レベルを上げて語学力で殴る異世界奇譚

@thereforeitis

第1課 これは何ですか?


物語は美しい。

どんな言葉で語られ始めても構わないからだ。

どんなふうに語られても差し支えないからだ。

どんな幕切れを迎えても許されるからだ。

そこに美しさ以外の事情が挟まれないからだ。

幾万幾億もの物語が、すべて違う言葉によって産声を上げる。

愛の囁きで始まるものがあれば、銃声で幕を開けたり罵倒から紡ぎ出されたりする。

そういうところが好きだし美しいと思う。思うのだが、やっぱり壁はある。無制限ではありえない。そのことを、俺は俺自身の物語で深く自覚することになる、



「ウジェ・ウスタヴァリ?」



俺自身にとっても理解できない内容――いや、理解できない言葉だったのだから。

そう、物語はどんな言葉からでも始められる。

それが理解不能なものであっても、否応なしに俺の物語はここから始まっていく。




――考えよう。

思考こそ善なる人間の特権だ。義務だ。語られるべきものについては必死で思考しよう。目の前で起こったことを現状から逆算して、なんとか理屈をつけよう。

幸い、理屈と膏薬はどこにだってつけられると言うんだ。


俺は大学生である。所属は外国語学部、専門は言語学と西洋古典。俺はこのあと目を覚ましたら、眠い目をこすって大学に行き、一限目の古典ラテン語購読の授業を受ける。そして減りはじめた小腹をベーグルかなにかでなだめすかしながら、記述言語学の授業も受けなきゃいけない。担当の小菅教授の妙にのっぺりとした声を聴きながら、ツワナ語やショナ語の文法、イボ語の音韻や広東語の語用論と戯れるんだ。


言語専攻の学生として、愛すべき言語というやつと触れ合い続けるのが今日のスマートでクールな予定だったはず。

オーケー、大丈夫。思考は淀みない。だが、事態は思考を待ってくれない。


「イン・ウスタヴァリ?」


目の前にいる女性は、やはり聞き取れない言葉を繰り返している。

怯えていると思われているのか、さっきよりも優しげな声で。いい声だ。

ここが俺のアパートの布団の上でないことを、じわじわと認識しはじめた。

事態に心がやっと追いつく。

人間の精神はそんなに速度の出る乗り物じゃない。

どうやらこの女性の言葉が「繰り返している」と分かる程度に、音だけはそれらしく聞き取れた。

さっきのと似たような音の響きだから、同じことを繰り返したのかな…という程度の理解。内容は、やっぱり分からない。


「ウ・リドゥ? ネイマーシュ・ラーン?」


今度は繰り返しではなかった。事態はやはり思考を待ってくれない。

たぶん外国語なのだろう…という考えにようやく至ったところなのに、容赦のない新出語彙の嵐である。

第1課ならもう少し単純な言い回しにしてほしい。大学の語学の授業なら苦情が出るぞ。一年生の授業なら尚更だ。奴ら、己の未熟を棚に上げるからな。


「マギーシュ・ムルヴィット?」


女性はこちらの顔を覗き込むようにして、心配そうにそう問いかけてくる。

たぶん「大丈夫?」とかそんなところか。わからん。

文字通りの意味で、返す言葉もない。

「……」

何を言い返していいのかも分からない。

俺はこういう時とっさに何か口をついて出るタイプじゃない。ここで何らかのコミュニケーションを無理やりでも取れる奴は、体当たりで海外旅行に出かけて片言の外国語で現地の人と仲良くなったりする。俺には多分無理だ。俺は理論タイプなんだよ。

「ネマギーシュ? …フラスナック…」

女性は立ち去って部屋を出ていってしまった。

でも今のは分かったぞ。後半は「困ったわ」とか「やれやれ」だ。

表情の持つ意味が俺の常識と一緒なら、だが。


それから俺は部屋を見回す。埃っぽい、田舎の納屋みたいな部屋だ。

壁には揺らめく炎を戴いた蝋燭、棚には形も不揃いな器や杯。

アーミッシュの村か何かを思わせる、質素な佇まいだった。――基本的には。

随所に、文化人類学のテキストでも見たことのないような意匠の品々が見えたのだ。

あのねじくれた骨のような筒状のものはなんだ?何に使う?

その隣にある、不釣り合いなほど輝くガラスのような器具はなんだ?

かと思えば鉄の輪の中心に支えもなく浮かぶ透き通った小さな人形。あれはなんだ。

俺の知っている文明やら文化とはどうやら違う場所なんじゃないか、という思いに駆られる。地球の反対側にだってあんなものはない。…行ったことないけど。



俺はどこにいるんだろう?

何気ない考えが脳裏をかすめて、そこからは傷が開くように不安で胸が満たされた。

自分の立ち位置が分からなさすぎる恐怖。

ここはどこだ、今はいつだ、俺は何をしてどうなってここにいる。

「見知らぬ外国」くらいの考えが、まだ救いのある仮説として思い浮かぶ。

あの女性は現地語しか話せなくても…そうだ、ここがアマゾンの奥地だとしても、英語かポルトガル語辺りが話せる人間がいれば助かる。なんならスペイン語でもいい。

なんとか言葉の通じる人間とコンタクトを取って、大使館にでも駆け込む…、身元を明らかにして日本に帰る…、そんな解決手段を想像しても、なぜだか現実味があまりない。考えてみればさっきの女性も見たことのない服装だった、かもしれない。

思考が悪い方向へと流れていく――


「ヴ・タキム・ラージェ、マギーシュ・ナプサート?」


悪しき思考を中断させる救いの声は、先程の女性だった。

改めてその服装を見る。やっぱり見たことのない意匠。気にしすぎだろうか。

この服だって、強いて言えばドイツ南部のディルンドルに似て…似てないかもしれない。どうだろう。俺がどれだけ物を知っているというんだ。

別に世界の民族衣装に詳しいわけじゃない。知らない外国の文化だって一杯ある。

そうだ。きっと名前もあやふやな遠くの異国だ。それでも地球は丸いから、日本に帰るのだって大丈夫。


「…スルハーシュ? ナプサーイ・トゥカイ!」


女性が筆記具のようなものを渡してくる。

良いことを思いついた、と言いたげな表情だ。「何か書いてみて」って言ってるんだと思う。何を書けばいいんだ。期待されてもそちらの公用語は書けないよ。

何も考えず「森野秀真しゅうま」と自分の名前を書いた。

自分の名前はあまり好きではなかったけど、今どこにいるかさえ分からない不安から、漢字だというだけでそこそこ深いノスタルジーを感じてしまう。

漢字文化圏に帰りたい…。仮にいま手違いで上海あたりに帰らされたとしても、嬉々として屋台巡りを始めるだろう。簡体字だって気にするものか。文字に対する帰巣本能が芽生えている。

…漢字、通じるのかな。無理な気がする。


「…?」


ああ、理解されてない。やっぱり漢字はハードルが高かった。ローマ字でいこう。

ひょっとしたら日本製品が流通しててこれぐらいなら知ってる可能性もあるものな。

そう考えて、有名な日本企業の名前をローマ字で書いていく。自動車メーカー、ゲーム会社、あとは何だろうな。…だめだ。首を傾げている。

この国にはメイド・イン・ジャパンの波は来ていないらしい。


「…トジ・ナプサート…ネマギーシュ?」


落胆したような表情。

話せず書けなければ、想定したコミュニケーションの路はおおかた閉ざされる。最低限のやりとりもできない厄介者を抱え込むことになるからか、女性の表情は暗い。

俺にしたって、この状況で微笑むことなんかできない。

居心地の悪い沈黙が訪れ、お互いにそれを破る言葉も出てこない。

…俺はふと思いついて、筆記具を手に取った。


「カ・ロビーシュ?」


女性の声に答えず、チョークのような筆記具で板にぐしゃぐしゃと殴り書きをする。

文字ではない。絵というのもおこがましい、ただのモジャモジャした殴り書きだ。

アフロの塊にでも見えるかもしれない。俺もこれがなんだか分からない。

俺はできるだけ自信満々という顔を作って、それを彼女に示した。

「これなら分かるだろ?」という表情だ。

彼女は不思議そうにそのモジャモジャを見つめて、それから困った風に口にした。


カー・イェ・トこれはなに?」


よし、その言葉が聴きたかった。



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