳のわたしが手を差し伸べる。


「力って……」


「鈍感だなー……わたしはハルであり、わたしの力はハルのものなのよ? なんの為に、あなたの中に入ったのか……」


 二十七歳のわたしが人差し指で、片方の手に何か、卑猥な事をしている。


「わたしの中に?」


 二十七歳のわたしは、ベリリウムの毒をわたしに流し込み、十歳のわたしは無理に、わたしを合成化しようと……。


「その時のインクルージョン内包物が……まだ、わたしの体内に残留していた?」


「ご明察よ! わたし!」


 プロポーショングリッドが、一気に再起動する。ベリリウムと酸化アルミニウムの名前が網膜に表示され、次の名前が表示される。


「エメラルドソード……アンスラックス」


 ガチガチと、わたしの銃が強制的に解除され、両腕からエメラルドの剣と、ルビーの手斧が飛び出す。


「ハアァァァァルッ!」


 天をつんざくような絶叫と共に、サファイアの鉤爪がわたしを砕こうとした。


「失礼ね! 人の名前を呼び捨てにするんじゃないわよっ!」


『えっ? それをあんたが言うの!』


 二人のわたしが、同時に突っ込む。わたしは、ルビーの斧をソウギョクに向けて放り投げ、わたしはエメラルドの剣を遠心力で回転させながら、人間ブーメランのようにソウギョクへと斬り込む。


 ルビーの手斧がソウギョクの頭部へと飛んでいく。ソウギョクは羽を回転させながら、手斧を弾く。


「ちょこざいな真似をしてるんじゃないわよ!」


 超高速の鉤爪がわたしを掴み、そのままわたしの下半身を砕く。けれど、わたしは回転を止めない。


「そう、それでいい!」


 十歳のわたしやソウギョクがやっていたように、ルビーの手斧を鉱物の糸で手元に引き戻す。釣りのリールのように、わたし自身を回転させながら。


 わたしの元に戻ってくるはずの手斧が、ソウギョクの背中に突き刺さる。わたしは、下半身が砕かれた反動で一気に、ソウギョクの背中を捉え、振りかぶる。


「まさか……あなた」


「そうよ……ソウギョクとナガツキ……今、元に戻してあげるわ……


 ソウギョクはわたしが、これから何をするのか分かったらしい。


「や……やめて。せめて、ナガツキを……」


 問答無用、ルビーの手斧にエメラルドの剣をハンマーのように叩き込む。ソウギョクの背中に亀裂が入り、そのまま剣を亀裂にねじ込ませ、薪を割るように真っ二つに破断させる。


 ソウギョクが「いやああっ!」と野太い断末魔をあげながら、ボロボロと空中分解し、二つの虹色に輝く一◯五が露出した。サファイアの繊維によって、無理矢理縫われた二つの一◯五……わたしは、その虹色に吸い込まれるように、わたしの意識が……。




「それで……パプアニューギニアにあるフォア族という少数民族がいてね、その仲間の腐敗した遺体を葬式に食べるという習慣があったの。男性は身体の肉を、女性や子供は、そう……今のあなたのような子はね、脳を食べていたそうよ」


 扉を開けると、わたしは愕然として、身動きが取れなくなる。


「人間が人間の脳を食べるとね、タンパク質が変異した感染因子、プリオンが蓄積され、自分の脳がスポンジみたいに穴だらけになって、認知症、言語障害……まあ、生ける屍みたいになっちゃうんだよ。それをクールー病って呼ばれていてね……どうでもいいけど、グールとクールーってなんか似てるよね。マジでウケるー」


 扉の向こうは、わたしの部屋だったはずだが、両親の趣味の色に統一された白の家具たちが、真っ赤に鮮血で染まっていた。蜘蛛の巣のような、同心円状に編み込まれた何かの鉱物の糸に、誰かの人間の一部のようなものがあちこちにぶら下がっていた。


 わたしより、少し年上だろうか、髪はボサボサ、骨と皮だけのゾンビのような肉体の上にオレンジがかった、ラズベリーのような赤色のジャケットを羽織っていた。


「スピネルのミネラルウェア……」


「あら、お客さん? ちょっと、待っててねー。この食事が終わったら、相手してあげるから」


 ファミレスの店員のようなあしらい方で、スピネルのわたしは、尻から生えたダイヤの結晶にも似た巨大な八面体から、人工的に生成した腕を蜘蛛のように延ばし、足の一部と思しきものを拾うと、バキッと蟹を食べるかのように骨を折り、中の身にかぶりつく。


「やっぱり、父親の……男の脂肪って不味いよね、不純物が多いのかしら? 食べるとしたら、大腿四頭筋、太ももに限るわ。鳥肉がむね肉より、もも肉の方が高い理由が分かるよね。あ、わたしを見て別に引かないでね」


 今、父親って言った?食べる?嘘でしょ?わたしが、何を言っているのか分からなくなっていく。


「わたしって、スピネルのミネラルウェアだからさ、鉄分を余計に欲しがるんだよね。はじめは、シーチキンとかレバーで事足りたんだけど、ある日無性に血を欲しくなったの。意味がないのは分かってるわよ。バカ両親がさ、ガキのわたしを殺さないでーって、クソみたいにピーピー嘆いていたから、望み通りにただでは殺さないでやったわ。生きたまま調理して、食ってやったの。昔の映画かなんかで、血糊をチョコレートシロップといちごシロップとかで代用してるっていうから、本物の血も甘いと思っていたのよ。とんだ肩透かしだったわー、アハハ」


 わたしは壊れていた。文字通り、身も心も精神も、ミネラルウェアでさえも、ボロボロに壊れ、狂っていた。わたしは、両手で顔を押さえながら、この場を今すぐ立ち去りたかった。悪い夢だと、自分に言い聞かせながら、わたし自身の現実へと帰りたい……が、それが出来ない。


 身体が動かないのだ。金縛りのように、わたしがその場に固定され、狂ったわたしの惨劇ショーをまじまじと鑑賞させられる。


「(時間が止まるならー)」


 スピネルのわたしが、ガムのようにクチャクチャと父親のもも肉を噛みながら、繰り返されるラッシュの曲を歌い、蛆が湧いた小さな頭部を取り出す。


「で、なんの話だったけ……あっそうそう……脳を食べてるはずなのに、クールー病を発症していないフォア族の家族が現れてね、その家族の遺伝情報を調べたら、前代未聞の発見があったのよ」


 おいおい……まさか、その蛆が湧く小さな頭部は……。


「あっあっ……あっああっ!」


 血塗れのシーツにくるまれ、五歳のわたし……ナガツキが、プルートという名前のテディベアを抱いて、恐怖という感情をどこかに置いてきたような瞳をしながら、小便を糞の上に漏らす。


「あー汚いなー、一応食事中なんだからね。そうそう、これはね、あなたの親友だったミチの頭部よー」


 わたしは今すぐ、吐きたかった。スプラッターホラー映画を沢山観てるから、ある程度の耐性はあると思ったが、この場合は次元が違い過ぎる。スピネルのわたしは、医療用のメスのような蜘蛛の手先を使って、ミチの頭部を綺麗に切開した。


「この脳に張り付いた硬膜を剥がすのが一番厄介でねー」


 ゆで卵の膜のように、ペリペリと慎重に、ミチの脳の膜を剥がしていく。


「前代未聞の発見……なんとそれはねー、グリシンというアミノ酸配列にある部分が、グリシンではなくバリンという別のアミノ酸に変わっていたのよ。大した事のない話に聞こえると思うけど……おー、今回はうまく剥がれたわー。子供の硬膜ってまだ脳にくっついてる事が多くてねー」


 やめて、やめろ、やめやがれ、なにを、なにをやってるんだ……わたし。


「この違いだけで、プリオン・タンパク質が分子形態を作ることを防ぎ、クールー病への耐性を持つ事が出来たのよ。これって、スゴくない? クールー病だけじゃないわ、クロイツフェルト・ヤコブ病、アルツハイマー、パーキソン病など、長年の謎だったプリオンに起因する脳疾患の治療が解明されるかもしれないのよ。人が人の脳味噌を食べただけで、ダーウィンの自然淘汰説を人間自ら実証した希有な例なのよ! これは一種の進化なの!」


 スピネルのわたしが、ミチの脳味噌をケーキのように、一口サイズに切除し、ナガツキの口元に押しつける。


「だからさぁ……わたしも、十万年後の進化した無機物的肉体……ミネラルウェアだったらさぁ……生身のわたしも今すぐ進化してみてよぉ……ミチのさぁ、脳味噌を食ってよぉ……わたしに進化をよぉ進化をっ! 適応をっ! 見せてっ! 見せろっ! おいっ! 食えよっ!」


「そうかい、わたしも頂こうかしら」


 わたしの後ろからソウギョクの声が聞こえた。サファイアの銛が、飛び出し、スピネルのわたしを容赦なく砕き、砕き、砕き、砕き続け、発破し、粉砕する。


「……ただし、これを食らってからだよ。美味かったかい? 地獄に落ちろクソッタレ」


 ソウギョクがサファイアのコートを折り畳み、スピネルのわたしの一◯五を同期させる。禍々しい虹色のイルミネーションを発光させながら、胸の奥へと埋没させる。


「……ふんっ、つまらん最期だな」


「いやはや、お見事だねー……さすが、和嶋さん!」


 見知らぬスーツ姿の女性が、拍手をしながらソファーに座っていた。


「ドーパント化したとはいえ、まさか、自分の両親や隣家族を殺害して、食すとはねー……これだから、我々は和嶋さんを鑑別するのが止められない……」


「……インクルージョンよ、この後始末はどうするんだい?」


「問題ないわよ……我々にとっては殺し方なんてどうでもいいのよ。要は、EIのクラリティが悪くなければね」


「はあ……そうかい……この惨劇が、EIに影響がないとは、何とも笑えない冗談じゃないか……」


 ソウギョクもソファーに座り、うなだれる。


「……わたしは、いつまでこんな事を続けるんだ? いつまでわたしは、こんな狂気に染まったわたし自身を狩り続けるという、狂気の沙汰を続ければいいんだい?」


「そうだね……少なくても、こんな馬鹿げた事を他の和嶋さんが止めてくれれば、今すぐにあなたを解放するわ」


 そう言って、インクルージョンはシーツにくるまって、ガタガタ震えてるナガツキに近づき、懐から一◯五を取り出す。


「おい……インクルージョン」


 彼女は一体なにをやってるんだろう。


「あっ……あっ……うっううっ!」


 ナガツキの叫び。一◯五を取り込んだナガツキの身体が変化し、みるみるムーンストーンの身体に相転移する。


「おい……インクルージョン! それは一体、どういうマネだ?」


「どういうマネも、へったくれもないわよ。死にかけてるし、もったいないからね……無理にでもこの小さい和嶋さんにはミネラルウェアを所持して貰うわよ。ドーパント化した和嶋さんに殺されかけたからね……我々から見たら、充分な因果律よ」


 どうぞと言わんばかりに、インクルージョンが、不器用にミネラルウェアとフラクチャーを手に入れたナガツキへ、指をさす。ナガツキは自分がどういう状況に置かれているのか分からないまま、呆然と立ち尽くし、震えながら、ソウギョクを空虚なキャッツアイの瞳で見つめる。捨てられた子猫のように。


「もう一度、問うが……インクルージョン……あんたは、一体、今、なにを、やっている?」


「見て分からない? どうせここの和嶋さんは上書きして、破棄するしかないのよ。だったらね……もったいないでしょ? どうせ同じ和嶋さんなんだし、とっとと一◯五を奪っちゃいなよ。その方がこの子にとっても幸せな事よ」


「幸せね……はあ……インクルージョンよ……っていうか、その見知らぬ中の人にも聞きたい事があるんだが、あんたらって、子供を産んで、育てた事ってあるかい?」


「はあ? ある訳ないでしょ?」


 インクルージョンは即答する。


「そうか……それは奇遇だね、わたしもだよ。ところで、あんたらってわたしの心を読むことが出来るんだよな? 今のわたしの心を読んでみな」


「……うん? なにを、そんなに、怒って、いる、の、よ?」


 サファイアの銛が、縦横無尽にインクルージョンをバラバラに吹き飛ばす。


「もう我慢の限界だ! わたしは下りさせてもらうよ。こんな悪趣味な茶番にはね……」


「正気なの? 我々は理由を問う」


 インクルージョンの生首がカタカタと喋る。


「理由だって? こんな惨状を見ていながら、理由をわたしに問うのかい? いいだろう!」


 ソウギョクが、サファイアの脚で、インクルージョンの首を踏みつける。


「いっ……いいの? このまままだと、ドーパントととして、わ我々は、あなたたたを、かかか鑑別し、はは破壊いいいいっ!」


 バキッと、そのままソウギョクはインクルージョンを踏み砕く。


「ふんっ……別にわたしは構わないわよ。NNでも何でも寄越すがいいさ」


 ソウギョクは呆然と座る血塗れのナガツキに近づき、タオルで血を拭きながら、そのまま抱きしめる。


「怖かっただろ……もう、あんたに危害を加えるクズは……和嶋治という存在はいなくなったよ。今からわたしの名前はソウギョク。あんたの名前を月長石……ナガツキと呼ぶよ。いいね?」


 言葉を発することが出来なくなったナガツキは、ソウギョクの優しい言葉に安堵したのか、そのまま肩を枕に眠りにつく。


「……本当は、もっとナガツキには色々、見せたかったんだよ。わたしとハジメのように、幸福を知って欲しかったの。そうじゃないと、あまりにも、もったいないからね」


 わたしの後ろから声が聞こえた。いつの間にか、身体が動かせるようになっていて、振り返ると、どこかの海の断崖の上にわたしはいた。


「今、あんたが見たのが、ナガツキのIRだよ。あいつら……インクルージョンは、IRへ搬送するプロセスを無視して、使い捨て歯ブラシみたいに、ナガツキをぞんざいに扱いやがったんだ。それがわたしには許せなかった」


 崖の下に、ソウギョクと誰かが、停滞した時間の中、ゆっくりと落下していた。


「ここはね、伊豆半島の下の方にある爪木崎という場所でね、よくハジメと一緒に、ここの見事な柱状節理を見に来たんだ」


 柱状節理……母も好きだったから、よく知っている。海底火山のマグマが噴火を起こさずに、地層の隙間に入り込んで固まった岩体「シル」となり、それが本州と半島との衝突によって、隆起したものが柱状節理。


 マグマが冷えることによる体積収縮によって、六角柱の割れ目を持つ岩頸。それが、自然に出来たものなのに、人工物のようにも見えてきて、オカルト好きなら有名な柱状節理でもあるデビルスタワーのように、ロマンを感じざるを得ない形成物だ。


「まさか……だと、思うけどさ……ソウギョクと一緒に、落ちているのは……」


「そうだよ……ハジメだよ」


 けれど、ハジメの様子がおかしい。毛糸の帽子が宙に浮いていて、ハジメの髪の毛が、ごっそり無くなっていた。


「髪が無いのは、抗がん剤の影響だよ。ステージ4に転移していてね……どっちみち、もう末期だった」


 ソウギョクはハジメの顔を撫でる。しわだらけで、けれど面影が残っている老いたハジメの顔は、幸せそうに笑っていた。


「あなたの時代から、十数年後には、同性婚がある程度認められていてね、わたしとハジメは婚約したんだ。わたしは母の会社を継いで、合成ダイヤモンドを扱う販売事業を成功させ、ハジメはそこで宝飾デザインを担当したのよ」


「……ハジメは器用だからね」


「ええ……人並み以上の順風満帆な人生だったわ。ハジメが先にがんになったとしても、わたしはそれを受け入れたし、ハジメも覚悟したのか、色々と見て行きたいと言ったから、ここにへとやってきた」


「そして、この悲劇が起きた……」


「悲劇なのかね……わたしには、よく分からないよ……震度、1か2ぐらいの小さな地震だったと思う。運悪く、わたしの立っていた場所だけで、崖崩れが起きてね、ハジメが手を握って止めてくれると思った……けど」


「けど?」


「ハジメはわたしの手を握ったまま、一緒に、崖の下へと飛び降りたんだ」


「こんな結末……だから、ソウギョクはわたしとハジメが一緒にいるのが気に入らなかったの?」


「というより、単なる嫉妬から来る好奇心だよ。あんたが幸せそうに青春を謳歌しているのが気に入らなかったし、あんたがどれだけ、ハジメを愛しているのか試したかっただけだよ。その結果、ハジメに怒られちゃったけどね……」


「……そう、ハジメはいつもわたしを叱ってくれる」


「ハジメが一緒にこうして飛び降りたのは、一人で死ぬのが怖かったんだろうね……あの、ドライなハジメが……寂しいと思ってくれたのは、わたしは凄く嬉しかったんだよ。ハジメと一緒に死ねるなら、本望だと思っていたんだ……思っていたのに……」


 ソウギョクは静かに涙を流した。


「わたしは早く死にたかった! EIだの何だの関係ない!ハジメと一緒に、とっとと死にたかったんだ! それなのに、インクルージョンのやつら……因果律だのなんだで、わたしから生殺与奪の権利を不当に与え、奪いやがった……」


 わたしは何も言えなかった。


「……思い返せば、すべてはアレが始まりだったのかもしれないね。深宇宙探査機にわたしとハジメのバックアップを載せたのが……」


「……ん? 話が読めないんだけど」


「宇宙葬って知ってるかい? 今のあんたの時代は、遺骨を飛ばす程度だけど、わたしの時代だと、ある程度の記憶の情報化や復元が可能になっていてね、アルバトロスという名の、太陽帆で進む深宇宙探査機に、半永久的に壊れないといわれる石英メディアに五次元データとしてわたしとハジメはスタック集積保管装置に保存されたの。その石英メディアの名が……」


「まさか、エミュレーション・イミテーション仮想化された模造石


「そうだ……いわゆる未来のゴールデンレコードだね。わたしとハジメが亡くなっても、深宇宙の彼方でわたしとハジメの記憶は永遠に近い時間の中で漂い続ける……ロマンチックじゃないか。この探査機へ参加できる抽選に当たったとき、ハジメはすごく喜んでいてね。肉体が滅んでも、あの世や死後の世界へと行ける物証的な安心を得られたと言っていたよ……あの世なんて、そんなもの信じていなかった癖に……」


 ソウギョクは振り返ると、何かを悟ったような顔をした。


「こんなわたし同士が争う馬鹿げた茶番が生まれたのも、探査機がと接触したのかもしれないね……」


……って何と?」


「さあね……あの巨乳のインクルージョンに聞いてごらんよ。わたしから言えるのはそれだけだ」


 六角形のタイルが敷き詰められたような俵磯の上に立ち、誰かがわたしたちを見上げていた。


「ああ……ナガツキ……そこにいたんだね」


「待って! まだ、話が……」


「あっ、そうそう……インクルージョンと出会うときに、雷に七回打たれた男、ロイ・サリヴァンの話をされただろ?」


 わたしは首を縦に振る。


「ロイ・サリヴァンの最期を知ってるかい? 彼は失恋の果てに、拳銃で自殺したんだよ……七回も落雷に遭って生還した幸運か不運なのか分からない男の皮肉な末路さ」


「何が言いたいの?」


「これからが大変だからね、若きわたしよ……気をつけてな……わたしはもう、疲れた……」


 ナガツキが落下しているソウギョクを抱き締めようとする。


「ああ……ハジメ……ナガツキ……理解した……わたしを今すぐ引きずり降ろしてくれ。わたしは怖くないから……まったく、怖くな」


 グシャッという鈍い音がした。静止した時間が動き出し、ナガツキと腰と脚が変な方向に曲がっているハジメと、頭蓋骨が割れピンクの脳が露出しているソウギョクが横たわっている。ドクドクと流れる鮮血が、六角形の柱状節理の溝へ流れていて、邪教の儀式のように、その血の中から、得体の知れない虹色に発光する二つの一◯五がプカリと浮かび上がり、わたしへめがけて飛翔する。


 わたしは、後ずさり、思わず逃げようとした。重すぎる。この二人のわたしを……一〇五をわたしが背負っていくのかと思うと……。


「いやいや、今更、そりゃないんじゃないの?」


「自分で行った事は自分でケリをつけなよ」


 振り返ると、二十七歳のわたしと十歳のわたしが、わたしの肩を掴み、逃げられないようにしていた。


「は、離して!」


「覚悟を決めな。こうなる事になるのは……」


「分かっていたくせに」


 二つの一◯五が、ゆっくりと回転しながら、わたしの胸に近づき、わたしの一◯五と同期を開始した。


「いやだいやだ、やめてやめて、ごめんなさいごめんなさい……こんなの、こんなの……大き過ぎるよ」


 ズブズブと、一◯五がわたしの中に入っていく。何も感じてない筈なのに、強い嫌悪を覚える。同期によるイルミネーション。虹色のプリズムがわたしを包み込んでいく。


「これでわたしはわたしに……」


「みーんな、わたしになっていくの」


「イヤ……そんなの……うっ……ハジメ、ハジメ、ハジメ」


 一◯五が容赦なくわたしを貫く。




「ハジメッ!」


 顔に大きな雨粒が当たる。目を覚ますと、わたしは巨大な穴の中で寝ていた。高高度から落下したせいか、その衝撃でクレーターのようになっていて、わたしとノブヨが、合成化を解除し、お互い裸のまま横になっていた。墓に埋められる直前の姿みたいだ。


 遠くのほうで、雷鳴が轟き、雨と土の匂いが次第に強くなっていく。その穴の縁で、ハジメが覗いていた。傘もささず、ずぶ濡れのまま、ナガツキを撃ったわたしの真珠の銃を持ちながら、ただただ、立ち尽くしていた。


「ハル……」


 わたしはハジメの姿を見た途端、強い孤独感に襲われ、いつもと同じように抱き締めてもらおうと……沢山、ハジメの胸の中で甘えようと思った……けど。


「ハル……話があるの」


 暗く淀んだようなハジメの眼差しが、次にわたしへ何と言おうとしているのか、何となく察した。


「そんな……嘘よハジメ、やめて」


 先に言葉が出ていた。


「……ハル、わたしたち」


「嘘よ! 嘘よ! 嘘よ! 嘘よ!」


 わたしは、叫び続ける。


「……別れよ」


 わたしは叫びを、絶叫を止めない。その雄叫びを雨と雷鳴がかき消す。近くで雷が落ちたのだろうか、稲光の閃光が、一瞬だけ空間を白色に染める。


 白。


 白。


 白。


 白……黒。

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