IV - 07
部屋に帰ると紫苑がいた。
紫苑はなぜだか制服姿で帽子を被っていて、暖房も照明もつけず、床の上に置いた小さなLEDライトだけを光らせて壁に背を預けて座っていた。玄関で立ち止まった僕を認め、紫苑は小さく手を振って、
「や」
と、言って笑った。
紫苑と初めて会ったときに似ている気がした。
部屋に人がいることに気づかず解錠した僕に、紫苑は苗字を名乗らず紫苑と名乗った。
あの時は何を話したか、と思い出すが、思い出してみると昨日と全く変わらなかった。初対面の紫苑は「それで、私は出て行った方がいいのかな?」と訊き、「邪魔になったらいつでも言ってね」と言った。
あの時と違って明かりは点くし、モノがある。
ずっと居場所がない。
「おかえり」
紫苑が言うので、僕は返す。
「……ただいま」
部屋の様子、紫苑の服装。
いろんなものがズレている。
明かりを点け、僕は紫苑の傍に腰を降ろす。
どちらが先に口を開くかを測りあうような間があり、僕も何を言うべきか迷って、言う。
「今日、学校休んでただろ。なんで制服着てんだ」
「着替えたんだけど、気分が優れなくてね。出発する気力がなかった」
「大丈夫か」
「……大丈夫だよ。きみこそ、何もなかった?」
ああ、俺は。
最悪だった。
自暴自棄になっちまって、喧嘩は売るわ、岸田に助けられるわ、そのあと屋上で説教されるわで最悪だ。しかも、この後は他人の部屋に火を点けるオプション付だ。
僕は言う。「ああ、俺は」
僕は言う。「何もなかった」
笑う。
「遅かったけど、今日も寄り道でもしてたの?」
「なんとなく、本屋に。そういや、あれ、読んだぞ。前にオススメしてた主人公が四重人格だったってオチのやつ。あれは、ちょっとヤバいな」
「どうだった?」
「なんというか、やりすぎだった」
「やりすぎだよね」
「結局は頭おかしいやつが一人芝居してるだけだったもんなあれ」と僕は言い、話題を切り替えるように言う。「と、そういえば、期末テストの範囲が発表されてたけどお前は大丈夫か」
「……なんとかするよ」
「お前、そのキャラで馬鹿だと恥ずかしいぞ」
「そこはギャップ萌えとか言ってくれないかな? というか、そもそも、きみも大丈夫? もしきみがばかで留年することになったら先輩って呼んでもらうよ? 妹で先輩とか、なかなかつらいものがあるよ?」
「そんな事態にならない程度には大丈夫だ」
紫苑が笑い、僕も笑った。
笑い終えると少ししかなかった他愛のない話の種がなくなり、短い静けさが訪れた。また何か適当なことを話そうかと考え、考えてから、無意味な気がしてやめた。
「お前がまだいてよかったよ」僕は言う。「変な話だろうけど、帰ったら部屋からいなくなってるんじゃないかって気がしてたから」
「そんな、急に消えたりなんかできないよ」
「人間、消えるときは一瞬だ。ふっ、と消える」
実際、僕の母親は消えた。
前兆なし、痕跡なし。
自殺の連絡だけが残った。
「それでも、私はどこかに消えたりしないよ。……私の方こそ、きみが帰ってこないんじゃないかと思ってたよ」
「俺はどこに行くんだよ」
「わかんないけど、きみは、どこにでも行けるよ」
「行けるだろうけど、行き先がない」
部屋の問題でも場所の問題でもない。
結局、紫苑がいるかいないかだけだ。
金の使い道がない、と言った岸田を笑えなかった。
僕に、ここ以外の行き先はない。
笑ってしまう。
岸田の言葉通り、紫苑はまともじゃない。僕に頼らざるを得ないなんて人間がまともなわけがない。孤独で、希望がなくて、価値観が歪んでいる。紫苑がいつも笑うのは、救われることに期待していないからだ。怒ったり泣いたりして誰にも見向きもされなかったら、虚しくて耐えられないからだ。だから、誰かが自分を見ているか、自分が必要とされているか確認したがる。確認したがるが、自分が必要とされる方法がわからなくて不安になる。
まったくもって面倒なやつだが、僕は、これが嫌いじゃなかった。
「なあ」僕は言い、初めて名前を呼んだ。「紫苑」
紫苑が顔を上げて僕を見た。
帽子の下から紫苑の目が僕を覗き込んでいた。
「ここにいてくれ」
僕は言った。
「俺が弱ってて、自分のために何をしたらいいかわからないから、お前を頼らせようとしてるって言ったのは、たぶん、間違ってないんだよ。でも、別にいいんだ」
僕は言う。
「別に、俺を好きじゃなくてもいいし、俺に頼らなくてもいい。俺に何をしなくてもいいし、俺が何をすることになってもいい。なんなら、俺が何を払うことになってもいい。変だろうけど、俺は、俺に何かをくれる人間じゃなくて、お前がいればいいんだよ」
ひどく喉が渇いた。
紫苑はすぐには返事をしなかった。
どういう台詞を返して欲しいのか、僕にもわからなかった。あらゆるものは言葉に出さないと伝わらないが、言葉にすると軽くなる。何か形があるものを見せないといけない気がするが、形で見せる方法がない。命よりも大事だと証明するには死んでみせるしかない。
「……きみは、変だよ」
「自覚はある」
「きみは、何かを欲しがるのがホントに下手だ。不器用過ぎるよ」
「……まあ、自覚はある」
僕からすれば、紫苑だって似たようなものだ、と思う。
紫苑が笑う。
「きみは、何かを欲しがるときに過剰な対価を払おうとしすぎだよ。そんなことしなくても、私は、いなくなったりしないよ。私は、きみが好きだよ。きみが何かをくれるからじゃなくて、きみがきみだから、私はきみが好きで、だから、いるんだ」紫苑は言う。「私はきみのことを信じるから、きみは私のことを信じてよ」
紫苑は一息に言うと、急に恥ずかしくなったみたいに目を伏せた。
おかしいな、と思う。
わからない。
僕を好きな人間という存在が、うまく飲み込めなかった。
変な感覚だった。
きっと僕の思考のどこかには父親の血が根を張っていて、見えないくらい密かに影響を及ぼしている。僕はまともになり損ねたままで、いつからか孤独感が頭にちらつき続けている。頭の中の母親が口を開いている。生前の言葉を繰り返し、僕の無力感を喚起する言葉を代弁する。お前は父親のようになる。お前は絶対にまともになれない。お前は、お前は。
頭の中の声はぴたりと止んでくれたりはしない。
それでも。
紫苑の横顔は、どうしようもなく綺麗だった。
「ああ、恥ずかしいね、これは」紫苑は言い、両膝に鼻先をうずめながら足先をぱたぱたとさせた。「これは、ちょっと、だめだ」
紫苑が立ち上がり、僕の目の前、僕の両脚の間にまた腰を降ろす。
こちらに背中を向けながら僕の膝を開き、僕の懐に紫苑が収まる。
僕の胸に頭を預けて、僕の腕を掴んで、紫苑が言う。
「きみ、抱きしめろ」
紫苑が僕の両手をぎゅっぎゅと自分の腹の上あたりで重ねさせた。
鼻先に紫苑の頭があり、胸元に紫苑の肩がある。
紫苑の体温がそこにあった。
紫苑が帽子を脱ぎ、さらさらと髪が流れた。
「……怖いな。きみに捨てられたら、私は今度こそだめになっちゃうよ」
こんな状況なのに、紫苑は失ったときのことを怖がっていた。
いうまでもなく、馬鹿な考えだ。永遠はない。何もかもがいつかは壊れる。記憶は必ず薄れていく。いずれ壊れるからという理由で何も持たない人間がいたら、そいつは馬鹿だ。それくらいわかっている。得る前から、得た時から、失うことを考え続けるのは馬鹿だ。
それでも、そんな考えが頭から追い出せない。
何もない期間が長すぎたからだ。何もないのが自分にとっての普通で、何かあるのは普通じゃないからだ。何かを得るのは、高いところに上るようなもので、位置エネルギーを溜め込むようなものだからだ。常に墜落に備えなければならない。
まともじゃない。不自由だ。
そんなことはわかっていても、考えを断ち切れない。
「あのさ、たぶん、私は、私が嫌いなんだ。それで、たぶん、きみはきみが嫌いなんだよ」
紫苑は言葉を一つ一つ確かめるように口を開く。
祈るように紫苑が言う。
「きみの代わりに私がきみを好きになるからさ、きみは、私の代わりに私を好きになってよ」
紫苑が僕の腕を引き寄せる。
僕は身動ぎをするふりをして、少しだけ強く紫苑を抱いた。
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