チャプター8 Pull Me Under(前編)
懐かしいにおいがした。
知らない人の家かと思ったら、玄関に散らばった紫色の子供用スニーカーを見て、わたしが前に住んでいたマンションだと思い出す。
「家のにおい」
母がよく玄関先で白檀の線香を焚いていて、その懐かしい香りは、とても心が安らぐ。
玄関から入ってすぐ右側には、父親と母親の部屋がある。
八畳の部屋の隅に、趣味のいいダブルサイズのベッドが置かれていて、散らかったベッドの右側が父親で、整然と片付けられた左側が母親のスペースだった。両親はそのスペースを巡って、よく喧嘩をしていた。
その両親の部屋から出てすぐに白い大理石張りの廊下になっていて、奇妙な事に、点々と血痕のようなものが、奥のダイニングまで続いていた。
その血痕の途中に、何かが落ちている。
「なにが落ちていると思う?」
洗面所にわたしがいた。正確には、十年後のわたし。わたしが倒したはずの二十七歳のわたしが、そこにいた。
銃を向けようと思ったが、手から真珠の銃が飛び出してこない。
「別にあなたを襲うつもりはないよ。どうせ今更、意味がないしね」
エメラルドのフラクチャーアーマーを着たわたしは、兜を脱ぎ、洗面所で鏡を見ながら髪を整えていた。けれど、鏡にはその姿が映っていない。
わたしは廊下に落ちているものを凝視する。ソーセージのようなものは、見知らぬ誰かの小指だった。
「誰の小指だと思う?」
なんで、小指がこんな場所にあるのだろう。廊下とダイニングを隔てる扉の向こう側から、音楽が聞こえてくる。
「正直言うけど、わたしはその扉を開けるのは反対よ」
十年後のわたしは、そう言ったが、わたしは無視して扉を開けた。
扉を開けると、そこは漆黒の空間だった。残暑が厳しい、真夏の太陽にまだ目が慣れていないのか、ヨロヨロとわたしは、ハジメに手を引っ張られながら、数々の水槽を見て回っていた。
「そんなに牛乳好きだったけハル? 今更、胸を大きくしたいの?」
ハジメは百パーセントのグレープフルーツジュースをグビグビ飲みながら、わたしが飲んでいるパックの牛乳を指さす。
「同じ貧乳なハジメに言われたくないし、そんなに飲んでるイメージだっけ?」
「うん、昨日に二回、一昨日は四回、この前、映画観ながら牛乳飲んでたじゃん。ガムシロップか砂糖を土石流のように入れてるのは相変わらずだけどね」
暑さのせいだろうか、最近やたらと喉が渇いていた。気付いたら、わたしは数ある飲み物の中で、牛乳ばかりをチョイスしている。
今日は学校の創立記念日で、忙しい学祭の合間を縫って、わたしとハジメで、葛西にある水族館で久々にデートをしていた。
「久々って……土曜日には一緒に、映画観たでしょ? わたしの家で一本観て、映画館で一本、日曜日には、ハルの家で三本観たじゃない」
牛乳といい、ハジメは妙に記憶力がいい。
「違うの! わたしは、ハジメとどこかへ出掛けたかったの! それに……」
「はあ……それに、なんですか?」
ノブヨは、蟹を美味しそうに見ながら、売店で買ったと思しき、フランクフルトを頬張っていた。
「なんで、ノブヨがいるの?」
「いいじゃん。いつまでも中島を仲間外れにって訳にもいかないでしょ?」
「はあ……わたしは別に構わないですよ」
「それに、十歳のハルからわたしを救ってくれたんだから、お礼しなきゃね。中島、今日は好きなもの奢ってあげるよ」
ハジメはノブヨの肩を揉む。わたしは少しムッとした。
「はあ……マジですか! 鈴木さん!」
「ちょっとハジメ! わたしには?」
「ハルには十分お礼したでしょ! ほらほら、中島! 蟹とかタコばっか見てないで、ペンギン見に行こうよ、ペンギン!」
ハジメはノブヨの手を引っ張って、そそくさとペンギンのいる水槽にへと向かう。
「ちょっと、待ってよ。ハジメ!」
ふと、視線を感じて振り返ると、十センチもある巨大なマガキ貝の触覚の目玉が、ギョロリとわたしを睨めつけていた。
「このペンギンって、わたしたちみたいだね」
ハジメは、二羽で仲良く一緒にいるペンギンを指さす。
「はあ……ノロケですか……現にカップルみたいですよ、あのペンギン」
「なんで、ノブヨはカップルって分かったの?」
ノブヨは、貼り出されたキャプションを指さす。
「そこに書いてあるからです。しかも同姓のカップルらしいですよ」
シンジとケンイチという名前のオスのペンギン同士が、仲良く水際で一緒にクチバシで突っつきながら、イチャイチャしたいた。
「鳥では珍しくもない話だよね、アホウドリだって、メス同士のカップルが多いらしいし」
ハジメが映画かテレビで知ったと思しき、ウンチクを披露する。
「はあ……鳥でもウザく感じるのかな、ジーッと眺めているのはわたしですかね」
岩場の上の方で、カップルのペンギンを眺めている一羽のペンギンがいた。
ノブヨはダイヤの矢で、カップルペンギンの片割れの足を引っかけ、水に落とす。
「はあ……ザマァですね」
ノブヨの得体の知れない気迫に押され、わたしとハジメは何も言えなかった。
色々と見て回った後、ここの水族館の名物でもあるマグロの回遊が見れる大水槽で、わたしたちはボーッとマグロたちがグルグル泳ぐのを眺めていた。
「ここのマグロたちって、どんな気持ちで泳いでいるのかな……ハル」
「そもそも、魚は自分を魚だと思っていないし、気持ちなんてものはハナから存在しないわよ。マグロたちは意識と無意識の狭間でこの水槽を泳ぎ続けていて、マグロにとってこれが世界の全てなのよ。死ぬまでグルグル、ぐるぐる……」
「はあ……なんか、ロマンの欠片もない台詞ですね」
「……そうだね、ノブヨ」
ハジメがノブヨの頭をポンポンする。
今日は創立記念日で、世間は平日であり、水族館も人があまりいない。マグロの回遊が見れるここの大水槽も、わたしたち以外誰もいなかった。
「わたしが、マグロを可哀想に思ったのは……まるで、今のハルのように重ねたからかもしれない」
ハジメは独り言のように、わたしに言った。
ハジメに何となく雰囲気が似ている、目つきが悪い一匹の巨大なマグロがいたので、それを目で追いかけてみた。グルグルと、三周目ぐらいだろうか、わたしたち以外誰もいないはずなのに、視界の隅に誰かいたような気がした。
四周目……それは、ハッキリとわたしの視界に現れた。
倒したはずの、十年後のわたしと、七年前のわたしの後ろ姿が薄暗い水槽の明かりに照らされながら、フラクチャーの鎧と着物の姿で、こちらをチラリと一瞥した。
「ノブヨ! これはっ?」
わたしは、驚いて立ち上がる。
「はあ……どうしたんですか?」
「ハル? なにかあったの?」
呆然とした二人の顔を見て、わたしは我に返る。水槽を指さしても、そこには誰もいなかった。
「疲れてるの? ハル……顔色悪いよ?」
ミネラルウェアかプロポーショングリッドの不具合だろうか?気味が悪かった。わたしは「ちょっと、お手洗いに行ってくる」と二人に言い残し、トイレの扉に手をかける。
扉を開けようとしたら、ヨシミの声が聞こえた。
職員室からこっそり拝借したプールの鍵を使って、ハジメとナイトプールをしようと、ウキウキしながら会議室を覗いてみたら、ヨシミがハジメの腕を掴んで、何か喧嘩でもしているように見えた。
「本気なの?」
「自分でも本気なのか分からないんですよ」
書類ミスというから、生徒会室に戻ってみたら、勘違いでミスもなにも無かったらしい。とんだトンボ返りだったと、急いで写真展示の準備をしている三人の元に戻ってみたら、またヨシミがハジメをいびっていたのかと思い、わたしは盗み聞きをしていた。
「わたしは、わたしの選択で将来を決めたい。ハルに縛られたくないし、ハルもそれを望んでいると思う」
ハジメのその台詞を聞いて、わたしは思考がしばらく停止した。
わたしがハジメを縛っているだって?
「やっと気付いたの?」
誰かの声がした。振り向くと、そこには……。
「……ありえない」
「そう、ありえないよね」
そこには、十年後のわたしがいた。わたしが倒したはずの、二十七歳の、エメラルドのミネラルウェアを持つわたしが……満月に照らされて、
「プロポーショングリッドの不具合……ノブヨ」
「不具合な訳ないでしょ。わたしはあなたなのよ、十七歳のわたし」
そんなバカな……。
「バカはあなたよ。たった十年ぐらいの人生の先輩なんだけどさ、一つ、いい事を教えてあげようか」
未来のわたしは、わたしの耳元で囁く。
「ハジメはね、最初の美大受験が失敗してね、それを結構引きずる事になるの。それが、原因でわたしとハジメは一回喧嘩別れをする。ある一言が原因でね」
「ある一言?」
未来のわたしはニッコリと不気味な笑みを浮かべた。
「わたしがいなきゃ何も出来ない、よ。結局、縛られるのが嫌いなわたしは、あなたは、ハジメを強く縛り付けていたの」
「嘘よ……そんなのウソ!」
「なにが嘘なの?」
ヨシミに肩を叩かれて、わたしはハッとする。気付いたら、わたしは闇夜の窓ガラスに映ったわたし自身に、話しかけていた。
「ハル……大丈夫?」
「うん……大丈夫よ、ヨシミ……」
「ここのところ、忙しいからね……これから飲み物買ってくるけど、何か欲しいものはある? 奢るわよ」
「……ミルクを」
「また? ハル、そんなに牛乳好きだったけ?まさか、後藤先生のせいで、乳を大きくしたいんじゃ……」
「違うわよ! 牛乳飲んだくらいで、バストがデカくなるんだったら、世の女性全員は巨乳だらけでしょ!」
ハジメと同じ事を言って、ヨシミは飲み物を買いに行く。
「……なにが、わたしがいなきゃ何も出来ないだよ、わたし」
と、言いながらも、わたしの脳裏には、ハジメが撮った写真を公募に出さなきゃという考えが、グルグルと渦巻きながら、わたしはハジメとノブヨのいる部屋への扉を開ける。
扉を開けると、ゴマスの部屋の汚さにわたしは辟易していた。
「足の踏み場もないとはこの事ね」
「余計なお世話よー! 人の事言えるの?和嶋さんの部屋だって相当な汚部屋じゃないー」
「わ、わたしのはモノが多いだけ!」
「じゃあ、我々もその言葉を使わせて貰うわよー……そんな事より、鈴木さんの様子は?」
ゴマスはボンボンと鳴らしながら、ベースをチューニングする。
「グッスリ寝てるわよ、今日も色々あったからね」
「ふーん……鈴木さんと中島が仲良く寝てるのにー? 随分と、落ち着いているのねー」
「人の心を読むなよ」
「読まなくても分かるわよー……大人だからねー……はい、プロポーショングリッドを連結させて」
「はいよ、連結」
わたしとゴマスは、しばらくの間、無我夢中でセッションを繰り返していた。
プロポーショングリッドによって補正されたデタラメでテクニカルなわたしの演奏に、ゴマスはメロディに追随して、タイミング良く完璧にルートを弾いたり、踊るような経過音を軽妙に鳴らしていく。
普段、ニタニタと作ったような笑い顔を浮かべているゴマスが、今回ばかりは心から楽しそうに笑っているような気がした。
演奏しながら、ゴマスの机の上に置かれたフォトフレームが目に入た。
ゴマスの頬にキスをしているショートボブの髪型の女性がいて、ゴマスも幸せそうに満面の笑みを浮かべている。友人……それとも……。
「その女性と我々……っていうか、わたしがどういう関係なのか気になるー?」
ルチルクォーツの琥珀色の瞳をキラキラさせるゴマス。
「どうでもいいわよ」
「そうかー……でも、今の和嶋さんは別の事で気になっているわよねー」
わたしは演奏を止める。
「……さっき見せたもらった二人で行動している二人のわたしについてだけどさ……」
「うんー」
「まだ何かわたしに隠してることがあるでしょ? あなたたちインクルージョンは」
その一言で、ゴマスはノブヨのような溜め息を吐いて、ベースをスタンドに置く。
「……少し、外に出ようかー」
「外? ハジメは?」
「大丈夫よー、中島は最上位のIFグレードユニットのままだからねー、ちなみにこのマンションの半径五十メートル以内に、数体のNNユニットも配備しているから、当面は大丈夫なはずよー」
ゴマスは上着を羽織り、ダイニングに繋がっている扉に向かう。
「随分と厳重ね……そんなに、わたしとハジメって守る価値があったけ?」
「あるわよー……我々は、和嶋さんを……このEIの和嶋さんを失うわけにはいかないの」
扉を開けると、そこはダイニングではなく、どこかの広い部屋に繋がっていた。辺りを見渡すと、どこかのパーキングエリアみたいだ。
「この、どこでもドアみたいなの、すごく便利よね」
「女性が寝間着で何か軽く食べようと思ったら、ここが一番よー、落ち着くしねー……何か飲み物を奢るけど、何がいいー?」
「ミルクを」
ゴマスはしばらく、考えてからニタァーっと笑う。
「ふーん了解ー、わたしのようにおっぱい大きくしたいの?」
ゴマスは自慢のバストをわたしに見せびらかす。
「ゴマス」
「なにー?」
「ぶっ殺すぞ」
「はーい、はいー、牛乳ねー」
ゴマスが飲み物を買いに行く間、わたしは辺りを見渡す。売店が閉まっていて、軽食を販売する飲食店も照明が暗くなっていた。人もいないイートインコーナーに、自動販売機の明かりだけが、煌々と照らし続けていた。ゴマスが落ち着くと言ったのも、何となく分かる気がする。
わたしは適当な席に座り、ぼんやりと、パーキングの方を見てみる。
インクルージョンの仕業だろうか、車が一台も停まっていない。なんだか、わたしだけが、世界で一人だけになったような気分。
「ハジメも連れて来ればよかったな」と、独り言をボヤいていたら、わたしの足下に赤いゴムボールがコツンと当たる。
「別に独りぼっちが、嫌いなわけじゃないでしょ?」
顔を上げると、目の前の席にわたしが座っていた。正確には、七年前の十歳のわたしが……。
テントウムシのような着物のフラクチャーを羽織りながら、わたしをスタールビーの瞳で、両頬を押さえながら、わたしをまじまじと見つめていた。
「……そういえば、スマホを持ってくれば良かったな……ココってどこなんだろ」
「あれ無視? この人、無視したよ!」
「プロポーショングリッドの不具合をゴマスに相談しないと……」
幼いわたしがテーブルに身を乗り出して、わたしの顔に寄ってくる。
「だぁかぁらぁ……不具合でもなんでもないの。少し、お話してもいいかな?ハルお姉ちゃん」
「ゴマス遅いな……」
「わたしはミチと一度喧嘩をした事があってね……多分、今のあなたもそれを引きずっている。ハジメに同じ事をしそうになるから」
「やめろ」と、わたしは言いそうになる。
「あれは、ミチと一緒にゲームをやっていた時だったかな?それとも、一緒にビーズ細工をやっていた時なのかも……わたしはミチに無意識で言ってしまった」
「やめて」と、我慢できずにわたしは答えてしまう。
「わたしがいなきゃ何も出来ないから、ってね……そうしたら、普段、温厚な筈のミチがもう、顔を真っ赤にして怒ってねー」
「なんで……なんで、その話を今するの?」
幼いわたしは、両手でわたしの顔を掴む。
「それはね……わたしはあなたを本気で心配してるからよ」
「余計なお世話よ」
「余計なというわけにはいかないのよ。これは、わたしのカンってヤツかもしれないけど、またわたしは、同じ事を繰り返す気がするのよ」
「余計な……」
「バカは死んでも直らないってね」
「お世話って言ってるでしょ!」
わたしは、テーブルを思いっきり叩く。
「……え、えっとー、うどんじゃなくて、そばの方が良かったかなー?」
自動販売機で買ったのだろうか、ゴマスが両手にうどんの入ったプラスチックのどんぶりを持ちながら、呆然とした顔で立ち尽くしていた。
「これは一体どういう事なの? これもあなたたちの仕業……」
「話の流れが分からないけれど……」
琥珀色の瞳をパチパチさせるゴマス。心を読んだな。
「あー、そういうことねー」
「この現象はプロポーショングリッドかミネラルウェアの不具合なの?ゴマス……」
「まあーまあー……うどんでも食べなよー、麺がのびちゃうわよー」
ゴマスはうどんに七味を入れて、うどんをすする。わたしも仕方なく、勧められたうどんを少しだけすすりながら、牛乳をゴクゴク飲む。
「人が、何かを無性に食べたいと思ったとき、それは体内のミネラルか不足しているサインでもあるのよー」
「栄養不足で幻覚を見ているだけって、言いたいの?」
「違うわよー、鈴木さんが常に酸っぱいものを欲しがっているのは、体内に乳酸が蓄積されているからー、要は疲れやすい体質なのねー。和嶋さんが、常に甘いものを欲しているのも、タンパク質が足りていない証拠ー。そして、わたしが今、無性に辛いものを欲しているのは、アドレナリンとエンドルフィンが足りていないからー、ストレス溜まっているのねー」
ゴマスは七味を容赦なくうどんにふりかける。こんなに、激辛好きだとは知らなかった。
「そんな事は知ってるわよ。で、それが何なの?」
「我々インクルージョンは、色を欲している。
ゴマスの口調が豹変する。ルチルクォーツの瞳が妖しく輝きだし、わたしを照らす。
「それが、あなたたちの目的なら、どうしてこんな、わたしたち同士を争わせる馬鹿げた茶番をやっているの? しかも、以前はクラリティを良くしたいって言ってなかった?」
「はじめは、ささいな好奇心だったのよ。EIそのものを破壊するくらいの、強い因果律を持つわたしたち同士をインクルージョンが一方的に上書きするより、衝突させたらどうなるか……っていう好奇心。一種の破壊検査というやつね」
ポンっと、わたしの肩を叩きながら、十年後のわたしが、何故か側にいた。
「最初の方のわたしは、まあ……インクルージョンの想定範囲だったらしいみたい。よくあるパターンの一つだったと……問題は、次のわたし」
わたしの隣の席に、七年前のわたしが足をバタバタさせながら座っていた。
「これは……なんの真似……ゴマス」
「インクルージョンでも対処できなかったドーパントのハルを十七歳のハルは、NNとの協力があったとはいえ、対処する事ができた。その時、インクルージョンは気付いたのよ。とんでもないダイヤの原石を手に入れたってね……あっ、ゴメン、ハルはパールよね」
おいおい……いつ以来だろう、ハジメの幻覚が、わたしの頭にアゴを乗せながら、わたしの首元を猫を扱うかのようにスリスリさせていた。
「今、和嶋さんが異常に牛乳を欲しているのも、カルシウムのミネラルウェアを酷使し、不足していると和嶋さんの本来の身体や脳が、勘違いしているのに過ぎないの。腕を失った人間が、存在もしない痛みを感じると同じ……まったく、人って不思議な存在よね」
「その台詞って、まるであなたたちインクルージョンが、人ではないような言い方よね」
「前にも言ったけど、我々は人だよ? 半分人であり、半分別の何かになっている。ハーフ&ハーフ……それが我々なのよ」
「別の何か……それがあなたたちインクルージョンの正体なの?わたしの色を奪うってどういう意味なのよ?」
足下になにかが、這い出てくる。テーブルの下を覗くと、頭の一部が欠けて、木星の表面のような、メノウ模様の断面を露出させた、赤子の……わたし?
「ひっ!」
驚いたわたしは、イスから飛び上がりテーブルをひっくり返す。
わたしは顔を上げて、ゴマスの方を見ると心臓が凍りついた。
さっきまで、誰もいなかった筈のパーキングエリアのフードコートや駐車場に、わたしの……多種多様なミネラルウェア、フラクチャーを身に纏った過去や未来のわたしたちが、マネキンのように並べられ、直立不動の姿勢で整列しながら、色とりどりのプロポーショングリッドの瞳で、わたしを照らし、眺めていた。
わたしたちの足下には、何十人、何百人もの、まだ二本の足で立った事もないような齢のわたしたちが、ハイハイをしながら、全員、わたしをただ眺めていた。ジーッと見つめていたのだ。
実際、人が認識とか常識の範囲を越えたモノを見た瞬間って、こういう反応するんだろうな……わたしは、ゆっくりと後ろを向き、自動販売機の方を見ながら、何も見なかったような素振りをした。
「凄いでしょ? 二人分とはいえ、これらが、和嶋さんが背負っている一〇五の累計たちよ……彼女たちが最終的に和嶋さんと一つになったとき、わたしはどんな色を鑑別し、手に入れられるのか、本当に、ほんとうにっ……楽しみでしょうがないのよ!」
ゴマスが、インクルージョンが、嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねているのは分かった。
さっきゴマスがうどんを買っていた販売機だろうか、カウンターのニキシー管が壊れていて、3と1の数字を交互に繰り返している。
「世の中は夢か現かー現とも夢とも知らずありてなければー」
ゴマスの口調に戻り、なにかの和歌を詠んでいた。
「古今和歌集よー、この世は夢なのか現実なのか、誰にも分からないという意味の、わたし……後藤真澄の好きな詩よー……仏教における色即是空にも近い意味合いよねー」
「色即……色?」
「仏教における色というのは、宇宙に存在する物質的現象のすべての意でありー、それらは実体として存在せず、刻々と変化をしている不変なるものー、つまり空である……我々はその色に近い存在なのかもしれないねー」
「……仮にわたしが、五つの一〇五を手に入れた後、あなたたちはわたしをどうするつもり?わたしのその……色を奪った後、わたしを消すの?」
「そんなもったいない事はしないわよー。我々はただ、和嶋治という存在をEIから無くしたいだけー、名前と我々との接触についての記憶は消させて貰うけどねー、来年ぐらいには、名前と容姿を変えて貰うけど、平穏無事に鈴木さんと仲良く、心霊写真を撮りに行ってるわよー」
「それを一方的に信用しろ……と?」
「そうよー……ただ」
「ただ?」
ニキシー管が、ゼロになる。
「一つ問題があってねー……我々は……我々はねー、あなたを……」
「わたしを?」
「和嶋さんを完全にコントロールできなくなったかもしれない……」
ゴマスがそう言った瞬間、パーキングエリアが停電を起こす。
振り向くと、ギッシリと並べられたわたしたちは、煙のようにフッと消え失せて、ゴマスの琥珀色の瞳だけが、闇夜に光り輝く。
「……それは、マジで言ってるの?」
「これがマジなのよねー。だから和嶋さんがー、我々でも止められなかったドーパントを破壊してくれたのは嬉しい誤算だったわー」
「つまりこれから起こることは、あなたたちでも……」
「予想できないわねー……今のうちに、後悔が無いよう、やりたいことは済ませた方がいいわよー」
わたしは「帰る」と、ゴマスに言い捨て、慌ててパーキングエリアの出口を開け放つ。
わたしの部屋に入ると、ハジメがノブヨにせっせと、ロリータ衣装を着せていた。
ネット通販で買った福袋にサイズが小さすぎるものがあったので、ノブヨの学園祭のライブ衣装にならないかと、わたしの自宅でハジメと一緒に衣装合わせをしていた。
「うん……中々、似合うねノブヨ。ほんとうに、人形みたい……って言うと、失礼かな?」
「はあ……別に構わないですよ、ハジメ。そんな事より、わたしはドラムだから、あまり目立たないのに、このような格好をする意味ってあるんですか?」
わたしはハジメとノブヨがいつの間にか、下の名前で呼び合っているのが少しだけ鼻に付いた。
「悪魔とか貴族とか言っているバンドだって、全員同じ格好してるでしょ? 統一感って大事だよ。第一、ハルとゴマスがせっかく衣装着ているのに、ノブヨだけ制服っていうのも変でしょ」
「はあ……そうですけど、人前でこの格好というのは……」
「ノブヨのミネラルウェアだってスゴい格好してるじゃん」
わたしは、紅茶とお菓子をハジメとノブヨの側に置く。
「はあ……それはそれ、これはこれですよハル」
ハジメは一眼レフを構え、ノブヨに向けて連写する。
「はあ? ちょっとハジメ! なに、勝手に撮ってるんですか!」
「えー、減るもんじゃないし、別にいいじゃん。ノブヨすごくカワイイからねー」
「はあ……か、可愛いって……わたしの精神はすり減ってますよ! カメラを寄越せ!」
「イヤに決まってるでしょ! ハル! パスして!」
ハジメは一眼レフをわたしに放り投げる。
「ちょっとハジメ! 大事な仕事道具をこんな粗末に扱ったら……」
「あらまあ、カワイイお客さん」
「ダメでしょ……って、母さん?」
出張から帰ったと思しきわたしの母が、にんまりとした顔でドアの隙間から覗いていた。
「わたし、鈴木さんと同じクラスの中島のぶ代と申します!学園祭の衣装をハルさんから借りにお邪魔してます!こちらつまらないものですが、よかったらどうぞ!」
などと、満面の笑みで品行方正な挨拶をしながら、いつの間にか買っているグランドルチェのモンブランケーキを母に渡す。わたしとハジメは、豹変したノブヨに呆然とした。
「あら、どうもご丁寧に……今、お茶入れるからね」
「いえいえ……お構いなく!」
母が去ると、わたしとハジメは生暖かい目で、ノブヨをマジマジと眺めていた。
「はあ……なにも言わないで下さい!」
「はー……」
「あの、ノブヨがねぇ……」
ハジメが顔を赤くしているノブヨに写真をパチリと撮る。
「だから! 撮るなハジメ!」
ノブヨがハジメのカメラを取り上げようとすると、再び母がドアから顔をヒョッコリと出す。
「そういえば、三人とも夕飯はまだですよね。頂き物のサーロイン肉があるけど、鈴木さん、中島さんもよかったら頂きますか?」
「サササッサーロインッ! そっ……そんな……お、お構い」
『お構い?』と、わたしとハジメが同時に言う。
「お、お構わくないです!いだだぎまずっ!」
涙目で、欲望に従おうとするノブヨはすごく可愛い。またパチリと写真を撮るハジメ。
「はあ……もう好きに撮ってください」
色々と何かを諦めたのか、ヘナヘナと、その場で体育座りをするノブヨ。
「状況が分からないけど……ハルちゃん、夕飯作るの手伝ってよ」
そういえば、母と一緒に夕飯を作るのはいつ以来だろう。わたしは少し嬉しくなった。わたしはハジメとノブヨに感謝しながら、部屋の扉を開ける。
ドアを開けると、明日の学園祭の展示準備が終わっていて、ハジメが薄暗い部屋の中、わたしの写る大伸ばしした写真をまじまじと眺めていた。
儚げで、今すぐ壊れてしまいそうなハジメの顔を見ていると、たまらなくわたしは、ハジメを……。
「抱かせて?」
「藪から棒になにを言ってるのハル……打ち合わせは終わったの?」
わたしは、ハジメの膝に頭を乗せる。
「あらかたね……まったく、今すぐ生徒会ほっぽり出して、写真部だけ入りたかったわよ」
「写真部だって忙しいよ。学祭の写真係で、そこら中撮って回んきゃいけないし、生徒会の手伝いもしながらね……知ってると思うけど、ハルのライブもわたしが撮らなきゃいけないんだからね」
わたしはハジメの、ビードロのようなスベスベした脚を撫で続ける。
「前から聞こうと思っていたけど、ハジメはどうしてそんなに写真を撮るのが上手くなったの?」
「……そうだな、それはよく分からないし……構図の切り取り方、撮った回数……いや、そんな理屈的な事じゃない。多分直感と行動だろうね。心の目って奴かもしれない」
ハジメは自分の心臓の辺りをトントンとする。
「ふふ……そんな曖昧なものなの?」
「そう、そんな曖昧なものなの。だから写真は面白いのよ。未だに自分で写真が上手いだなんて思わないしね。学祭の写真だって、今から撮るのがすごく楽しみにしてるんだから」
「ハジメにはすごく助かってるよ。部活の部長たちや、実行委員、生徒会のみんなも、ハジメにはすごく感謝してるってさ」
「なんだか、実感がわかないな……感謝されるっていうの、慣れてないからね」
ハジメはわたしの、耳たぶを優しくつまむ。
「ハジメは優秀だよ……いっそのこと、来年生徒会に立候補すれば?」
「イヤだよ。無駄に責任負うのはゴメンだし、第一……わたしは」
「わたしは?」
「わたしはハルのようにはなれないよ」
その台詞を聞いて、わたしはハジメが以前、ヨシミに言っていた事が気にかかった。
「……わたしはハジメを縛っているのかな」
「分からない……縛っているのかもしれないし、わたし自身がハルの事を縛っているのかもしれない……こういうのなんて言うんだっけ、手錠とかの……」
「……ハジメはわたしの枷って事?」
ハジメはゆっくりと頷く。
「二人のハルと出会ってから何となくそれを実感したよ……足手まとい……たぶん、次のハルが現れたら、多分わたしは、またハルの分身に誘拐されて、人質にされるかもしれない。そんな事になるなら、インクルージョンに頼んで、わたしは……」
「ハジメ!」
わたしは、ハジメを思いっきり抱きしめる。
「それ以上、言わないで!」
「分かってるけど……でも……」
「好きよ……愛してるハジメ」
「わたしもだよハル……だから……だからさ」
わたしはハジメに何度も何度も何度も何度も、唇を重ねる。
「ハルはわたしと別れたほうがいい」なんて、絶対言わせるもんか。
展示で外したカーテンが、会議室の隅に置かれていて、ハジメをそのまま、カーテンのベッドへと押し倒す。
「やめて……ハル、誰か来たら」
「来ないよ……どうせバレても、ゴマスが上書きをする」
わたしは、ハジメにキスをしながら、制服の裾をまくり上げてブラを外す。
ブラを外すときコツンと、ハジメの真珠のペアリングが指先に当たる。学校の時はお互いネックレスに通しているわたしたちが「恋人」同士である物質的な証。なんだか、無性にたまらない気持ちになり、わたしは、自分の胸にぶら下がっているダイヤのペアリングをギュッと握りしめ、ハジメの胸の中に顔をうずめる。
「あっ……ハル……家まで我慢できないの……ここ、学校だよ」
「構わないわよ」
そう、構わない。もしかしたら、これがハジメとの最後のキスで抱擁でエッチだと思う度に、わたしは我慢できなくなる。
「ハル……うん、いいよ……きて」
ハジメが両手でわたしの肩を優しく掴み、抱擁を交わし、わたしの乳首とハジメの乳首がクリクリとキスをした。
何回か……何十回目かのキスの後、わたしはハジメの首筋をペロペロ舐め続け。ハジメはわたしの耳を甘噛みする。心地良い。湯船に飛び込んだ高揚感と暖かさと気持ちよさとかが、同時に襲ってくる感じ。
「うんっふふ……」と、わたしは、クスクスと笑う。
「あ、ゴメン……くすぐったい?」
「ううん……すごく嬉しいなーと思って」
「なんで?」と、言いながらハジメはわたしの胸をいじくりだして、子犬のような顔で、乳首を舐めて、吸う、舐めて、吸うを交互に繰り返す。
「あっ……ハジメとエッチな事するとき、わたしはわたしでいられると信じられるから」
わたしは、ハジメのプロポーションが整った綺麗な乳房を粘土をこねるように揉みながら、薄く白い肌から浮き出ている肋骨の辺りをキスしながら舐め続ける。
「んっ! てっ、哲学?」
ハジメは馬乗りになり、わたしのお腹をコチョコチョとくすぐる。ハジメの長い三つ編みポニーテールの先端が、わたしの顔にサワサワと当たって気持ちいい。
「あっ……違うの、そんな難しい話じゃないの……わたしは、ああっ……わたしの本体が一〇五と呼ばれる鉱物だったら、うんっいいっ……この気持ちよさも、快楽も、わたしがハジメを愛しているというこの感情も感覚も、あっあっあっ……模造や偽物に過ぎないんじゃないかって……」
わたしもハジメの制服のスカートをめくり、ハジメらしい素っ気ない無地のパンツごしから、ハジメのアソコを中指と人差し指を使って、クリクリする。ハジメがビクンと痙攣した。
「いやっ……やめて、そんな考え方……ハルがまるで、一〇五に操られているみたいじゃん……第一」
「第一?」
「一〇五を持たないわたし、わたしたちは何なの? インクルージョンからしたら、わたしはデジカメのJPEGと一緒で、1とゼロの羅列、ただの情報か文章なのかもしれないのよ……ハルは文字とエッチしてるの?」
「そ、そんなことはない!」
ハジメもわたしのパンツの上からゆっくりと、器用に長い指をわたしのアソコをいじりだす。我慢できなくなってきて、何度も情けない喘ぎ声を出しながら、身体をビクビク痙攣させる。
「あ、こんなに濡れてる……そう、そんなことないと思うでしょ……だったら、楽しもうよ……今をさ。例え偽物でもね。わたしはそれで構わない」
「……ありがとう、ハジメ」
「ううん、わたしがこんな事を言えるのも、ハルのおかげなんだよ」
わたしとハジメは、もう一度、ゆっくりとキスをした……長い、長いキスを……こんな時間が永遠に続けばいいのにと思いながら。
廊下の方で、ガタンという音が聞こえた。わたしは慌てて制服を着ながら「誰!」と言って、廊下へ飛び出す。
廊下には誰もいなかった。誰かに見られたのかと、わたしはどぎまぎしたが、ドアの側に牛乳、100%のグレープフルーツジュースと、ビニール袋に入れられた大量の竜田揚げなどが置かれていた。わたしとハジメの好みを把握していて、こんな事をするのは……。
「誰? ハル」
「……ノブヨみたい、いないけど」
「水臭いな……まさか、エッチしてるわたしたちに気を使ってくれたの?今更……」
「今更……ね」
廊下に点々と、水のようなものがポタポタと落ちていた。飲み物の結露? ノブヨの汗? ……まさか。プロポーショングリッドでその水滴を覗いてみると、水の中に少量のタンパク質が含まれていた。
それが何なのか、鈍いわたしでも何となく分かった。
「なにか、あった?」
「……あったわよ」
それはノブヨの「涙」だ。わたしは、ハジメに動揺を悟られないようにした。
「ったく、しょうがないわねーノブヨはねー」と言って、会議室のドアを閉める。
ドアを閉めると、目の前にはライブ衣装に着替えた仰々しいわたしをギョッと凝視するサトジョの生徒たちがいた。
「ほんとにその格好でいいのハル?」
「いいのよ、どうせハジメとヨシミにはこの格好の事はバレてるし、写真展示にだって、堂々と公開してるじゃないの。それに、今日はせっかくの学祭だし、みんな似たような格好だからね、木を隠すなら……」
「森の中ね」
ハジメがポツリとそう言う。何か、不思議な違和感を感じた。
「そ、そんじゃ、行ってくるわねハジメ。カッコイイわたしをどんどん撮って……」
壇上に上がりながら、ハジメの方を振り向くと、ハジメとノブヨが舞台袖の奥の方に隠れながら、なにか……なにかをやっていた。もしかして、キスをしていたかのようにも見えたけど、ハジメとノブヨがそんな事をする訳がないと、自分に言い聞かせる。
「(繰り返される孤独感に打ちひしがれながら、わたしはただ偽りのわたしを演じ続ける)」
プロポーショングリッドを使って演奏した罰だろうか、わたしたちの歌は得体の知れない言語に変換され、わたしの喉元から歌声として飛び出す。恐らく、インクルージョンたちの……十万年後の言語なのかもしれない。
「(わたしは彼女のようになりたかった。桃の皮をむくように、わたしの仮面を、容易に、むきたかった)」
構うものか。わたしはギターを鳴らし続ける。速く、正確に、重く、複雑なようで乱雑に。
「(だからわたしは彼女と踊り、踊り、命尽きるまで踊り続けたい! たとえこの世が偽りでも! どうか、この曲を止めないでくれ!)」
どんな音楽にも言えることだけど、メロディさえ良ければ、歌詞は二の次だ。この気持ちを……。
「(わたしは彼女に振り向いて欲しかった。良い夢を見た朝のように、わたしの身体を、優しく、安堵させて欲しい)」
この気持ちをハジメだけに伝われば、後はどうでもよかった。
「(終末の演奏会! わたしは彼女と踊り、踊り、命尽きるまで踊り続けたい!)」
ノブヨの少年のようなウィスパーボイス。自作してくれたエフェクターの調子も良く、狂気を帯びた甲高いアッパーオクターブが鳴り響く。短い期間とはいえ、ゴマスとノブヨとで、リハーサルを重ねていて良かった。
「(たとえ、彼女がいなくなっても、ずっとこのままでいて欲しい)」
わたしはハジメの方を見る。カメラに目線をあげないと……けれど、舞台袖の方にハジメの姿がいない。辺りを見渡してみると……いた。わたしの真後ろにハジメが……。
「わたしはこのままでいて欲しくないな」
「ハジメ……まだライブ中……」
気付けば、手に持っていたギブソンSGのギターも何処かに消え失せ、ゴマスやノブヨ、サトジョの生徒たちも霧のようにいなくなっていた。
「これって……」
「ねえ……ハル」
この体育館にはわたしとハジメの二人きりだった。
「どうして、わたしの撮った写真を勝手に公募へ出したの?」
思いがけない、ハジメの質問。わたしは言葉を詰まらせる。
「それは……それは」
「それはね……ハジメ、傲慢で愚かなわたしが自分こそが世界の中心だと思ってるからよ。あなたの為だからってね、都合のいい事をペラペラと吹き込むのよ」
十年後のわたしがニヤニヤと笑いながらそう言う。
「結局のところさわたしって、自分が一番好きなのよね。しかも、自分は誰にでも愛されているって勘違いしている。そういうの、なんていうか知ってる? エロトマニアっていうビョーキなんだよ、ハジメお姉ちゃん」
七年前のわたしがケタケタと笑いながらそう言った。
「違う……ちがうよ……わたしは」
「それでも、ハジメの為だって言いたいのかい?」
七十歳のわたし……ソウギョクと恨めしい目つきでわたしを睨む五歳のわたし、ナガツキが舞台の下の方で、わたしを見上げていた。
「あなたは……わたしはいつだってそうだ。選択肢というものを一切考慮しない。自分の影響力というものを考えた事はあるのかい?無限の選択肢の中から、どうしてそれを選んだのかと、少しでもいいから疑問に思った事がある?だから……だからわたしは……いつまで経っても……」
「わたしはハルの至福点にはなれそうにないよ。そして、わたしや誰でも、ハルは不幸にするだけかもしれない……わたしは……わたしはね……ハルのようにはなりたくないのよ!」
ハジメが叫ぶ、わたしはハジメにそう言われて、何を感じた?多分泣いていたのだろう。子供のように、鼻水を垂らして、惨めで、無様で、情けなく、泣きじゃくっていた筈なのに……。
「どうして……涙が出ないの」
「当然でしょ……ハルはね、もう人じゃないからよ」
ハジメは笑っていた。純粋で無垢に、健気な笑顔で、わたしを笑っていた。
ハジメだけじゃない。十年後のわたし。七年前のわたし。五十三年後のわたし。十二年前のわたし。みんな……みんな……いつの間にか、客席にはサトジョの生徒ではなく、多種多様な年齢と鉱物の瞳を持つわたしたちが、席を埋め尽くして、わたしを笑っていた。
笑い声が歪に共鳴し合い、グロテスクなアンサンブルを奏でていた。
「さようならハル」
ハジメがスイッチのようなものを押す。ソウギョクがナガツキとハジメの手を引っ張って、舞台袖の奥へと消えていく。
「待って! ハジメ!」
客席の方に、なにかの黒い楕円形のオブジェのようなものが置かれていて、それが巨大な爆弾だと理解した瞬間、まばゆい光を解き放ち、わたしたちを次々と飲み込んでいく。
わたしはハジメの背中を追いかけようとするが、どうしても追いつけない。やがて、光がわたしを包み込む。音もなく、無慈悲に、光だけがわたしを……。
……白。
「ハジメ!」
目を覚ますと、見覚えのある場所でわたしは目覚める。
「ようやく、お目覚めねー。随分とうなされていたわよー、悪夢でも見ていたのー?」
そこはわたしのIRだった。わたしの死の直前の時間を結晶化された空間。窓の外には、停滞した時間の中、飛行機の巨大なエンジンが、宙を舞いながら、わたしの方へと向かっていた。
「悪夢……いや、今のこの現状が悪夢そのものでしょゴマス。状況の説明を……」
わたしは仰向けの姿勢で、ほとんど首だけになっていた。
頭の上……脳味噌がそもそも存在しているのかも怪しい状態だ。首から下はボロボロに崩れていて、ケーキをひっくり返したかのような、歪で白い、裏返ったわたしの身体と思しき物体をゴマスは修復しようとしていた。
「一時間前に、和嶋さんと鈴木さんが働くバイト先、レインボーアイズにて、五十三年後と十二年前の……ソウギョクとナガツキと呼ばれる和嶋さんのドーパントとエンカウント。方法は分からないけど、鈴木さんを我々の転移技術を応用して拉致し、至近距離で盗んだ気化爆弾を起爆させる。はあ……密集した住宅地でこんなシロモノを起爆させたらどうなるかは、和嶋さんの想像にまかせるわよー……我々がどれだけ、正常な状態に戻すのに苦労したことかー……」
ゴマスが、虹色のイリデッセンスを発光させた一〇五を慎重にわたしの身体から抜き出す。
相変わらず禍々しい光を放つ鉱物だ。でも、変だな……以前見たものより、虹色の変化といい、発光や模様が……なんて形容すればいいのだろう、何かが違う気がした。
「中島に感謝しなさいよー。爆発に巻き込まれる直前、和嶋さんのダメージを最小限に抑えられるよう、庇ってくれたんだからねー」
「ノブヨは無事なの……」
「無事だよー……って、無事もなにも、NNユニットは基本、不死だからねー。今はあっち側のIRで、復元作業中ー」
わたしはホッとした。後でノブヨにお礼を言わないと。
「まあー……庇うもなにも、一〇五を現代の兵器で破壊するのは不可能よー。この時代では想像も出来ないような硬度とスペクトルを持つからねー……破壊したけりゃ核爆弾でもぶつけないとー」
ゴマスが一〇五をふっと、息を吹いて、わたしの肉体へと再装填する。
カチンっという金属音の後、バキバキと氷が割れるような音がして、わたしの肉体が割れたガラスのコップの映像を巻き戻したかのように、復元されていく。
「回復までにはもう少し時間がかかるからー、楽な姿勢で待っててねー。あとこれー」
ゴマスがわたしに、ハジメとのダイヤのペアリングを渡す。
「中島が大事そうに持っていたわよー、和嶋さんにとっても大切なものでしょー」
「……ええ、そうよ。わたしとハジメとのね」
わたしは完全に復元されていない手で、リングをギュッと掴む。
「ゴマス……わたし倒すわ、あの二人のわたしを……全力で叩き壊してやる」
ゴマスはニタァーと心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「その意気だよー和嶋さん。そうじゃないと困るからねー。我々は全力で支援するわよー……ところで、和嶋さんには以前、四つのCの話はしたけどー、五つ目のCはご存じかしらー?」
わたしは鼻で笑う。聞くまでもない。
「キンバリー・プロセス……
「あははー、その通りよー。さすが、和嶋さんー」
ゴマスは嬉しそうにタバコへ火を点ける。煙草の煙が目にしみて、わたしは目を閉じた。
目と鼻を閉じたいくらいの異臭がした。リビングへの扉を開け放ち、最初にわたしの鼻に強烈な甘い臭いが飛び込んできた。
わたしは甘いものは大好きだけど、これは次元が違う「甘さ」な気がした。
例えると、大量のバナナやマンゴーをチーズや納豆、生ゴミと一緒に入れて、真夏の山に放置したような……そう、死臭というやつに近い。これは、タンパク質……肉が腐った臭いだ。それが何の? 誰の?
「誰の肉なんだろうねぇ?」
キッチンに着物姿の十歳のわたしがいて、冷蔵庫の上で足をバタバタさせながら座り、わたしを見下ろしていた。
キッチンのシンクには、見たこともないような、巨大な肉が転がっていた。ほとんど骨だけの状態になっていて、取りにくそうな骨にこびり付いた筋肉の筋と思しき部分に、どこからか湧いて出てきたハエや蛆虫、見たことのない虫たちがギチギチと音を立てながら群がっていて、わたしは思わず目を背ける。
目を背けた先に、ゴミ箱があって、不要な部分を切除して捨てたのだろうか、毛髪とメガネが捨ててあった。
「そのメガネならよく覚えてるよ。わたしが、小ニの頃パパの誕生日にママがプレゼントしてくれたべっ甲フレームのメガネ……さて、どうしてその大切なメガネがゴミ箱に捨てられているんだろうねぇ」
わたしは、鍋に放り込まれた煮込みシチュー、隣のフライパンで焼かれていた炒めもの、コンロの中でローストされている肉……まさか、この肉ってもしかして……。
シチューの鍋の中から、異様に赤く、白いものが浮いていた。
それは、眼球だった。たぶん……たぶん……わたしの父親の……。
わたしは地獄風景のようなキッチンを飛び出し、血塗れのダイニングを抜けて、リビングにある鉢植えに吐こうとしたが、どんなに咳込んでもわたしの口からヨダレ一滴、何も出てこない。
「当たり前でしょ、ここは他のハルのIRなんだからね」
十歳のわたしが、やれやれといった顔で、腸と思しきモノが掛かったソファーにあぐらをかきながら座る。
「……ったく、生身の人間にフラクチャーをぶつけたら、こうなるわな……グチャグチャだよね」
「こ、こんなの嘘よ……わたしがっ!わたしがっ……こんな……父さんを……」
スピーカーから、同じギターのフレーズが歪に鳴り続けていた。父さんが趣味で集めていたLPレコードだろう。
たぶんラッシュのタイム・スタンド・スティルだ。わたしも好きな曲。延々と「時間が止まるなら」と繰り返し歌っていた。
そのレコード盤の上に、耳のようなものが乗っていて、趣味の悪いインテリアのように、グルグルと回り続けている。
「他のわたしをぶっ壊してきたわたしが言える立場じゃないけどさ……さすがに引くよね、この状況って」
隣の部屋……わたしの部屋だった場所から、甲高い笑い声が聞こえた。
「わたしはその扉を開くのはあまりオススメしないなぁ」
十歳のわたしが、ひきつった笑い顔で首を横に振る。
「それでも……わたしはこの扉を開けなきゃいけないの」
「どうして?」
「どうしてもよ。わたしがどんなに愚かで、卑怯で、非道で、残忍な奴だろうと、見届けたいから……その責任があるのよ。もう、引き返す事はできないの」
「その扉の向こうに、どんなおぞましい光景が行われていても?」
「わたしは、そのわたしを受け入れる覚悟はある」
何度か深呼吸をしながら、わたしは扉のドアノブに手をかけた。
(後編へ続く)
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