III - 15

「今日は一回、家に帰るよ」


 陽の当たる屋上で、卵焼きを口にしながら紫苑が言った。

 風はなかったが、急に空気が冷え込んで冬を感じさせる日だった。


「家?」

「家……実家って言う方がいいかな?」


 言われてようやくわかった。

 いつの間にか僕の頭の中では『家』という言葉や『帰る』という言葉の意味が変質している。家といえばあの部屋で、帰るといえばあの部屋に戻ることだ。


「何か、忘れ物でもしたか」


 話の深刻さが測れないので僕は平坦な声で訊く。


「冬服の着替えでも取りに帰るのか」

「それも必要といえば必要だけど違うよ」


 紫苑は水筒からコップに熱い茶を注ぎ、小さく口をつけた。


「ただ、帰ってくるようにってメールがあってさ」紫苑は膝の上で細い指先をとんとんと踊らせて、言葉を続けた。「大丈夫だよ。たぶん、ちょっと生存確認するっていうか、そんな程度だと思うから。友達の家に泊まるとは言ってるし、学校をサボってるわけでもないしね。たぶん、例のおっさんもいない、と思う」


 そうか、と僕は何でもないかのように相槌を打つ。

 寂しくなるな、とか何かふざけたことを言おうとしたが舌が回らなかった。紫苑の手から水筒を受け取って、自分のコップに茶を注いで口にする。流し込むように飲んでしまったので喉の奥が焼けるような心地がした。


「用が済んだらちゃんと帰ろうとは思ってるから、私がいないと思って大ハッスルしたりしないように。全裸になるとか女装するとか、万が一そういう状況にばったり遭遇したらちょっと反応に困る」


 いつも通り、紫苑は冗談めかしたことを口にして笑った。


「残念ながら、そこまでファンキーな趣味はねえよ」


 僕も笑って返し、言う。


「大人しく待ってる」

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