第2課 俺のよく知る言葉
「
彼女は確かにそう言った。俺の書いた謎の「ぐちゃぐちゃ」を指差して。
耳をそばだてて聞いていたので、しっかり聞き取れた。
「
俺が書いたさっきの「ぐちゃぐちゃ」、あれ自体に意味はない。適当に殴り書きしただけの落書きだ。あれが何なのかは、書いた俺を含めて誰にも分からない。
だからこそ、あれを見たら「これは何?」と言ってくれることを期待した。
そして『これは何?』が分かれば、そこからコミュニケーションを始められる。
俺は手にしていたチョークを指して、彼女に尋ねた。
「…
「…!
「
「イェール!
笑顔と、肯定的な雰囲気の返答。いいぞ、通じている。小さな一歩だけど。
調子づいた俺はベッドを降り、部屋の中を歩き回りながら他のものも指差す。
指差しのジェスチャーは共通みたいだ。ドアはどうだろう。
「
「
自分が寝ていたベッドも指差してみる。
「
「
「
「
「
手近な物、それが尽きると自分の衣服、髪の毛。体の部位も行ってみようか。
未知の言葉が分かることにいささか興奮し、元が言葉好きの俺は頭の片隅で分析を初めてしまう。ラテン語系統じゃないのは確か。南米という線は薄いか。
どこだろう…、南島語族?パプア諸語?専門外だな。なおも検証は続く。
「
「
どうせなら顔のパーツを一通り。今度は自分の口を指差してみる。
「
ん?今のは分からない。呼び方が複数あるのか。まあいい、問題はこの後だ。
「あー…、
少しためらいながら、女性をまっすぐ指差す。失礼にあたったら悪いけど、他にやりようもない。
ここまでコミュニケーションを取れたなら、名前を知りたいと思うことも不自然ではないはずだ。ここの文化がどうかは知らないけれど。
果たして女性は困ったように眉をハの字に下げ、そっと俺の手を取った。
「ネー。『トーコ・イェ・ト?』」
トーコが名前…かとも思ったが、どうも自己紹介という様子でもない。
反応に困っていると、女性は傍にあった椅子や机を順に指差して「
ここまでされれば俺にも想像はついた。人に対しては「
謝罪の言葉は知らないので極力申し訳なさそうな表情をして、改めて問う。
「あー…
「…! レーパ!
グーマ。もちもちしてそうな名前だと、その時はそれだけを思った。
「グーマ…」
「イェル。ヤーズ・グーマ」
にこにこと嬉しそうな顔で名前を繰り返すグーマ。安堵した笑みを浮かべたグーマは、女性というよりは「女の子」くらいに形容したほうが良さそうだった。背が高めで顔の彫りが深いから、真顔だと少女らしさがそれほどない。大人に見えるのは果たして嬉しいんだろうか。
じっと顔を見ていたのがバレたのか、グーマは俺の顔を指差して微笑み、
「…ア・
そうだ、俺、名乗ってない。
「…
「シューマ。…シューマ」
俺を指差しながら、名前を繰り返すグーマ。ちょっと気恥ずかしい。
「ナズヴァ…シューマ。
交互に指差しながら、グーマが教え諭すように繰り返す。これは有効なコミュニケーションを取り始めてると見ていいのでは。納得した俺の顔を見て、
「ヤーズ・グーマ。ティ・シューマ」
グーマさん、展開早いです。ちょっと待って。…それさえも伝えられない。
「ヤーズ」と言いながら自分を指差して名乗ってるんだから、多分「
俺は頷いて、慎重に発音する。
「
「レーパ、レーパ!」
表情から察するに「よく出来ました」とか「素晴らしい」くらいの意味だろう。
手を握って激しい握手をしたあと、熱烈なハグをされた。流石に驚いたしドキドキしたが、多分これは文化の差というものだ。つばを吐くのが挨拶の文化だってあるくらいだし。
「イマーシュ・ゴルドロ? ネー・トレバシュ・オポヴェディト。オバード・ゴトヴー」
ひとつも理解できない長文を発すると、グーマは立ち上がって部屋の入り口へ去っていった。先のハグで生じた焦りがまだ落ち着いていない俺は、聞き取りも忘れてベッドに座ったまま待つほかなかった。
しばらくして、湯気の立つ食事を持ってきたグーマ相手に「これは何?」をまた繰り返すことになった。たぶんさっきの長い文は「ご飯食べる?」とかそんなところだろう。
「イェドラーイ」
いただきます、とかだろうか。いや、日本語のいただきますがそのままあるとは思えない。「たんとお食べ」とかかな。ぼんやりと考えながら、何らかの穀類の入った粥状の食事を口に運ぶ。細切れの野菜もいくらか入っていた。赤っぽいから人参かな、くらいの想像しかできないし、たぶん「
「…うまい。…あ、いや」
「…? ウーマ?」
思わず日本語で出た感想に、グーマが怪訝な顔をする。「ごめん」も「ありがとう」とも言えないのはコミュニケーション上辛いものがあるな。
ちょっと考えてから、空になった深皿を指差し、間違えないよう慎重に発音する。
「…
さっき、うまく言葉が通じたときにグーマが口にした言葉だ。「レーパ」。
多分意味は「良い」「素晴らしい」辺り…だと思う。食べ物に使える言葉なのか分からないけど、食事を褒めていることだけでも伝わってくれればいい。
「
来た!ファーラ!これか!確証は持てないけど「ありがとう」はこれだと思う。
論理的な確信というよりは、嬉しそうに笑うグーマの表情からの頼りない類推にすぎない。
「…
言い終える前に涙ぐんでしまった。慌てて目元を拭ったが、グーマにしっかり見られていた。
「…イマーシュ・フラース。ヤーズ・ロズミウ…サード・オッドゥハーイ…」
優しい声でそう告げると、グーマは部屋の
「
俺のよく知る言葉――古典ラテン語――で呟いた。
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