III - 16

 結論から言うと、紫苑の帰りを待つ必要はなかった。


 僕も親に呼び出されたからだ。


 授業中、父親からメールが届いた。スマートフォンもSNSも使いこなさない父親によってキャリアメールから送信された一通の件名は『no title』で本文は『今日は帰ってこい』だった。なんと返すべきか考えて、『わかりました』とだけ返した。件名は『Re; no title』だ。


 約五週間。

 これが、家に帰らなくなった子供を久々に帰宅させるまでの期間の相場なのだろうか。


 それとも、学校側が何か働きかけでもしたんだろうか。

 あるいは、単に負の偶然ってやつが重なっただけなんだろうか。


 紫苑の言うとおり、僕は行方不明になっているわけでもなければ、学校をサボっているわけでもなかった。父親がいる部屋に行っていないだけだ。


 ただ、抵抗する理由もないから帰って来いと言われれば帰る。

 頭の中、父親の顔は曖昧になり始めている。

 授業を受け終え、帰ろうとすると教室の前に紫苑が立っていた。


「やあ」と、後ろ手に鞄を持ちながら紫苑が挨拶する。「いま、帰るところ?」


 僕が相槌を打つと、


「途中まで、一緒に帰ろう」


 と紫苑が歩き出す。


 紫苑と並んで、自宅への道と逆方向に、あの部屋がある方向に歩く。

 いつも通り部屋に帰るように振舞って、なるべく長く紫苑と並んで歩く。

 僕は紫苑の家がどこなのか知らないし、紫苑も僕の家がどこなのか知らない。歩いているうちに道が分かれるのは目に見えていて、そのせいで、どれくらい話す時間があるのかがわからない。


 日が沈み、空が黒に変わっていく。

 街の空に星は見えない。灯りで白くくすんだ暗闇だけが夜空だ。

 人とすれ違う。小学生が笑い声をあげている。中学生が驚きの声をあげている。

 いつも通りに住宅街を過ぎ、いつも通りに交差点を突っ切っていく。

 交差点や曲がり角を過ぎるたびに、次までの距離を測る。

 人気のない一本道を過ぎ、また角に辿り着く。

 紫苑がふと足を止めた。


「じゃあ」紫苑が言う。「家、こっちだから」


 紫苑が曲がり角の先を指している。


「ああ」


 何か言おうかと思った。

 頑張れよ、とか。何か。

 紫苑が母親と顔を合わせる前に何か声をかけるべきかと思い、同時に、僕が触れるべきことじゃないんじゃないかとも思った。口が動かなかった。スタートボタンでポーズもできなければ、スリープモードにすることもできない。


「じゃあね」


 紫苑が手を小さく振り、時折振り返りながら歩き去っていく。

 何か、僕が言おうとして、


「あ」


 紫苑が振り向いた。


「そうだ」紫苑が言った。「渡すものがあったんだった」

「え、何だよ。何か知らないけど、いつでも渡せるだろ」

「いや、いま渡すよ。サプライズだから、ちょっと後ろ向いてて」

「サプライズってそういうことでいいのか……?」


 鋲を鳴らし、紫苑が鞄を地面に置いた。後ろを向くように紫苑が僕の背後を指すのでしぶしぶ後ろを向く。紫苑が鞄のボタンを外す音が聞こえた。ぱちん。


 思いがけず猶予が与えられた。


 何を言うべきか、頭の中で台詞が行ったり来たりする。

 もしかしたら親に何か言われるかもしれないけど、気にするなよ。家に泊めてくれる友達って誰だ、って話になったら、俺のことを言っても構わないし。なんなら俺のせいにしてくれても構わない。あんまり言ってないけど、結構俺、悪いんだよ。不法侵入とかしまくるしな、いまさら同級生女子の軟禁罪が増えたところでどうってことない。だから、大丈夫だ。あんまりお前が気にすることなんかないよ。色々とままならないとは思うけど、それは仕方ないだろ。大丈夫だ。

 言葉が頭の中で左に右に飛んでいく。

 そんな言葉をなんとか捕まえ、最低限の形を掴んで、後ろを向いたまま僕は口を開く。


「あ、の――」

 言いかけて、言葉が切れた。

 ぽす、と後ろから何かがそっと触れるのを感じ、他人の体温を背中に感じた。

 腹の上に、指が細い紫苑の手があり、腰に華奢な紫苑の腕が回されていた。

 頭の中で掻き集めた言葉が砂みたいに崩れた。

 紫苑が小さく息を吸い込む声が聞こえ、紫苑の額が背に当たった。

 身体は華奢なのに頭はこんなに重いのか、と僕はなぜか不思議に思った。


「ごめん」紫苑はぽつりと言い、悪戯っぽい笑い声を作って言う。「正面からだときみの顔が見えちゃうし、避けられるかも、って思ってさ。だまし討ちした。本当は渡すものなんか何もないんだ。ごめんね」


 紫苑の顔が見えない。

 紫苑はどういう顔をしていて、僕はどういう顔をしてるんだ。

 僕の鞄がアスファルトの地面に落ちた。


「きみがあんまり優しくするからさ、ちょっと弱くなっちゃって」紫苑が言う。「ちょっとだけ、帰るのが怖くなっちゃっただけなんだよ。それで、こうしたら、大丈夫かな、って。急でびっくりしたかな、迷惑だったら、ごめんね」


 頭から消えた言葉を掻き集めて、何かを言おうとするが口がうまく回らなかった。何かを言い出すと、どんどんと思ってもいないような方向に滑り出してしまいそうだった。


「……大丈夫か」

「…………うん」紫苑が僕の背に頬を合わせたのがわかった。「大丈夫、私は、大丈夫だよ。きみは、気分を悪くしたりしなかった?」

「別に」

「気分、よくなった?」


 少しだけ、紫苑の声が軽かった。なんだよその訊き方、と僕は思い、紫苑はわざとそう訊いてるんだろうな、と思った。僕が笑って冗談みたいな返事を返して、笑う。そうして、全てを冗談みたいにして、神経を麻痺させる。


 深刻な状況を深刻でないように思い込む方法。

 事実の軽量化。


「ああ、安心したよ」僕は笑って言う。「急に渡すものがあるっていうし、お前が背後に回り込むもんだから、てっきり引導でも渡されるのかと思ってビビったぜ。助かった」

「ばか。私がそういうことやるなら前触れなしにばっさりだよ」


 紫苑が笑った。

 腰に回されていた腕がするりと抜けた。


「じゃあね。また、あとで。私、いまはちょっと変な顔してるかもしれないから、一〇秒……いや、三〇秒経ってから振り向くように」


 紫苑が鞄を拾い上げ、歩き出す。僕の背後で足音の間隔が短くなり、聞こえなくなっていく。僕は振り向かないまま右手を肩ぐらいまで上げて、小さく振る。少しキザだったかもしれないが、これくらいは許して欲しい。


 振り向くと、紫苑の姿は見えなかった。

 僕も父親に呼び出しを食らったことを言いそびれたことを思い出した。

 手早く済ませて、早くあの部屋に行こう、とだけ思った。

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