VI.僕の右手
00.
「や」
と、言って小さく手を振り、笑ってみた。
「ばか」
じとりと僕を睨んで、紫苑は返した。
靴を脱いで部屋に上がり、壁に背を預けて座る紫苑の横に腰を降ろした。
僕の右手は人差し指と中指に包帯が巻かれ、プレートと包帯でがちがちに固定されている。常に二本だけ指が立てられたピストル状態。痛み止めや化膿止めが入った袋を投げ出して紫苑の横顔を覗き込むと、たぶん、怒っていた。怒っていたし、拗ねていた。そんな紫苑の表情を、僕は初めて見た。
二時間前。
大丈夫ですか、と声をかけられて目が覚めた。
目を開けると、救急隊員が僕を覗き込んでいた。僕は部屋に横たわっていて、右手の指が大きく腫れあがっていた。血は止まっていたが、まるで感覚がなかった。芯まで身体が冷え切っていた。
些末なことを訊かれた。
どうしたんですか。痛みは。立てますか。歩けますか。搬送しましょうか。
答える。
指を折りました。痛いですが、麻痺してます。
立つのは、どうかな。身体が重くて。
また質問。
警察を呼びましょうか。
また答える。
いや、いいです、自分で折ったので。
意味がわからなかったのだろう。僕が言うと、その場にいた人間は目を白黒させていた。僕が倒れていた部屋には椅子と机以外何も残っていなかったらしく、質問する側はとにかく不可解そうだった。
不可解そうなまま、ひとまず病院まで運ばれた。
麻酔を打たれ、処置という処置を施された。
「なんで自分で指なんか折ったの」
僕の父親と似たような歳の医者が尋ねた。
ニコニコとして太っており、丸い眼鏡をかけた人の良さそうな医者だった。
その眼鏡越しに目を見て、僕は言う。
「特に、理由はないです」
指を二本叩き折っても自分の価値が無くならないか、試さなくちゃならなかった。そんな説明をしてもわかってもらえないだろうと思ったし、別にそれでよかった。
それが済んで、僕は紫苑に電話をした。
済んだから、帰ってきてくれ。
指が折れて病院にいるけど、すぐに帰る。
「……もう、大丈夫なの?」
紫苑が尋ねた。
紫苑は怒っていて、拗ねていたが、そんな表情をし慣れていないようなぎこちなさがあった。
「ひとまずは」
僕は言い、少しだけ考えて、言い直す。
「……実をいうと、この先どうなるかわからない。身の危険、みたいな話じゃないけど、いつまでこの部屋に住み続けられるかもわからなくなった。それに、指もこれだからな、ちょっと、生きるのが大変になる」
僕は指の折れた右手を振って見せる。
紫苑がどんな顔をするか。そう思いながら僕は笑ってみたが、
「そっか」
と、紫苑はたった一言を口にしただけだった。
何があって、何が起こったのか。
紫苑は訊こうとはしなかった。
「手は、大丈夫? また前みたいに治りそう?」
解錠を示すように紫苑が手を空中で捻る。
「わからん。治ったらまたピッキングできますか、なんて訊くわけにもいかないしな」
「それは、そっか。……治るといいね」
あの鈍い刃に触れたいと思い、折れていない指でポケットを探ったが、そこにアーミーナイフはなかった。おそらく、岸田が持っていったのだろう。別によかったし、いつか、また会ったときに返してくれるなら、それもいいと思った。
「まあ、できなくなるなら、なるでいいんだ」
不格好になった右手に目をやる。
僕は、あの感覚がまた戻ってくることはないんじゃないかという気がしていた。
あれは、どこにも居場所がなかった僕が居場所を作るために手に入れた唯一の武器だった。
もともと渇望して手に入ったものだ。
僕はもう、あのときほどの渇望ができない。
それに。
たぶん、やるべきことはそうじゃなかった。
僕はここにいる。
僕は、僕だ。
そう言ってやればよかった。
窓から見える夜空にまた雪が舞っていて、黒に白がちらついている。翌朝までのほんのわずかの間でいいから、今日の雪は積もってくれればいいとなんとなく思う。
「あのとき、きみが、部屋に鍵をかけ忘れてよかった」
紫苑が僕の左手をきゅっと握って言った。
僕は紫苑の手を握り返す。
指先の感覚を確かめるように手の甲を撫でると、紫苑がくすぐったそうに笑った。
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