V - 04

 力は抜けなかった。狙いも外さなかった。薄い皮と肉を通して、衝撃が骨に響いた。止めていた息が詰まった。咳き込み、咽そうになるのをこらえる。もう一度振り下ろす。面ではなく、辺で。振り下ろす。皮膚の中で何かが砕けた。どうしようもないくらい軽い音が頭の中で聞こえた。ナッツを砕くような軽い音。視界が白んだ。一斉に汗が噴き出し、噛み合わせた歯がぎしぎしと軋んだ。皮膚が裂けて細く血が散った。息がしたかったが、息を吸い込むと手が止まってしまうのがわかった。もう一度振り下ろす。もう一度。

 振り下ろした。


 左手からハンマーが抜け、回転してテーブルから落ちた。

 ごと、と床を叩く音がした。


 口から息が漏れた。


 二本の指が一瞬恐ろしく冷たくなり、灼熱した。


 指が血を滲ませながら大きく脈打ち、脈打つたびに痛みが腕を駆け上ってくる。空気がうまく喉を通っていかない。吸えない。吐けない。とめどなく汗が流れ続ける。小さな心臓が埋まっているように、どくどくどくと砕けた指が脈打っている。


 視界が滲む。

 かろうじて押し出すように息を吐き、口の端だけを吊り上げる。


 痛がっても何にもならない。


 折れた指を左手で覆いながら、顔を上げる。顎の先から汗が垂れ、滴り落ちた。ばたん、とドアが閉まる音がした。部屋を見渡すと、播磨がいなくなっていた。岸田と僕だけが部屋に取り残されていた。


 束の間、岸田は驚きと困惑が混じった表情をし、それから、僕を睨んだ。


 僕は肩で息をする。

 何を言っていいかわからず、笑う。

 僕は言う。


「これで、何の価値もない人間になった」


 右手が脈打つのが大きくなっていく。

 折れた指を覆う左手の中で血が滲んでいる。

 痛い。痛い。痛い。

 うずくまってしまいたい。

 冷たい空気の中、立っているだけで汗が流れていく。


「……ああ。もう、お前は俺とは関係ない。他人だ」


 吐き捨てるように岸田が言い、僕はその言葉を繰り返す。


「他人、か」


 その言葉がどう響いたのか、わからない。

 気がつくと、僕は言っている。


「なあ、お前は、ゲームとかするか。読書でもいい」


 岸田が怪訝な目で僕を見た。


「……なんだよ」


 僕は笑う。


「別に、単なる趣味の話だ」


 僕は笑って見せる。


「俺はゲームをするけど、本は読まないし、紫苑は本を読むけど、ゲームはしないっていう、それだけの話だ。本当に、その辺の人間がよくしてるような、くだらない話だよ。その、くだらない話が、お前とできるんじゃないかと思って、それで、訊いてみたんだ」


 肺の中の空気という空気が焼けている。

 痛みが限界に来ていて、舌がもつれそうになる。

 一度黙り込むともう話せなくなりそうで、不格好に言葉を詰め込む。


「……俺はわかりやすいリアクションなんかとらないし、お前も人に嫌われるような話し方ばっかりするから、わからなかったかもしれないけど、俺は、お前と話すのが、嫌いじゃないんだ。なにしろ、俺も、お前も、まともじゃないからな、考え方もなにもかも、世間からズれてるだろ、だからこそ、まともじゃないなりに、俺たちは、結構合ってるんじゃないかって、お前みたいなやつには、そうそう会えないだろうなって、思ってたんだよ。そりゃ、お前が言ってた通り、俺もまともじゃないから、まともな付き合いとか、そういうのも、よくわかんねえんだけどさ、意外と、俺も、お前も、似たところがあるから、だから、バカみたいな話だろうけどさ、もしかしたら、脅す脅されるの関係じゃ無くなった今なら、俺たちは、対等に、友達に、なれるんじゃないかと思って、

  」


 唐突に。


 僕は言葉を紡ぐのに躓き、台詞は止まってしまった。


 そもそも、それまでも、うまく言葉にできていたかもわからない。


 あるいは、根本的な問題として、こんなことはあえて言葉にするようなことでもないのかもしれない。自分で自分の指を叩き折った狂人が激痛から口走った狂言のように響いたかもしれない。痛みのせいか頭がうまく働かない。視界が霞み、ゆっくりと白く明滅している。


 岸田が僕を見た。


 どうかな、俺は、悪くないと思うんだよ。

 僕はそう言おうとしたが、息が切れていて言葉が出なかった。


 岸田の口の端が僅かに上がり、いつもの皮肉っぽい笑みを作る。

 岸田は、たった一言だけ


「別にいらねえよ。お前なんか」


 と。

 素っ気ない返事をした。


「そうか」


 僕は言い、笑ってみせて、言う。


「そうか、そりゃ残念だ」


 形だけ、僕らは笑いを向けあっていた。

 なんでもないことのように。

 外を走る車のエンジン音が聞こえた。

 気がつくと、窓の外の雪が降り止んでいた。

 岸田が顔を背けるようにして、ドアへと向かう。


「じゃあ」僕はいつものように言う。「またな」


 右手を覆っていた左手を解いて手を振った。

 手を振ってから気づいたが、うっかり血に染まった手のひらを向けてしまった。

 岸田は気にしないだろうが、送るにはあんまりな見た目だった。

 僕は苦笑いをする。


 音を立ててドアが閉まった。


 思い出したように激痛が押し寄せた。



 ぷつり、と何かが切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る